10月26日
11月6~7日に開催される「玉野みなと芸術フェスタ2010~たまの東街道」で、塩の道散策ルートに残る「東野﨑塩田の遺構」について説明した看板を設置することとしたが、その説明文と看板の一部を紹介する。ちょっと長いので、読むのに時間がかかるが、山田塩田の歴史がよくわかる内容なので、興味ある方は最後までどうぞ。尚、これら遺構を調査研究して看板に纏めてくれたのは、山田まちづくり講座の皆さん方である。
①塩専売庁舎
かつて山田周辺で産する塩を管轄していた専売庁舎(木造平屋建て約200㎡)で、明治41年(1908)の竣工とされる。竣工当時の名称は「専売局味野収納所山田出張所」。大蔵省の威厳を示すため、洋風建築の意匠となっている。
これ以外で全国に現存する明治期竣工の塩の専売庁舎は、兵庫県赤穂市の旧「大蔵省赤穂塩務局」(明治41年竣工)のみが知られ、両建物は希少価値の高い産業遺産といえる。
この建物は後、昭和16年(1941)頃から児島郡山田村役場として使用され、同28年(1953)から39年(1964)まで玉野市山田支所、現在は「老人憩いの家」や東地域ミニデイサロン「しおさい」など、地域住民の福祉施設として使用されている。窓枠、外壁の塗装、屋根瓦など建物の一部は修復したが、内部の窓口カウンターやガラス戸はそのままで、明治時代の官庁の趣を残している。(玄関の左脇、旧収入役室は、後から増築された。)
②繁盛していたころの山田街
この辺りに写真の橋が架かっていた。明治41年(1908)専売庁舎が落成し、当時の山田が活気に満ち溢れていたことは今も語り継がれている。
塩浜稼ぎの人々は、親方・上浜子・釜屋番・釜焚き・寄せ子・沼(ぬ)井(い)踏み等もおれば、間接的な大工・桶屋・鍛屋などの職人、土木人夫・叺(かます)の製造・石炭商、生活物資を扱う商人、輸送関係の船人・仲仕なども存在した大組織であった。船持ちも居れば荷主も居り、旅館・料理店・呉服店・雑貨店・理髪店・魚屋・肉屋・自転車屋等々みな繁盛し、大正6年(1917)には、川向いの角の所に第一合同銀行山田出張所(後に海運局山田出張所となる。)もでき、山田の街は賑わっていた。
③塩の積み出し港
かつてこの一帯に専売庁舎の倉庫群が建っていた。広い敷地内にはトロッコが走り、近隣の塩田から集められた塩は、ここで検査を受け、東側の山田港(汐入川)から各地へ積み出されていた。
④蛭子座と大黒座
塩の積み出し港(汐入川)の川向こうに、大正2年(1913)、現玉野市で初めての劇場「蛭子座」(写真中央の大屋根・建坪170坪、収容人員1,000人)ができ、後「大黒座」(蛭子座より東、大屋根の一部が写る)もできた。演劇・活動写真などの興行が常に行われ、八浜・鉾立・田井などの遠隔地からも観客が来た。「大黒座」は今も石材加工場として存在。
⑤文書庫
塩専売庁舎に付属して建てられ、公文書が保管された。煉瓦(れんが)造平屋建て・桟(さん)瓦葺(がわらぶ)き(約30㎡)。小屋組は木造トラスで、室内の壁は漆喰(しっくい)が施され、床は板の間で高床構造となっている。3ヶ所の窓と正面入口の扉は鉄製で、窓の内側に鉄格子、入口扉の内側は引き戸となっている。以上の構造・設備から、防火・防湿・防犯対策が窺える。なお、南東部の窓は後から作られたもののようである。
平成19年(2007)に、地元有志らの浄財で、屋根の雨漏り箇所と正面入口の鉄扉・窓の鉄扉の修繕が行われた。地域が誇る歴史的建造物として、現在、国の登録有形文化財の申請中である。
⑥東野﨑支店跡
ここより川沿いに少し入った所に東野﨑支店があった。事務所や倉庫があり、写真中央の大きな建物は、特別室の他、来客用の貴賓室的なものから倶楽部など、東野﨑の管理機能がここに集約されていた。昭和23年(1948)に現在地(胸上)へ移転。その後、建物は昭和30年(1955)頃、取り壊された。又、明治27年(1952)には、東野﨑気象観測所が東野﨑支店敷地内に設置された。
⑦開閉橋(はね橋・明神橋)
塩田と対岸の陸とを結ぶ橋である。竣工当初は木造。大正15年(1926)に、コンクリートに改造された。汐入川(落合川・六間川)が運河の役割を果たしていたため、船(上荷船)が通航する際、船から竿で中央部分を横にはねて開閉し、帆柱を通過させていた。
開閉橋は、ここの他、2番・10番・20番浜にも架かっていた。
⑧巡査駐在所跡
この辺りに、明治19年(1886)、当地区で初めて巡査駐在所が設置された。なお、当初山田村の内であった東野﨑は、明治8年(1875)東野﨑村となり、明治22年(1989)山田村に合併した。
⑨塩竈神社
天保9年(1838)の塩田開発に際し、陸前塩竈神社(現、宮城県塩竈市)から勧請された。
現在の拝殿は、昭和3年(1928)の竣工で、職人が丹精を込めて造った様子が、唐破風や彫刻の意匠から伝わってくる。境内には、幕末期の石造灯籠・鳥居・狛犬や明治17年(1884)に設置された東野﨑塩田の碑などが立ち並び、この地が塩田開発とともに歩んだ歴史を感じることができる。鐘楼跡の方形の基礎枠や塩田用の井戸枠なども境内に残されている。
稲荷神社については、10番浜から奉遷したものである。
⑩浜井戸の跡
かつて塩田で働く人々が、洗濯など(飲料水以外)に使用した井戸があった。塩竈神社の境内にある井戸枠(豊島石製)がそれである。
東野﨑地区の大部分は、白石に設けられた貯水池(四ノ御神社の北)より飲料水の供給を受けた。又、各塩戸は、そこから一番近い所にある井戸やよく湧き出る井戸を選んで汲みに行っていた。
⑪浜井戸の井戸枠
⑫東野﨑塩田の碑
⑬鐘楼跡
かつてここに塩田で働く人々に時を告げる、写真の鐘楼があった。
⑭樋門
馬蹄形の建造物が堤防石垣に付属している。かつて海水の取り入れ口であった。各塩戸それぞれにあり、親方は、潮の干満により石段を下りて栓を抜き差しして、堤内のダブ(海水を貯える海水池)に海水を貯え、必要に応じ塩田内の潮(ちょう)川(せん)へ海水を入れ、又排水をした。
⑮樋門
馬蹄形の建造物が堤防石垣に付属している。かつて海水の取り入れ口であった。
⑯樋門
対岸の堤防石垣に馬蹄形の建造物が付属している。かつて海水の取り入れ口であった。各塩戸それぞれにあり、親方は、潮の干満により石段を下りて栓を抜き差しして、堤内のダブ(海水を貯える海水池)に海水を貯え、必要に応じ塩田内の潮川へ海水を入れ、又排水をした。
⑰雁木
堤防石垣の表面に付属する花崗岩製の石階段。汐入川(六間川)で物資の運送等を行う船と塩田との連絡用(荷役足場)に使用された。東野﨑塩田跡には数多く雁木がみられ、汐入川が運河の役割を果たしていたことを物語る貴重な産業遺構といえる。
⑱鹹水槽
塩田の採鹹で得られた濃い塩水の「鹹水」を貯蔵しておく水槽。RC造(鉄筋コンクリート造)。道路の拡張や舗装、土地の開発等に伴い破損が見られる。ちなみに、昭和9年(1934)前後までは粘土製の坪(槽)であった。
⑲樋の輪
馬蹄形の形状から、樋の輪と思われる。改修によって、全体がコンクリートの擁壁(ようへき)に覆われている。現在は、遊漁船の繋船(けいせん)施設となっている。
樋の輪とは、海から塩浜への海水取入口に設置され、風波による樋の損傷を防ぎ、堤防補強の役割を果たした塩田遺構の一つ。樋門のある箇所を石積みで丸く囲んで、海水が自由に出入りできるようにした石堤をいう。
⑳三五の燈台
かつて三十五番浜といわれた対岸に、写真の和式灯台が建っていた。嘉永5年(1952)に設置された当初は、石造り常夜灯であった。明治初年頃に木造に改築され、大正14年(1925)以降は、別に電灯が堤防上に設置されていた。
現在、地表に見える部分では、遺構は確認できない。古写真や現存する元野﨑浜灯明台(児島)を基に復元を図り、電灯代わりに点灯を行うことになれば、運河としての風情が一層ひきたつであろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿