2011年1月24日月曜日

航跡-その3 ~春日小学校時代~

1月24日

(春日小学校時代)
小学3年に上がって間もない6月、黒髪小学校から熊本駅の裏手にある春日小学校へ転校となった。担任は、田崎先生という優しい女の先生だった。他の人はどうか分からないが、人間てずいぶ妙なことを覚えているもので、初めて先生の後ろについて教室に連れて行ってもらったとき、えらく長いスカートをはいた先生だなーと思ったことを覚えている。多分当時は膝くらいが流行だったと思うのだが、足首の一寸上くらいの長さで、形として不釣り合いな感じがするなーと思ったものだ。それにしてもかなりませた坊主だったのだろうか。その前の年くらいにオードリー・ヘップバーンがショートカットのヘップバーン刈りで一斉を風靡したのが気になったり、ラジオから流れる歌を聴いて、ひばりって歌が上手いナーと思ったりもしていた。
サッキーの一番上の姉は、4才の時目を患い両目の視力が殆どなくなり、更に15才の時には左膝が関節炎で曲がらなくなり、以来ずっと足が不自由になっている。そんな姉の将来を案じたお袋は、姉に地唄の箏と三弦(三味線)の修行を始めさせた。姉は 音感が人一倍よかったらしく、稽古を始めて三日目には確実な音合わせが出来るようになったそうだ。黒髪に移った頃には既に師範の免状をもらい、独り立ちしていた。その前古大工町にいた頃、高名と言われていた尺八や箏の先生などがよく家に来て、合奏をしたり演奏会の話をしたりしていたのを覚えている。後年、サッキーが少年自衛隊を辞め高校へ行き直し大学へ行くことが出来たのも、この姉の資金援助があったお陰だ。姉は今も熊本で、この道の第一人者として活躍している。(1月18日のBLOG「熊本地唄の灯」参照)
たまたま田崎先生は姉のお弟子さんで、私をよく可愛がってくれたような気がする。誉められるとすぐ調子に乗る方で、この頃から少し勉強もするようになったようだ。その年(昭和27年)の7月、熊本に大雨が降り大洪水に見舞われた。白川に架かった石と木の橋は、全て上流の阿蘇から流れてきた大量の水と木材で押し流されてしまった。唯一助かったのは、鉄で出来たアーチ型の吊り橋・長六橋だけだった。その後、熊本の橋はこれに習って全て鉄製に造り替えた。その後、工事現場で日立造船のマークがあったのを覚えているが、造船所が何で橋を造るんかな、船と橋とは同じ技術なんかなーと不思議に思ったものだ。
その大雨の日の夕食時、サッキーは我が家の仕事場に光る物が蛇のように入ってくるのを見つけた。すると瞬く間に水が溢れ、2時間も経たない内に床上まで浸かってしまった。新しい住居(とは言ってもここも倉庫を改造した家)は2階建てだったので、商品の畳や家財道具などを必死にバケツリレーで2階にあげた。火事場の馬鹿力ではなく、水場の馬鹿力とでも言えるくらいの力強さだった。親父は夕方から白川方面に洪水の状況を見に行ったらしく不在だったので、みんな必死に運び終わると、今度は親父の心配で大騒動だった。家の前は川のように水が流れどうすることも出来ない。これは親父88年の人生で、事業失敗に次ぐ大きな失敗と言っていいだろう。よく流されずに帰って来れたと、お袋は胸をなでおろしていた。
4年生の時、初めて男の先生が担任となった。野尻先生という優しい男前の先生だった。男の先生でもオルガンが弾けると言うことを知ったのは、驚きの一つだった。何をするにもスマートで分かりやすい先生だった。秋の頃、名前は忘れたが、同級の女の子が学校に来なくなった。先生は、「水辺で遊んでいて毒が入ったみたいで、昨日亡くなってしまった。今からみんなでお別れに行こう。」と言った。サッキーの記憶の中では、これが人の葬儀に出た最初のことだった。屹度破傷風だったのだろうと思うが、子供心に命の儚さを感じたものだ。その後、別のクラスのことだが、木登りをしていて高い所から落ちて亡くなった男の子もいた。
5年生になると、学校で習うことも少しずつ高度な内容になったような気がする。例えば、音楽の授業では縦笛やハーモニカが必修となり、算数には時計の計算の仕方(即ち12進法、60進法)が出てきた。最初はなかなか正解が出なかったことを覚えている。放射能の雨に当たると頭が禿げるなどと、噂していたのもこの頃のことだ。第5福竜丸にビキニの水爆実験による死の灰を降らせたのは、サッキーが小学5年、昭和29年3月のことだった。
熊本には、藤崎八幡宮という大きな神社があるが、毎年9月、秋の大祭があり、随兵(ズイビョウ)という豪奢な武者行列が行われる。最近は勇壮な馬追が全国的に有名になりつつあるが、同級生が豆絞りのハッピ姿でその馬追に出るのが羨ましいと思ったのも、5年生の時だった。何せ馬に酒やビールを飲ませて走らせるんで、その暴れようと言ったら大変なものだ。毎年何人かのけが人が出ていた。今でも酒を飲ませているかどうかは分からない。序でにいうと、当時はこの祭りのことをボシタ祭りとも言っていた。小さい頃聞いた話では、加藤清正公が朝鮮征伐からの凱旋で、「滅ぼした、滅ぼした」と気勢を上げながら帰ってきたのが始まりとか言っていたが、真偽のほどはどうなのだろう。今は差別になるとかで、ボシタ祭りとは言わないそうだ。
6年生の時には、よそから転勤してきた松本という男の先生が担任となった。4年の時担任をした野尻先生に少し似た感じがしたが、何かと怒鳴ることが多く非常に怖い先生だったナーというイメージが残っている。でも陰日向のない公平な態度で接してくれ、教え方も上手だったと記憶している。宿題は、自分で問題を作り早く来た者順に黒板に書かせるというものだった。宿題をしてこなかった子にその問題を解答させていた。なかなかユニークな方法だったと思うし、問題を作るために物事をよく考える癖がついたような気がする。生まれて初めて版画を彫ったのも6年の時で、賀正の文字と松の枝越しに飛び立つつがいの鶴を彫り、今でもあれは初めてにしては見事だったナーと思っている。
低学年の頃習字の稽古をしていたが、決して上手に書けてはいなかった。たまたま隣の席に来た友達の字が気に入り、その字を真似て書いているうち、何となく綺麗に書けてきたような気になり出した。また、水彩も画家の描いた絵を真似て描いたら、上手に描けたような気がした。字や絵を上手に書きたいと思うなら、上手な人の作品を手本にしてその通りなぞるように真似して行けば、少しずつでも上手になっていくことを実感したのが小学6年の時だ。
春日小学校の北側に花岡山という150メートルくらいの小高い山がある。頂上には仏舎利塔があり、裏手には北岡自然公園という細川家の廟のあるきれいな公園がある。元来走ったりボールを投げたりというスポーツは余り得意な方ではなかったのだが、この山を越えて裏へ回り、さらに隣の万日山の裏を回る約15キロのマラソンには閉口したものだ。最後尾を走る私の横から自転車に乗った松本先生が伴奏してくれ、完走することができたのも、松本先生との嬉しい想い出となっている。

写真は、小学6年の卒業を間近に控えた記念写真である。サッキーは、前列中央(左から5人目)の女の子の横に座った子である。その直ぐ後の先生(左から4人目)が松本先生。

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