1月21日
前のBLOGで「熊本地唄の灯」というテーマを記載したので、つい熊本のことが懐かしく思い出され、サッキー自身のことについてもここで記録しておこうかと、過去の記憶を辿りつつ数回に分けて記述することとする。
(サッキー誕生の頃)
サッキーは、昭和18年4月、熊本駅から北へ約1.5キロほど離れた古大工町という通りにある畳屋の五男として生まれた。親父は明治27年2月(昭和57年4月逝去)、お袋は同35年6月(平成7年9月逝去)の生まれなので、両親が49才と42才の時だった。二男(行雄)、三男(寛)は小さい頃病死したとのことで、兄2人(実、喜八郎)・姉3人(英子(栄子は芸名)、房子、三枝子)の6人兄弟の末っ子として、かなり可愛がられて育ったようだ。
長男・実は大正12年生まれだったので、サッキーが生まれたとき丁度二十歳を迎え、親父の跡取りとしてよく働いていたそうだ。昭和18年というのは、大東亜戦争(両親は、太平洋戦争或いは第2次世界大戦と言わず、こう言っていた。)の真っ只中で、日本軍が本格的な劣勢に向かっていた頃だった。前の年(昭和17年)、日本海軍はミッドウェイ海戦で大敗北を喫し、翌18年4月には作戦の最高責任者である連合艦隊司令長官/山本五十六元帥が戦死している。
農作物など軍が最優先だったこともあってか、食べる物も徐々に少なくなっていた頃、長男はよく大八車で田舎に買い出しに行き、米、野菜、西瓜、芋など、近所に配るほど仕入れて来ていたそうだ。いつも明るく、元気で、畳職人としての腕も優れていたということで、両親の期待は非常に高いものがあったようだ。その兄が昭和19年1月、一枚の赤紙で日本帝国海軍に招集され、同年8月21日、南太平洋に向かって佐世保を出港した艦船とともに、フィリピン沖の海の藻屑と消えた。両親の悲痛は如何ばかりであったろう。子供の頃、お袋からよくこの兄のことを聞かされたものだ。
サッキー自身は、戦争に関する思い出といって特には覚えてないが、トラックの荷台に何人もの疎開家族を乗せて、花岡山の裏手(北側)にある戸坂町の伯母(親父の姉でMさん)の家に何度か疎開した記憶が残っている。戦後、庭に掘った防空壕を埋める作業を見た記憶も微かに残っている。
当時は、ご飯に麦や粟を混ぜて食べるのは当たり前の時代だったが、何故かサッキーだけは白いご飯でないと食べないばかりか、かなり貴重品の部類だった卵を、タマゴと言えず「タガモー、タガモー」と言って、いつも生卵をかけたご飯でないとダダをこねていたようである。貧乏人のくせに贅沢をするという癖は、この頃についたのかも知れない。貰った給料は100%使い果たしてしまう悪い癖は、会社へ入って以来ずっと続いていた。
戦後、全くといっていいほど畳の仕事がなく、親父は畳屋では食って行けないと思い、多分知り合いの薦めもあって、飴作りを始めることとなった。大きな鉄鍋に水飴を溶かし、柱に付けた丸棒にその溶かした透明の水飴を引っかけ、両腕でこね回しては白く変色させ、メリケン粉を撒いた分厚い真名板の上で、延ばしながら飴を鋏で切っていたことを記憶している。
その商売は、2、3年も続いたのだろうか。昭和25年春、親子7人は、サッキーの生まれ故郷である古大工町の土地と家を売り払い、6キロほど北東に行った黒髪町室園(当時三軒町と言っていたと思う)という所で 雑貨兼米屋を営んでいる、遠い親戚のKさんという家の裏にある倉庫を改造した部屋に借家住まいを始めることになった。ここには、約2年3ヶ月ほど、サッキーが小学3年に上ったときまで住むことになった。(後日談だが、サッキーがお年頃の頃、Kさんの奥さんから自分の娘と見合いをしてくれないかという話を貰ったことがある。確かY子ちゃんという可愛い娘で一緒によく遊んだ記憶があるが、今頃どうされていることか?)
借金の額は、当時のお金で数十万円(今の価値なら五百万円程度?)ということだったと聞いているが、その返却のため100坪以上もの(坪数は正確ではないが、かなり広い家だった)市内としては広い土地を売り払ったと言うことだったので、今思うと随分真っ正直というか、ばかな親父だったナーと思う。馬鹿正直の遺伝子は、子であるサッキーにもさらにその子等にも、脈々と生き続けているように思う。
写真は、長兄・実(応召の前20歳の頃?)、サッキーの紐解きの記念(5歳)
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