1月25日(月)
この日午後、経産省と玉野市商工観光課主催の「中心市街地活性化の取組みに対する診断・助言事業」報告会が、産業振興公社で開かれた。市民や企業の関心が高く、100人にも上る参加者があった。
事業報告者の一人、商業開発研究所(大阪)の大東行人氏のコメントに、「玉野には、『まちの顔』がない。」という言葉があった。そこで、『まちの顔』について考えてみた。
先ず「顔」とは、言うまでもなくその人を特定し他の人と識別する、人の最も重要な部分であり前面に位置している。動物では、同じ部分を「顔」と言わず「頭」という。「顔」は、人にだけ許された言葉である。顔には、その人の歴史と経験、人生そのものが現れる。又、置かれた状況や環境によっても顔の表情は変わる。つまり、顔とは、その人の全人格の状態を他人の見える位置に表したものということができる。
顔は、個性であり、心、情報、鏡、そして人そのものである。顔は時とともに変わる。顔は環境によって、又心の持ち方によっても変わる。顔で会話できるし、顔で印象を表すこともできる。自分では自分の顔を見ることが出来ない。見る人と見られる人の関係から顔が生まれる。
そういったことを合わせ考えたとき、『まちの顔』とはどんなものを言うのか?
まちの顔は、最もポピュラーな公共交通機関(JRなど)で降り立った駅周辺に在るのが、一般的なのであろう。他の場所から来た人には、駅に降り立ったときのイメージが、そのまちの顔と思うであろう。
倉敷の場合、倉敷駅をおりて暫く歩くと美観地区があって、倉敷の顔が見えてくる。イメージどおりの街並みだ。岡山はどうだ。岡山駅をおりると桃太郎の銅像が迎えてくれ、路面電車が目抜き通りに向かって走ってゆく。いかにも岡山といった風情である。
では玉野は?先ず玉野駅という駅がない。宇野駅をおりると、何か訳の分からない海の生物が歩道を這い回っている。その前方にはだだっ広い公園があるが、人っ子一人いない。その先に、フェリー乗り場があるが、単なる乗船場である。東側には、雑草だらけの広々とした未開の空き地がある。街の雰囲気が全くない。まちの歴史・文化を示すものがなく、人の気配という表情がないのだ。大東氏が言ったのは、そんなことだったのかもしれない。
顔のないのっぺらぼうの人間って、気味が悪いばかりで、そんな人間と話しもしたくない。つまり、玉野には立ち寄りたいと思う人が殆んど居なくて当たり前なのだ。
やはり前面(宇野駅前)に、玉野のまちの歴史・文化・表情、即ち『まちの顔』を見せるようにしなくてはならない。ただ、どんな顔にするかはよく考えねばならない。玉野の歴史・文化を踏まえた、美しい顔作りをすべなのだ。
写真は上から、会場の前景、説明する大東氏、パネルディスカッションのパネラー4人、最下段は産業振興公社から宇野駅方向を撮った写真。
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