2014年1月4日土曜日

時を超えて-次代へ繋ぐ玉友の記録-

2014年1月4日(土)

三井造船には、「旧友会」と言う名のOBの会がある。
本部は東京本社にあるが、玉野地区と関西地区に各地区の支部がある。玉野地区では、毎年6月と11月の2回、玉野事業所に集まって工場見学をしたり講演を聴いたりし、その後、現役の方たちと昼食を共にして親睦を深め、英気を養っている。

玉野地区では、昨年11月28日、標題に示す冊子を発行した。
ここにその概要を紹介する。
これは、旧友会として何か現役の人たちの役に立つような活動はできないかという、会員からの声に端を発したものであった。種々検討した結果、先ずは夫々の貴重な体験を文章として残すことから始めることにした。各々の体験談を読むことにより、当時知ることのなかった様々な出来事を追体験するとともに、現役の人たちにも何らかの参考になればと期待しながらの活動である。
体験談投稿の呼びかけは、一昨年からスタートした。又、投稿いただいた中から、毎回2名の方に親睦会の席で、体験内容の報告発表を頂いている。
これが又、実に面白いのである。

投稿された原稿は、7名の編集委員で内容を確認・吟味、新たな試みに対応してきた。昨年9月までに12名、18件の体験談を寄せていただいた。そこで、これらの体験談を、冊子として纏め、本会会員、三井造船㈱及び関係会社各位に読んいただくこととした。
現役の方から感謝の声が寄せられていると聞く。又、M委員長の所には、田中社長から感謝のメールが入ったとのことであった。

さて、この冊子の名称だが、編集委員会で種々検討した結果、時代・世代が変わろうと、顧客を大事に考え、真摯に仕事に向かい、同胞を大切にする三井造船の姿は変わらないという意味を込めて、【時を超えて】がメインタイトルに選ばれた。
又、本会会員の体験談という記録を次代の人々にも連綿と繋いで行っていただきたいという願いを込めて、「次代へ繋ぐ玉友の記録」というサブタイトルを付すこととした。副題にある「玉友」という言葉は、三井造船の守り神である金刀比羅宮の下に、昭和52年11月、創立60周年記念に建立された「玉友碑」に由来している。(金刀比羅宮は、日の田門前から登った小高い金毘羅山頂にある。)


実は、この「玉友」と言うタイトルの選定にも、一つの話がある。
冊子の編集後記にも紹介した「玉友碑」の写真は、10月26日(土)に金毘羅山に登って写したものである。実は、サッキー自身初めて登ったものだったので、山頂にそのような碑があることなど全く知らなかった。私は、その時、「これだっ!」と思った。



副題は、既に第10回編集委員会(10/10開催)で「- 次代に繋ぐ旧友の記録 -」に決まっていた。しかし、「玉友」と言う言葉は、タイトル候補の中にもあったし、自分もいい言葉だと思っていたので、編集委員長のM氏(旧友会玉野地区の代表者でもある。)に改題の提案メールを送った。委員長にはすぐに賛同いただき、次回編集委員会で正式に決めてもらおうということになった。そして、第11回編集委員会(11/7開催)で「玉友」が採用されることとなった。
そこで、何故サッキーが金毘羅山に登る気になったのかである。それは、初代三井物産㈱造船部長・川村貞次郎さんの孫と言われるSK氏からの突然のメールが飛び込んだためだった。
彼からの最初のメールは、10/21(月)のことだった。自分がそれに返信して、次に氏から届いたメールは10/24(木)。その2回目のメールに「祖父の記念碑(?)建立」という記述があったのだ。
サッキーは、それを確認すべく、翌々日の26日に山に登った。
そこにあった記念碑は、川村貞次郎氏の銅像などではなく、創立60周年を記念して昭和52年(1977)11月に建てられた「玉友碑」であった。
当時の社長・山下勇氏が建立されたものだった。
今回「玉友」と言う言葉がこの冊子の副題に選ばれたことについて、何というジャストなタイミングでこの碑を発見したのだろうかと思った。少し大袈裟かもしれないが、選ばれるべき運命にあった言葉なのかもしれないとも思った。

SK氏は、創立100周年の記念式典に是非出席したいと仰っていたが、そこらへんの今後の窓口については、M旧友会副会長とK元総務部長とも相談して、O現総務部長にお願いすることとなった。
100周年は3年先だが、少なくともそこまではこの編集委員会も続けて行けたらと願っている。できうることなら、100周年記念冊子として、三井造船の子々孫々まで読み継がれるものにしたいと思う。
下の写真は、金毘羅山上から見る三井造船玉野事業所の遠景である。


2014年1月3日金曜日

サッキー、新年に思う

2014年1月3日(金)

昨年は、長い長いデフレ経済からやっと抜け出そうかという、表面的には明るい年となった。これが喜ばしいことなのか、実は恐ろしいことなのか、確かなことは良く分からない。
ただ、毎年毎年、国債と言う名の40兆円もの多額の借金をしての明るさなのだということを考えると、本当のところは怪しいものと思わざるをえない。この借金バブルがどこで破裂して、奈落の国家破綻に陥るのか、予測もつかない。言えることは、そのような恐ろしい世の中が、そう遠くない時代にやってくるであろうということだけだ。10年先か、20年先?どちらにしても、人生の長さから考えると、アッという間のことである。

では、どう対処すればいいのか。
一人の力でどうにもならないことは、流れに身を任すしか途はないように思う。或いは、今の時代を楽しく面白く過ごすということで、生き甲斐を見出すことなのかもしれない。又、たとえ悲惨な世の中になったとしても、それに耐えられるだけの心づもりを保っておくことだろう。さらに付け加えるならば、お金がなくても生活できる図太い生き方に慣れてておくことだろう。

さてそこで、どうやってこの世の中を楽しく面白く過ごすのか?
それは、多分「心の豊かさ」を持ち続けることが出来るかどうかに懸かっているのだと思う。では、「心の豊かさ」はどこから生まれるのか。「心の豊かさ」は、言い換えれば「心の充実」ともいえる。だとすれば、好きなことが自由にできる、好きな物を手にすることが出来る。自分の気に入ったことを体験或いは追体験することが出来る。といったようなことが、身近で作り上げられることかもしれない。
世の中の人全員を満足させることはできないのは分かっている。同好の志だけでもいい。楽しみを共有できる出来事を作り上げることができれば、小さいながらも心の充実に繋がって行くであろう。そして、そのような楽しみを共有できる出来事を個々夫々が、夫々の立場で実践してゆく世の中にすることが、今求められているのだと思う。

今年も、芸術文化を楽しむことのできる人たちと、面白い出来事を作り上げて行くこと。又、見知らぬ世界の人たちが宇野が楽しい街だと感じ、移り住んでみたいと思う人たちの手助けをして行くこと。そのような活動を通じて、喜んでくれる人たちが増えて行くこと。それが「心の充実」つまり「心の豊かさ」に繋がって行くのだと思う。
この様な活動に賛同する人たちと手を携えて、今年も1年「心の豊かさ」を求めて生きて行きたい。新年を迎えて、とりとめもなくそう思う。


サッキータイムへの投稿がかなり長い間飛んでいたが、今年はもう少しまめにアップするかな。
写真は、昨年10月21日(月)タマノクルーズ2013「たまの西海道」 の時、日本の渚100選にも選ばれている岡山県一の海水浴場・渋川海岸である。
今年も元気に楽しく行こう。宜しくで~す。


2013年4月18日木曜日

栄光の木村商會ビルが、、、

玉野市築港のメイン通りに、大正ロマン漂う魅力的な石造りの2階建洋館がある。「株式会社 木村商會」の発祥の地に建つ重文クラスの建物である。

同社の沿革は、HPによると次のように書かれている。

大正7年3月  創業者木村九平治が岡山県玉野市築港7342番地において、石炭・石油・油脂・塗料・船具に関する営業を開始する。(つまり、この建物はこの時にできたものである。)

昭和19年5月  石油統制令および当局の企業合同奨励により石油部門を分離し、有限会社玉野石油店を設立す。(平成20年に㈱エルジオと改称)

昭和24年9月  配炭公団解散と同時に石炭部を復活、東京、大阪、名古屋、岡山、呉、広島、九州若松に支店出張所を設け、五大石炭商の一に数えられる。(凄い会社に成長したもんだ。)

昭和25年5月  油脂・塗料部を分離し、木村商事株式会社を設立す。(宇野にある。)


昭和40年10月 永年の個人営業を株式会社木村商会に組織変更す。(会社としての設立は意外に若い。)

昭和61年4月  本社を岡山市大内田764番2に移転す。(エルジオ本社と隣同士)

平成24年9月期売上64億円とは結構な企業である。㈱エルジオは同期で391億円だからもっと凄い。数年前、創業地にあった玉野営業所が閉鎖された。平成22年11月、隣接地にリハビリデイサービス「ポシブル宇野」をオープンしている。(これからの高齢化社会を見据えた多角経営である。現社長は相当のやり手かも)

創業者の木村九平治氏は、玉野商工会議所の初期の頃の会頭を務められた玉野商工界の重鎮である。

さて、この由緒ある建物が間もなく取り壊されるという。
きっと多くの市民が勿体ないと言うに違いない。うのずくりのメンバーである高原氏は、建物が残らないのは仕方ないとして、せめて中に残った古いガラクタ(お宝)だけでも救出したいと、4/16~18の3日間、女子二人と協力して家財道具を持ち出してくれた。誠にありがたいことだ。
今年3月、高原氏はこの建物の測量を実施、新たな発見をされている。(詳細は、下記URLから参照されたい。)もしこの事実を経営トップがあと半年早く知っていれば、ひょっとして取り壊すなどという非文化的な行為には及ばなかったのかもしれない。(そうでもないかな?)
http://sholly.blog.ocn.ne.jp/akaaokiiro/2013/03/post_3155.html

少し話を遡らせる。
2004年の芸術フェスタ実施内容を検討した折り、直島に意見を求めて、当時アートサイト直島の若い責任者だった笠原氏を訪ねたことがある。 氏からは、直島の取組やアートの進め方など種々示唆を与えてくれたが、その中で宇野港の木村商会の建物が素晴らしいと言っておられた。それまで、宇野港に残る建造物に気付くことのなかったサッキーは、そんなものかと気に留めるようになった。
そんなことから、芸術フェスタ実行委員会において、「この建物を市の文化財に登録するということはできないのか。」と尋ねてみた。市としては「住民の民間から運動を起こさないと、行政主導で文化財として扱ってもうまくいかないのではないか。先ずはフェスタ期間中に、公開するようにしたらどうか。」という回答であった。
そこで、持ち主である、玉野石油㈱社長を訪ね、そのようなお願いをした。しかし、社長はにべもなく、「そのようなことはできません。」と一蹴されたのである。
企業経営者としては、何十年も使ってない建物を貸し出すとなると、それなりの補修もやらねばならないし、出費も相当嵩むと考えられたのであろう。サッキーは、「こりゃあかん。」と、その後一切関わりを持つまいと思った。

ここで、この建物の写真を時系列で並べてみる。
トップの写真は、2005年2月に写している。軒先に「木村商會」 の浮き文字看板があり、2階の右側部分に錆びた鉄で縦に書かれた「KIMURA」という看板がある。2枚目の写真が良く分かる。恐らくこれは、空白部分がガラスで、中に電灯があって夜は明るく照らす照明看板ではなかったかと想像される。
3枚目の写真は、同年11月に写した写真である。軒先の浮き文字看板も2階の鉄文字看板も撤去されて無くなっている。理由は分からない。安全上の問題、、、?
4枚目の写真は、今年4月16日に写したものだ。 左隣の石造りがデイサービスの建物になった他は、何も変わっていない。この日、高原氏と女子二人は、中に残ったガラクタ(お宝)を一生懸命運んでいた。中に上がると、そこからは美しい宇野の海が丸見えだった。
4月下旬には、これが更地になる。ああ、勿体なや。


 

2013年3月18日月曜日

芸術フェスタ10年の歩み

3月16日(土)

2003年に「玉野みなと芸術フェスタ」を開催して以来、今年丸10年が過ぎた。
そこで、この10年の歩みを写真と資料で振り返る「芸術フェスタ10年の歩み展」を、3月15-16の2日間、玉野市文化会館バウハウスで開催した。
 

玉野市の文化・芸術振興のためにと思って取り組んできたが、果たして少しは人の役に立ったのかどうか?人の心に火を点けることができたのかどうか?投資した資源に見合う成果が得られたのかどうか?
展示会終了後、スタッフの数人からサプライズの手作りトロフィーを受賞頂いたことを考えると、やったことが決して無駄ではなかったのだろうと、深い感動を覚えた。

この10年間、色々あったが、 サッキー自身はやって良かったと思っている。
観客や参加者に楽しんでいただくことは最も大事なことではあるが、自分自身や取組むスタッフの皆が楽しめることでないとやった意味がないのだと思う。
そんな意味から言うと、先ずは意味あることの一つはクリアしたのかもしれない。


さて、このブログの読者の方に、「芸術フェスタ10年の歩みっていったい何?」と言うのがあるだろうから、ここで展覧会の挨拶文を紹介することで、概要を掴んでいただきたいと思う。

「玉野みなと芸術フェスタ」は、人流港として大規模に整備されつつあった宇野港を、芸術の力で賑わいのある港にして全国に情報発信することを願って、2003年に始まりました。今では、玉野の秋を彩るアートイベントとして市民の皆様方に喜んでいただいておりますが、今年で丁度10年を迎えることができました。
これひとえに、多くの皆様方の温かいお支えとお力添えがあればこそでございます。先ずもって深く感謝申し上げます。
そこで、この10年間の活動の記録、写真、作品などを展示、ご紹介し、芸術フェスタのこれまでの活動の成果などを市民の皆様にご覧いただき、ご意見・ご感想を賜ればありがたく、「芸術フェスタ10年の歩み展」を開催することとしました。
初年度に取り組んだ「縄アートリンクプロジェクト」は、大変な労力を要する芸術活動ではありましたが、何とか目標を達成することができました。この時の活動が支えとなって、その後の活動が続いているといっても過言ではないと存じます。
その後、実行委員会では、2004-2006年の3年間、その趣旨に沿った形で宇野港がロマン溢れる芸術港となることを願い、賑わい創出を図る活動を行って参りました。さらに5年目の2007年、芸術フェスタは宇野港から離れ、塩の町・山田に場所を移し、明治の建物の再生と現代アートへの活用を図りました。この年からがアートの本質に向けた活動の始まりだったのであろうと思います。2009年に宇野港が築100年を迎えたことから、宇野港域でも開催し2011年まで2会場で開催してきました。山田での活動が5年続き一区切りをつけたこともあって、2012年からは、再び宇野港域だけの活動を進めることとなりました。
アートは難しいではなく、アートは楽しい。人と人とがつながる活動。私たちは、そのようなアート本来が持つ有用性に向けた活動、やって楽しい、見て面白い、聞いて感動できる、と思えるような活動。それが芸術フェスタの今後進むべき活動なのではないかと思います。
僅か2日間の展覧会ではありますが、是非この機会に楽しいアートのある町・玉野のことを思い巡らしながら、10年の歩み展をご覧いただければ幸いでございます。

          平成25年3月15日
                    玉野みなと芸術フェスタ実行委員会
                    実行委員長 斉藤 章夫




16日(土)には、実行委員会を開き、10年の歩みについて報告するとともに、今年の計画についても説明した。ここで、今年の計画の大見出しを紹介する。詳しいことは追々、このブログかFBで紹介してゆきたい。

《2013年度テーマ》 楽しい町 魅力ある街へ ~新たな10年に向けて~
●基本方針
 ◇ 質の高いアートを追求
 ◇ 市民とともに楽しめるアートイベント
 ◇ アートが楽しい魅力ある街を
●計画イベント(案)
 ◇ Classic Festa in UNOⅡ(DUO concert & Joint concert)
 ◇ タマノクルーズⅥ「たまの西海道」(玉野市西部の歴史・文化を学ぶ)
 ◇ 軒先計画Ⅲ(クリエイターの作品展示)
 ◇ しおさと狂言まつりⅡ(狂言を通して製塩の歴史を楽しく学ぶ)
 ◇ 南北楽観主義 -せとうち-Ⅱ(宇野と高松を結ぶ交流企画展)