2012年1月4日水曜日

「東街道十三次探訪ラリー」の紹介人物

1月4日

昨年11月12&13日に開催した「東街道十三次探訪ラリー」で採り上げた13人のプロフィールを紹介する。ラリーの拠点となった13ヶ所に設置した看板の原稿である。
夫々の人たちは、各時代にこの地区に影響を残されたが、共通しているのは、みなよく勉強され周りの人たちにそれを教導されているということだ。
教導などということは中々できない業だが、勉強だけなら誰でもできる。今年は、より以上に勉強の年にしたいものだ。

増吽僧正(ぞううん そうじょう)
室町時代の僧侶。貞治5年(1366)に讃岐国大川郡与田村に生まれ、幼時から神童の誉が高かった。
与田寺で研鑽を重ね法印の位を得た後、高野山に上って真言の秘奥を極めた。その後、僧正の位に進んだが、後年その地位や名誉を捨て諸国の寺院の復興に尽力した。由加の蓮台寺、八浜の金剛寺、日比の観音院などを復興しては弟子に任せ、最後に山田の無動院の復興に尽くしていたが、遂に死期を予期して入定したといわれ、その入定の石棺が無動院に残されている。東児地方に於ける真言宗寺院が輪番で毎年一回開く聴聞などもこの増吽の創始にかかるものである。

高心(こうしん)
南朝の武将。高心は南北朝の時期の南朝の武将。
楠木正儀(マサナリ)に仕えたが、直島に隠棲した後西湖寺に転居、風月を友として余生を楽しむ傍ら、近在の人々を教化しこの地で没したとされる。墓は砂岩製で高さ2.4m、珍しい形式の笠塔婆として注目される。又、高心の没年の至徳は北朝の年号である。これについては諸説あるが、南北朝末期北朝の世になり南朝の人間であることを隠したためであるとか、主君の楠木正儀が北朝に帰順したことがあるためとも言われている。高心の墓は、昭和34年(1959)3月、岡山県指定重要文化財に指定された。

石川 善右衛門(いしかわ ぜんえもん)
慶長12年(1607)~寛文年(1669)。岡山藩の郡奉行・普請奉行。
父は慶長8年(1603)備前で池田利隆に召し出されて仕えたが、その後国替えで因州鳥取へ移る。備前国で生まれた善右衛門は、寛永9年(1632)再び備前岡山に帰る。寛永19年(1642)に児島郡の郡奉行になり、幕府に差し出す絵図の作成に携わる。その後普請奉行となり、明暦2年(1656)在来の池を拡張して木見の森池を造る他、長尾の天王池等、郡内の多くの溜池を築造、改修した。山田の牛石池、二子池を造り、寛文4年(1664)には大池の拡張工事を行う。文化3年(1806)瑜伽大権現の境内に頌徳碑が建つ。
 
野﨑 武左衛門(のざき ぶざえもん)
寛政1年(1789)~元治1年(1864)。倉敷市児島味野の人。塩田・新田開発者。塩田王と呼ばれる。
文政9年(1826)頃、塩田開発を決意、文政11年(1828)味野村と赤崎村に約48haの元野﨑浜を完成。続いて日比地区に11ha余の亀浜塩田を完成。その後、東児島の海浜に着目、天保12年(1841)73ha余の東野﨑浜を完成した。嘉永4年(1851)には、藩命による703ha余の福田新田開発に成功、福田新田5ケ村大庄屋役を拝命した。武左衛門の塩田経営で特筆すべきは、当作歩方制を採用し、全塩田を直営化して経営の効率を上げ、安定した塩田・耕地経営を行ったことである。元治元年(1864)死去に際して遺した「申置」7ヵ条は、家産管理と運営、地域との共生等について公利優先・衆議尊重等の指針を示した。

西井 多吉(にしい たきち)
文化12年(1815)~明治32年(1899)。倉敷市の人。児島、野﨑家家僕。
15歳から児島郡味野村の塩田王野﨑武左衛門・武吉郎の二代に67年間にわたって仕え、福田新田の開発や塩田の開発、塩田経営や小作地管理に手腕をふるい、野﨑家を西日本随一の塩田地主・耕地地主に飛躍させた。明治26年(1893)その功により緑綬褒章が下賜された。

荻野 独園(おぎの どくおん)
文政2年(1819)~明治28年(1895)。玉野市下山坂出身。
幕末~明治時代の臨済宗の高僧・京都相国寺住職。文政9年(1826)8歳にして児島郡郡村の叔父掌善寺鎮州の弟子となり、13歳の時、出家。元規と称した。天保7年(1836)18歳のとき儒学を学ぶ。同12年(1841)臨済禅を学び、安政3年(1856)心華院住職、明治2年(1869)相国寺住職に就任。明治5年(1872)、教部省が置かれ神仏合併大教院設置の折、教導職に就任。さらに大教院長、又臨済・曽洞・黄檗3宗の総管長に任じられた。明治23年(1890)72歳の時『近世禅林僧宝伝』を上梓。明治27年(1894)退いて京都東山銀閣寺に自適。昭和54年(1979)、出身地の玉野市上山坂に顕彰碑が建立された。

伊藤 立斎(いとう りっさい)
文政5年(1822)~明治18年(1855)。倉敷市玉島勇崎出身。
医者となって名声をあげた。明治初年、児島郡山田村有志の要請を受け、家を長男に譲って同村に移住、歓迎された。医業の傍ら、地元子弟に四書五経或いは習字などを教えた。明治6年(1873)、山田小学校の雇助教に任ぜられたが、翌年5月職を辞し、以後もっぱら医業に従った。「医は仁術なり」との姿勢で、村人の尊崇を受けた。墓石銘が白石宝殿場にある。

三宅 三郎(みやけ さぶろう)
天保13年(1842)~明治19年(1886)。玉野市山田出身。岡山藩の勤王家。
安政4年(1857)から山田村名主代勤となり、文久3年(1863)まで勤めた。この間、醬油醸造や穀物商、塩田経営を行った。その一方、尊皇の志が厚く、岡山藩の尊攘派指導者牧野権六郎らと交わり、慶応3年(1867)には、牧野とともに上京して大政奉還を実現する活動に協力して働いた。11月に帰藩、休養していたとき、村民による東野﨑塩田益米の増額要求が起こり、野﨑家と地元の仲介役を引き受けたりしたが、その後、岡山県の警察関係の官吏に採用され山田村を去った。墓石銘が白石宝殿場にある。                             

東 作平(ひがし さくへい)
弘化4(1847)~昭和4年(1929)。玉野市後閑の人。
東氏9代作平は、16歳で大薮・後閑の名主となり、明治維新とともに戸長となった。明治10年(1867)には鉾立・山田・胸上・波知等14ケ村の戸長を勤める。教育熱心で明治7年後閑小学校を創立、同12~20年、名誉校長として子弟の訓導に当たる。町村制施行後、郡会議員・村会議員等を勤め、又所得税調査委員・徴兵参事官・済世顧問等、政治に携わること50年、この間至誠を以て貫いた。号を西湖と称し、書画を嗜み、謡曲に堪能だった。又、若くして剣を学び、その技は近郷に聞こえていた。鳥打峠の出崎入口の所に、開鑿記念として大正5年(1916)に作平氏が建てた石標がある。

岡 武三郎(おか たけさぶろう)
安政5年(1858)~明治37年(1904)。岡山市出身。教育者。
読書を好み温知学校(岡山県師範学校の前身)を卒業して、明治8年(1875)、山田村の四十九番小学校に赴任、同13年(1880)無動院山に校舎が新築され養才小学校と改称された。同34年(1901)には同尋常小学校の校長に就任。翌年、校舎が現在の山田小学校に移転されたが、明治37年(1904)現職のまま46歳で病死した。教師在任中、山田、胸上に青年夜学会を設け、20余年毎宵出掛けた。明治45年(1912)教え子たちは、元の小学校のあった無動院山に石碑を建て、その遺徳を偲んだ。

春藤 武平(しゅんどう ぶへい)
明治17年(1884)~昭和43年(1968)。玉野市八浜出身。塩業家。
明治32年(1899)、東児高等小学校卒業後15歳で東野﨑支店に入り、製塩技術の改良に取り組む。大正7年(1918)、34歳のとき野﨑台湾塩行で天日製塩法を実地研究。昭和元年(1926)東野﨑浜に枝条架濃縮設備を設置、改良。昭和9年(1934)には独特の枝条架式濃縮装置を考案、これを入浜式塩田の周囲に構築した。昭和19年(1944)、枝条架と斜層貫流を結合した流下式試験塩田を鉾立村番田に設け、企業化に成功。昭和33年(1958)には全国の塩田が流下式に転換、過酷な重労働の軽減と生産力の飛躍を達成した。昭和23~41年、内海塩業㈱取締役社長に就任。昭和40年勲五等双光旭日章を受賞。

北畠 謙三(きたばたけ けんぞう)
明治19年(1886)~昭和43年(1968)。玉野市山田の人。
幼にして漢学を学び、一生を通じ漢詩を愛読し自らもよく作詩を楽しんだ。明治40年(1907)、岡山師範学校を卒業、大正4年(1915)から山田小学校長に赴任。日夜勤務を続け、村をあげての教育に専念した。その後、村民より推されて村長の椅子に就く。在職11年の間、村財政の確立、交通運輸の改良、教育の充実に力を注いだ。著書に『岡山県古建築図録』、『山田村誌』、『東児社寺物語』、『玉野史跡社寺案内』等がある。太田地蔵堂北側に謙三氏が揮毫の動植物の霊を祀る有情供養塚がある。

野嶋 島叟(のじま とうそう)
明治21年(1889)~昭和49年(1974)。山田の人。書家・俳人。書道の号を島叟、俳号を島人と号す。
岡山中学校を卒業後、明治42年(1909)上海の東亜同文書院に学ぶ。卒業後、満州鉄道に勤務。佐藤助骨の影響で俳句を志し、大正13年(1924)渡辺水巴に入門。書は小学校時代から村田海石に学び、同文書院時代は初唐の書家・欧陽詢、北宋の書家・米芾らの書を学ぶ。拓本の収集に努め、六朝の造像記や摩崖碑によって開眼、多くの中国の文人と交流、清朝の遺臣・書家・鄭孝胥の健筆に刺激され書作に励み、独自の書風を作った。句集に『羽族』、『霧雨』などがある。

※本資料は、2010年山田まちづくり講座が作った資料「山田・東児地区ゆかりの歴史人物」を元に、たまの東街道イベント「東街道十三次探訪ラリー」の看板用として、編集したものである。

写真は、各人物に纏わる拠点の石標や建物である。

2012年1月3日火曜日

当作歩方制の本質

1月3日

今日は初始動で、瀬戸大橋CCの新年杯に出かけた。
パートナーの一人は、HC3の超ベテランで、彼にスイングの極意を聞いてみた。
彼によると、インパクトの瞬間に手の位置がアドレスした時の状態に戻るのだという。それに対して、サッキーの場合は、体が開いてしまっている(先に回ってしまっている)から、そこで球に当てようとすると、どうしても体が球から離れてトップしてしまう傾向にあるのだという。相当に練習しないと直らないのだろうが、今年も100を切るのに苦労するのかなー、、、

さて、今日も武左衛門の話の続きだが、今日は彼の残した優れた経営手法である「当作歩方制」についてだ。初めて聞いたときには、聞きなれない言葉で何のことかサッパリ分からなかったが、平たく言うと、自作農的小作請負制度とでもいうことであろう。頑張れば頑張っただけ収益が得られ、塩田の持ち主である武左衛門にもそれ相応の収益が来るという上手い考えの制度である。

当作歩方制の本質

野﨑丹斐太郎所有ニカカル入浜塩田経営ノ組織ハ、普通自作ノ如ク所有者ニ於テ直接製塩事業ノ衝ニ当ルコトナク、別ニ製塩事業ニ関シテハ浜店ト称スル特殊ノ機関ヲ設ケ、事業ノ管理・事業用品ノ供給及各浜ノ収支計算ヲ所管セシメ製塩作業ニハ当作人ヲシテ之ニ当タラシメ、毎塩戸当作人ヨリ小作料ヲ徴シ、製塩上必要ノ材料ハ浜店ヨリ供給シ、各浜毎ニ毎年度収支ノ決算ヲ行ヒ、其損益ハ当作人之ヲ負担シ、浜店勘定ノ収支決算ノ結果ヲ野﨑本店ノ計算ニ移シ、尚各塩戸ノ純損益ハ一定ノ歩合ニヨリ地主及当作人之ヲ分担スルノ組織ナリ
(右のように指摘した経営組織が「当作歩方制」であり、野﨑家自体はその当作歩方制の本質を次のように評価していた。)
本経営ノ本質ハ単ニ製塩免許ヲ地主ノ有スルコトヲ以テ自作ナリト断スル能ハサルト同時ニ、定額ノ小作料ヲ納ムルノ所以ヲ以テ直ニ小作制ナリト判定スル能ハス、能ク其ノ経営ノ沿革及実態ヲ考査スルニ、正ニ自作ト小作ヲ折衷シタル特種ノ形態ニシテ両者ノ長ヲ採リ短ヲ去リ能ク之ヲ調和シタル制度ナリト謂フベシ、即チ農家経済上ニ所謂分益農ニ類セルモノニシテ分益共作制度ト謂フベキカ

(※)「塩業に関する諸取調」(明治31年)、「野﨑式塩業之大要」(明治末年)

今では、企業側と労働者側は互いにWIN-WINの関係というのは当たり前のことであるが、当時としては画期的なことだったのであろう。何事も時代の先端を切ってやることは、成功の秘訣なのかも。


東野﨑浜に連なる遺構の説明とそのポイントを示したマップを紹介する。
かつての浜子たちは、これら遺構を使いながら塩の製造にかかっていたのだ。

2012年1月2日月曜日

東野﨑浜の構造

1月2日

今年は、静かで穏やかな正月を迎えた。

昨年、未曾有の大震災と原発事故で、東北地方は大変な目に遭ったが、日本人の生き方・考え方を根本から変えるような出来事だった。
便利・豊かさ・効率、そこまではまだよかったが、それを超えて、欲得・身勝手・無責任、そういったものが日本中を覆っていたように思う。
地震そのものは、自然災害だから仕方ないとしても、その後の原発事故とその対応は、人災としか言いようのないことが続いた。
このような事故が現実に起こるということを予想していた人はどれだけ居たのか?
恐らく居るには居たんだと思うが、そのような正しいこと(恐ろしいこと)をいう人は体制から遠ざけられたのだろう。だから、そのような人の声は、一般の人の耳に入ることはなかった。
「原発は安全である」という神話を、日本の大多数の人は信じさせられていた。そして、多くの人が利権に群がり、天下り組織を作り、保身のための事勿れ主義が世の中を狂わせた。今も尚、その腐れた体制が幅を利かせている。早く真にあるべき姿にしなければならない。

真実を知ること、真実を伝えること、それは最も大事なことだと思う。
そして、そのための努力をすることは、尊いことである。

さて、サッキータイムでは、「自啓不止」をモットーに、自分自身の生き方・活動のありようや成り行き、学んできたこと・これから学ぼうとすることなどを紹介している。学びは、自分自身のものになるまで咀嚼してこそ人に納得してもらえる言葉になる。今年も、できるだけそのような心がけで、人にも自分にも納得できる言葉を探して行きたい。


今日は、太田先生に学んだ東野﨑浜の構造(『大日本塩業全書』より)について紹介する。

(1) 1軒前の規模:東野﨑分38軒前の場合は1軒前1町9反歩、胸上・西田井地分は2町6反歩と大きい。

(2) 堤防の構造:二重の石提により堅固である。

(3) 塩田地盤の構造:塩田地盤の下層は潮流によって埋堆した土砂、中層は塩田開発当時に埋立てた河川の底土と海底土砂の混同したもの、上層は海底の細砂五分を混合した微青黒色の細砂2寸5分の厚みのもので、粘土弱く毛細管引力に富んでいる。

(4) 撒砂(鹹砂):撒砂は、児島郡番田地方の海底の細砂(入替土と方言でいう)を採集し、船積みにて撒砂貯蔵場に運搬し、後1年経過したもの6分と、備前吉井川の細砂(西大寺砂又は河砂と方言でいう)4分を混合して使用する。鹹水の良否は、入替土が河砂より多ければ鹹水の比重が高まる傾向が認められる。また鹹水濾出は入替土と河砂との混合歩合によって遅速が認められる。すなわち、入替土が多ければ濾出のとき沼井中にて粘って泥状となり遅く、河砂多ければこれに反して濾出が速やかである。撒砂散布量は水分の多少によって差異があるが、晩春より夏季は撒布多量、冬季は少なく、初春及び秋季はその中間で一反当たり容量5石5斗(重量にして170貫目)である。替砂は1年1回これを行う(6月中旬に入替土4石5斗、河砂3石を混合してまく)。塩田撒砂(塩田作業)は雨天多き時は替持作業、晴天続く時は三持ち作業を行う。

(5) 沼井(台)の構造:台の松板をもって囲みたる面に接近して地盤を掘り、これに深さ1尺5寸、長さ2尺3寸、幅1尺4寸の楕円形の槽(容量4斗5升)を埋め込み、沼井の前面に力木(直径2寸、長3尺2寸)の松木を置き、その周囲を粘土をもって叩き上げ、台の底部の小穴より鹹水の流入するようになっている。塩田1軒前の1か年平均鹹水採収量は6,240石をみている。また年間の採鹹日数は160日、準備引浜は145日をみている。

(6) 煎熬釜及び使用燃料:煎熬釜は従来石釜を使用していたが、明治10年(1877)前後ころより一部鉄釜の導入を試みたが、竃の構造は別に変化なく、また燃料も松葉・松割木より石炭利用に移行(安政年間に)したが、竃の構造に変化は生じていない。一年間の平均煎熬日数は250日、平均収塩量は2,400石をみている。石釜より鉄釜への移行によって、釜の新調費は大いに減少し、また1軒前当り年間300円(一軒前塩生産2,000石について10万斤の石炭代)の石炭節約が可能になった(※1)。なお鉄釜は味野村鍛冶職・山本与吉が製造した。
安政年間に導入した石炭は肥前産の粉炭(瓢桐又は大加勢と呼称)7分と長門産の塊炭(長陽と呼称)3分を混合して使用した。

(※1)「塩業に関する諸取調」(明治31年9月)


平成8年4月、ナイカイ塩業㈱の主催で、東野﨑浜塩田跡地の一部に鎮守の森づくり植樹祭が行われた。浜山と名付けられた小高い丘に多くの人が植樹を楽しんだ。植樹が終った後、山田小学校児童による浜子唄のライブ合唱を聞いた。

昨年から、広大な東野﨑浜塩田跡地に太陽光発電の基地作りを行う話があるようだ。原子力という人の管理能力を超えるエネルギー源ではなく、太陽光という自然(再生可能)エネルギーを使うという発電方式は、これからの人間の生活に絶対的に必要になるものだろう。
再生可能エネルギーの推進は、サッキー自身の今年のテーマにしてもいいと思う。

2012年1月1日日曜日

野﨑武左衛門の遺訓七か条

2012年1月1日

新しい年を迎え、心も新たに今年1年どう過ごしてゆくか考えてみる。
今年もやることの多い年になりそうだが、一つ一つ片付けるだけである。
ただ、夫々のタイミング(納期)というものがあるので、時期を失しないよう心がけてやるのが大事なこと。

今年初めは、塩づくりの里・山田の冊子とマップ作りの手伝いである。
そこで、年初めの今日は、東野﨑浜塩田を開墾した野﨑武左衛門の遺訓七か条を紹介する。これは、昨年、太田健一先生の記念講演で頂いた資料である。
内容は、野﨑武左衛門が目指した経営の根幹を示すものである。

質素倹約を旨とする中にも、公のためには出来るだけのことをやるべしという教えである。中でも凄いと思ったのは、新たなプロジェクトを企画するときは、社員(メンバー)の意見をよく聴き、良く議論するようにと諭していることである。ゆめゆめ最初から社長(トップ)の意見を言うべきではないと言っているのだ。
最初にトップの計画を出してしまうと、部下は何も言えなくなり、もし間違いがあったときには取り返しのつかないことになるということなのだろう。正に的を射た見解である。
オリンパスの損失隠し問題や大王製紙御曹司の不祥事など、この教えを守っていれば絶対に起こることのない事件である。


松寿院野﨑翁遺訓

一.身代は一種の産のみ託せおくべからず。
吾家の如きは塩田・田地・永納の三種に分かつべし。かく分ち置くときは天災・凶作・変乱等にあふとも、三種の中執れか安穏に保つことを得べき理なり。平常の生計は身代の三分の一と心得たらんには危なきことなかるべし

一.新なる事業を企て財利を得んとする計画はなすべからず。ただ固有の身代を減らすさじと心懸くれば自然増殖するものぞ

一.無益と思ふわざには、つとめて金銭を費やさざるやう心懸くべし、公共の利益あることにはいささかも吝(オシ)むべからず

一.家屋を建築せんとする時は、先ず他日に取毀ち易く、売却するにも便利ならんことをかねて考へおくべし。又後々修繕するに費え少なきやうに心を用ふべし

一.身代少しにても不如意とならば、世間に隠しだてをせずして速に仕法を立つべし。その仕法はまづ家屋を縮むべし。縮めかたは、第一に表座敷、次に中座敷といふ如く大にして必用ならざる建物より漸々に毀ちて売却すべし。それにても仕法立ち難くば、家業の妨けなき限りの諸道具を売却すべし。人の目にも立ち、己の心も改まらん程にせば、などか身代の立直らぬことのあるべき。かくなしてもなほ見込みたたざらんには永納に及ぼし、最後に下田より中田と次第に売却すべし。良田は己が身命と思ひて手をつくべからず

一.一家の主人たるものは好き嫌ひのなきやうに慎むべし。好き嫌いひは偏頗を生する本ぞかし。多くの人を召使ふ身は別けて心得べきことなり

一.新規なる事がらにあひたる時、又はこみ入りしことにて思案にあまれる時は、一家親類をはじめ、召使ひの重立ちたる者にまで能く相談して、広く衆論を聞き、さてこれを決断すべし。己の所存を先きには陳ぶべからず。

右の条々は子々孫々に伝へて常に大切に之を守り、家名を堕とさざるやう心懸くべきもの也。

    遺しおく教まもらば生(ウミ)の子の
          ちよに八千代に家は栄えん

           元治元年甲子八月
                 野﨑武左衛門

                       (『備前児島野﨑家の研究』より)


この遺訓もこれから作る冊子の中に収めてもいいかもしれない。

ところで、創業183年を迎えるナイカイ塩業㈱は、この教えを固く守ってきているのだろうか。
調べてみると、時代の流れとともに、今は塩田(製塩業)のみを継続している。
永納(大名への金銭貸し)は明治維新でなくし、田地は先の大戦終戦後の農地改革でなくしてしまった。武左衛門が残した遺産三つのうち一つしか残らなかったのである。
しかし、同社の経営理念を見ると
一.人材の育成に努め不滅の企業体質をつくる
一.優れた技術と品質で日本のナイカイになる
一.常に原価意識を持ちその低減に努める
一.一体感を持ち活力ある明るい職場をつくる
一.企業活動を通して社会に貢献する
となっており、初代社長である野﨑武左衛門の遺訓が脈々と生きていると見た。

この写真は、創業者野﨑武左衛門の肖像画である。
後閑から山田に抜ける峠・鳥打峠近くの山から望む広大な東野﨑浜塩田跡地と、その向うにナイカイ塩業㈱の工場群が見える。