1月27日
(熊本市立花陵中学校時代)
小学校卒業の時、本当に自分は中学へ行けるのだろうかと、不安と希望の混ざり合った複雑な気持ちだった。中学校区には、春日小の他、古町小と白川小の3小学校があり、新たな友達もでき、春日小時代より一段とたちの悪い悪ガキどもとつき合うようにもなった。1年に入学したときの成績はまあまあだったのだが、遊び呆けたその後は遊んだ通りのものとなった。
3年になったとき、2年の時から引き続いての担任だった音楽担当の甲斐先生が「4月から吹奏楽部を作るぞ、誰か入りたい者はいないか。」と言うので、直ぐに手を挙げトランペットが吹きたいと申し出た。吹いてみるとこれが中々難しく、唇の分厚いサッキーにはトランペットの音がどうしても出ず、色々試した結果、小バスというマウスピースがやや大きいラッパを吹くことになった。この楽器はメロディが余り無く、ほぼリズムだけを演奏するもので、面白くないナーと思っていた。しかし、やっているうちこれもリズム感がないとうまくメロディに合わないし、大きな音を出し過ぎると全体を台無しにしてしまう。音楽の三要素の中でメロディも勿論重要ではあるが、それよりズーっとリズムとハーモニーの方が重要であることを、身をもって感じた。
2学期後半に行われた文化祭での発表を最後にクラブ活動をやめ、本格的な受験勉強に入った。大学を目指す普通科にするか、高卒で就職する実業系を受験べきか、高校選択に相当悩んた。
そのころ、誰からか少年自衛隊(今の少年工科学校)のことを聞き、ここを出たら自動的に防衛大学に行けると錯覚したサッキーは、高校受験の予行演習も兼ねて受験することとした。花陵中学から同期10人が受験、サッキーだけが1次試験に合格、さらに2次試験にも合格した。この年少年自衛隊は20数人に1人程度の難関だった。当時、全国的に中でも九州と東北地方には、サッキーのような貧乏な家庭の子が多く、少年自衛隊を目指す若者が相当多かったようだ。熊本県立済々黌高校にも合格したサッキーはどちらに進むべきかかなり迷った。我が家の状況を思うとサッキーは、お金も貰えて勉強もでき、さらには防衛大学まで上がれると誤解していた、生徒教育隊に行くことを決意した。人生の岐路を自分で決めた初めてのことだった。
自分の長男(実)を軍隊でなくした両親が、今度は末っ子(サッキー)を自衛隊に送り出すと言うことにどんな思いを抱いたのか、推し量ることは出来ない。戦後の自衛隊については、戦時中の軍隊とは違うイメージ、一種の勤め人集団と見ていたのかも知れない。両親はサッキーが少年自衛隊に行くことに特段の反対もせず、2年後自衛隊を辞め高校・大学に行くと言ったときも、反対はしなかった。子供の自主性を尊重したというか放任主義的というか、サッキー自身は色んな節目で、あらゆることを自分自身で決めることが出来、非常によかったと思っている。
親父(善太)は昭和57年4月88才、母(ナツ)は平成6年9月92才で亡くなった。苦労の多い人生だったと思うが、子供達には恵まれていたのではないかと思う。
写真は、上から中学2年の時のクラス写真(サッキーは中段の真ん中)。中央サングラスの先生が担任の甲斐八千雄先生。次の写真は中3の時にあった修学旅行で(サッキーは右端)。下の写真は中学3年の卒業前に撮った写真(サッキーは先生を除く前列の右から二人目)
1 件のコメント:
ぼくも花陵中出身です!
去年卒業しました!!
なんか先輩って感じがして新鮮です(笑)
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