2013年4月18日木曜日

栄光の木村商會ビルが、、、

玉野市築港のメイン通りに、大正ロマン漂う魅力的な石造りの2階建洋館がある。「株式会社 木村商會」の発祥の地に建つ重文クラスの建物である。

同社の沿革は、HPによると次のように書かれている。

大正7年3月  創業者木村九平治が岡山県玉野市築港7342番地において、石炭・石油・油脂・塗料・船具に関する営業を開始する。(つまり、この建物はこの時にできたものである。)

昭和19年5月  石油統制令および当局の企業合同奨励により石油部門を分離し、有限会社玉野石油店を設立す。(平成20年に㈱エルジオと改称)

昭和24年9月  配炭公団解散と同時に石炭部を復活、東京、大阪、名古屋、岡山、呉、広島、九州若松に支店出張所を設け、五大石炭商の一に数えられる。(凄い会社に成長したもんだ。)

昭和25年5月  油脂・塗料部を分離し、木村商事株式会社を設立す。(宇野にある。)


昭和40年10月 永年の個人営業を株式会社木村商会に組織変更す。(会社としての設立は意外に若い。)

昭和61年4月  本社を岡山市大内田764番2に移転す。(エルジオ本社と隣同士)

平成24年9月期売上64億円とは結構な企業である。㈱エルジオは同期で391億円だからもっと凄い。数年前、創業地にあった玉野営業所が閉鎖された。平成22年11月、隣接地にリハビリデイサービス「ポシブル宇野」をオープンしている。(これからの高齢化社会を見据えた多角経営である。現社長は相当のやり手かも)

創業者の木村九平治氏は、玉野商工会議所の初期の頃の会頭を務められた玉野商工界の重鎮である。

さて、この由緒ある建物が間もなく取り壊されるという。
きっと多くの市民が勿体ないと言うに違いない。うのずくりのメンバーである高原氏は、建物が残らないのは仕方ないとして、せめて中に残った古いガラクタ(お宝)だけでも救出したいと、4/16~18の3日間、女子二人と協力して家財道具を持ち出してくれた。誠にありがたいことだ。
今年3月、高原氏はこの建物の測量を実施、新たな発見をされている。(詳細は、下記URLから参照されたい。)もしこの事実を経営トップがあと半年早く知っていれば、ひょっとして取り壊すなどという非文化的な行為には及ばなかったのかもしれない。(そうでもないかな?)
http://sholly.blog.ocn.ne.jp/akaaokiiro/2013/03/post_3155.html

少し話を遡らせる。
2004年の芸術フェスタ実施内容を検討した折り、直島に意見を求めて、当時アートサイト直島の若い責任者だった笠原氏を訪ねたことがある。 氏からは、直島の取組やアートの進め方など種々示唆を与えてくれたが、その中で宇野港の木村商会の建物が素晴らしいと言っておられた。それまで、宇野港に残る建造物に気付くことのなかったサッキーは、そんなものかと気に留めるようになった。
そんなことから、芸術フェスタ実行委員会において、「この建物を市の文化財に登録するということはできないのか。」と尋ねてみた。市としては「住民の民間から運動を起こさないと、行政主導で文化財として扱ってもうまくいかないのではないか。先ずはフェスタ期間中に、公開するようにしたらどうか。」という回答であった。
そこで、持ち主である、玉野石油㈱社長を訪ね、そのようなお願いをした。しかし、社長はにべもなく、「そのようなことはできません。」と一蹴されたのである。
企業経営者としては、何十年も使ってない建物を貸し出すとなると、それなりの補修もやらねばならないし、出費も相当嵩むと考えられたのであろう。サッキーは、「こりゃあかん。」と、その後一切関わりを持つまいと思った。

ここで、この建物の写真を時系列で並べてみる。
トップの写真は、2005年2月に写している。軒先に「木村商會」 の浮き文字看板があり、2階の右側部分に錆びた鉄で縦に書かれた「KIMURA」という看板がある。2枚目の写真が良く分かる。恐らくこれは、空白部分がガラスで、中に電灯があって夜は明るく照らす照明看板ではなかったかと想像される。
3枚目の写真は、同年11月に写した写真である。軒先の浮き文字看板も2階の鉄文字看板も撤去されて無くなっている。理由は分からない。安全上の問題、、、?
4枚目の写真は、今年4月16日に写したものだ。 左隣の石造りがデイサービスの建物になった他は、何も変わっていない。この日、高原氏と女子二人は、中に残ったガラクタ(お宝)を一生懸命運んでいた。中に上がると、そこからは美しい宇野の海が丸見えだった。
4月下旬には、これが更地になる。ああ、勿体なや。