1月4日
昨年11月12&13日に開催した「東街道十三次探訪ラリー」で採り上げた13人のプロフィールを紹介する。ラリーの拠点となった13ヶ所に設置した看板の原稿である。
夫々の人たちは、各時代にこの地区に影響を残されたが、共通しているのは、みなよく勉強され周りの人たちにそれを教導されているということだ。
教導などということは中々できない業だが、勉強だけなら誰でもできる。今年は、より以上に勉強の年にしたいものだ。
増吽僧正(ぞううん そうじょう)
室町時代の僧侶。貞治5年(1366)に讃岐国大川郡与田村に生まれ、幼時から神童の誉が高かった。
与田寺で研鑽を重ね法印の位を得た後、高野山に上って真言の秘奥を極めた。その後、僧正の位に進んだが、後年その地位や名誉を捨て諸国の寺院の復興に尽力した。由加の蓮台寺、八浜の金剛寺、日比の観音院などを復興しては弟子に任せ、最後に山田の無動院の復興に尽くしていたが、遂に死期を予期して入定したといわれ、その入定の石棺が無動院に残されている。東児地方に於ける真言宗寺院が輪番で毎年一回開く聴聞などもこの増吽の創始にかかるものである。
高心(こうしん)
南朝の武将。高心は南北朝の時期の南朝の武将。
楠木正儀(マサナリ)に仕えたが、直島に隠棲した後西湖寺に転居、風月を友として余生を楽しむ傍ら、近在の人々を教化しこの地で没したとされる。墓は砂岩製で高さ2.4m、珍しい形式の笠塔婆として注目される。又、高心の没年の至徳は北朝の年号である。これについては諸説あるが、南北朝末期北朝の世になり南朝の人間であることを隠したためであるとか、主君の楠木正儀が北朝に帰順したことがあるためとも言われている。高心の墓は、昭和34年(1959)3月、岡山県指定重要文化財に指定された。
石川 善右衛門(いしかわ ぜんえもん)
慶長12年(1607)~寛文年(1669)。岡山藩の郡奉行・普請奉行。
父は慶長8年(1603)備前で池田利隆に召し出されて仕えたが、その後国替えで因州鳥取へ移る。備前国で生まれた善右衛門は、寛永9年(1632)再び備前岡山に帰る。寛永19年(1642)に児島郡の郡奉行になり、幕府に差し出す絵図の作成に携わる。その後普請奉行となり、明暦2年(1656)在来の池を拡張して木見の森池を造る他、長尾の天王池等、郡内の多くの溜池を築造、改修した。山田の牛石池、二子池を造り、寛文4年(1664)には大池の拡張工事を行う。文化3年(1806)瑜伽大権現の境内に頌徳碑が建つ。
野﨑 武左衛門(のざき ぶざえもん)
寛政1年(1789)~元治1年(1864)。倉敷市児島味野の人。塩田・新田開発者。塩田王と呼ばれる。
文政9年(1826)頃、塩田開発を決意、文政11年(1828)味野村と赤崎村に約48haの元野﨑浜を完成。続いて日比地区に11ha余の亀浜塩田を完成。その後、東児島の海浜に着目、天保12年(1841)73ha余の東野﨑浜を完成した。嘉永4年(1851)には、藩命による703ha余の福田新田開発に成功、福田新田5ケ村大庄屋役を拝命した。武左衛門の塩田経営で特筆すべきは、当作歩方制を採用し、全塩田を直営化して経営の効率を上げ、安定した塩田・耕地経営を行ったことである。元治元年(1864)死去に際して遺した「申置」7ヵ条は、家産管理と運営、地域との共生等について公利優先・衆議尊重等の指針を示した。
西井 多吉(にしい たきち)
文化12年(1815)~明治32年(1899)。倉敷市の人。児島、野﨑家家僕。
15歳から児島郡味野村の塩田王野﨑武左衛門・武吉郎の二代に67年間にわたって仕え、福田新田の開発や塩田の開発、塩田経営や小作地管理に手腕をふるい、野﨑家を西日本随一の塩田地主・耕地地主に飛躍させた。明治26年(1893)その功により緑綬褒章が下賜された。
荻野 独園(おぎの どくおん)
文政2年(1819)~明治28年(1895)。玉野市下山坂出身。
幕末~明治時代の臨済宗の高僧・京都相国寺住職。文政9年(1826)8歳にして児島郡郡村の叔父掌善寺鎮州の弟子となり、13歳の時、出家。元規と称した。天保7年(1836)18歳のとき儒学を学ぶ。同12年(1841)臨済禅を学び、安政3年(1856)心華院住職、明治2年(1869)相国寺住職に就任。明治5年(1872)、教部省が置かれ神仏合併大教院設置の折、教導職に就任。さらに大教院長、又臨済・曽洞・黄檗3宗の総管長に任じられた。明治23年(1890)72歳の時『近世禅林僧宝伝』を上梓。明治27年(1894)退いて京都東山銀閣寺に自適。昭和54年(1979)、出身地の玉野市上山坂に顕彰碑が建立された。
伊藤 立斎(いとう りっさい)
文政5年(1822)~明治18年(1855)。倉敷市玉島勇崎出身。
医者となって名声をあげた。明治初年、児島郡山田村有志の要請を受け、家を長男に譲って同村に移住、歓迎された。医業の傍ら、地元子弟に四書五経或いは習字などを教えた。明治6年(1873)、山田小学校の雇助教に任ぜられたが、翌年5月職を辞し、以後もっぱら医業に従った。「医は仁術なり」との姿勢で、村人の尊崇を受けた。墓石銘が白石宝殿場にある。
三宅 三郎(みやけ さぶろう)
天保13年(1842)~明治19年(1886)。玉野市山田出身。岡山藩の勤王家。
安政4年(1857)から山田村名主代勤となり、文久3年(1863)まで勤めた。この間、醬油醸造や穀物商、塩田経営を行った。その一方、尊皇の志が厚く、岡山藩の尊攘派指導者牧野権六郎らと交わり、慶応3年(1867)には、牧野とともに上京して大政奉還を実現する活動に協力して働いた。11月に帰藩、休養していたとき、村民による東野﨑塩田益米の増額要求が起こり、野﨑家と地元の仲介役を引き受けたりしたが、その後、岡山県の警察関係の官吏に採用され山田村を去った。墓石銘が白石宝殿場にある。
東 作平(ひがし さくへい)
弘化4(1847)~昭和4年(1929)。玉野市後閑の人。
東氏9代作平は、16歳で大薮・後閑の名主となり、明治維新とともに戸長となった。明治10年(1867)には鉾立・山田・胸上・波知等14ケ村の戸長を勤める。教育熱心で明治7年後閑小学校を創立、同12~20年、名誉校長として子弟の訓導に当たる。町村制施行後、郡会議員・村会議員等を勤め、又所得税調査委員・徴兵参事官・済世顧問等、政治に携わること50年、この間至誠を以て貫いた。号を西湖と称し、書画を嗜み、謡曲に堪能だった。又、若くして剣を学び、その技は近郷に聞こえていた。鳥打峠の出崎入口の所に、開鑿記念として大正5年(1916)に作平氏が建てた石標がある。
岡 武三郎(おか たけさぶろう)
安政5年(1858)~明治37年(1904)。岡山市出身。教育者。
読書を好み温知学校(岡山県師範学校の前身)を卒業して、明治8年(1875)、山田村の四十九番小学校に赴任、同13年(1880)無動院山に校舎が新築され養才小学校と改称された。同34年(1901)には同尋常小学校の校長に就任。翌年、校舎が現在の山田小学校に移転されたが、明治37年(1904)現職のまま46歳で病死した。教師在任中、山田、胸上に青年夜学会を設け、20余年毎宵出掛けた。明治45年(1912)教え子たちは、元の小学校のあった無動院山に石碑を建て、その遺徳を偲んだ。
春藤 武平(しゅんどう ぶへい)
明治17年(1884)~昭和43年(1968)。玉野市八浜出身。塩業家。
明治32年(1899)、東児高等小学校卒業後15歳で東野﨑支店に入り、製塩技術の改良に取り組む。大正7年(1918)、34歳のとき野﨑台湾塩行で天日製塩法を実地研究。昭和元年(1926)東野﨑浜に枝条架濃縮設備を設置、改良。昭和9年(1934)には独特の枝条架式濃縮装置を考案、これを入浜式塩田の周囲に構築した。昭和19年(1944)、枝条架と斜層貫流を結合した流下式試験塩田を鉾立村番田に設け、企業化に成功。昭和33年(1958)には全国の塩田が流下式に転換、過酷な重労働の軽減と生産力の飛躍を達成した。昭和23~41年、内海塩業㈱取締役社長に就任。昭和40年勲五等双光旭日章を受賞。
北畠 謙三(きたばたけ けんぞう)
明治19年(1886)~昭和43年(1968)。玉野市山田の人。
幼にして漢学を学び、一生を通じ漢詩を愛読し自らもよく作詩を楽しんだ。明治40年(1907)、岡山師範学校を卒業、大正4年(1915)から山田小学校長に赴任。日夜勤務を続け、村をあげての教育に専念した。その後、村民より推されて村長の椅子に就く。在職11年の間、村財政の確立、交通運輸の改良、教育の充実に力を注いだ。著書に『岡山県古建築図録』、『山田村誌』、『東児社寺物語』、『玉野史跡社寺案内』等がある。太田地蔵堂北側に謙三氏が揮毫の動植物の霊を祀る有情供養塚がある。
野嶋 島叟(のじま とうそう)
明治21年(1889)~昭和49年(1974)。山田の人。書家・俳人。書道の号を島叟、俳号を島人と号す。
岡山中学校を卒業後、明治42年(1909)上海の東亜同文書院に学ぶ。卒業後、満州鉄道に勤務。佐藤助骨の影響で俳句を志し、大正13年(1924)渡辺水巴に入門。書は小学校時代から村田海石に学び、同文書院時代は初唐の書家・欧陽詢、北宋の書家・米芾らの書を学ぶ。拓本の収集に努め、六朝の造像記や摩崖碑によって開眼、多くの中国の文人と交流、清朝の遺臣・書家・鄭孝胥の健筆に刺激され書作に励み、独自の書風を作った。句集に『羽族』、『霧雨』などがある。
※本資料は、2010年山田まちづくり講座が作った資料「山田・東児地区ゆかりの歴史人物」を元に、たまの東街道イベント「東街道十三次探訪ラリー」の看板用として、編集したものである。
写真は、各人物に纏わる拠点の石標や建物である。
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