7月12日(日)「玉野市電の歩み」
宇野・築港まちづくり講座の第4回は、玉野市の宇野駅~藤井~三井造船~奥玉の全長4.7キロをトコトコと走っていた玉野市電の歩みについて、玉野市電保存会の垣内会長に講師となって話をしていただいた。
市電に付いていた行き先表示板や駅の手書き時刻表、コンソールのレバーを動かす鉤、車掌が首からぶら下げていた巾着型の料金入れ等、実物を見せながら、分かりやすく説明してくれた。
スクラップの運命にあった760号市電が、垣内さんら保存会の方々、又それを支えてくれた多くの協賛者の方々のお陰で、永久に残ることとなった。かって多くの造船労働者や学生、市民たちの足となってくれていた玉野市電、意義ある歴史の証人である。
垣内会長は、市電の調査は玉野市の歴史そのものに通じると言われていた。
講座の帰りに奥玉に展示されている市電を写真に撮ってきた。
市電の歴史の概要は、次の通り。
戦時中に建設が始まり工事が中断されていた三井造船の引込み線を活用する形で、国鉄宇野駅から児島半島を一周する鉄道が計画された。戦後備南電鉄が設立され、その第一期工事として宇野~玉(後の三井造船所前)間が建設され、1953年4月に開通。その後、資金難で建設は進まず、1955年10月に玉橋(後の玉駅)まで延長。1960年8月には玉遊園地前まで延長。これで営業キロは最長の4.7キロになった。その後経費節減のため、1964年に電車から気動車に動力変更、電車は琴電に売却された。気動車になっても「電鉄」のままで、市民もずっと「市電」と呼んでいた。その後、経営は一向に改善せず、ついに1972年3月末に廃止された。市電廃止後、軌道跡は自転車道として整備された。今でも殆どの線路跡が残っており、当時の面影を見ることができる。
琴電760号は、1951年に日立製作所笠戸工場で製造された車両で、元々は山形県の蔵王高速電鉄が発注した車両である。全長15.8メートルという中型車だが、雪国の山を走るという仕様から、日立オリジナル設計のMMC超多段式自動加速制御器を搭載。モーター出力94kWという高性能の電車である。だが、朝鮮戦争勃発によるインフレで資金難となり、建設が中断され車両もキャンセルとなった。その後、備南電鉄が買い取ることになり、 備南電鉄モハ100形として活躍することとなった。
しかし、コストダウンのために気動車に変更され、この電車は1965年、琴電に嫁入りすることとなった。その際、番号も103⇒760に改番された。新車導入により、2006年引退することとなった760号電車を再び玉野に引き取ったのは、垣内会長らこの電車に人一倍郷愁を感じる保存会の人たちの力だった。
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