1月27日
(熊本市立花陵中学校時代)
小学校卒業の時、本当に自分は中学へ行けるのだろうかと、不安と希望の混ざり合った複雑な気持ちだった。中学校区には、春日小の他、古町小と白川小の3小学校があり、新たな友達もでき、春日小時代より一段とたちの悪い悪ガキどもとつき合うようにもなった。1年に入学したときの成績はまあまあだったのだが、遊び呆けたその後は遊んだ通りのものとなった。
3年になったとき、2年の時から引き続いての担任だった音楽担当の甲斐先生が「4月から吹奏楽部を作るぞ、誰か入りたい者はいないか。」と言うので、直ぐに手を挙げトランペットが吹きたいと申し出た。吹いてみるとこれが中々難しく、唇の分厚いサッキーにはトランペットの音がどうしても出ず、色々試した結果、小バスというマウスピースがやや大きいラッパを吹くことになった。この楽器はメロディが余り無く、ほぼリズムだけを演奏するもので、面白くないナーと思っていた。しかし、やっているうちこれもリズム感がないとうまくメロディに合わないし、大きな音を出し過ぎると全体を台無しにしてしまう。音楽の三要素の中でメロディも勿論重要ではあるが、それよりズーっとリズムとハーモニーの方が重要であることを、身をもって感じた。
2学期後半に行われた文化祭での発表を最後にクラブ活動をやめ、本格的な受験勉強に入った。大学を目指す普通科にするか、高卒で就職する実業系を受験べきか、高校選択に相当悩んた。
そのころ、誰からか少年自衛隊(今の少年工科学校)のことを聞き、ここを出たら自動的に防衛大学に行けると錯覚したサッキーは、高校受験の予行演習も兼ねて受験することとした。花陵中学から同期10人が受験、サッキーだけが1次試験に合格、さらに2次試験にも合格した。この年少年自衛隊は20数人に1人程度の難関だった。当時、全国的に中でも九州と東北地方には、サッキーのような貧乏な家庭の子が多く、少年自衛隊を目指す若者が相当多かったようだ。熊本県立済々黌高校にも合格したサッキーはどちらに進むべきかかなり迷った。我が家の状況を思うとサッキーは、お金も貰えて勉強もでき、さらには防衛大学まで上がれると誤解していた、生徒教育隊に行くことを決意した。人生の岐路を自分で決めた初めてのことだった。
自分の長男(実)を軍隊でなくした両親が、今度は末っ子(サッキー)を自衛隊に送り出すと言うことにどんな思いを抱いたのか、推し量ることは出来ない。戦後の自衛隊については、戦時中の軍隊とは違うイメージ、一種の勤め人集団と見ていたのかも知れない。両親はサッキーが少年自衛隊に行くことに特段の反対もせず、2年後自衛隊を辞め高校・大学に行くと言ったときも、反対はしなかった。子供の自主性を尊重したというか放任主義的というか、サッキー自身は色んな節目で、あらゆることを自分自身で決めることが出来、非常によかったと思っている。
親父(善太)は昭和57年4月88才、母(ナツ)は平成6年9月92才で亡くなった。苦労の多い人生だったと思うが、子供達には恵まれていたのではないかと思う。
写真は、上から中学2年の時のクラス写真(サッキーは中段の真ん中)。中央サングラスの先生が担任の甲斐八千雄先生。次の写真は中3の時にあった修学旅行で(サッキーは右端)。下の写真は中学3年の卒業前に撮った写真(サッキーは先生を除く前列の右から二人目)
2011年1月27日木曜日
2011年1月24日月曜日
航跡-その3 ~春日小学校時代~
1月24日
(春日小学校時代)
小学3年に上がって間もない6月、黒髪小学校から熊本駅の裏手にある春日小学校へ転校となった。担任は、田崎先生という優しい女の先生だった。他の人はどうか分からないが、人間てずいぶ妙なことを覚えているもので、初めて先生の後ろについて教室に連れて行ってもらったとき、えらく長いスカートをはいた先生だなーと思ったことを覚えている。多分当時は膝くらいが流行だったと思うのだが、足首の一寸上くらいの長さで、形として不釣り合いな感じがするなーと思ったものだ。それにしてもかなりませた坊主だったのだろうか。その前の年くらいにオードリー・ヘップバーンがショートカットのヘップバーン刈りで一斉を風靡したのが気になったり、ラジオから流れる歌を聴いて、ひばりって歌が上手いナーと思ったりもしていた。
サッキーの一番上の姉は、4才の時目を患い両目の視力が殆どなくなり、更に15才の時には左膝が関節炎で曲がらなくなり、以来ずっと足が不自由になっている。そんな姉の将来を案じたお袋は、姉に地唄の箏と三弦(三味線)の修行を始めさせた。姉は 音感が人一倍よかったらしく、稽古を始めて三日目には確実な音合わせが出来るようになったそうだ。黒髪に移った頃には既に師範の免状をもらい、独り立ちしていた。その前古大工町にいた頃、高名と言われていた尺八や箏の先生などがよく家に来て、合奏をしたり演奏会の話をしたりしていたのを覚えている。後年、サッキーが少年自衛隊を辞め高校へ行き直し大学へ行くことが出来たのも、この姉の資金援助があったお陰だ。姉は今も熊本で、この道の第一人者として活躍している。(1月18日のBLOG「熊本地唄の灯」参照)
たまたま田崎先生は姉のお弟子さんで、私をよく可愛がってくれたような気がする。誉められるとすぐ調子に乗る方で、この頃から少し勉強もするようになったようだ。その年(昭和27年)の7月、熊本に大雨が降り大洪水に見舞われた。白川に架かった石と木の橋は、全て上流の阿蘇から流れてきた大量の水と木材で押し流されてしまった。唯一助かったのは、鉄で出来たアーチ型の吊り橋・長六橋だけだった。その後、熊本の橋はこれに習って全て鉄製に造り替えた。その後、工事現場で日立造船のマークがあったのを覚えているが、造船所が何で橋を造るんかな、船と橋とは同じ技術なんかなーと不思議に思ったものだ。
その大雨の日の夕食時、サッキーは我が家の仕事場に光る物が蛇のように入ってくるのを見つけた。すると瞬く間に水が溢れ、2時間も経たない内に床上まで浸かってしまった。新しい住居(とは言ってもここも倉庫を改造した家)は2階建てだったので、商品の畳や家財道具などを必死にバケツリレーで2階にあげた。火事場の馬鹿力ではなく、水場の馬鹿力とでも言えるくらいの力強さだった。親父は夕方から白川方面に洪水の状況を見に行ったらしく不在だったので、みんな必死に運び終わると、今度は親父の心配で大騒動だった。家の前は川のように水が流れどうすることも出来ない。これは親父88年の人生で、事業失敗に次ぐ大きな失敗と言っていいだろう。よく流されずに帰って来れたと、お袋は胸をなでおろしていた。
4年生の時、初めて男の先生が担任となった。野尻先生という優しい男前の先生だった。男の先生でもオルガンが弾けると言うことを知ったのは、驚きの一つだった。何をするにもスマートで分かりやすい先生だった。秋の頃、名前は忘れたが、同級の女の子が学校に来なくなった。先生は、「水辺で遊んでいて毒が入ったみたいで、昨日亡くなってしまった。今からみんなでお別れに行こう。」と言った。サッキーの記憶の中では、これが人の葬儀に出た最初のことだった。屹度破傷風だったのだろうと思うが、子供心に命の儚さを感じたものだ。その後、別のクラスのことだが、木登りをしていて高い所から落ちて亡くなった男の子もいた。
5年生になると、学校で習うことも少しずつ高度な内容になったような気がする。例えば、音楽の授業では縦笛やハーモニカが必修となり、算数には時計の計算の仕方(即ち12進法、60進法)が出てきた。最初はなかなか正解が出なかったことを覚えている。放射能の雨に当たると頭が禿げるなどと、噂していたのもこの頃のことだ。第5福竜丸にビキニの水爆実験による死の灰を降らせたのは、サッキーが小学5年、昭和29年3月のことだった。
熊本には、藤崎八幡宮という大きな神社があるが、毎年9月、秋の大祭があり、随兵(ズイビョウ)という豪奢な武者行列が行われる。最近は勇壮な馬追が全国的に有名になりつつあるが、同級生が豆絞りのハッピ姿でその馬追に出るのが羨ましいと思ったのも、5年生の時だった。何せ馬に酒やビールを飲ませて走らせるんで、その暴れようと言ったら大変なものだ。毎年何人かのけが人が出ていた。今でも酒を飲ませているかどうかは分からない。序でにいうと、当時はこの祭りのことをボシタ祭りとも言っていた。小さい頃聞いた話では、加藤清正公が朝鮮征伐からの凱旋で、「滅ぼした、滅ぼした」と気勢を上げながら帰ってきたのが始まりとか言っていたが、真偽のほどはどうなのだろう。今は差別になるとかで、ボシタ祭りとは言わないそうだ。
6年生の時には、よそから転勤してきた松本という男の先生が担任となった。4年の時担任をした野尻先生に少し似た感じがしたが、何かと怒鳴ることが多く非常に怖い先生だったナーというイメージが残っている。でも陰日向のない公平な態度で接してくれ、教え方も上手だったと記憶している。宿題は、自分で問題を作り早く来た者順に黒板に書かせるというものだった。宿題をしてこなかった子にその問題を解答させていた。なかなかユニークな方法だったと思うし、問題を作るために物事をよく考える癖がついたような気がする。生まれて初めて版画を彫ったのも6年の時で、賀正の文字と松の枝越しに飛び立つつがいの鶴を彫り、今でもあれは初めてにしては見事だったナーと思っている。
低学年の頃習字の稽古をしていたが、決して上手に書けてはいなかった。たまたま隣の席に来た友達の字が気に入り、その字を真似て書いているうち、何となく綺麗に書けてきたような気になり出した。また、水彩も画家の描いた絵を真似て描いたら、上手に描けたような気がした。字や絵を上手に書きたいと思うなら、上手な人の作品を手本にしてその通りなぞるように真似して行けば、少しずつでも上手になっていくことを実感したのが小学6年の時だ。
春日小学校の北側に花岡山という150メートルくらいの小高い山がある。頂上には仏舎利塔があり、裏手には北岡自然公園という細川家の廟のあるきれいな公園がある。元来走ったりボールを投げたりというスポーツは余り得意な方ではなかったのだが、この山を越えて裏へ回り、さらに隣の万日山の裏を回る約15キロのマラソンには閉口したものだ。最後尾を走る私の横から自転車に乗った松本先生が伴奏してくれ、完走することができたのも、松本先生との嬉しい想い出となっている。
写真は、小学6年の卒業を間近に控えた記念写真である。サッキーは、前列中央(左から5人目)の女の子の横に座った子である。その直ぐ後の先生(左から4人目)が松本先生。
(春日小学校時代)
小学3年に上がって間もない6月、黒髪小学校から熊本駅の裏手にある春日小学校へ転校となった。担任は、田崎先生という優しい女の先生だった。他の人はどうか分からないが、人間てずいぶ妙なことを覚えているもので、初めて先生の後ろについて教室に連れて行ってもらったとき、えらく長いスカートをはいた先生だなーと思ったことを覚えている。多分当時は膝くらいが流行だったと思うのだが、足首の一寸上くらいの長さで、形として不釣り合いな感じがするなーと思ったものだ。それにしてもかなりませた坊主だったのだろうか。その前の年くらいにオードリー・ヘップバーンがショートカットのヘップバーン刈りで一斉を風靡したのが気になったり、ラジオから流れる歌を聴いて、ひばりって歌が上手いナーと思ったりもしていた。
サッキーの一番上の姉は、4才の時目を患い両目の視力が殆どなくなり、更に15才の時には左膝が関節炎で曲がらなくなり、以来ずっと足が不自由になっている。そんな姉の将来を案じたお袋は、姉に地唄の箏と三弦(三味線)の修行を始めさせた。姉は 音感が人一倍よかったらしく、稽古を始めて三日目には確実な音合わせが出来るようになったそうだ。黒髪に移った頃には既に師範の免状をもらい、独り立ちしていた。その前古大工町にいた頃、高名と言われていた尺八や箏の先生などがよく家に来て、合奏をしたり演奏会の話をしたりしていたのを覚えている。後年、サッキーが少年自衛隊を辞め高校へ行き直し大学へ行くことが出来たのも、この姉の資金援助があったお陰だ。姉は今も熊本で、この道の第一人者として活躍している。(1月18日のBLOG「熊本地唄の灯」参照)
たまたま田崎先生は姉のお弟子さんで、私をよく可愛がってくれたような気がする。誉められるとすぐ調子に乗る方で、この頃から少し勉強もするようになったようだ。その年(昭和27年)の7月、熊本に大雨が降り大洪水に見舞われた。白川に架かった石と木の橋は、全て上流の阿蘇から流れてきた大量の水と木材で押し流されてしまった。唯一助かったのは、鉄で出来たアーチ型の吊り橋・長六橋だけだった。その後、熊本の橋はこれに習って全て鉄製に造り替えた。その後、工事現場で日立造船のマークがあったのを覚えているが、造船所が何で橋を造るんかな、船と橋とは同じ技術なんかなーと不思議に思ったものだ。
その大雨の日の夕食時、サッキーは我が家の仕事場に光る物が蛇のように入ってくるのを見つけた。すると瞬く間に水が溢れ、2時間も経たない内に床上まで浸かってしまった。新しい住居(とは言ってもここも倉庫を改造した家)は2階建てだったので、商品の畳や家財道具などを必死にバケツリレーで2階にあげた。火事場の馬鹿力ではなく、水場の馬鹿力とでも言えるくらいの力強さだった。親父は夕方から白川方面に洪水の状況を見に行ったらしく不在だったので、みんな必死に運び終わると、今度は親父の心配で大騒動だった。家の前は川のように水が流れどうすることも出来ない。これは親父88年の人生で、事業失敗に次ぐ大きな失敗と言っていいだろう。よく流されずに帰って来れたと、お袋は胸をなでおろしていた。
4年生の時、初めて男の先生が担任となった。野尻先生という優しい男前の先生だった。男の先生でもオルガンが弾けると言うことを知ったのは、驚きの一つだった。何をするにもスマートで分かりやすい先生だった。秋の頃、名前は忘れたが、同級の女の子が学校に来なくなった。先生は、「水辺で遊んでいて毒が入ったみたいで、昨日亡くなってしまった。今からみんなでお別れに行こう。」と言った。サッキーの記憶の中では、これが人の葬儀に出た最初のことだった。屹度破傷風だったのだろうと思うが、子供心に命の儚さを感じたものだ。その後、別のクラスのことだが、木登りをしていて高い所から落ちて亡くなった男の子もいた。
5年生になると、学校で習うことも少しずつ高度な内容になったような気がする。例えば、音楽の授業では縦笛やハーモニカが必修となり、算数には時計の計算の仕方(即ち12進法、60進法)が出てきた。最初はなかなか正解が出なかったことを覚えている。放射能の雨に当たると頭が禿げるなどと、噂していたのもこの頃のことだ。第5福竜丸にビキニの水爆実験による死の灰を降らせたのは、サッキーが小学5年、昭和29年3月のことだった。
熊本には、藤崎八幡宮という大きな神社があるが、毎年9月、秋の大祭があり、随兵(ズイビョウ)という豪奢な武者行列が行われる。最近は勇壮な馬追が全国的に有名になりつつあるが、同級生が豆絞りのハッピ姿でその馬追に出るのが羨ましいと思ったのも、5年生の時だった。何せ馬に酒やビールを飲ませて走らせるんで、その暴れようと言ったら大変なものだ。毎年何人かのけが人が出ていた。今でも酒を飲ませているかどうかは分からない。序でにいうと、当時はこの祭りのことをボシタ祭りとも言っていた。小さい頃聞いた話では、加藤清正公が朝鮮征伐からの凱旋で、「滅ぼした、滅ぼした」と気勢を上げながら帰ってきたのが始まりとか言っていたが、真偽のほどはどうなのだろう。今は差別になるとかで、ボシタ祭りとは言わないそうだ。
6年生の時には、よそから転勤してきた松本という男の先生が担任となった。4年の時担任をした野尻先生に少し似た感じがしたが、何かと怒鳴ることが多く非常に怖い先生だったナーというイメージが残っている。でも陰日向のない公平な態度で接してくれ、教え方も上手だったと記憶している。宿題は、自分で問題を作り早く来た者順に黒板に書かせるというものだった。宿題をしてこなかった子にその問題を解答させていた。なかなかユニークな方法だったと思うし、問題を作るために物事をよく考える癖がついたような気がする。生まれて初めて版画を彫ったのも6年の時で、賀正の文字と松の枝越しに飛び立つつがいの鶴を彫り、今でもあれは初めてにしては見事だったナーと思っている。
低学年の頃習字の稽古をしていたが、決して上手に書けてはいなかった。たまたま隣の席に来た友達の字が気に入り、その字を真似て書いているうち、何となく綺麗に書けてきたような気になり出した。また、水彩も画家の描いた絵を真似て描いたら、上手に描けたような気がした。字や絵を上手に書きたいと思うなら、上手な人の作品を手本にしてその通りなぞるように真似して行けば、少しずつでも上手になっていくことを実感したのが小学6年の時だ。
春日小学校の北側に花岡山という150メートルくらいの小高い山がある。頂上には仏舎利塔があり、裏手には北岡自然公園という細川家の廟のあるきれいな公園がある。元来走ったりボールを投げたりというスポーツは余り得意な方ではなかったのだが、この山を越えて裏へ回り、さらに隣の万日山の裏を回る約15キロのマラソンには閉口したものだ。最後尾を走る私の横から自転車に乗った松本先生が伴奏してくれ、完走することができたのも、松本先生との嬉しい想い出となっている。
写真は、小学6年の卒業を間近に控えた記念写真である。サッキーは、前列中央(左から5人目)の女の子の横に座った子である。その直ぐ後の先生(左から4人目)が松本先生。
2011年1月22日土曜日
航跡-その2 ~黒髪小学校時代~
1月22日
(黒髪小学校時代)
新しい住まいは、米倉を改装した暗い8畳と3畳の二間と土間の台所があるだけの、狭い粗末な部屋だった。サッキーは、引っ越して間もない その年の4月、熊本では文教地区と言われている、その地域の黒髪小学校に入学した。校舎は戦災で失われた後の急ごしらえだったのか戦前からの建物のままだったのか、木造平屋の粗末なものだったが、桜は満開で非常にきれいに咲いていた。今もその季節になると、桜の下を姉に連れられ、見知らぬ多くの人と共に入学手続きの順番を待っていたのを思い出す。
担任の伊津井(漢字は当て字)先生は、若く凛とした綺麗な女の先生で、なぜかよく面倒を見てくれていた。硬筆や毛筆習字などの稽古を残ってしてくれていた。定かではないが、ひょっとするとお袋が面倒見てもらうようお願いしていたのかも知れない。
お袋は、親(サッキーからは祖父)が相場師で小豆などの先物取引により、子供の頃非常に裕福な時代と相場の失敗による非常に貧しい生活の両極端を経験したという。祖父の失敗は、母親が14才の時で、尋常高等小学校卒業を間近に控え、望んでいた高等女学校に行けなかったことをよく悔やんでいた。そんな自分の夢を、何とか子供に託したかったのかも知れない。当時サッキーはそんなことを全く知らず、サッキー自身は、宿題以外そう大して勉強したわけではなく、出来も上の下か中の上程度で特別いい方ではなかった。後日談だが、我が家の家訓でお袋から、「先物取引なんかせんごつせにゃいかんばい」と言われていたのに、金の先物取引でちょっとだけ損したことがある。やはり家訓は守らねばならないと思ったものだ。
上3人の兄がいなくなって 長男となった喜八郎は、当時まだ中学3年生だったが、絵を描くことが好きで 将来は美術の専門学校へ行きたいという希望を持っていたようだ。ところが、事業の失敗直後という事情は、その希望を叶えることを許さず、中学卒業後、高校にも行けず 親の跡を継ぐこととなった。当時としては、中卒といっても特段珍しいことではなかったのだが、自分の希望が叶えられなかった兄は、おし黙ったまま朝起きもせず、家の中に閉じ籠もるばかりだった。お袋はじっと黙って耐えていた。しかし、兄は、サッキーのためにメリーゴーラウンドのような木馬を作ってくれたり、みんなのために表の家主のお店を通らず、裏から直接出入りできる出入り口を作ったり、持ち前の器用さを発揮して、サッキーや家族の者を喜ばせてくれていた。
この家から200メートルくらい離れた所に、大きな池と田畑を縫うように走る幾筋もの小川があり、休みにはよく笊(ザル)と小さな網を抱えて小魚取りに行っていた。獲物はメダカ、ハエ(ハヤ)、小鮒、ドジョウ、ドンコ、シビンタ、川エビなどだった。たまに「ナマズを獲ったぞ」と言って、ひげ面のナマズを見せてもらったこともあった。一度大きなドンコを獲ったことがあり、1週間ほど泥抜きをした後、お袋に煮てもらって食べたことがある。味は抜群だった。
川からあがると、膝から下をよく蛭(ヒル)に吸い付かれていた。痒いような痛いような変な感じだったし、吸い付かれた所から出血もしていた。この腹立たしい蛭は殺そうとしてもなかなか死なない、生命力が強いというか しわい生き物だった。蛭は小枝の先に頭を付けて裏返しにひっくり返すと、内蔵が乾燥してすぐに死んでしまうことを覚えた。今思うとかなり残酷なことをしていたものだが、当時はそれを何とも思うことはなかった。というより、「このにっくき蛭め、ざまあみろ」という思いだった。
へぼ将棋を覚えたのもこの頃だったが、サッキーは将棋より山崩しの方が得意だった。何となく山が崩れたときのカシャッと言う音が、ハラハラどきどきするだけでなく、将棋で負けても山崩しで逆襲するのが楽しみだった。
数年前両親の墓参りをした折り、この近くを通ったのだが、殆ど住宅地に変わってしまっており、昔の面影は全くなかった。グーグルマップでこの辺りの地図を見ても、今は多くの建物が建ち、賑やかな街に変わってしまっている。
家の近くに済々黌という普通科の県立高校があった。勿論今もあるが、正門を入ると左手に小さな林があり、そこでよくクワガタやカブトムシなどを見つけることが出来た。高校生たちは黄色い帽章を巻いた学生帽をかぶり、随分大きな大人に見えたものだった。後年、黄色い帽章の済々黌と白い袖口章の熊本高校が、熊本県での2大進学校というのを知った。腕白盛りのサッキーは、仲間たちと済々黌の校庭で石投げ合戦を行い、木陰から様子を見ようと顔を出した瞬間、大きな石がサッキーの鼻を直撃した。あの時のガーンと言う、目の前が真っ暗になる感覚というのは今なお経験のないものだ。顔が大きく扁平になったのは、そのときの影響なのだろうか。
その後、サッキーが中学3年(昭和33年)に上がるときの選抜高校野球で、4番打者王投手を擁する優勝候補筆頭の早稲田実業を準決勝で破り、熊本で初の優勝をもたらしたのはこの済々黌高校で、後にも先にも熊本県から高校野球の優勝は出ていない。中学卒業を前に、高校受験の第1志望として選んだ高校が済々黌だったのは、そのような小さな頃の思い出が重なっていたからかも知れない。
済々黌の東隣に熊本大学教育学部があるが、ここで遊んだという記憶はない。その北方に立田山という小高い山があり、紅葉狩りやドングリ拾いによく登ったものだ。家の近くに中学生のお兄さんがおり、サッキーらチビどもを引き連れてよく遊んでくれていた。何度か空気銃を片手に、立田山へ雀捕りに連れて行ってくれたことを憶えている。随分悪ガキだったと思うが、それぞれの場面で、見つける者、撃つ者(当然お兄さんの役)、撃ち落とした雀を捜す者など、役割分担と一致協力というようなことを自然と学んだような気がする。今では中学生が空気銃を撃つなど思いもよらないが、当時は許されていたのだろうか?
親父は酒が好きで、毎晩焼酎で晩酌をしていた。お袋は毎日近くの酒屋で2合ずつくらいの焼酎を買ってきていたようだが、時々私も買いに行かされた。夜暗くなってから酒屋に焼酎やたまには醤油などを買いに行くのは、何となく気恥ずかしくいやなものだった。
写真は、小学1年の入学記念で写したもの。サッキーは前から2列目の左から4人目の真ん丸い顔をした子だ。尚、3列目の左から4人目の男の子は、T君といって後日サッキーが春日小学校に転校した後同じ春日小学校に転校し、卒業の年には同じクラスになるという奇遇な付き合いをすることになった。
下の写真は、小学2年の時で中庭で写したもの。サッキーは、前から2列目の一番左側、当日は快晴で非常に眩しかったのを覚えている。
(黒髪小学校時代)
新しい住まいは、米倉を改装した暗い8畳と3畳の二間と土間の台所があるだけの、狭い粗末な部屋だった。サッキーは、引っ越して間もない その年の4月、熊本では文教地区と言われている、その地域の黒髪小学校に入学した。校舎は戦災で失われた後の急ごしらえだったのか戦前からの建物のままだったのか、木造平屋の粗末なものだったが、桜は満開で非常にきれいに咲いていた。今もその季節になると、桜の下を姉に連れられ、見知らぬ多くの人と共に入学手続きの順番を待っていたのを思い出す。
担任の伊津井(漢字は当て字)先生は、若く凛とした綺麗な女の先生で、なぜかよく面倒を見てくれていた。硬筆や毛筆習字などの稽古を残ってしてくれていた。定かではないが、ひょっとするとお袋が面倒見てもらうようお願いしていたのかも知れない。
お袋は、親(サッキーからは祖父)が相場師で小豆などの先物取引により、子供の頃非常に裕福な時代と相場の失敗による非常に貧しい生活の両極端を経験したという。祖父の失敗は、母親が14才の時で、尋常高等小学校卒業を間近に控え、望んでいた高等女学校に行けなかったことをよく悔やんでいた。そんな自分の夢を、何とか子供に託したかったのかも知れない。当時サッキーはそんなことを全く知らず、サッキー自身は、宿題以外そう大して勉強したわけではなく、出来も上の下か中の上程度で特別いい方ではなかった。後日談だが、我が家の家訓でお袋から、「先物取引なんかせんごつせにゃいかんばい」と言われていたのに、金の先物取引でちょっとだけ損したことがある。やはり家訓は守らねばならないと思ったものだ。
上3人の兄がいなくなって 長男となった喜八郎は、当時まだ中学3年生だったが、絵を描くことが好きで 将来は美術の専門学校へ行きたいという希望を持っていたようだ。ところが、事業の失敗直後という事情は、その希望を叶えることを許さず、中学卒業後、高校にも行けず 親の跡を継ぐこととなった。当時としては、中卒といっても特段珍しいことではなかったのだが、自分の希望が叶えられなかった兄は、おし黙ったまま朝起きもせず、家の中に閉じ籠もるばかりだった。お袋はじっと黙って耐えていた。しかし、兄は、サッキーのためにメリーゴーラウンドのような木馬を作ってくれたり、みんなのために表の家主のお店を通らず、裏から直接出入りできる出入り口を作ったり、持ち前の器用さを発揮して、サッキーや家族の者を喜ばせてくれていた。
この家から200メートルくらい離れた所に、大きな池と田畑を縫うように走る幾筋もの小川があり、休みにはよく笊(ザル)と小さな網を抱えて小魚取りに行っていた。獲物はメダカ、ハエ(ハヤ)、小鮒、ドジョウ、ドンコ、シビンタ、川エビなどだった。たまに「ナマズを獲ったぞ」と言って、ひげ面のナマズを見せてもらったこともあった。一度大きなドンコを獲ったことがあり、1週間ほど泥抜きをした後、お袋に煮てもらって食べたことがある。味は抜群だった。
川からあがると、膝から下をよく蛭(ヒル)に吸い付かれていた。痒いような痛いような変な感じだったし、吸い付かれた所から出血もしていた。この腹立たしい蛭は殺そうとしてもなかなか死なない、生命力が強いというか しわい生き物だった。蛭は小枝の先に頭を付けて裏返しにひっくり返すと、内蔵が乾燥してすぐに死んでしまうことを覚えた。今思うとかなり残酷なことをしていたものだが、当時はそれを何とも思うことはなかった。というより、「このにっくき蛭め、ざまあみろ」という思いだった。
へぼ将棋を覚えたのもこの頃だったが、サッキーは将棋より山崩しの方が得意だった。何となく山が崩れたときのカシャッと言う音が、ハラハラどきどきするだけでなく、将棋で負けても山崩しで逆襲するのが楽しみだった。
数年前両親の墓参りをした折り、この近くを通ったのだが、殆ど住宅地に変わってしまっており、昔の面影は全くなかった。グーグルマップでこの辺りの地図を見ても、今は多くの建物が建ち、賑やかな街に変わってしまっている。
家の近くに済々黌という普通科の県立高校があった。勿論今もあるが、正門を入ると左手に小さな林があり、そこでよくクワガタやカブトムシなどを見つけることが出来た。高校生たちは黄色い帽章を巻いた学生帽をかぶり、随分大きな大人に見えたものだった。後年、黄色い帽章の済々黌と白い袖口章の熊本高校が、熊本県での2大進学校というのを知った。腕白盛りのサッキーは、仲間たちと済々黌の校庭で石投げ合戦を行い、木陰から様子を見ようと顔を出した瞬間、大きな石がサッキーの鼻を直撃した。あの時のガーンと言う、目の前が真っ暗になる感覚というのは今なお経験のないものだ。顔が大きく扁平になったのは、そのときの影響なのだろうか。
その後、サッキーが中学3年(昭和33年)に上がるときの選抜高校野球で、4番打者王投手を擁する優勝候補筆頭の早稲田実業を準決勝で破り、熊本で初の優勝をもたらしたのはこの済々黌高校で、後にも先にも熊本県から高校野球の優勝は出ていない。中学卒業を前に、高校受験の第1志望として選んだ高校が済々黌だったのは、そのような小さな頃の思い出が重なっていたからかも知れない。
済々黌の東隣に熊本大学教育学部があるが、ここで遊んだという記憶はない。その北方に立田山という小高い山があり、紅葉狩りやドングリ拾いによく登ったものだ。家の近くに中学生のお兄さんがおり、サッキーらチビどもを引き連れてよく遊んでくれていた。何度か空気銃を片手に、立田山へ雀捕りに連れて行ってくれたことを憶えている。随分悪ガキだったと思うが、それぞれの場面で、見つける者、撃つ者(当然お兄さんの役)、撃ち落とした雀を捜す者など、役割分担と一致協力というようなことを自然と学んだような気がする。今では中学生が空気銃を撃つなど思いもよらないが、当時は許されていたのだろうか?
親父は酒が好きで、毎晩焼酎で晩酌をしていた。お袋は毎日近くの酒屋で2合ずつくらいの焼酎を買ってきていたようだが、時々私も買いに行かされた。夜暗くなってから酒屋に焼酎やたまには醤油などを買いに行くのは、何となく気恥ずかしくいやなものだった。
写真は、小学1年の入学記念で写したもの。サッキーは前から2列目の左から4人目の真ん丸い顔をした子だ。尚、3列目の左から4人目の男の子は、T君といって後日サッキーが春日小学校に転校した後同じ春日小学校に転校し、卒業の年には同じクラスになるという奇遇な付き合いをすることになった。
下の写真は、小学2年の時で中庭で写したもの。サッキーは、前から2列目の一番左側、当日は快晴で非常に眩しかったのを覚えている。
2011年1月21日金曜日
航跡-その1 ~誕生から小学校入学の頃まで~
1月21日
前のBLOGで「熊本地唄の灯」というテーマを記載したので、つい熊本のことが懐かしく思い出され、サッキー自身のことについてもここで記録しておこうかと、過去の記憶を辿りつつ数回に分けて記述することとする。
(サッキー誕生の頃)
サッキーは、昭和18年4月、熊本駅から北へ約1.5キロほど離れた古大工町という通りにある畳屋の五男として生まれた。親父は明治27年2月(昭和57年4月逝去)、お袋は同35年6月(平成7年9月逝去)の生まれなので、両親が49才と42才の時だった。二男(行雄)、三男(寛)は小さい頃病死したとのことで、兄2人(実、喜八郎)・姉3人(英子(栄子は芸名)、房子、三枝子)の6人兄弟の末っ子として、かなり可愛がられて育ったようだ。
長男・実は大正12年生まれだったので、サッキーが生まれたとき丁度二十歳を迎え、親父の跡取りとしてよく働いていたそうだ。昭和18年というのは、大東亜戦争(両親は、太平洋戦争或いは第2次世界大戦と言わず、こう言っていた。)の真っ只中で、日本軍が本格的な劣勢に向かっていた頃だった。前の年(昭和17年)、日本海軍はミッドウェイ海戦で大敗北を喫し、翌18年4月には作戦の最高責任者である連合艦隊司令長官/山本五十六元帥が戦死している。
農作物など軍が最優先だったこともあってか、食べる物も徐々に少なくなっていた頃、長男はよく大八車で田舎に買い出しに行き、米、野菜、西瓜、芋など、近所に配るほど仕入れて来ていたそうだ。いつも明るく、元気で、畳職人としての腕も優れていたということで、両親の期待は非常に高いものがあったようだ。その兄が昭和19年1月、一枚の赤紙で日本帝国海軍に招集され、同年8月21日、南太平洋に向かって佐世保を出港した艦船とともに、フィリピン沖の海の藻屑と消えた。両親の悲痛は如何ばかりであったろう。子供の頃、お袋からよくこの兄のことを聞かされたものだ。
サッキー自身は、戦争に関する思い出といって特には覚えてないが、トラックの荷台に何人もの疎開家族を乗せて、花岡山の裏手(北側)にある戸坂町の伯母(親父の姉でMさん)の家に何度か疎開した記憶が残っている。戦後、庭に掘った防空壕を埋める作業を見た記憶も微かに残っている。
当時は、ご飯に麦や粟を混ぜて食べるのは当たり前の時代だったが、何故かサッキーだけは白いご飯でないと食べないばかりか、かなり貴重品の部類だった卵を、タマゴと言えず「タガモー、タガモー」と言って、いつも生卵をかけたご飯でないとダダをこねていたようである。貧乏人のくせに贅沢をするという癖は、この頃についたのかも知れない。貰った給料は100%使い果たしてしまう悪い癖は、会社へ入って以来ずっと続いていた。
戦後、全くといっていいほど畳の仕事がなく、親父は畳屋では食って行けないと思い、多分知り合いの薦めもあって、飴作りを始めることとなった。大きな鉄鍋に水飴を溶かし、柱に付けた丸棒にその溶かした透明の水飴を引っかけ、両腕でこね回しては白く変色させ、メリケン粉を撒いた分厚い真名板の上で、延ばしながら飴を鋏で切っていたことを記憶している。
その商売は、2、3年も続いたのだろうか。昭和25年春、親子7人は、サッキーの生まれ故郷である古大工町の土地と家を売り払い、6キロほど北東に行った黒髪町室園(当時三軒町と言っていたと思う)という所で 雑貨兼米屋を営んでいる、遠い親戚のKさんという家の裏にある倉庫を改造した部屋に借家住まいを始めることになった。ここには、約2年3ヶ月ほど、サッキーが小学3年に上ったときまで住むことになった。(後日談だが、サッキーがお年頃の頃、Kさんの奥さんから自分の娘と見合いをしてくれないかという話を貰ったことがある。確かY子ちゃんという可愛い娘で一緒によく遊んだ記憶があるが、今頃どうされていることか?)
借金の額は、当時のお金で数十万円(今の価値なら五百万円程度?)ということだったと聞いているが、その返却のため100坪以上もの(坪数は正確ではないが、かなり広い家だった)市内としては広い土地を売り払ったと言うことだったので、今思うと随分真っ正直というか、ばかな親父だったナーと思う。馬鹿正直の遺伝子は、子であるサッキーにもさらにその子等にも、脈々と生き続けているように思う。
写真は、長兄・実(応召の前20歳の頃?)、サッキーの紐解きの記念(5歳)
前のBLOGで「熊本地唄の灯」というテーマを記載したので、つい熊本のことが懐かしく思い出され、サッキー自身のことについてもここで記録しておこうかと、過去の記憶を辿りつつ数回に分けて記述することとする。
(サッキー誕生の頃)
サッキーは、昭和18年4月、熊本駅から北へ約1.5キロほど離れた古大工町という通りにある畳屋の五男として生まれた。親父は明治27年2月(昭和57年4月逝去)、お袋は同35年6月(平成7年9月逝去)の生まれなので、両親が49才と42才の時だった。二男(行雄)、三男(寛)は小さい頃病死したとのことで、兄2人(実、喜八郎)・姉3人(英子(栄子は芸名)、房子、三枝子)の6人兄弟の末っ子として、かなり可愛がられて育ったようだ。
長男・実は大正12年生まれだったので、サッキーが生まれたとき丁度二十歳を迎え、親父の跡取りとしてよく働いていたそうだ。昭和18年というのは、大東亜戦争(両親は、太平洋戦争或いは第2次世界大戦と言わず、こう言っていた。)の真っ只中で、日本軍が本格的な劣勢に向かっていた頃だった。前の年(昭和17年)、日本海軍はミッドウェイ海戦で大敗北を喫し、翌18年4月には作戦の最高責任者である連合艦隊司令長官/山本五十六元帥が戦死している。
農作物など軍が最優先だったこともあってか、食べる物も徐々に少なくなっていた頃、長男はよく大八車で田舎に買い出しに行き、米、野菜、西瓜、芋など、近所に配るほど仕入れて来ていたそうだ。いつも明るく、元気で、畳職人としての腕も優れていたということで、両親の期待は非常に高いものがあったようだ。その兄が昭和19年1月、一枚の赤紙で日本帝国海軍に招集され、同年8月21日、南太平洋に向かって佐世保を出港した艦船とともに、フィリピン沖の海の藻屑と消えた。両親の悲痛は如何ばかりであったろう。子供の頃、お袋からよくこの兄のことを聞かされたものだ。
サッキー自身は、戦争に関する思い出といって特には覚えてないが、トラックの荷台に何人もの疎開家族を乗せて、花岡山の裏手(北側)にある戸坂町の伯母(親父の姉でMさん)の家に何度か疎開した記憶が残っている。戦後、庭に掘った防空壕を埋める作業を見た記憶も微かに残っている。
当時は、ご飯に麦や粟を混ぜて食べるのは当たり前の時代だったが、何故かサッキーだけは白いご飯でないと食べないばかりか、かなり貴重品の部類だった卵を、タマゴと言えず「タガモー、タガモー」と言って、いつも生卵をかけたご飯でないとダダをこねていたようである。貧乏人のくせに贅沢をするという癖は、この頃についたのかも知れない。貰った給料は100%使い果たしてしまう悪い癖は、会社へ入って以来ずっと続いていた。
戦後、全くといっていいほど畳の仕事がなく、親父は畳屋では食って行けないと思い、多分知り合いの薦めもあって、飴作りを始めることとなった。大きな鉄鍋に水飴を溶かし、柱に付けた丸棒にその溶かした透明の水飴を引っかけ、両腕でこね回しては白く変色させ、メリケン粉を撒いた分厚い真名板の上で、延ばしながら飴を鋏で切っていたことを記憶している。
その商売は、2、3年も続いたのだろうか。昭和25年春、親子7人は、サッキーの生まれ故郷である古大工町の土地と家を売り払い、6キロほど北東に行った黒髪町室園(当時三軒町と言っていたと思う)という所で 雑貨兼米屋を営んでいる、遠い親戚のKさんという家の裏にある倉庫を改造した部屋に借家住まいを始めることになった。ここには、約2年3ヶ月ほど、サッキーが小学3年に上ったときまで住むことになった。(後日談だが、サッキーがお年頃の頃、Kさんの奥さんから自分の娘と見合いをしてくれないかという話を貰ったことがある。確かY子ちゃんという可愛い娘で一緒によく遊んだ記憶があるが、今頃どうされていることか?)
借金の額は、当時のお金で数十万円(今の価値なら五百万円程度?)ということだったと聞いているが、その返却のため100坪以上もの(坪数は正確ではないが、かなり広い家だった)市内としては広い土地を売り払ったと言うことだったので、今思うと随分真っ正直というか、ばかな親父だったナーと思う。馬鹿正直の遺伝子は、子であるサッキーにもさらにその子等にも、脈々と生き続けているように思う。
写真は、長兄・実(応召の前20歳の頃?)、サッキーの紐解きの記念(5歳)
2011年1月18日火曜日
サッキータイム ~熊本地唄の灯~
1月18日
古い本や大学時代のテキストなど今後殆んど使用することがないと思われるものを整理していたら、昭和61年10月15日付けの熊本日日新聞の記事が出てきた。見るとサッキーの長姉・栄子に関する記事で、見出しには「守ろう熊本地唄の灯」と書いてあった。
姉はサッキーより18歳も年上で、子供のころから親代わりに可愛がってくれていた。サッキーは末っ子の甘えん坊で、姉は大学の学費などの援助もしてくれていた。
姉は幼いときから目と足が悪く、母(ナツ)は、姉が将来、箏と三味線で独り立ちが出来るようにと、手習いを始めさせたのだ。姉は85歳となった今も健在で、熊本ではちょっと名の売れた地唄のお師匠さんである。5年前(2006年)に熊本県文化懇話会から、熊本での地唄の普及活動が認められて功労賞をもらっている。
上記新聞記事は、その姉がどういう経緯で地唄を習い、どのような活動をしてきたかが分かる記事だったし、身内のことでやや躊躇いもあったが、熊本地唄の系譜など関係者にも興味ある内容と思ったので、あえてこのBLOGで紹介することとした。(斜線部が記事内容)
(昭和61年(1986)10月15日付熊本日日新聞より)
守ろう熊本地唄の灯
生田流地唄・筝曲 斉藤栄子さん
私は生来、目が悪く、学校に行っても目がうずくものですから下ばかり向いているようなことで、小さい時は母(ナツさん、八十五歳)に連れられて町の眼医者という眼医者をよく回りました。生家は古大工町の畳店。長女でしたが、本当に失明寸前までいき、それでは耳の楽しみを持って生きていけるようにと、周囲の勧めで地唄(三弦、筝曲)を習うことになったのです。数え年十三歳でした。
下河原公園の近くに財津多寿という先生がおられ、この方が手ほどきの師匠です。当時五十を過ぎた人で、財津先生の師匠は木谷寿恵さん(1882~1953)。長谷検校(幸輝)の門下の方ですね。当時は知りませんでしたが、財津先生は熊本に残る古曲の継承者の一人だったわけですね。
財津先生は自分の芸を継ぐ少女弟子(私のこと)がご自慢らしく、お正月には「門(かど)弾き」といって筝曲の先生宅などを回り、お座敷で私に一曲弾かせるようなことをさせました。ある時は成道寺の湧水の上にある岩畳に私を座らせて演奏させ、「水の音に負けますよ」と言っては自分は御堂で一人、私の演奏を聞いておられました。
四、五年して財津先生は八代へ転居され、鳥居虚霧洞先生(琴古流尺八、1883~1970)の勧めで高野カヨ先生(1899~1982、熊日社会賞)門下生となりました。名所づくしや松づくしといった手ほどきをやり直しましたが、毎日、弁当持参で先輩弟子たちの練習を聞いて過ごしました。
今の音楽は耳で覚えなくて目(譜)ばかり、目の音楽のようですが、私達は耳、聞くことが勉強でしたよ。
高野先生には戦後もずっと、師弟の礼をとりましたが、51年、「もうこれ以上教えることもないし、ほかの先生については」と言われ、52年から安部桂子先生(東京、芸術祭賞受賞)についています。
阿部先生は熊本の地唄を東京に広められた川瀬里子師のご門下で、九州系三弦の、在京の伝承者です。来年、米寿ですが、まだ第一線の演奏者ですよ。
かつて宮城道雄もその音を学ぶためにやって来たという熊本の地唄、三弦、筝曲の世界。いまの東京・生田流は熊本が生んだ演奏家川瀬里子、福田栄香といった方々が上京して広めたんですね。熊本地唄の灯を消してはなりませんね。
熊本にも私と同年代のいい先生方がおられます。また同じ三弦の中津栄子さん(八十)とはよく弾き合わせをして楽しみます。ほんとに楽しいですよ。「今日は私が替え手を」「それではあなたが本手を」と言い合って合わせる(合奏)のですが、やはり私は三味線がつくづく好きなのです。
長くやってますと座りだこのほか撥(ばち)をにぎる右手の小指のところがくぼんできます。左手の指の頭も硬くなりますね。この指先を糸道(いとみち)といいますけど、この糸道がほどよく硬くないといい音はでませんね。むろん撥も硬く握りしめるものではありませんね。私は入院中でも病室を抜けだしてけいこ場に帰り、弾くんですよ。糸道がなまりませんようにね。それから楽器も大切ですね。三弦は絹糸ですが、一ヵ所でも折れないように張らないと(音が)だめですよ。
「里の春」「残月」「蜑(あま)小舟」「八重衣」など古曲にいい唄がたくさんありますね。高野先生はここをこう弾かれたなあ、阿部先生はまた違う曲想をお持ちだ・・・などと、私は演奏したり、お弟子さんと向き合う時、私の耳に残っている音を確かめ確かめ、ほんとに耳を澄まして自分も弾くんですよ。
◇さいとう・えいこ 大正十四年生まれ。熊本市細工町二。「双葉会」主宰
写真は、上の2枚は熊日新聞の記事。
3枚目の写真は、八橋検校から始まる生田流筝曲の系譜で、熊本地唄は長谷検校に始まることが分かる。氏名に赤○を付した人は、記事に出てくる方たちである。姉の手ほどきの先生・財津多寿先生は記載がなかったので手書きしている。
詳しくはhttp://www.kumahou.com/nagatani/chika05.htmlを参照。
下段に太い赤○で囲んだ斉藤栄子が載っている。そこに手書きされた松野孝子は姪(妹(サッキーからは姉)の子)で、現在姉・栄子の後継者として地唄(箏&三弦)の指導をしている。
最下段の写真右が姉で、左が姪の孝子(2009年10月5日撮影)。
古い本や大学時代のテキストなど今後殆んど使用することがないと思われるものを整理していたら、昭和61年10月15日付けの熊本日日新聞の記事が出てきた。見るとサッキーの長姉・栄子に関する記事で、見出しには「守ろう熊本地唄の灯」と書いてあった。
姉はサッキーより18歳も年上で、子供のころから親代わりに可愛がってくれていた。サッキーは末っ子の甘えん坊で、姉は大学の学費などの援助もしてくれていた。
姉は幼いときから目と足が悪く、母(ナツ)は、姉が将来、箏と三味線で独り立ちが出来るようにと、手習いを始めさせたのだ。姉は85歳となった今も健在で、熊本ではちょっと名の売れた地唄のお師匠さんである。5年前(2006年)に熊本県文化懇話会から、熊本での地唄の普及活動が認められて功労賞をもらっている。
上記新聞記事は、その姉がどういう経緯で地唄を習い、どのような活動をしてきたかが分かる記事だったし、身内のことでやや躊躇いもあったが、熊本地唄の系譜など関係者にも興味ある内容と思ったので、あえてこのBLOGで紹介することとした。(斜線部が記事内容)
(昭和61年(1986)10月15日付熊本日日新聞より)
守ろう熊本地唄の灯
生田流地唄・筝曲 斉藤栄子さん
私は生来、目が悪く、学校に行っても目がうずくものですから下ばかり向いているようなことで、小さい時は母(ナツさん、八十五歳)に連れられて町の眼医者という眼医者をよく回りました。生家は古大工町の畳店。長女でしたが、本当に失明寸前までいき、それでは耳の楽しみを持って生きていけるようにと、周囲の勧めで地唄(三弦、筝曲)を習うことになったのです。数え年十三歳でした。
下河原公園の近くに財津多寿という先生がおられ、この方が手ほどきの師匠です。当時五十を過ぎた人で、財津先生の師匠は木谷寿恵さん(1882~1953)。長谷検校(幸輝)の門下の方ですね。当時は知りませんでしたが、財津先生は熊本に残る古曲の継承者の一人だったわけですね。
財津先生は自分の芸を継ぐ少女弟子(私のこと)がご自慢らしく、お正月には「門(かど)弾き」といって筝曲の先生宅などを回り、お座敷で私に一曲弾かせるようなことをさせました。ある時は成道寺の湧水の上にある岩畳に私を座らせて演奏させ、「水の音に負けますよ」と言っては自分は御堂で一人、私の演奏を聞いておられました。
四、五年して財津先生は八代へ転居され、鳥居虚霧洞先生(琴古流尺八、1883~1970)の勧めで高野カヨ先生(1899~1982、熊日社会賞)門下生となりました。名所づくしや松づくしといった手ほどきをやり直しましたが、毎日、弁当持参で先輩弟子たちの練習を聞いて過ごしました。
今の音楽は耳で覚えなくて目(譜)ばかり、目の音楽のようですが、私達は耳、聞くことが勉強でしたよ。
高野先生には戦後もずっと、師弟の礼をとりましたが、51年、「もうこれ以上教えることもないし、ほかの先生については」と言われ、52年から安部桂子先生(東京、芸術祭賞受賞)についています。
阿部先生は熊本の地唄を東京に広められた川瀬里子師のご門下で、九州系三弦の、在京の伝承者です。来年、米寿ですが、まだ第一線の演奏者ですよ。
かつて宮城道雄もその音を学ぶためにやって来たという熊本の地唄、三弦、筝曲の世界。いまの東京・生田流は熊本が生んだ演奏家川瀬里子、福田栄香といった方々が上京して広めたんですね。熊本地唄の灯を消してはなりませんね。
熊本にも私と同年代のいい先生方がおられます。また同じ三弦の中津栄子さん(八十)とはよく弾き合わせをして楽しみます。ほんとに楽しいですよ。「今日は私が替え手を」「それではあなたが本手を」と言い合って合わせる(合奏)のですが、やはり私は三味線がつくづく好きなのです。
長くやってますと座りだこのほか撥(ばち)をにぎる右手の小指のところがくぼんできます。左手の指の頭も硬くなりますね。この指先を糸道(いとみち)といいますけど、この糸道がほどよく硬くないといい音はでませんね。むろん撥も硬く握りしめるものではありませんね。私は入院中でも病室を抜けだしてけいこ場に帰り、弾くんですよ。糸道がなまりませんようにね。それから楽器も大切ですね。三弦は絹糸ですが、一ヵ所でも折れないように張らないと(音が)だめですよ。
「里の春」「残月」「蜑(あま)小舟」「八重衣」など古曲にいい唄がたくさんありますね。高野先生はここをこう弾かれたなあ、阿部先生はまた違う曲想をお持ちだ・・・などと、私は演奏したり、お弟子さんと向き合う時、私の耳に残っている音を確かめ確かめ、ほんとに耳を澄まして自分も弾くんですよ。
◇さいとう・えいこ 大正十四年生まれ。熊本市細工町二。「双葉会」主宰
写真は、上の2枚は熊日新聞の記事。
3枚目の写真は、八橋検校から始まる生田流筝曲の系譜で、熊本地唄は長谷検校に始まることが分かる。氏名に赤○を付した人は、記事に出てくる方たちである。姉の手ほどきの先生・財津多寿先生は記載がなかったので手書きしている。
詳しくはhttp://www.kumahou.com/nagatani/chika05.htmlを参照。
下段に太い赤○で囲んだ斉藤栄子が載っている。そこに手書きされた松野孝子は姪(妹(サッキーからは姉)の子)で、現在姉・栄子の後継者として地唄(箏&三弦)の指導をしている。
最下段の写真右が姉で、左が姪の孝子(2009年10月5日撮影)。
2011年1月17日月曜日
サッキータイム ~妖怪イヌジマ~
1月15日(土)
岡山市奉還町のスペースエキチカという古民家を使ったギャラリーで、犬島で生まれた「妖怪イヌジマ」の展覧会があったので、観に行った。
狭い空間に若者がたくさん見学に来ていた。何とも可愛い作品であることか!ぬいぐるみといった趣だが、ファンが大勢いるようだ。顔の可愛さに比べ、両足だけは妙にリアルな形をしていた。
公式HP(http://artinkochi.flier.jp/inujima/)によると、妖怪イヌジマについて次のように説明されている。(斜線部は引用)
妖怪イヌジマ とは・・・
瀬戸内海に浮かぶ島、犬島。
妖怪イヌジマは、
犬島の百年前の銅の精錬所跡地から出る黒い砂から産まれた妖怪です。
黒い砂でできた瞳を持ち、犬島のことを伝えるためにビンに詰まった妖怪。
それが妖怪イヌジマの原点です。
ビンに詰めた手紙が、遠い島から海を流れてどこかへ届くように、
イヌジマを通じて、どこかの誰かに島のメッセージが届き、
島を愛する人が増えますように・・・。
そんな思いで、妖怪イヌジマは、立体作品単体としてだけでなく、
立体を媒体としたプロジェクト作品として展開しています。
作家の石井葉子さんは福山出身の若いアーティストで、そのプロフィールから見ると、霊界とか魔界、生命体などにテーマを持った方なのか?
プロフィール
2000~2004年 "神""ヒト"をテーマに、鑑賞者が操作・体験する事で完成する大型の参加型作品を発表。
2002~2005年 蟲をモチーフに、生命の循環をテーマにした小作品シリーズ"永久機関"を制作。
2003~ "土地に憑く者"としての異界の者(神・妖怪・蟲等)をモチーフに、"場所由来"の作品を制作。
2006~ 作品妖怪イヌジマを媒体に、島に人を還元する作品[妖怪イヌジマプロジェクト]を展開。
何れ又、犬島も再訪したいものだ。
岡山市奉還町のスペースエキチカという古民家を使ったギャラリーで、犬島で生まれた「妖怪イヌジマ」の展覧会があったので、観に行った。
狭い空間に若者がたくさん見学に来ていた。何とも可愛い作品であることか!ぬいぐるみといった趣だが、ファンが大勢いるようだ。顔の可愛さに比べ、両足だけは妙にリアルな形をしていた。
公式HP(http://artinkochi.flier.jp/inujima/)によると、妖怪イヌジマについて次のように説明されている。(斜線部は引用)
妖怪イヌジマ とは・・・
瀬戸内海に浮かぶ島、犬島。
妖怪イヌジマは、
犬島の百年前の銅の精錬所跡地から出る黒い砂から産まれた妖怪です。
黒い砂でできた瞳を持ち、犬島のことを伝えるためにビンに詰まった妖怪。
それが妖怪イヌジマの原点です。
ビンに詰めた手紙が、遠い島から海を流れてどこかへ届くように、
イヌジマを通じて、どこかの誰かに島のメッセージが届き、
島を愛する人が増えますように・・・。
そんな思いで、妖怪イヌジマは、立体作品単体としてだけでなく、
立体を媒体としたプロジェクト作品として展開しています。
作家の石井葉子さんは福山出身の若いアーティストで、そのプロフィールから見ると、霊界とか魔界、生命体などにテーマを持った方なのか?
プロフィール
2000~2004年 "神""ヒト"をテーマに、鑑賞者が操作・体験する事で完成する大型の参加型作品を発表。
2002~2005年 蟲をモチーフに、生命の循環をテーマにした小作品シリーズ"永久機関"を制作。
2003~ "土地に憑く者"としての異界の者(神・妖怪・蟲等)をモチーフに、"場所由来"の作品を制作。
2006~ 作品妖怪イヌジマを媒体に、島に人を還元する作品[妖怪イヌジマプロジェクト]を展開。
何れ又、犬島も再訪したいものだ。
2011年1月8日土曜日
サッキータイム ~「玉野みなと芸術フェスタ2011」基本計画~
2011年1月8日(土)
今年卯の年、初めての投稿である。
今年の活動も又、芸術フェスタに始まり芸術フェスタに終ることと思うが、その計画は以下の通りとしている。果してうまく運ぶことやら・・・、今年もやるっきゃないか。
1.「玉野みなと芸術フェスタ2011」の方向性と活動方針
(1) これまでの活動の経緯と今後の方向性
2003年に始まった「玉野みなと芸術フェスタ」(以下「フェスタ」という)は、宇野港をアートな港として全国に情報発信することを目的に、当初4年間宇野港域を中心に活動してきた。
その後、フェスタは山田・東児地区の塩田労働者が歌っていた「浜子唄」にスポットを当て、塩作りに始まった玉野の近代歴史と製塩文化が凝縮された東部地区に舞台を移し、地区の歴史・文化とアートの融合を図ることを新たな目的として、歴史遺構とアート散策を楽しめる「たまの東街道展」を開催した。
宇野港竣工100年を迎えた2009年には、宇野港域で立上った宇野・築港まちづくり講座生とともに、同じコンセプトに基づいた歴史展「宇野港100年ものがたり」を開催するとともに、閉じて久しいシャッター街の商店を開けて行う、たった3日のアートイベント「ウノイッチョウダイ」を開催した。短期イベントの限界を感じたフェスタメンバーは、昨年から長期のまちなかアート展「軒先計画」を開催した。又、2009年から東部地区を中心に始まった狂言講座の活動に対しても、新作狂言「野﨑武左衛門」の宇野公演をきっかけに、玉野市における古典芸能を愛でる新たな文化活動の定着を望む声が聞かれるようになった。
玉野市は、明治期に開通した宇野港と大正期に生まれた造船の力により、「船と港のまち」として栄えてきた。戦後の経済一辺倒の時代を経て21世紀に入った現在、物の豊かさから心の豊かさへと価値観が大きく変化、文化や芸術が尊ばれる時代となった。正にこれからの玉野市の進むべき方向性は、アートが溢れる魅力あるまちとして「船と港とアートのまち」と呼ばれるようになることではないかと考える。
「フェスタ2011」は、この方向性に沿った地道で着実な活動を、市民の熱意と英知を結集しながら継続してゆくべきであろうと考えている。
(2) 2011年の活動方針
これまでの活動経緯にもある通り、地域の歴史や文化とアートを融合し地域の個性と魅力を引き出すことにより、地域住民とのCommunication(交流と共感)、Common(文化の共有)、Comfortable(寛ぎと楽しみ)を得ることを、フェスタの目標に据えながら活動してきた。
フェスタは、一昨年から福武教育文化振興財団の3ヶ年継続助成事業に推薦されたことを受け、当初からの念願であった「アートシティ玉野」の実現に一歩でも近づけるため、山田・東児地区(東街道域)~宇野・築港地区(宇野港域)~日比・渋川地区(西街道域)と広域での活動を計画した。3ヶ年計画では、「アートシティ玉野への道」と題して、玉野における芸術文化活動の面的拡がりを目指すこととした。今年は、その3ヶ年計画の最終年を迎え、いよいよ西街道域でも新たな文化的活動を起こすこととする。
東街道域の活動は今年5年目を迎え、まちづくり講座生が研究してきた歴史の集大成を後押しする形で、地域の歴史・文化を楽しく学べるイベントを開催し、地域への愛着を深めてもらうこととする。
宇野港域はフェスタの原点であり、長期的なアート展開を継続するとともに、玉野でしかできない玉野ならではのアートイベントを展開し、地域におけるコミュニティの輪の拡がりに繋げることを目指す。
今年は、初めて西部の日比・渋川地区に進出することを目指すが、先ずは地区住民を中心にしたまちづくり講座を立ち上げ、地域の歴史や文化遺産などを調査する。その調査活動を元に歴史散策マップを作り、関連するイベントを計画・開催する。
「アートシティ玉野」の実現にはまだまだ遠い道のりではあるが、活動の基本は地域の歴史や文化と融合し地域の個性と魅力を引き出すことであり、今後とも地域住民とともに歩む姿勢を貫いてゆく。
2.各イベントの企画概要(案)
(1) 宇野港域イベント
a. まちなかアート展「軒先計画‐Ⅱ」の開催
昨年、宇野・築港地区に人々の視線を集中させる展開を行うために、長期的なアート作品を商店街の軒先に設置する「軒先計画」を展開した。観て楽しく人を導くような作品を宇野港~商店街に続く軒先や店舗に展示し、訪れる観光客や地域住民とのコミュニケーションを図る交流空間とすることを目指し、美術家/清水直人氏の作品「Migratory bird→LIFE」を築港商店街に展示した。
今年から長期的視点で、若手クリエータ(アーティストなど)を築港商店街に呼込む計画を進めることとしているが、彼らが移り住んだ家の軒先に彼ら自身の作品を展示することを、今後の「軒先計画」として進めることとする。商店街の再活性化策としての若手クリエータ移住計画とともに、宇野港域でのパブリックアートを鑑賞しながらまち歩きを楽しめるまちなかアート展「軒先計画‐Ⅱ」を開催する。
b. 「宇高交流アート展(仮称)」の開催
宇野港と高松港を結ぶ宇高航路の開通以来既に100年を過ぎたが、両港間の相互交流については、連絡船やフェリー等交通以外の分野において活発に行われた形跡は殆んど見受けられない。海を隔てて隣り合ったまちのアーティスト同士が同じ目的を持って交流することは、お互いの異文化を知り理解することにより、芸術的感性を高めるとともに自分たちのまちを芸術・文化的観点から見直して行こうという意欲にも繋がる。
そのような効果を期待して、フェスタとして初めて取り組む玉野でしか出来ない玉野ならではのアートイベント「宇高交流アート展(仮称)」を、宇野港商店街にあって玉野の芸術拠点の一つでもある玉野市文化会館BAUHAUSを会場として開催する。開催期間中、相互のアーティストによるワークショップやシンポジウム等も企画、開催する。
(2) 東街道域イベント「たまの東街道2011」
過去4年間進めてきた山田・東児地区での活動を、今年はその集大成の年として歴史・文化に特化した形で、山田まちづくり講座生及び地区住民の方たちと連携しながら、下記アートイベントを実施する。
a. 東街道記念碑・遺構探訪ラリー
山田・東児の広域で活躍してきた歴史人物の記念碑や遺構を訪ね、より深く東街道域の歴史を学ぶための東街道歴史探訪マップを作り、東街道記念碑・遺構探訪ラリーを開催する。
b. 「浜子径」散策ルート作り
昨年、塩の道散策ルートとして旧味野専売支局山田出張所から塩竈神社につながるルートマップと各拠点を示す看板を制作設置し、大変好評を博した。しかし、ルートの東突端に位置する三五の灯台へのアクセスが出来ず、地域住民から何とかして欲しいとの強い要望があった。
そこで今年は、塩竃神社から三五の灯台までの安全なアクセスルート「浜子径」を、地権者であるナイカイ塩業㈱と協力して作り、製塩の歴史をより身近に感じられるようにすることを計画する。
c. 狂言を楽しむ!Vol.4
昨年11月、玉野市民が参加した狂言講座生は、狂言師/田賀屋夙生氏の指導の下、新作狂言「野﨑武左衛門」を東野﨑会館と宇野中学校の2ヶ所で公演、好評を博した。この新作狂言は、入浜式塩田での作業や生活、塩田王・野﨑武左衛門が遺した多大な功績を、明るい笑いと形式美を重んじる「狂言」と言う演劇手法で伝えようとするものである。今年は、野﨑武左衛門の生まれ故郷であり彼の塩田開墾の原点でもある児島で、彼の子孫が遺した迨暇堂を舞台として公演することを計画する。
又、この狂言は、玉野の新たな地域文化として育つことを願って演じられた。そこで今年は、「野﨑武左衛門」に代わる新たな創作狂言にも挑戦することとする。
(3) 西街道域イベント
a. 日比・渋川まちづくり講座(仮称)の立上げ
これまでフェスタは、宇野港域、東街道域の歴史や文化と触れ合う形で活動してきたが、未だ手付かずの日比・渋川を中心とする西街道域についても、古い街並みや歴史を有することから、日比市民センター管内の有志を中心としたまちづくり講座立上げの実現を図ろうと考えている。
講座の立上げ及び運営は、日比市民センター管内有志の方々が主役となって頂き、当委員会は西部地区での新たな展開の足掛かりとして、講座運営を後方から支援する形をとることとする。
b. タマノクルーズ「たまの西海道2010」
宇野港~瀬戸大橋~日比・渋川港を結び、海から観る玉野の景観や竪場島でのみかん狩を楽しみ、日比・渋川地区の名所旧跡を訪ね、日比・渋川地区有力企業の工場見学など、「学び」と「遊び」をテーマとしたクルーズを計画する。
今年卯の年、初めての投稿である。
今年の活動も又、芸術フェスタに始まり芸術フェスタに終ることと思うが、その計画は以下の通りとしている。果してうまく運ぶことやら・・・、今年もやるっきゃないか。
1.「玉野みなと芸術フェスタ2011」の方向性と活動方針
(1) これまでの活動の経緯と今後の方向性
2003年に始まった「玉野みなと芸術フェスタ」(以下「フェスタ」という)は、宇野港をアートな港として全国に情報発信することを目的に、当初4年間宇野港域を中心に活動してきた。
その後、フェスタは山田・東児地区の塩田労働者が歌っていた「浜子唄」にスポットを当て、塩作りに始まった玉野の近代歴史と製塩文化が凝縮された東部地区に舞台を移し、地区の歴史・文化とアートの融合を図ることを新たな目的として、歴史遺構とアート散策を楽しめる「たまの東街道展」を開催した。
宇野港竣工100年を迎えた2009年には、宇野港域で立上った宇野・築港まちづくり講座生とともに、同じコンセプトに基づいた歴史展「宇野港100年ものがたり」を開催するとともに、閉じて久しいシャッター街の商店を開けて行う、たった3日のアートイベント「ウノイッチョウダイ」を開催した。短期イベントの限界を感じたフェスタメンバーは、昨年から長期のまちなかアート展「軒先計画」を開催した。又、2009年から東部地区を中心に始まった狂言講座の活動に対しても、新作狂言「野﨑武左衛門」の宇野公演をきっかけに、玉野市における古典芸能を愛でる新たな文化活動の定着を望む声が聞かれるようになった。
玉野市は、明治期に開通した宇野港と大正期に生まれた造船の力により、「船と港のまち」として栄えてきた。戦後の経済一辺倒の時代を経て21世紀に入った現在、物の豊かさから心の豊かさへと価値観が大きく変化、文化や芸術が尊ばれる時代となった。正にこれからの玉野市の進むべき方向性は、アートが溢れる魅力あるまちとして「船と港とアートのまち」と呼ばれるようになることではないかと考える。
「フェスタ2011」は、この方向性に沿った地道で着実な活動を、市民の熱意と英知を結集しながら継続してゆくべきであろうと考えている。
(2) 2011年の活動方針
これまでの活動経緯にもある通り、地域の歴史や文化とアートを融合し地域の個性と魅力を引き出すことにより、地域住民とのCommunication(交流と共感)、Common(文化の共有)、Comfortable(寛ぎと楽しみ)を得ることを、フェスタの目標に据えながら活動してきた。
フェスタは、一昨年から福武教育文化振興財団の3ヶ年継続助成事業に推薦されたことを受け、当初からの念願であった「アートシティ玉野」の実現に一歩でも近づけるため、山田・東児地区(東街道域)~宇野・築港地区(宇野港域)~日比・渋川地区(西街道域)と広域での活動を計画した。3ヶ年計画では、「アートシティ玉野への道」と題して、玉野における芸術文化活動の面的拡がりを目指すこととした。今年は、その3ヶ年計画の最終年を迎え、いよいよ西街道域でも新たな文化的活動を起こすこととする。
東街道域の活動は今年5年目を迎え、まちづくり講座生が研究してきた歴史の集大成を後押しする形で、地域の歴史・文化を楽しく学べるイベントを開催し、地域への愛着を深めてもらうこととする。
宇野港域はフェスタの原点であり、長期的なアート展開を継続するとともに、玉野でしかできない玉野ならではのアートイベントを展開し、地域におけるコミュニティの輪の拡がりに繋げることを目指す。
今年は、初めて西部の日比・渋川地区に進出することを目指すが、先ずは地区住民を中心にしたまちづくり講座を立ち上げ、地域の歴史や文化遺産などを調査する。その調査活動を元に歴史散策マップを作り、関連するイベントを計画・開催する。
「アートシティ玉野」の実現にはまだまだ遠い道のりではあるが、活動の基本は地域の歴史や文化と融合し地域の個性と魅力を引き出すことであり、今後とも地域住民とともに歩む姿勢を貫いてゆく。
2.各イベントの企画概要(案)
(1) 宇野港域イベント
a. まちなかアート展「軒先計画‐Ⅱ」の開催
昨年、宇野・築港地区に人々の視線を集中させる展開を行うために、長期的なアート作品を商店街の軒先に設置する「軒先計画」を展開した。観て楽しく人を導くような作品を宇野港~商店街に続く軒先や店舗に展示し、訪れる観光客や地域住民とのコミュニケーションを図る交流空間とすることを目指し、美術家/清水直人氏の作品「Migratory bird→LIFE」を築港商店街に展示した。
今年から長期的視点で、若手クリエータ(アーティストなど)を築港商店街に呼込む計画を進めることとしているが、彼らが移り住んだ家の軒先に彼ら自身の作品を展示することを、今後の「軒先計画」として進めることとする。商店街の再活性化策としての若手クリエータ移住計画とともに、宇野港域でのパブリックアートを鑑賞しながらまち歩きを楽しめるまちなかアート展「軒先計画‐Ⅱ」を開催する。
b. 「宇高交流アート展(仮称)」の開催
宇野港と高松港を結ぶ宇高航路の開通以来既に100年を過ぎたが、両港間の相互交流については、連絡船やフェリー等交通以外の分野において活発に行われた形跡は殆んど見受けられない。海を隔てて隣り合ったまちのアーティスト同士が同じ目的を持って交流することは、お互いの異文化を知り理解することにより、芸術的感性を高めるとともに自分たちのまちを芸術・文化的観点から見直して行こうという意欲にも繋がる。
そのような効果を期待して、フェスタとして初めて取り組む玉野でしか出来ない玉野ならではのアートイベント「宇高交流アート展(仮称)」を、宇野港商店街にあって玉野の芸術拠点の一つでもある玉野市文化会館BAUHAUSを会場として開催する。開催期間中、相互のアーティストによるワークショップやシンポジウム等も企画、開催する。
(2) 東街道域イベント「たまの東街道2011」
過去4年間進めてきた山田・東児地区での活動を、今年はその集大成の年として歴史・文化に特化した形で、山田まちづくり講座生及び地区住民の方たちと連携しながら、下記アートイベントを実施する。
a. 東街道記念碑・遺構探訪ラリー
山田・東児の広域で活躍してきた歴史人物の記念碑や遺構を訪ね、より深く東街道域の歴史を学ぶための東街道歴史探訪マップを作り、東街道記念碑・遺構探訪ラリーを開催する。
b. 「浜子径」散策ルート作り
昨年、塩の道散策ルートとして旧味野専売支局山田出張所から塩竈神社につながるルートマップと各拠点を示す看板を制作設置し、大変好評を博した。しかし、ルートの東突端に位置する三五の灯台へのアクセスが出来ず、地域住民から何とかして欲しいとの強い要望があった。
そこで今年は、塩竃神社から三五の灯台までの安全なアクセスルート「浜子径」を、地権者であるナイカイ塩業㈱と協力して作り、製塩の歴史をより身近に感じられるようにすることを計画する。
c. 狂言を楽しむ!Vol.4
昨年11月、玉野市民が参加した狂言講座生は、狂言師/田賀屋夙生氏の指導の下、新作狂言「野﨑武左衛門」を東野﨑会館と宇野中学校の2ヶ所で公演、好評を博した。この新作狂言は、入浜式塩田での作業や生活、塩田王・野﨑武左衛門が遺した多大な功績を、明るい笑いと形式美を重んじる「狂言」と言う演劇手法で伝えようとするものである。今年は、野﨑武左衛門の生まれ故郷であり彼の塩田開墾の原点でもある児島で、彼の子孫が遺した迨暇堂を舞台として公演することを計画する。
又、この狂言は、玉野の新たな地域文化として育つことを願って演じられた。そこで今年は、「野﨑武左衛門」に代わる新たな創作狂言にも挑戦することとする。
(3) 西街道域イベント
a. 日比・渋川まちづくり講座(仮称)の立上げ
これまでフェスタは、宇野港域、東街道域の歴史や文化と触れ合う形で活動してきたが、未だ手付かずの日比・渋川を中心とする西街道域についても、古い街並みや歴史を有することから、日比市民センター管内の有志を中心としたまちづくり講座立上げの実現を図ろうと考えている。
講座の立上げ及び運営は、日比市民センター管内有志の方々が主役となって頂き、当委員会は西部地区での新たな展開の足掛かりとして、講座運営を後方から支援する形をとることとする。
b. タマノクルーズ「たまの西海道2010」
宇野港~瀬戸大橋~日比・渋川港を結び、海から観る玉野の景観や竪場島でのみかん狩を楽しみ、日比・渋川地区の名所旧跡を訪ね、日比・渋川地区有力企業の工場見学など、「学び」と「遊び」をテーマとしたクルーズを計画する。
登録:
投稿 (Atom)