1月22日
今年の経営方針に挙げた「相手を思いやるやさしさ、自分を律する強い心」について、その意味を考えてみることとした。
先ず人が生きる目的について考えてみる。このことについては、古来、哲学者や宗教の教祖などが色んなことを言っている。というか、言っているのではないかと思う。それらの内容を詳しく語ることはできないが、ここまで生きてきた経験から、こんなことではないのかなという自分なりの思いはある。
誰も、自らの意志でこの世に生まれてきた者はいない。人は自ら命を絶つ以外、自然に或いは偶然に死ぬ日まで生き続けるのだ。つまり、人は生まれた以上生き続けなければならない宿命を負っている。そうであるとするなら、死の床で「生まれてきてよかった。」と思える一生を送りたいと願うのは、自然な思いだろう。その実現こそが生きる目的ではないかと思う。別の言葉で言うと、「生きがい」ということか。
では、「生まれてきてよかった」という思いを心の底から感じられるのは、いったいどこから来るのか?
その極めつきは、ビリビリするような或いは感涙にむせぶような「感動」ではないだろうか。その中でも特に、困難を乗り越えて目標を達成したときの喜びから来る感動、これに勝るものはないと思う。その達成感を、仕事を通じて味わうことができれば、それこそが最高の喜びだろう。つまり、人が生きる目的は、①「感動を味わう」こと、②「仕事の達成を通じて世のため人のために役立つ」こと、の二つだと思う。
人は本来、そのような感動を味わいたいと願っている。だから、何も経営方針など立てなくても、夫々が夫々の立場で最善を尽くせば、うまく回って感動が得られるのだと思う。ところが、人夫々に生まれも違えば育ちも違う。学んできた地域や経験した職場環境など千差万別だ。組織を構成する人は、夫々が色んな考えを持っている。中には自分を犠牲にしてまで尽くす奇特な人もいれば、自分さえよければ他人のことなどどうでもいいと思うエゴイストもいる。そのような様々な考えを持つ人たちの集団(組織)を一つにまとめてあるべき方向に導くのが、「経営方針」という旗であり羅針盤である。
今年の経営方針を達成することができれば、きっと皆さん喜ぶと思うし、職場間に感じられる何とはなしの軋轢も解消するだろう。結果として収益増に繋がれば言うことない。
果実は、楽をしては得られない。楽をして嬉しいことはなく、自分さえよければ楽しいということもない。目標達成という大きな果実を得るには、苦労はつきもの。苦労が大きければ大きいほど達成できたときの喜びは大きいものだ。
北京オリンピックで優勝した北島康介は言った。「何も言えネェ!」。最盛期を過ぎても達成感は残る。引退した女子マラソンの高橋尚子は言った。「完全燃焼でさわやかな気持ちです。」
今年は一つ、「やさしさと、強い心」で苦労してみよう。きっと何かが見えてくる。
スケールが全く違うが、昨日アメリカ大統領に就任したオバマさんも、国のために一緒に苦労して欲しいというような意味のことを言っていた。根っこは皆同じだなとつくづく思う。
2009年1月22日木曜日
2009年1月18日日曜日
サッキータイム ~宮総代とは?~
1月18日
神社は、氏子がいてその協力や募金などがあって成り立っている。氏子は、その神社から安全安心のお蔭を頂き、精神的な平穏を感謝する。神社と氏子とは、基本的にはそのような持ちつ持たれつの関係なのだろう。宮総代というのは、その氏子の代表であって、一般に町内でも相応の年齢を重ねた町の有志が受ける役割というのが相場である。
昔ながらの土地柄だと氏子総代になれる者は必然的に決まってくるのだろうが、新興団地などでは中々難しい面があるようだ。だから、自治会組織を何とか使ってというようなことになったのだが、これには熱心な宗教団体に属している者から見ると、おかしいではないかと文句の一つも言いたくなるものらしい。特に秋祭り前にお願いしているお初穂料の集金とか年末のお札の販売を、高齢化した宮総代の代わりに自治会役員がやるということになると、愈々難しいことを言われることが多いようだ。
そんな背景があって、我が団地においてもその議論が出ることとなった。宮総代の業務は自治会がやるのではなく、宮総代組織を充実させてでも宮総代がやるべきだろうという意見が圧倒的だ。多分それが正解だと思う。自治会長としては、全体をその方向に誘導し、うまく事を運ぶのが仕事なのだろう。
自治会の行事として定着している秋祭りは、秋の収穫を神に感謝し、その初穂を奉納して祝うのが元々の起こりであるから、神社と氏子全体のお祭りである。ところが今では、町の賑わい、子供達への思い出作りといったイベント的色彩が圧倒的に強い。でも、秋祭り前に行っている、神社に奉納する御初穂の集金はというと、宗教的行為かなーということになる。
つまり、常識的に見て宗教的色彩の濃いものは総代の仕事、そうでないものは自治会の仕事と割り切ってやろうということが、自治会役員の総意ということのようだ。宮総代の方たち、この結論をどう感じられるだろうか?
神社は、氏子がいてその協力や募金などがあって成り立っている。氏子は、その神社から安全安心のお蔭を頂き、精神的な平穏を感謝する。神社と氏子とは、基本的にはそのような持ちつ持たれつの関係なのだろう。宮総代というのは、その氏子の代表であって、一般に町内でも相応の年齢を重ねた町の有志が受ける役割というのが相場である。
昔ながらの土地柄だと氏子総代になれる者は必然的に決まってくるのだろうが、新興団地などでは中々難しい面があるようだ。だから、自治会組織を何とか使ってというようなことになったのだが、これには熱心な宗教団体に属している者から見ると、おかしいではないかと文句の一つも言いたくなるものらしい。特に秋祭り前にお願いしているお初穂料の集金とか年末のお札の販売を、高齢化した宮総代の代わりに自治会役員がやるということになると、愈々難しいことを言われることが多いようだ。
そんな背景があって、我が団地においてもその議論が出ることとなった。宮総代の業務は自治会がやるのではなく、宮総代組織を充実させてでも宮総代がやるべきだろうという意見が圧倒的だ。多分それが正解だと思う。自治会長としては、全体をその方向に誘導し、うまく事を運ぶのが仕事なのだろう。
自治会の行事として定着している秋祭りは、秋の収穫を神に感謝し、その初穂を奉納して祝うのが元々の起こりであるから、神社と氏子全体のお祭りである。ところが今では、町の賑わい、子供達への思い出作りといったイベント的色彩が圧倒的に強い。でも、秋祭り前に行っている、神社に奉納する御初穂の集金はというと、宗教的行為かなーということになる。
つまり、常識的に見て宗教的色彩の濃いものは総代の仕事、そうでないものは自治会の仕事と割り切ってやろうということが、自治会役員の総意ということのようだ。宮総代の方たち、この結論をどう感じられるだろうか?
2009年1月16日金曜日
サッキータイム ~定額給付金を思う~
1月16日
例年になく初出の5日から始まった国会だが、麻生総理が第2次補正予算の超目玉として2兆円もの大金を投じて実施しようとしている定額給付金を巡って大荒れだ。遂に渡辺喜美氏は離党するし、自民党からまさかの造反者まで出た。そこでサッキーも、いつものBLOGの内容と違う話題だが、この定額給付金について考えてみることにした。
先ずは給付金の額。新聞には、一人12,000円、65歳以上の高齢者と18歳以下の年少者には+8,000円つまり20,000円と書かれていた。今年度中に何とか国会を通過したとして、貰えることになった給付金、貯えの足しにするか、高級松阪牛でも食べに行くか、みんなどうされるんだろう?
麻生総理は当初、低所得者への生活支援と言って、「高額所得者が貰うのはさもしい。」とか、「貰わないのが普通で、それは矜持の問題だ。」とか言っていたが、今は「景気刺激策なんだからみんな貰って当然。是非貰ってもらいたい。」などと平気で言っている。しかも自分自身は「貰うか貰わないかまだ決めていない。」と言うんでは、この政策に自身のない証拠ではないだろうか?
今回の給付金、元は税金である。長い時間と高い経費を使って各個人から集めた税金を、再び長い時間と高い経費を使って各個人に戻すという、そのこと自体が全くナンセンスである。税金というのは、大きなお金で最も効果的な使い方をして初めて意味あるものとなる。そのために集めているのであって、今回の政策は、全くその根本を無視した愚作でしかない。言葉は悪いが、「馬っ鹿みたい!」としか言いようがない。きっと多くの人がそう思うに違いない。
2兆円あれば、喫緊の大問題である雇用対策、疲弊した医療・福祉対策、急がれるべき学校などの耐震化対策工事など、かなりのことが前倒しでできるはずだ。細切れにした僅かなお金を国民にばら撒いて1票を稼ごうという、それこそさもしい根性が見え見えだから、多くの国民の支持を得ることができないのだと思う。字もまともに読めない、高潔な政治信条の持ち合わせもまるで感じられないような人が一国の宰相だなんて、日本国民の一人として恥ずかしい限りだ。オバマさんではないけど、今こそ“CHANGE”が必要なのではないだろうか。
例年になく初出の5日から始まった国会だが、麻生総理が第2次補正予算の超目玉として2兆円もの大金を投じて実施しようとしている定額給付金を巡って大荒れだ。遂に渡辺喜美氏は離党するし、自民党からまさかの造反者まで出た。そこでサッキーも、いつものBLOGの内容と違う話題だが、この定額給付金について考えてみることにした。
先ずは給付金の額。新聞には、一人12,000円、65歳以上の高齢者と18歳以下の年少者には+8,000円つまり20,000円と書かれていた。今年度中に何とか国会を通過したとして、貰えることになった給付金、貯えの足しにするか、高級松阪牛でも食べに行くか、みんなどうされるんだろう?
麻生総理は当初、低所得者への生活支援と言って、「高額所得者が貰うのはさもしい。」とか、「貰わないのが普通で、それは矜持の問題だ。」とか言っていたが、今は「景気刺激策なんだからみんな貰って当然。是非貰ってもらいたい。」などと平気で言っている。しかも自分自身は「貰うか貰わないかまだ決めていない。」と言うんでは、この政策に自身のない証拠ではないだろうか?
今回の給付金、元は税金である。長い時間と高い経費を使って各個人から集めた税金を、再び長い時間と高い経費を使って各個人に戻すという、そのこと自体が全くナンセンスである。税金というのは、大きなお金で最も効果的な使い方をして初めて意味あるものとなる。そのために集めているのであって、今回の政策は、全くその根本を無視した愚作でしかない。言葉は悪いが、「馬っ鹿みたい!」としか言いようがない。きっと多くの人がそう思うに違いない。
2兆円あれば、喫緊の大問題である雇用対策、疲弊した医療・福祉対策、急がれるべき学校などの耐震化対策工事など、かなりのことが前倒しでできるはずだ。細切れにした僅かなお金を国民にばら撒いて1票を稼ごうという、それこそさもしい根性が見え見えだから、多くの国民の支持を得ることができないのだと思う。字もまともに読めない、高潔な政治信条の持ち合わせもまるで感じられないような人が一国の宰相だなんて、日本国民の一人として恥ずかしい限りだ。オバマさんではないけど、今こそ“CHANGE”が必要なのではないだろうか。
2009年1月15日木曜日
サッキータイム ~狂言ワークショップ~
1月10日(土)
今年、玉野市山田では「塩」に関する創作狂言をやる方向で、全てが動いている。
話によると大蔵流で200演目、和泉流で250演目くらいの狂言があるというが、その中に塩を扱った狂言が一つもないということらしいのだ。だから、塩を扱った新作狂言ができるのは、狂言界にとっても面白いことなのかもしれない。
正月早々、「狂言めでた尽くし」というタイトルの狂言鑑賞会が開催された。その前日、同じ演目の狂言を体験するワークショップがあるというので、参加することにした。タイトルは、~太郎冠者になってみよう~ということで、「蝸牛」という演目の一部を体験することができた。
先ずは歩き方の稽古から。腰骨の前に手を当て、腰を少し落とし、摺り足で歩く。頭は上下せず、目は真っ直ぐ前を見て歩く。右に曲がるときは、左足を右足の前に乗せ、90度右を向いて歩く。左に曲がるときはその逆だ。歩くことが一人前にできると、狂言もほぼ一人前というから、正確に狂言の歩き方で歩けるようになるには、数年掛かるのだろうか?結構足腰を使うハードな歩き方だ。
「蝸牛」の開幕は、山伏の登場からのようだが、初心者には難しいということで、主人と太郎冠者の登場から稽古を始めた。台詞を全部喋るのは長過ぎることから、次に示す部分だけ。
主人「ヤイヤイ太郎冠者、居るかいやい。」
太郎「ハアーッ」
主人「居たか。」
太郎「お前に居りまする。」
たったこれだけのことだが、その立ち居振る舞いまでちゃんとやろうとすると中々難しい。実際、太郎の役をやったら、「ここに居りまする。」と簡単な台詞まで間違えた。
カタツムリが良く住む場所である藪に入るときの入り方。山伏に騙された太郎冠者が、囃子歌を歌うときの舞。夫々の動きに型があって、型通りに動くのも中々難儀である。囃子歌の文句が面白いので紹介しておこう。
♪ハア-ッ、雨も風も吹かぬに、出な釜打ち割ろう、出な釜打ち割ろう。
♪でんでん虫々、でんでん虫々、でんでん虫々。
文句もそうだが、その動きの滑稽さは、見た者でないと理解しづらい面があるだろう。兎も角狂言は面白い。しかし、動きを会得するには、かなりの年月が必要な気がする。
11日には、プロの狂言師による「蝸牛」と「昆布売」を楽しんだ。いい写真が撮れたのに、何故かCFカードがやられてしまって全く取り込めなくなった。まことに残念!
いずれにしても、何とか塩の創作狂言に結び付けたいものだ。
今年、玉野市山田では「塩」に関する創作狂言をやる方向で、全てが動いている。
話によると大蔵流で200演目、和泉流で250演目くらいの狂言があるというが、その中に塩を扱った狂言が一つもないということらしいのだ。だから、塩を扱った新作狂言ができるのは、狂言界にとっても面白いことなのかもしれない。
正月早々、「狂言めでた尽くし」というタイトルの狂言鑑賞会が開催された。その前日、同じ演目の狂言を体験するワークショップがあるというので、参加することにした。タイトルは、~太郎冠者になってみよう~ということで、「蝸牛」という演目の一部を体験することができた。
先ずは歩き方の稽古から。腰骨の前に手を当て、腰を少し落とし、摺り足で歩く。頭は上下せず、目は真っ直ぐ前を見て歩く。右に曲がるときは、左足を右足の前に乗せ、90度右を向いて歩く。左に曲がるときはその逆だ。歩くことが一人前にできると、狂言もほぼ一人前というから、正確に狂言の歩き方で歩けるようになるには、数年掛かるのだろうか?結構足腰を使うハードな歩き方だ。
「蝸牛」の開幕は、山伏の登場からのようだが、初心者には難しいということで、主人と太郎冠者の登場から稽古を始めた。台詞を全部喋るのは長過ぎることから、次に示す部分だけ。
主人「ヤイヤイ太郎冠者、居るかいやい。」
太郎「ハアーッ」
主人「居たか。」
太郎「お前に居りまする。」
たったこれだけのことだが、その立ち居振る舞いまでちゃんとやろうとすると中々難しい。実際、太郎の役をやったら、「ここに居りまする。」と簡単な台詞まで間違えた。
カタツムリが良く住む場所である藪に入るときの入り方。山伏に騙された太郎冠者が、囃子歌を歌うときの舞。夫々の動きに型があって、型通りに動くのも中々難儀である。囃子歌の文句が面白いので紹介しておこう。
♪ハア-ッ、雨も風も吹かぬに、出な釜打ち割ろう、出な釜打ち割ろう。
♪でんでん虫々、でんでん虫々、でんでん虫々。
文句もそうだが、その動きの滑稽さは、見た者でないと理解しづらい面があるだろう。兎も角狂言は面白い。しかし、動きを会得するには、かなりの年月が必要な気がする。
11日には、プロの狂言師による「蝸牛」と「昆布売」を楽しんだ。いい写真が撮れたのに、何故かCFカードがやられてしまって全く取り込めなくなった。まことに残念!
いずれにしても、何とか塩の創作狂言に結び付けたいものだ。
2009年1月4日日曜日
サッキータイム ~家族勢揃い~
2009年1月1日木曜日
サッキータイム ~1年の計~
1月1日(木)元旦
「1年の計は元旦にあり」という。
今年1年、どんな年になるか?はたまた、どんな年にするか?
昨年後半からアメリカ発金融不安を発端にした、世界のピープルによる自動車の買い控えによって、自動車業界とそれを取り巻くあらゆる産業がどん底に陥り、先の読めない不況に突入している。今回の不況は地球的規模で同じ状況にあるため、好況とは言えない日本円が独歩高となり、輸出産業は軒並み大幅な減益を余儀なくされている。つい最近まで好況といわれていた造船業界も、大量の受注残を抱えてはいるものの、キャンセルが相次ぐといった厳しい状況に落ち込むこともないとは言えない。
好不況に余り左右されないといわれる医療界や芸術界は、どうなることか?この不況に飲み込まれないようによく考えねばなるまい。
病というのは、好不況にかかわらずやってくる。如何に患者さんに来てもらうようにするかが病院経営の基本である。先ずは「あの病院は病気を良く治してくれる。」との評判を立てられること。それと「あの病院は感じが良い。」と言われることに尽きるだろう。要は、医師・看護師・受付・スタッフ等の対応次第である。今年の大河ドラマ~天地人~では「愛」が基調とか。ひょっとしたら患者さんに対する「愛」がキーワードかも・・・
アートのお客さんというのは、基本的にある程度裕福な人がターゲットだろうから、不況が来たからといって需要が劇的に落ちることはないと思う。又、売れない作家は、元々アートだけでは食えないと認識しているから、それなりに生計を立てている。ただ、アルバイトが減って困ることは、少々あるのかも・・・
歴史・人・アートに触れることによって、地域の良さを感じてもらう活動を行っている我々にとっては、一時的な好不況に左右されることなく、真っ直ぐ信じた道を進むしかあるまい。ただ、多くの人に共感・感動してもらうためには、深い内容と洗練された表現が必要であり、それを可能にするのはやはりしっかり勉強することだと思う。今年も元気に、良く学びよく遊ぼう。
もらった年賀状に「笑門来福」というのがあった。「笑う門には福来る」である。今年は、玉野の歴史・製塩をテーマにした創作狂言を是非実現したいものだ。それが、今年の歴史・人・アートを実現する具体的取り組みになるのだと思う。
正月写真の代わりに、昨年フェスタの狂言案内パンフを。
読者の皆さん、今年も宜しくお願いします。
「1年の計は元旦にあり」という。
今年1年、どんな年になるか?はたまた、どんな年にするか?
昨年後半からアメリカ発金融不安を発端にした、世界のピープルによる自動車の買い控えによって、自動車業界とそれを取り巻くあらゆる産業がどん底に陥り、先の読めない不況に突入している。今回の不況は地球的規模で同じ状況にあるため、好況とは言えない日本円が独歩高となり、輸出産業は軒並み大幅な減益を余儀なくされている。つい最近まで好況といわれていた造船業界も、大量の受注残を抱えてはいるものの、キャンセルが相次ぐといった厳しい状況に落ち込むこともないとは言えない。
好不況に余り左右されないといわれる医療界や芸術界は、どうなることか?この不況に飲み込まれないようによく考えねばなるまい。
病というのは、好不況にかかわらずやってくる。如何に患者さんに来てもらうようにするかが病院経営の基本である。先ずは「あの病院は病気を良く治してくれる。」との評判を立てられること。それと「あの病院は感じが良い。」と言われることに尽きるだろう。要は、医師・看護師・受付・スタッフ等の対応次第である。今年の大河ドラマ~天地人~では「愛」が基調とか。ひょっとしたら患者さんに対する「愛」がキーワードかも・・・
アートのお客さんというのは、基本的にある程度裕福な人がターゲットだろうから、不況が来たからといって需要が劇的に落ちることはないと思う。又、売れない作家は、元々アートだけでは食えないと認識しているから、それなりに生計を立てている。ただ、アルバイトが減って困ることは、少々あるのかも・・・
歴史・人・アートに触れることによって、地域の良さを感じてもらう活動を行っている我々にとっては、一時的な好不況に左右されることなく、真っ直ぐ信じた道を進むしかあるまい。ただ、多くの人に共感・感動してもらうためには、深い内容と洗練された表現が必要であり、それを可能にするのはやはりしっかり勉強することだと思う。今年も元気に、良く学びよく遊ぼう。
もらった年賀状に「笑門来福」というのがあった。「笑う門には福来る」である。今年は、玉野の歴史・製塩をテーマにした創作狂言を是非実現したいものだ。それが、今年の歴史・人・アートを実現する具体的取り組みになるのだと思う。
正月写真の代わりに、昨年フェスタの狂言案内パンフを。
読者の皆さん、今年も宜しくお願いします。
サッキータイム~大晦日
2008年12月31日~2009年1月1日
正月を清々しく迎えるために朝から玄関と窓ガラスの清掃。玄関口の鉢に植えてある木蓮が大きな蕾をつけている。春はもう直ぐそこだ。葉牡丹も少しずつ大きくなってきている。玄関は、正月飾りで華やかだ。
ダイヤモンドマリンホテルに注文したおせち料理は、果しておいしいのかどうか?彩りは鮮やかだし、干支の丑をかたどった酢の物が目を引く。鼻輪はにんじんで出来ているが、キチンと大根牛の鼻に通してある。見事な作品だ。
夜半、近くの御前神社に出向き、初詣参拝客の持参する古いお札を燃やす焚き火の番だ。夜中の12時には、多くの参拝客がお祓いを受けるために行列するが、長くは続かない。1時半には参拝客も途絶え、宮総代全員、客殿に上がりおでんの賄を受ける。熱燗にピッタリだ。
さて、今年はどんな年になることか。間もなく3時だ。もう寝なくっちゃ。明けましておめでとうは、起きてから改めて。
正月を清々しく迎えるために朝から玄関と窓ガラスの清掃。玄関口の鉢に植えてある木蓮が大きな蕾をつけている。春はもう直ぐそこだ。葉牡丹も少しずつ大きくなってきている。玄関は、正月飾りで華やかだ。
ダイヤモンドマリンホテルに注文したおせち料理は、果しておいしいのかどうか?彩りは鮮やかだし、干支の丑をかたどった酢の物が目を引く。鼻輪はにんじんで出来ているが、キチンと大根牛の鼻に通してある。見事な作品だ。
夜半、近くの御前神社に出向き、初詣参拝客の持参する古いお札を燃やす焚き火の番だ。夜中の12時には、多くの参拝客がお祓いを受けるために行列するが、長くは続かない。1時半には参拝客も途絶え、宮総代全員、客殿に上がりおでんの賄を受ける。熱燗にピッタリだ。
さて、今年はどんな年になることか。間もなく3時だ。もう寝なくっちゃ。明けましておめでとうは、起きてから改めて。
登録:
投稿 (Atom)