タマノクルーズ2014「たまの西海道」
今年も、玉野みなと芸術フェスタの一環として、玉野市西部を海上から観るタマノクルーズを計画した。開催日は、三井造船の進水式が行われる10月14日(火)、申し込み締切までにあまり期間がないが、まだ席に余裕があるようなので、久し振りにアップするサッキータイムでも紹介したい。
1. 計画概要:
今年、瀬戸内海が国立公園に指定されて80年となりました。
そこで、今年は、先ず瀬戸内海の魅力をこれまで以上に十分味わっていただくために、西備讃瀬戸の瀬戸大橋を経由し渋川港に至るルートをクルーズ、瀬戸内海の歴史、地理、文化を学びます。
続いて、船上から三井造船で行われる進水と艤装中の大型船や工場を見学、海と調和する人と産業の営みを学びます。その後、直島周辺の多島美を楽しんでいただくこととします。
2. 計画の目的:
数多くの島嶼群が連なる瀬戸内海は、昔から東西を結ぶ交流の動脈でした。そのため瀬戸内の各地域には幾つもの逸話や物語が語り継がれ、景観の美しさとともに歴史の楽しさを感じさせてくれます。
瀬戸内海は、1934年(昭和9)、我が国最初の国立公園に指定され、今年80周年を迎えます。瀬戸内海国立公園は、大小1,000余りの島々からなる内海多島美の景観が最大の特長です。古くから人と自然が共存し、島々の段々畑や古い港町の家並等の人文景観も魅力的な海域となっています。
又、瀬戸大橋は、明治の頃からその必要性が叫ばれ、1955年(昭和30)に起こった紫雲丸事故をきっかけに一気に建設機運が高まりました。その後、1978年(昭和53)10月起工、1988年(昭和63)4月に完工、供用開始されました。人間の英知と技術の結晶ともいうべき瀬戸大橋が、産業や人々に与えた影響等についても、今回考えるきっかけにしていただければと思います。
玉野市西部に位置する渋川は、日本の渚百選にも選ばれた風光明媚な海岸、子どもたちの海洋研修場・岡山県青年の家、海をテーマに開館した海洋博物館等を有し、海洋のことを学ぶには最適な場所です。玉野海洋博物館には、大小34の水槽に瀬戸内海の種を中心とした、日本各地の海洋生物約180種2,000点を飼育展示しており、海洋生態を学ぶには絶好の場となっています。(今回は、時間の関係から海洋博物館へは入館しません。)
又、日本有数の造船社・三井造船㈱艦船工場及び機械工場を海上から見学する他、アートで町のお年寄りが元気な直島、渋川に所縁の京の上﨟島、北半分が日比町の大槌島等瀬戸内の多島美を間近で堪能し、島の歴史や海から観る玉野の文化・産業等を学ぶ等、海の環境保全の重要性と海洋産業の面白さを膚で感じることのできる貴重な体験をしてもらいます。
宇野港から瀬戸大橋、渋川港までの西備讃瀬戸を周遊するクルーズ及び海上からの進水式見学を通して、瀬戸内海国立公園の多島美と景観を眺めながら、瀬戸内海の歴史と産業、文化に触れることにより、瀬戸内海の素晴らしさ、海と人及び産業との調和の大切さを学ぶことが、このクルーズの目的です。
写真は、昨年のタマノクルーズで撮ったものです。
3. 募集要項:
(1) 開催日時:2014年10月14日(火)9:00~16:00
(2) クルーズ船:からこと丸
(3) ルート概要:宇野港~日比沖~大槌島~瀬戸大橋~竪場島~渋川港~マリンホテル・昼食~渋川港~船上からMES工場&進水見学~直島諸島~宇野港
(4) 当日のスケジュール
9:00 産業振興ビル1階ロビーにて受付開始
9:20 乗船開始
9:30 宇野港第7桟橋を出港
>海から玉野市~西備讃瀬戸を観る(葛島、日比沖、大槌島、瀬戸大橋、竪場島)
11:45 渋川港に着岸・下船
12:00 ダイヤモンド瀬戸内マリンホテルにてバイキングランチ・休憩
13:30 ホテル出発、渋川港乗船
14:00 三井造船着岸・担当者乗船
>船上から工場及び進水式見学(進水予定時刻;14:30)
15:00 三井造船担当者下船・出港
>海から直島諸島~玉野の景観を楽しむ(直島、向島、京の上﨟島)
16:00 宇野港着岸・下船・記念写真、宇野港アート見学、自由解散
(5) 募集定員:57名、年令、性別不問
(6) 乗船料:大人(中学生以上)\5,500、子供(3歳児以上)\3,500、幼児(2歳児以下)\500
(7) 申込締切り:10月9日(木)必着。(定員になり次第打切り)
(チラシでは、10/6となっていますが、少し日延べをしました。)
(8) 注意事項
・当日は、動きやすい服装&靴でお願いします。
・悪天候の場合は、当日午前7時までに決行か中止かの連絡をします。
・決行か中止かをお伝えする「連絡先」は、必ず連絡の取れるものをお願いします。
・最少催行人員:40名以上とさせていただきます。
(9) 当日配付物:クルーズ資料、イベント情報、アンケート、その他
問合せ先:☎0863-23-2185(戸澤)、FAX:0863-31-5210、Eメール:r_tozawa@sanyu-re.co.jp
詳しくは、下のチラシをご参照ください。裏に申込書もついています。
2014年10月4日土曜日
2014年3月10日月曜日
「玉野みなと芸術フェスタ2013」活動の成果
3月10日
昨年4月にスタートした「玉野みなと芸術フェスタ2013」、今年度も無事終了を迎えようとしている。そこで、次への計画にも参考となるよう、今年度活動の成果について纏めてみた。
1.活動成果の要約
高質な音楽を聴くことのできることへの感激、異空間を創り出す芸術作品への感動、普段の生活から解放された非日常の新たな体験に対する喜び。玉野みなと芸術フェスタに参加或いは鑑賞された多くの方々は、芸術・文化の活動に深く感動されていた。芸術作品を鑑賞すること及びそれを伝える活動は、人の心を豊かにする素晴らしい活動であることが改めて実感された。
2.活動の目的
玉野みなと芸術フェスタは、宇野港を中心とした宇野・築港地区において、質の高いアートを追及し、市民とともに楽しめるアートイベントを企画、開催することによって、アートが楽しい魅力ある街を目指す。玉野みなと芸術フェスタは、経済的側面というより文化的側面から地域にパワーを生み出すことを基本理念とする。
3.活動の内容及び経過
(1) クラシックフェスタ in UNO 2013:
① 「Yu & Nadya DUO Concert」 (7/20)及び「ナーヂャさんのピアノワークショップ」(7/22)
② 「子どもと大人のための声楽ワークショップ」(9/20)及び「慶児道代&柾木和敬ソプラノ&テノール ジョイント・コンサート」(9/22)
(2) タマノクルーズ2013:
宇野-直島-渋川を結び、玉野西部の歴史・文化を学ぶクルーズ。(10/21)
(3) 南北楽観主義2013:
香川県(南)と岡山県(北)との文化交流を目的とした、カミイケタクヤ(香川) による舞台の公開制作(11/11~15)及びカミイケ演出と身体表現研究会(岡山)によるパフォーマンス「山から/山への視線」の上演(11/16&17)、双方の地域交流の系譜と次世代をテーマにした森末治彦の講演「山と人とが結んでいた交流」開催(11/16)
(4) 軒先計画2013:
宇野・築港地区のデザイナー/五十嵐勝成氏とスタンプデザイナー/小山田氏の共同作品を店舗(bollard)のシャッターに描画
4.活動の成果・効果
(1)-① クラシックフェスタ in UNO「Yu & Nadya DUO Concert」
世界的な活動を期待されている、ヨーロッパで活動中の二人の若手アーティストによるヴァイオリンとピアノのDUO Concertにおいて、素晴らしいクラシック音楽の迫力を味わっていただくことができた。当日は、来場者全員が二人の素晴らしい演奏に感動されていた。今後とも質の高いコンサートを玉野で開き、玉野の人たちに音楽の素晴らしさを体感していただくことの大切さを感じさせた。
上記コンサート開催を機に、子供たちだけのためにナーヂャさんにピアノワークショップを開催した。ピアノワークショップにおいては、参加された方々に音楽が親しみやすいものであることを肌で実感していただいた。ナージャ先生には、最初ムソルグスキーの大作「展覧会の絵」を演奏し、皆大興奮。参加された14名全員が「非常に良かった。」と言ってくれた。
(1)-② クラシックフェスタ in UNO「慶児道代 柾木和敬ソプラノ&テノール ジョイント・コンサート」
今年第2弾のクラシックフェスタ in UNOは、チェコ・プラハで活動中の慶児道代さんとイタリア・ミラノが主舞台の柾木和敬さん。間近に聴く迫力のソプラノとテノールは、感動の嵐を巻き起こした。今回演奏は、ヴェルディ、ドヴォルザーク、プッチーニなどの歌曲、オペラのアリアを、最高の技巧と豊かな声量を駆使し、情感豊かに歌っていただいた。90人を超える観客は、二人の素晴らしいパフォーマンスに酔いしれ、極めて満足度が高かった。
上記リサイタルを機に、子供から大人までの幅広い音楽を楽しむ人たちのために、二人に声楽ワークショップを開催していただいた。レクチャーの始めに歌ったイタリア民謡「サンタルチア」の、腹の底から頭のてっぺんに抜ける声に、皆圧倒されていた。その後、話す声と歌う声がどうしてこんなにも違うのか、分かりやすく教えてくれた。参加した19名全員が「非常に役立った」と言ってくれた。
(2) タマノクルーズ2013
今回の「タマノクルーズ2013」は、晴天に恵まれ、乗船客57名とスタッフ4名の計61名を乗せ、定刻に県営宇野港第7桟橋を出港。最初の景観ルート直島諸島に向かった。瀬戸内国際芸術祭で有名な直島本島を周回、向島、家島、局島の外側を抜け、京の上﨟島、喜兵衛島、屏風島、さらに5人ぞわいを通って、再び宇野港沖を通過、三井造船に着岸。ここで造船所のスタッフ3名が乗り込み、造船工場と機械工場を案内。その後、66BCの進水式に全員大歓声。その後、渋川港・マリンホテルへと急行した。美味しいバイキングランチと休息の後、渋川マリン水族館を見学。さらにその後、大槌島を周回、一路宇野港に帰港した。非日常の新たな体験に、乗船客全員が大いに満足されていた。
(3) 南北楽観主義
今回「南北楽観主義」のテーマは「山」。かつて、岡山・香川両県では、金毘羅山と瑜伽山の両方を参拝する「両参り」という習慣があった。「山」をテーマにすることで、近代の経済的・物質的な交流の原動力でもあった、文化的・精神的な南北交流について改めて考察した。
「山から/山への視線」と言う哲学的テーマの舞台公演に対するアンケート結果は、従来イベントとは全く異なった傾向を見せた。来場の8割は玉野市以外だったし、公演を知った媒体は7割が口コミだった。自由意見では、感動した。美しかった。雰囲気がありおもしろかった。静かで力強くてキレイなパフォーマンスだった。あっという間に時間が過ぎて感動した。言い表すことが難しい不思議な空間と、一瞬で異空な世界観にひっぱられたような感覚だった。といったような意見が出されていた。
山からは、見えるけれど聴こえない、言葉は届かない。それでも、人は伝え続けようとする。山に登って感じたこのような考えを表現するために、カミイケ氏が創作した舞台芸術とパフォ-マンスに多くの人々が感動した。映像と影と音の組み合わせ、その異空間に引きずり込まれていた。
森末治彦氏の講演からは、南北と東西が交差することで新たな文化が生まれることを感じた。「山」がテーマの今回の南北楽観主義、観客の反応からも言えることだが、高質な作品であり価値ある取組だったと思う。
(4) 軒先計画
共同作家のスタンプデザイナーが現在オランダ在のため、実施時期が彼の帰国後の4月以降となるが、閉まった後の店舗にも新しい魅力が生まれそうだし、作品作りの折は近隣住民にも参加していただくイベントが企画されているとのこと。今回、結果報告とはならないが、楽しみな計画である。
5.今後の課題と問題点
今回、「軒先計画」以外の何れのイベントも有料としたためチケット販売が重なり、ボランティアが基本のスタッフに多大な負担を掛けることとなった。
高質の芸術を目指すことは、方向的には正しいことである。しかし、逆にそれに比例して経費も大きくなり、イベント開催等のために必要な資金を得るための時間的/労力的負担が増えることが課題となった。
6.対応策
チケット販売方法を改善するか、最悪開催頻度を制限することも検討しなければならないと考える。具体的な対策は今後要検討。
昨年4月にスタートした「玉野みなと芸術フェスタ2013」、今年度も無事終了を迎えようとしている。そこで、次への計画にも参考となるよう、今年度活動の成果について纏めてみた。
1.活動成果の要約
高質な音楽を聴くことのできることへの感激、異空間を創り出す芸術作品への感動、普段の生活から解放された非日常の新たな体験に対する喜び。玉野みなと芸術フェスタに参加或いは鑑賞された多くの方々は、芸術・文化の活動に深く感動されていた。芸術作品を鑑賞すること及びそれを伝える活動は、人の心を豊かにする素晴らしい活動であることが改めて実感された。
2.活動の目的
玉野みなと芸術フェスタは、宇野港を中心とした宇野・築港地区において、質の高いアートを追及し、市民とともに楽しめるアートイベントを企画、開催することによって、アートが楽しい魅力ある街を目指す。玉野みなと芸術フェスタは、経済的側面というより文化的側面から地域にパワーを生み出すことを基本理念とする。
3.活動の内容及び経過
(1) クラシックフェスタ in UNO 2013:
① 「Yu & Nadya DUO Concert」 (7/20)及び「ナーヂャさんのピアノワークショップ」(7/22)
② 「子どもと大人のための声楽ワークショップ」(9/20)及び「慶児道代&柾木和敬ソプラノ&テノール ジョイント・コンサート」(9/22)
(2) タマノクルーズ2013:
宇野-直島-渋川を結び、玉野西部の歴史・文化を学ぶクルーズ。(10/21)
(3) 南北楽観主義2013:
香川県(南)と岡山県(北)との文化交流を目的とした、カミイケタクヤ(香川) による舞台の公開制作(11/11~15)及びカミイケ演出と身体表現研究会(岡山)によるパフォーマンス「山から/山への視線」の上演(11/16&17)、双方の地域交流の系譜と次世代をテーマにした森末治彦の講演「山と人とが結んでいた交流」開催(11/16)
(4) 軒先計画2013:
宇野・築港地区のデザイナー/五十嵐勝成氏とスタンプデザイナー/小山田氏の共同作品を店舗(bollard)のシャッターに描画
4.活動の成果・効果
(1)-① クラシックフェスタ in UNO「Yu & Nadya DUO Concert」
世界的な活動を期待されている、ヨーロッパで活動中の二人の若手アーティストによるヴァイオリンとピアノのDUO Concertにおいて、素晴らしいクラシック音楽の迫力を味わっていただくことができた。当日は、来場者全員が二人の素晴らしい演奏に感動されていた。今後とも質の高いコンサートを玉野で開き、玉野の人たちに音楽の素晴らしさを体感していただくことの大切さを感じさせた。
上記コンサート開催を機に、子供たちだけのためにナーヂャさんにピアノワークショップを開催した。ピアノワークショップにおいては、参加された方々に音楽が親しみやすいものであることを肌で実感していただいた。ナージャ先生には、最初ムソルグスキーの大作「展覧会の絵」を演奏し、皆大興奮。参加された14名全員が「非常に良かった。」と言ってくれた。
(1)-② クラシックフェスタ in UNO「慶児道代 柾木和敬ソプラノ&テノール ジョイント・コンサート」
今年第2弾のクラシックフェスタ in UNOは、チェコ・プラハで活動中の慶児道代さんとイタリア・ミラノが主舞台の柾木和敬さん。間近に聴く迫力のソプラノとテノールは、感動の嵐を巻き起こした。今回演奏は、ヴェルディ、ドヴォルザーク、プッチーニなどの歌曲、オペラのアリアを、最高の技巧と豊かな声量を駆使し、情感豊かに歌っていただいた。90人を超える観客は、二人の素晴らしいパフォーマンスに酔いしれ、極めて満足度が高かった。
上記リサイタルを機に、子供から大人までの幅広い音楽を楽しむ人たちのために、二人に声楽ワークショップを開催していただいた。レクチャーの始めに歌ったイタリア民謡「サンタルチア」の、腹の底から頭のてっぺんに抜ける声に、皆圧倒されていた。その後、話す声と歌う声がどうしてこんなにも違うのか、分かりやすく教えてくれた。参加した19名全員が「非常に役立った」と言ってくれた。
(2) タマノクルーズ2013
今回の「タマノクルーズ2013」は、晴天に恵まれ、乗船客57名とスタッフ4名の計61名を乗せ、定刻に県営宇野港第7桟橋を出港。最初の景観ルート直島諸島に向かった。瀬戸内国際芸術祭で有名な直島本島を周回、向島、家島、局島の外側を抜け、京の上﨟島、喜兵衛島、屏風島、さらに5人ぞわいを通って、再び宇野港沖を通過、三井造船に着岸。ここで造船所のスタッフ3名が乗り込み、造船工場と機械工場を案内。その後、66BCの進水式に全員大歓声。その後、渋川港・マリンホテルへと急行した。美味しいバイキングランチと休息の後、渋川マリン水族館を見学。さらにその後、大槌島を周回、一路宇野港に帰港した。非日常の新たな体験に、乗船客全員が大いに満足されていた。
(3) 南北楽観主義
今回「南北楽観主義」のテーマは「山」。かつて、岡山・香川両県では、金毘羅山と瑜伽山の両方を参拝する「両参り」という習慣があった。「山」をテーマにすることで、近代の経済的・物質的な交流の原動力でもあった、文化的・精神的な南北交流について改めて考察した。
「山から/山への視線」と言う哲学的テーマの舞台公演に対するアンケート結果は、従来イベントとは全く異なった傾向を見せた。来場の8割は玉野市以外だったし、公演を知った媒体は7割が口コミだった。自由意見では、感動した。美しかった。雰囲気がありおもしろかった。静かで力強くてキレイなパフォーマンスだった。あっという間に時間が過ぎて感動した。言い表すことが難しい不思議な空間と、一瞬で異空な世界観にひっぱられたような感覚だった。といったような意見が出されていた。
山からは、見えるけれど聴こえない、言葉は届かない。それでも、人は伝え続けようとする。山に登って感じたこのような考えを表現するために、カミイケ氏が創作した舞台芸術とパフォ-マンスに多くの人々が感動した。映像と影と音の組み合わせ、その異空間に引きずり込まれていた。
森末治彦氏の講演からは、南北と東西が交差することで新たな文化が生まれることを感じた。「山」がテーマの今回の南北楽観主義、観客の反応からも言えることだが、高質な作品であり価値ある取組だったと思う。
(4) 軒先計画
共同作家のスタンプデザイナーが現在オランダ在のため、実施時期が彼の帰国後の4月以降となるが、閉まった後の店舗にも新しい魅力が生まれそうだし、作品作りの折は近隣住民にも参加していただくイベントが企画されているとのこと。今回、結果報告とはならないが、楽しみな計画である。
5.今後の課題と問題点
今回、「軒先計画」以外の何れのイベントも有料としたためチケット販売が重なり、ボランティアが基本のスタッフに多大な負担を掛けることとなった。
高質の芸術を目指すことは、方向的には正しいことである。しかし、逆にそれに比例して経費も大きくなり、イベント開催等のために必要な資金を得るための時間的/労力的負担が増えることが課題となった。
6.対応策
チケット販売方法を改善するか、最悪開催頻度を制限することも検討しなければならないと考える。具体的な対策は今後要検討。
2014年3月1日土曜日
後楽園開園記念日公演「しおさとまつり」
3月1日
毎年3月2日は、日本3名園の一つ・後楽園の開園記念日であり、この日は誰もが入園無料の日となっている。園内では、餅つき大会とかお神楽の公演とか様々なイベントが繰り広げられ、多くの人たちで賑わう。
この日、田賀屋狂言会傘下の玉野しおさい狂言会が、「しおさとまつり」と銘打って、習い覚えた古典狂言3題と新作狂言を披露する。最後は、田賀屋夙生師とその二男で狂言師・島田洋海氏による本格狂言も観られる。
以下、それらの番組を紹介しよう。
古典3題
1.「酢薑」(すはじかみ)
あらすじ:都へ上っていく道中、摂津国の薑売と和泉国酢売が行き合う。街道に着くと酢売りが商売を始める。自分の許し無しに商売を始めるとは何事だと主張した薑売が、「からい」にかけて、「からく天皇の御時…」と薑の由来を語って聞かせる。酢売りは何という自慢話だと言って、今度は「推古天皇の御時…」と返しに「す」にかけて酢の由来を語って聞かせる。どっちも中々上手いことをいって勝負がつかず、、、、
中々味わい深い上品な狂言です。
出 演:(酢売り)野間嶺子、(薑売り)田中宣史
2.「延命袋」(えんめいぶくろ)
あらすじ:主人は、里帰りしている妻に、太郎冠者に離縁状を持たせる。主人から手紙が来たと喜んだ妻だったが、中身が離縁状と気づくや烈火のごとく太郎冠者を問い詰める。真相を知った妻は、主人の元へ駆け込み、「よくも里へ戻ったのをいいことに、太郎冠者に離縁状を持たせたな!」と怒るが、主人は「離縁した者がこの家に入るということがあるものか。」と強がる。ところが、、、、
出 演:(主人)三宅一典 (太郎冠者)塩崎テツミ (妻)成山佳子
3.「神鳴」(かみなり)
あらすじ:都で流行らぬヤブ医者が、東国へ下ろうとする。その途中、突然雷鳴が鳴り響き、目の前に神鳴りが落ちてきた。腰を強く打った神鳴は、この医者に針治療をしてもらい、又、雷鳴を鳴らせながら天へ帰っていくのだった。地震・神鳴・火事・親爺、怖いはずの代名詞の神鳴が舞台の上では、針に脅え、愛らしく見える、古典SF狂言である。
出 演:(神鳴)小坂運子、(医師)斉藤章夫
新作狂言4.「しおさとの舟造り」(しおさとのふなづくり)
あらすじ:玉の小さな塩田で作る塩は、売れなくなって思案に暮れた結果、漁師の仕事に職替えをしようことになる。いい魚場で魚を獲るためには、「大きな舟が要るぞ」ということから、大舟を造ることになった。
出 演:(浜子頭)斉藤章夫 (浜子壱)成山佳子 (浜子弐)塩崎テツミ (浜子参)小坂運子 (漁師壱)田中宣史 (漁師弐)三宅一典 (舟大工)野間嶺子
番外狂言
「伯母が酒」(おばがさけ)
あらすじ:酒屋を営む伯母はしわい人で、まだ甥に酒を振舞ったことがない。ある日、甥は今度こそ酒にありつこうと伯母の家を訪ねるが、どう頼んでもまんまと断られる。甥は、ふと名案を思いつき、帰り際にこの辺りには恐ろしい鬼が出るので気を付けるようにと親切ごかしに脅かす。一旦帰る振りをした甥は鬼の面をかぶって引き返し、恐れおののく伯母を尻目に蔵に入り、存分に酒を飲むが、、、、
出 演:(甥)田賀屋夙生 (伯母))島田洋海
毎年3月2日は、日本3名園の一つ・後楽園の開園記念日であり、この日は誰もが入園無料の日となっている。園内では、餅つき大会とかお神楽の公演とか様々なイベントが繰り広げられ、多くの人たちで賑わう。
この日、田賀屋狂言会傘下の玉野しおさい狂言会が、「しおさとまつり」と銘打って、習い覚えた古典狂言3題と新作狂言を披露する。最後は、田賀屋夙生師とその二男で狂言師・島田洋海氏による本格狂言も観られる。
以下、それらの番組を紹介しよう。
古典3題
1.「酢薑」(すはじかみ)
あらすじ:都へ上っていく道中、摂津国の薑売と和泉国酢売が行き合う。街道に着くと酢売りが商売を始める。自分の許し無しに商売を始めるとは何事だと主張した薑売が、「からい」にかけて、「からく天皇の御時…」と薑の由来を語って聞かせる。酢売りは何という自慢話だと言って、今度は「推古天皇の御時…」と返しに「す」にかけて酢の由来を語って聞かせる。どっちも中々上手いことをいって勝負がつかず、、、、
中々味わい深い上品な狂言です。
出 演:(酢売り)野間嶺子、(薑売り)田中宣史
2.「延命袋」(えんめいぶくろ)
あらすじ:主人は、里帰りしている妻に、太郎冠者に離縁状を持たせる。主人から手紙が来たと喜んだ妻だったが、中身が離縁状と気づくや烈火のごとく太郎冠者を問い詰める。真相を知った妻は、主人の元へ駆け込み、「よくも里へ戻ったのをいいことに、太郎冠者に離縁状を持たせたな!」と怒るが、主人は「離縁した者がこの家に入るということがあるものか。」と強がる。ところが、、、、
出 演:(主人)三宅一典 (太郎冠者)塩崎テツミ (妻)成山佳子
3.「神鳴」(かみなり)
あらすじ:都で流行らぬヤブ医者が、東国へ下ろうとする。その途中、突然雷鳴が鳴り響き、目の前に神鳴りが落ちてきた。腰を強く打った神鳴は、この医者に針治療をしてもらい、又、雷鳴を鳴らせながら天へ帰っていくのだった。地震・神鳴・火事・親爺、怖いはずの代名詞の神鳴が舞台の上では、針に脅え、愛らしく見える、古典SF狂言である。
出 演:(神鳴)小坂運子、(医師)斉藤章夫
新作狂言4.「しおさとの舟造り」(しおさとのふなづくり)
あらすじ:玉の小さな塩田で作る塩は、売れなくなって思案に暮れた結果、漁師の仕事に職替えをしようことになる。いい魚場で魚を獲るためには、「大きな舟が要るぞ」ということから、大舟を造ることになった。
出 演:(浜子頭)斉藤章夫 (浜子壱)成山佳子 (浜子弐)塩崎テツミ (浜子参)小坂運子 (漁師壱)田中宣史 (漁師弐)三宅一典 (舟大工)野間嶺子
番外狂言
「伯母が酒」(おばがさけ)
あらすじ:酒屋を営む伯母はしわい人で、まだ甥に酒を振舞ったことがない。ある日、甥は今度こそ酒にありつこうと伯母の家を訪ねるが、どう頼んでもまんまと断られる。甥は、ふと名案を思いつき、帰り際にこの辺りには恐ろしい鬼が出るので気を付けるようにと親切ごかしに脅かす。一旦帰る振りをした甥は鬼の面をかぶって引き返し、恐れおののく伯母を尻目に蔵に入り、存分に酒を飲むが、、、、
出 演:(甥)田賀屋夙生 (伯母))島田洋海
田賀屋夙生氏プロフィール
笠岡市在住の狂言師。1980年、四世茂山千作氏(人間国宝)、十三世茂山千五郎氏に師事。1989年より「田賀屋狂言会」を主宰。岡山県芸術文化賞審査委員を務めるなど、岡山を中心に精力的に狂言普及活動を行い、海外でも高い評価を得ている。2009年より玉野しおさい狂言会を指導する。
島田洋海氏プロフィール
田賀屋夙生氏の次男。2002年、茂山千五郎に入門、師事する。2009年4月独立。現在、京都を中心に活動している。岡山周辺にも活動の場を拡げ、今後の活躍が期待されている。
‐ 狂言一口メモ ‐
能舞台の正面奥にある、松の絵が描かれた羽目板のことを鏡板(かがみいた)と言います。舞台上での音や声を響かせるための反響板としての役目があります。又、描かれた松は老松(おいまつ)と呼ばれるもので、後楽園能舞台の松の絵は、倉敷出身の池田遙邨(いけだようそん)画伯の作です。「しおさとまつり」紹介チラシの写真が後楽園能舞台の鏡板です。
玉野しおさい狂言会では、昨年、持ち運び可能なように布製の鏡板(上の写真にある鏡板)を作りました。能舞台のない玉野でも手軽に能舞台の雰囲気を味わうことが出来るようになりました。この鏡板の松は、昭和の中頃まで玉野市築港の老松通りに立っていた老松をモチーフとしており、市民有志に参加を呼びかけたワークショップで、松の葉を刺繍するなどして仕上げました。
能舞台の正面奥にある、松の絵が描かれた羽目板のことを鏡板(かがみいた)と言います。舞台上での音や声を響かせるための反響板としての役目があります。又、描かれた松は老松(おいまつ)と呼ばれるもので、後楽園能舞台の松の絵は、倉敷出身の池田遙邨(いけだようそん)画伯の作です。「しおさとまつり」紹介チラシの写真が後楽園能舞台の鏡板です。
玉野しおさい狂言会では、昨年、持ち運び可能なように布製の鏡板(上の写真にある鏡板)を作りました。能舞台のない玉野でも手軽に能舞台の雰囲気を味わうことが出来るようになりました。この鏡板の松は、昭和の中頃まで玉野市築港の老松通りに立っていた老松をモチーフとしており、市民有志に参加を呼びかけたワークショップで、松の葉を刺繍するなどして仕上げました。
2014年1月4日土曜日
時を超えて-次代へ繋ぐ玉友の記録-
2014年1月4日(土)
三井造船には、「旧友会」と言う名のOBの会がある。
本部は東京本社にあるが、玉野地区と関西地区に各地区の支部がある。玉野地区では、毎年6月と11月の2回、玉野事業所に集まって工場見学をしたり講演を聴いたりし、その後、現役の方たちと昼食を共にして親睦を深め、英気を養っている。
玉野地区では、昨年11月28日、標題に示す冊子を発行した。
ここにその概要を紹介する。
これは、旧友会として何か現役の人たちの役に立つような活動はできないかという、会員からの声に端を発したものであった。種々検討した結果、先ずは夫々の貴重な体験を文章として残すことから始めることにした。各々の体験談を読むことにより、当時知ることのなかった様々な出来事を追体験するとともに、現役の人たちにも何らかの参考になればと期待しながらの活動である。
体験談投稿の呼びかけは、一昨年からスタートした。又、投稿いただいた中から、毎回2名の方に親睦会の席で、体験内容の報告発表を頂いている。
これが又、実に面白いのである。
投稿された原稿は、7名の編集委員で内容を確認・吟味、新たな試みに対応してきた。昨年9月までに12名、18件の体験談を寄せていただいた。そこで、これらの体験談を、冊子として纏め、本会会員、三井造船㈱及び関係会社各位に読んいただくこととした。
現役の方から感謝の声が寄せられていると聞く。又、M委員長の所には、田中社長から感謝のメールが入ったとのことであった。
さて、この冊子の名称だが、編集委員会で種々検討した結果、時代・世代が変わろうと、顧客を大事に考え、真摯に仕事に向かい、同胞を大切にする三井造船の姿は変わらないという意味を込めて、【時を超えて】がメインタイトルに選ばれた。
又、本会会員の体験談という記録を次代の人々にも連綿と繋いで行っていただきたいという願いを込めて、「次代へ繋ぐ玉友の記録」というサブタイトルを付すこととした。副題にある「玉友」という言葉は、三井造船の守り神である金刀比羅宮の下に、昭和52年11月、創立60周年記念に建立された「玉友碑」に由来している。(金刀比羅宮は、日の田門前から登った小高い金毘羅山頂にある。)
実は、この「玉友」と言うタイトルの選定にも、一つの話がある。
冊子の編集後記にも紹介した「玉友碑」の写真は、10月26日(土)に金毘羅山に登って写したものである。実は、サッキー自身初めて登ったものだったので、山頂にそのような碑があることなど全く知らなかった。私は、その時、「これだっ!」と思った。
副題は、既に第10回編集委員会(10/10開催)で「- 次代に繋ぐ旧友の記録 -」に決まっていた。しかし、「玉友」と言う言葉は、タイトル候補の中にもあったし、自分もいい言葉だと思っていたので、編集委員長のM氏(旧友会玉野地区の代表者でもある。)に改題の提案メールを送った。委員長にはすぐに賛同いただき、次回編集委員会で正式に決めてもらおうということになった。そして、第11回編集委員会(11/7開催)で「玉友」が採用されることとなった。
そこで、何故サッキーが金毘羅山に登る気になったのかである。それは、初代三井物産㈱造船部長・川村貞次郎さんの孫と言われるSK氏からの突然のメールが飛び込んだためだった。
彼からの最初のメールは、10/21(月)のことだった。自分がそれに返信して、次に氏から届いたメールは10/24(木)。その2回目のメールに「祖父の記念碑(?)建立」という記述があったのだ。
サッキーは、それを確認すべく、翌々日の26日に山に登った。
そこにあった記念碑は、川村貞次郎氏の銅像などではなく、創立60周年を記念して昭和52年(1977)11月に建てられた「玉友碑」であった。
当時の社長・山下勇氏が建立されたものだった。
今回「玉友」と言う言葉がこの冊子の副題に選ばれたことについて、何というジャストなタイミングでこの碑を発見したのだろうかと思った。少し大袈裟かもしれないが、選ばれるべき運命にあった言葉なのかもしれないとも思った。
SK氏は、創立100周年の記念式典に是非出席したいと仰っていたが、そこらへんの今後の窓口については、M旧友会副会長とK元総務部長とも相談して、O現総務部長にお願いすることとなった。
100周年は3年先だが、少なくともそこまではこの編集委員会も続けて行けたらと願っている。できうることなら、100周年記念冊子として、三井造船の子々孫々まで読み継がれるものにしたいと思う。
下の写真は、金毘羅山上から見る三井造船玉野事業所の遠景である。
三井造船には、「旧友会」と言う名のOBの会がある。
本部は東京本社にあるが、玉野地区と関西地区に各地区の支部がある。玉野地区では、毎年6月と11月の2回、玉野事業所に集まって工場見学をしたり講演を聴いたりし、その後、現役の方たちと昼食を共にして親睦を深め、英気を養っている。
玉野地区では、昨年11月28日、標題に示す冊子を発行した。
ここにその概要を紹介する。
これは、旧友会として何か現役の人たちの役に立つような活動はできないかという、会員からの声に端を発したものであった。種々検討した結果、先ずは夫々の貴重な体験を文章として残すことから始めることにした。各々の体験談を読むことにより、当時知ることのなかった様々な出来事を追体験するとともに、現役の人たちにも何らかの参考になればと期待しながらの活動である。
体験談投稿の呼びかけは、一昨年からスタートした。又、投稿いただいた中から、毎回2名の方に親睦会の席で、体験内容の報告発表を頂いている。
これが又、実に面白いのである。
投稿された原稿は、7名の編集委員で内容を確認・吟味、新たな試みに対応してきた。昨年9月までに12名、18件の体験談を寄せていただいた。そこで、これらの体験談を、冊子として纏め、本会会員、三井造船㈱及び関係会社各位に読んいただくこととした。
現役の方から感謝の声が寄せられていると聞く。又、M委員長の所には、田中社長から感謝のメールが入ったとのことであった。
さて、この冊子の名称だが、編集委員会で種々検討した結果、時代・世代が変わろうと、顧客を大事に考え、真摯に仕事に向かい、同胞を大切にする三井造船の姿は変わらないという意味を込めて、【時を超えて】がメインタイトルに選ばれた。
又、本会会員の体験談という記録を次代の人々にも連綿と繋いで行っていただきたいという願いを込めて、「次代へ繋ぐ玉友の記録」というサブタイトルを付すこととした。副題にある「玉友」という言葉は、三井造船の守り神である金刀比羅宮の下に、昭和52年11月、創立60周年記念に建立された「玉友碑」に由来している。(金刀比羅宮は、日の田門前から登った小高い金毘羅山頂にある。)
実は、この「玉友」と言うタイトルの選定にも、一つの話がある。
冊子の編集後記にも紹介した「玉友碑」の写真は、10月26日(土)に金毘羅山に登って写したものである。実は、サッキー自身初めて登ったものだったので、山頂にそのような碑があることなど全く知らなかった。私は、その時、「これだっ!」と思った。
副題は、既に第10回編集委員会(10/10開催)で「- 次代に繋ぐ旧友の記録 -」に決まっていた。しかし、「玉友」と言う言葉は、タイトル候補の中にもあったし、自分もいい言葉だと思っていたので、編集委員長のM氏(旧友会玉野地区の代表者でもある。)に改題の提案メールを送った。委員長にはすぐに賛同いただき、次回編集委員会で正式に決めてもらおうということになった。そして、第11回編集委員会(11/7開催)で「玉友」が採用されることとなった。
そこで、何故サッキーが金毘羅山に登る気になったのかである。それは、初代三井物産㈱造船部長・川村貞次郎さんの孫と言われるSK氏からの突然のメールが飛び込んだためだった。
彼からの最初のメールは、10/21(月)のことだった。自分がそれに返信して、次に氏から届いたメールは10/24(木)。その2回目のメールに「祖父の記念碑(?)建立」という記述があったのだ。
サッキーは、それを確認すべく、翌々日の26日に山に登った。
そこにあった記念碑は、川村貞次郎氏の銅像などではなく、創立60周年を記念して昭和52年(1977)11月に建てられた「玉友碑」であった。
当時の社長・山下勇氏が建立されたものだった。
今回「玉友」と言う言葉がこの冊子の副題に選ばれたことについて、何というジャストなタイミングでこの碑を発見したのだろうかと思った。少し大袈裟かもしれないが、選ばれるべき運命にあった言葉なのかもしれないとも思った。
SK氏は、創立100周年の記念式典に是非出席したいと仰っていたが、そこらへんの今後の窓口については、M旧友会副会長とK元総務部長とも相談して、O現総務部長にお願いすることとなった。
100周年は3年先だが、少なくともそこまではこの編集委員会も続けて行けたらと願っている。できうることなら、100周年記念冊子として、三井造船の子々孫々まで読み継がれるものにしたいと思う。
下の写真は、金毘羅山上から見る三井造船玉野事業所の遠景である。
2014年1月3日金曜日
サッキー、新年に思う
2014年1月3日(金)
昨年は、長い長いデフレ経済からやっと抜け出そうかという、表面的には明るい年となった。これが喜ばしいことなのか、実は恐ろしいことなのか、確かなことは良く分からない。
ただ、毎年毎年、国債と言う名の40兆円もの多額の借金をしての明るさなのだということを考えると、本当のところは怪しいものと思わざるをえない。この借金バブルがどこで破裂して、奈落の国家破綻に陥るのか、予測もつかない。言えることは、そのような恐ろしい世の中が、そう遠くない時代にやってくるであろうということだけだ。10年先か、20年先?どちらにしても、人生の長さから考えると、アッという間のことである。
では、どう対処すればいいのか。
一人の力でどうにもならないことは、流れに身を任すしか途はないように思う。或いは、今の時代を楽しく面白く過ごすということで、生き甲斐を見出すことなのかもしれない。又、たとえ悲惨な世の中になったとしても、それに耐えられるだけの心づもりを保っておくことだろう。さらに付け加えるならば、お金がなくても生活できる図太い生き方に慣れてておくことだろう。
さてそこで、どうやってこの世の中を楽しく面白く過ごすのか?
それは、多分「心の豊かさ」を持ち続けることが出来るかどうかに懸かっているのだと思う。では、「心の豊かさ」はどこから生まれるのか。「心の豊かさ」は、言い換えれば「心の充実」ともいえる。だとすれば、好きなことが自由にできる、好きな物を手にすることが出来る。自分の気に入ったことを体験或いは追体験することが出来る。といったようなことが、身近で作り上げられることかもしれない。
世の中の人全員を満足させることはできないのは分かっている。同好の志だけでもいい。楽しみを共有できる出来事を作り上げることができれば、小さいながらも心の充実に繋がって行くであろう。そして、そのような楽しみを共有できる出来事を個々夫々が、夫々の立場で実践してゆく世の中にすることが、今求められているのだと思う。
今年も、芸術文化を楽しむことのできる人たちと、面白い出来事を作り上げて行くこと。又、見知らぬ世界の人たちが宇野が楽しい街だと感じ、移り住んでみたいと思う人たちの手助けをして行くこと。そのような活動を通じて、喜んでくれる人たちが増えて行くこと。それが「心の充実」つまり「心の豊かさ」に繋がって行くのだと思う。
この様な活動に賛同する人たちと手を携えて、今年も1年「心の豊かさ」を求めて生きて行きたい。新年を迎えて、とりとめもなくそう思う。
サッキータイムへの投稿がかなり長い間飛んでいたが、今年はもう少しまめにアップするかな。
写真は、昨年10月21日(月)タマノクルーズ2013「たまの西海道」 の時、日本の渚100選にも選ばれている岡山県一の海水浴場・渋川海岸である。
今年も元気に楽しく行こう。宜しくで~す。
昨年は、長い長いデフレ経済からやっと抜け出そうかという、表面的には明るい年となった。これが喜ばしいことなのか、実は恐ろしいことなのか、確かなことは良く分からない。
ただ、毎年毎年、国債と言う名の40兆円もの多額の借金をしての明るさなのだということを考えると、本当のところは怪しいものと思わざるをえない。この借金バブルがどこで破裂して、奈落の国家破綻に陥るのか、予測もつかない。言えることは、そのような恐ろしい世の中が、そう遠くない時代にやってくるであろうということだけだ。10年先か、20年先?どちらにしても、人生の長さから考えると、アッという間のことである。
では、どう対処すればいいのか。
一人の力でどうにもならないことは、流れに身を任すしか途はないように思う。或いは、今の時代を楽しく面白く過ごすということで、生き甲斐を見出すことなのかもしれない。又、たとえ悲惨な世の中になったとしても、それに耐えられるだけの心づもりを保っておくことだろう。さらに付け加えるならば、お金がなくても生活できる図太い生き方に慣れてておくことだろう。
さてそこで、どうやってこの世の中を楽しく面白く過ごすのか?
それは、多分「心の豊かさ」を持ち続けることが出来るかどうかに懸かっているのだと思う。では、「心の豊かさ」はどこから生まれるのか。「心の豊かさ」は、言い換えれば「心の充実」ともいえる。だとすれば、好きなことが自由にできる、好きな物を手にすることが出来る。自分の気に入ったことを体験或いは追体験することが出来る。といったようなことが、身近で作り上げられることかもしれない。
世の中の人全員を満足させることはできないのは分かっている。同好の志だけでもいい。楽しみを共有できる出来事を作り上げることができれば、小さいながらも心の充実に繋がって行くであろう。そして、そのような楽しみを共有できる出来事を個々夫々が、夫々の立場で実践してゆく世の中にすることが、今求められているのだと思う。
今年も、芸術文化を楽しむことのできる人たちと、面白い出来事を作り上げて行くこと。又、見知らぬ世界の人たちが宇野が楽しい街だと感じ、移り住んでみたいと思う人たちの手助けをして行くこと。そのような活動を通じて、喜んでくれる人たちが増えて行くこと。それが「心の充実」つまり「心の豊かさ」に繋がって行くのだと思う。
この様な活動に賛同する人たちと手を携えて、今年も1年「心の豊かさ」を求めて生きて行きたい。新年を迎えて、とりとめもなくそう思う。
サッキータイムへの投稿がかなり長い間飛んでいたが、今年はもう少しまめにアップするかな。
写真は、昨年10月21日(月)タマノクルーズ2013「たまの西海道」 の時、日本の渚100選にも選ばれている岡山県一の海水浴場・渋川海岸である。
今年も元気に楽しく行こう。宜しくで~す。
2013年4月18日木曜日
栄光の木村商會ビルが、、、
玉野市築港のメイン通りに、大正ロマン漂う魅力的な石造りの2階建洋館がある。「株式会社 木村商會」の発祥の地に建つ重文クラスの建物である。
同社の沿革は、HPによると次のように書かれている。
大正7年3月 創業者木村九平治が岡山県玉野市築港7342番地において、石炭・石油・油脂・塗料・船具に関する営業を開始する。(つまり、この建物はこの時にできたものである。)
昭和19年5月 石油統制令および当局の企業合同奨励により石油部門を分離し、有限会社玉野石油店を設立す。(平成20年に㈱エルジオと改称)
昭和24年9月 配炭公団解散と同時に石炭部を復活、東京、大阪、名古屋、岡山、呉、広島、九州若松に支店出張所を設け、五大石炭商の一に数えられる。(凄い会社に成長したもんだ。)
昭和25年5月 油脂・塗料部を分離し、木村商事株式会社を設立す。(宇野にある。)
昭和40年10月 永年の個人営業を株式会社木村商会に組織変更す。(会社としての設立は意外に若い。)
昭和61年4月 本社を岡山市大内田764番2に移転す。(エルジオ本社と隣同士)
平成24年9月期売上64億円とは結構な企業である。㈱エルジオは同期で391億円だからもっと凄い。数年前、創業地にあった玉野営業所が閉鎖された。平成22年11月、隣接地にリハビリデイサービス「ポシブル宇野」をオープンしている。(これからの高齢化社会を見据えた多角経営である。現社長は相当のやり手かも)
創業者の木村九平治氏は、玉野商工会議所の初期の頃の会頭を務められた玉野商工界の重鎮である。
さて、この由緒ある建物が間もなく取り壊されるという。
きっと多くの市民が勿体ないと言うに違いない。うのずくりのメンバーである高原氏は、建物が残らないのは仕方ないとして、せめて中に残った古いガラクタ(お宝)だけでも救出したいと、4/16~18の3日間、女子二人と協力して家財道具を持ち出してくれた。誠にありがたいことだ。
今年3月、高原氏はこの建物の測量を実施、新たな発見をされている。(詳細は、下記URLから参照されたい。)もしこの事実を経営トップがあと半年早く知っていれば、ひょっとして取り壊すなどという非文化的な行為には及ばなかったのかもしれない。(そうでもないかな?)
http://sholly.blog.ocn.ne.jp/akaaokiiro/2013/03/post_3155.html
少し話を遡らせる。
2004年の芸術フェスタ実施内容を検討した折り、直島に意見を求めて、当時アートサイト直島の若い責任者だった笠原氏を訪ねたことがある。 氏からは、直島の取組やアートの進め方など種々示唆を与えてくれたが、その中で宇野港の木村商会の建物が素晴らしいと言っておられた。それまで、宇野港に残る建造物に気付くことのなかったサッキーは、そんなものかと気に留めるようになった。
そんなことから、芸術フェスタ実行委員会において、「この建物を市の文化財に登録するということはできないのか。」と尋ねてみた。市としては「住民の民間から運動を起こさないと、行政主導で文化財として扱ってもうまくいかないのではないか。先ずはフェスタ期間中に、公開するようにしたらどうか。」という回答であった。
そこで、持ち主である、玉野石油㈱社長を訪ね、そのようなお願いをした。しかし、社長はにべもなく、「そのようなことはできません。」と一蹴されたのである。
企業経営者としては、何十年も使ってない建物を貸し出すとなると、それなりの補修もやらねばならないし、出費も相当嵩むと考えられたのであろう。サッキーは、「こりゃあかん。」と、その後一切関わりを持つまいと思った。
ここで、この建物の写真を時系列で並べてみる。
トップの写真は、2005年2月に写している。軒先に「木村商會」 の浮き文字看板があり、2階の右側部分に錆びた鉄で縦に書かれた「KIMURA」という看板がある。2枚目の写真が良く分かる。恐らくこれは、空白部分がガラスで、中に電灯があって夜は明るく照らす照明看板ではなかったかと想像される。
3枚目の写真は、同年11月に写した写真である。軒先の浮き文字看板も2階の鉄文字看板も撤去されて無くなっている。理由は分からない。安全上の問題、、、?
4枚目の写真は、今年4月16日に写したものだ。 左隣の石造りがデイサービスの建物になった他は、何も変わっていない。この日、高原氏と女子二人は、中に残ったガラクタ(お宝)を一生懸命運んでいた。中に上がると、そこからは美しい宇野の海が丸見えだった。
4月下旬には、これが更地になる。ああ、勿体なや。
同社の沿革は、HPによると次のように書かれている。
大正7年3月 創業者木村九平治が岡山県玉野市築港7342番地において、石炭・石油・油脂・塗料・船具に関する営業を開始する。(つまり、この建物はこの時にできたものである。)
昭和19年5月 石油統制令および当局の企業合同奨励により石油部門を分離し、有限会社玉野石油店を設立す。(平成20年に㈱エルジオと改称)
昭和24年9月 配炭公団解散と同時に石炭部を復活、東京、大阪、名古屋、岡山、呉、広島、九州若松に支店出張所を設け、五大石炭商の一に数えられる。(凄い会社に成長したもんだ。)
昭和25年5月 油脂・塗料部を分離し、木村商事株式会社を設立す。(宇野にある。)
昭和40年10月 永年の個人営業を株式会社木村商会に組織変更す。(会社としての設立は意外に若い。)
昭和61年4月 本社を岡山市大内田764番2に移転す。(エルジオ本社と隣同士)
平成24年9月期売上64億円とは結構な企業である。㈱エルジオは同期で391億円だからもっと凄い。数年前、創業地にあった玉野営業所が閉鎖された。平成22年11月、隣接地にリハビリデイサービス「ポシブル宇野」をオープンしている。(これからの高齢化社会を見据えた多角経営である。現社長は相当のやり手かも)
創業者の木村九平治氏は、玉野商工会議所の初期の頃の会頭を務められた玉野商工界の重鎮である。
さて、この由緒ある建物が間もなく取り壊されるという。
きっと多くの市民が勿体ないと言うに違いない。うのずくりのメンバーである高原氏は、建物が残らないのは仕方ないとして、せめて中に残った古いガラクタ(お宝)だけでも救出したいと、4/16~18の3日間、女子二人と協力して家財道具を持ち出してくれた。誠にありがたいことだ。
今年3月、高原氏はこの建物の測量を実施、新たな発見をされている。(詳細は、下記URLから参照されたい。)もしこの事実を経営トップがあと半年早く知っていれば、ひょっとして取り壊すなどという非文化的な行為には及ばなかったのかもしれない。(そうでもないかな?)
http://sholly.blog.ocn.ne.jp/akaaokiiro/2013/03/post_3155.html
少し話を遡らせる。
2004年の芸術フェスタ実施内容を検討した折り、直島に意見を求めて、当時アートサイト直島の若い責任者だった笠原氏を訪ねたことがある。 氏からは、直島の取組やアートの進め方など種々示唆を与えてくれたが、その中で宇野港の木村商会の建物が素晴らしいと言っておられた。それまで、宇野港に残る建造物に気付くことのなかったサッキーは、そんなものかと気に留めるようになった。
そんなことから、芸術フェスタ実行委員会において、「この建物を市の文化財に登録するということはできないのか。」と尋ねてみた。市としては「住民の民間から運動を起こさないと、行政主導で文化財として扱ってもうまくいかないのではないか。先ずはフェスタ期間中に、公開するようにしたらどうか。」という回答であった。
そこで、持ち主である、玉野石油㈱社長を訪ね、そのようなお願いをした。しかし、社長はにべもなく、「そのようなことはできません。」と一蹴されたのである。
企業経営者としては、何十年も使ってない建物を貸し出すとなると、それなりの補修もやらねばならないし、出費も相当嵩むと考えられたのであろう。サッキーは、「こりゃあかん。」と、その後一切関わりを持つまいと思った。
ここで、この建物の写真を時系列で並べてみる。
トップの写真は、2005年2月に写している。軒先に「木村商會」 の浮き文字看板があり、2階の右側部分に錆びた鉄で縦に書かれた「KIMURA」という看板がある。2枚目の写真が良く分かる。恐らくこれは、空白部分がガラスで、中に電灯があって夜は明るく照らす照明看板ではなかったかと想像される。
3枚目の写真は、同年11月に写した写真である。軒先の浮き文字看板も2階の鉄文字看板も撤去されて無くなっている。理由は分からない。安全上の問題、、、?
4枚目の写真は、今年4月16日に写したものだ。 左隣の石造りがデイサービスの建物になった他は、何も変わっていない。この日、高原氏と女子二人は、中に残ったガラクタ(お宝)を一生懸命運んでいた。中に上がると、そこからは美しい宇野の海が丸見えだった。
4月下旬には、これが更地になる。ああ、勿体なや。
2013年3月18日月曜日
芸術フェスタ10年の歩み
3月16日(土)
2003年に「玉野みなと芸術フェスタ」を開催して以来、今年丸10年が過ぎた。
そこで、この10年の歩みを写真と資料で振り返る「芸術フェスタ10年の歩み展」を、3月15-16の2日間、玉野市文化会館バウハウスで開催した。
玉野市の文化・芸術振興のためにと思って取り組んできたが、果たして少しは人の役に立ったのかどうか?人の心に火を点けることができたのかどうか?投資した資源に見合う成果が得られたのかどうか?
展示会終了後、スタッフの数人からサプライズの手作りトロフィーを受賞頂いたことを考えると、やったことが決して無駄ではなかったのだろうと、深い感動を覚えた。
この10年間、色々あったが、 サッキー自身はやって良かったと思っている。
観客や参加者に楽しんでいただくことは最も大事なことではあるが、自分自身や取組むスタッフの皆が楽しめることでないとやった意味がないのだと思う。
そんな意味から言うと、先ずは意味あることの一つはクリアしたのかもしれない。
さて、このブログの読者の方に、「芸術フェスタ10年の歩みっていったい何?」と言うのがあるだろうから、ここで展覧会の挨拶文を紹介することで、概要を掴んでいただきたいと思う。
「玉野みなと芸術フェスタ」は、人流港として大規模に整備されつつあった宇野港を、芸術の力で賑わいのある港にして全国に情報発信することを願って、2003年に始まりました。今では、玉野の秋を彩るアートイベントとして市民の皆様方に喜んでいただいておりますが、今年で丁度10年を迎えることができました。
これひとえに、多くの皆様方の温かいお支えとお力添えがあればこそでございます。先ずもって深く感謝申し上げます。
そこで、この10年間の活動の記録、写真、作品などを展示、ご紹介し、芸術フェスタのこれまでの活動の成果などを市民の皆様にご覧いただき、ご意見・ご感想を賜ればありがたく、「芸術フェスタ10年の歩み展」を開催することとしました。
初年度に取り組んだ「縄アートリンクプロジェクト」は、大変な労力を要する芸術活動ではありましたが、何とか目標を達成することができました。この時の活動が支えとなって、その後の活動が続いているといっても過言ではないと存じます。
その後、実行委員会では、2004-2006年の3年間、その趣旨に沿った形で宇野港がロマン溢れる芸術港となることを願い、賑わい創出を図る活動を行って参りました。さらに5年目の2007年、芸術フェスタは宇野港から離れ、塩の町・山田に場所を移し、明治の建物の再生と現代アートへの活用を図りました。この年からがアートの本質に向けた活動の始まりだったのであろうと思います。2009年に宇野港が築100年を迎えたことから、宇野港域でも開催し2011年まで2会場で開催してきました。山田での活動が5年続き一区切りをつけたこともあって、2012年からは、再び宇野港域だけの活動を進めることとなりました。
アートは難しいではなく、アートは楽しい。人と人とがつながる活動。私たちは、そのようなアート本来が持つ有用性に向けた活動、やって楽しい、見て面白い、聞いて感動できる、と思えるような活動。それが芸術フェスタの今後進むべき活動なのではないかと思います。
僅か2日間の展覧会ではありますが、是非この機会に楽しいアートのある町・玉野のことを思い巡らしながら、10年の歩み展をご覧いただければ幸いでございます。
平成25年3月15日
玉野みなと芸術フェスタ実行委員会
実行委員長 斉藤 章夫
16日(土)には、実行委員会を開き、10年の歩みについて報告するとともに、今年の計画についても説明した。ここで、今年の計画の大見出しを紹介する。詳しいことは追々、このブログかFBで紹介してゆきたい。
《2013年度テーマ》 楽しい町 魅力ある街へ ~新たな10年に向けて~
●基本方針
◇ 質の高いアートを追求
◇ 市民とともに楽しめるアートイベント
◇ アートが楽しい魅力ある街を
●計画イベント(案)
◇ Classic Festa in UNOⅡ(DUO concert & Joint concert)
◇ タマノクルーズⅥ「たまの西海道」(玉野市西部の歴史・文化を学ぶ)
◇ 軒先計画Ⅲ(クリエイターの作品展示)
◇ しおさと狂言まつりⅡ(狂言を通して製塩の歴史を楽しく学ぶ)
◇ 南北楽観主義 -せとうち-Ⅱ(宇野と高松を結ぶ交流企画展)
2003年に「玉野みなと芸術フェスタ」を開催して以来、今年丸10年が過ぎた。
そこで、この10年の歩みを写真と資料で振り返る「芸術フェスタ10年の歩み展」を、3月15-16の2日間、玉野市文化会館バウハウスで開催した。
玉野市の文化・芸術振興のためにと思って取り組んできたが、果たして少しは人の役に立ったのかどうか?人の心に火を点けることができたのかどうか?投資した資源に見合う成果が得られたのかどうか?
展示会終了後、スタッフの数人からサプライズの手作りトロフィーを受賞頂いたことを考えると、やったことが決して無駄ではなかったのだろうと、深い感動を覚えた。
この10年間、色々あったが、 サッキー自身はやって良かったと思っている。
観客や参加者に楽しんでいただくことは最も大事なことではあるが、自分自身や取組むスタッフの皆が楽しめることでないとやった意味がないのだと思う。
そんな意味から言うと、先ずは意味あることの一つはクリアしたのかもしれない。
さて、このブログの読者の方に、「芸術フェスタ10年の歩みっていったい何?」と言うのがあるだろうから、ここで展覧会の挨拶文を紹介することで、概要を掴んでいただきたいと思う。
「玉野みなと芸術フェスタ」は、人流港として大規模に整備されつつあった宇野港を、芸術の力で賑わいのある港にして全国に情報発信することを願って、2003年に始まりました。今では、玉野の秋を彩るアートイベントとして市民の皆様方に喜んでいただいておりますが、今年で丁度10年を迎えることができました。
これひとえに、多くの皆様方の温かいお支えとお力添えがあればこそでございます。先ずもって深く感謝申し上げます。
そこで、この10年間の活動の記録、写真、作品などを展示、ご紹介し、芸術フェスタのこれまでの活動の成果などを市民の皆様にご覧いただき、ご意見・ご感想を賜ればありがたく、「芸術フェスタ10年の歩み展」を開催することとしました。
初年度に取り組んだ「縄アートリンクプロジェクト」は、大変な労力を要する芸術活動ではありましたが、何とか目標を達成することができました。この時の活動が支えとなって、その後の活動が続いているといっても過言ではないと存じます。
その後、実行委員会では、2004-2006年の3年間、その趣旨に沿った形で宇野港がロマン溢れる芸術港となることを願い、賑わい創出を図る活動を行って参りました。さらに5年目の2007年、芸術フェスタは宇野港から離れ、塩の町・山田に場所を移し、明治の建物の再生と現代アートへの活用を図りました。この年からがアートの本質に向けた活動の始まりだったのであろうと思います。2009年に宇野港が築100年を迎えたことから、宇野港域でも開催し2011年まで2会場で開催してきました。山田での活動が5年続き一区切りをつけたこともあって、2012年からは、再び宇野港域だけの活動を進めることとなりました。
アートは難しいではなく、アートは楽しい。人と人とがつながる活動。私たちは、そのようなアート本来が持つ有用性に向けた活動、やって楽しい、見て面白い、聞いて感動できる、と思えるような活動。それが芸術フェスタの今後進むべき活動なのではないかと思います。
僅か2日間の展覧会ではありますが、是非この機会に楽しいアートのある町・玉野のことを思い巡らしながら、10年の歩み展をご覧いただければ幸いでございます。
平成25年3月15日
玉野みなと芸術フェスタ実行委員会
実行委員長 斉藤 章夫
16日(土)には、実行委員会を開き、10年の歩みについて報告するとともに、今年の計画についても説明した。ここで、今年の計画の大見出しを紹介する。詳しいことは追々、このブログかFBで紹介してゆきたい。
《2013年度テーマ》 楽しい町 魅力ある街へ ~新たな10年に向けて~
●基本方針
◇ 質の高いアートを追求
◇ 市民とともに楽しめるアートイベント
◇ アートが楽しい魅力ある街を
●計画イベント(案)
◇ Classic Festa in UNOⅡ(DUO concert & Joint concert)
◇ タマノクルーズⅥ「たまの西海道」(玉野市西部の歴史・文化を学ぶ)
◇ 軒先計画Ⅲ(クリエイターの作品展示)
◇ しおさと狂言まつりⅡ(狂言を通して製塩の歴史を楽しく学ぶ)
◇ 南北楽観主義 -せとうち-Ⅱ(宇野と高松を結ぶ交流企画展)
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