2011年12月31日土曜日

東野﨑塩田の碑文

12月31日

愈々2011年最後の日、年末恒例の紅白歌合戦が始まっている。
今日は、今年の芸フェス「たまの東街道」での記念講演で、太田先生から頂いた史料「東野﨑浜塩田の碑文」を紹介しよう。
碑は、玉野市山田にある塩竃神社の境内に建っているが、漢文のため殆んど解読困難なものである。ここには、野﨑武左衛門に始まり、子の常太郎、孫の武吉郎(2代目当主)までの系譜について紹介したものである。
根気よく読まないと中々読みにくいものだが、大事な点は最後の行に集約されているようである。つまり、先達の財を守る困難を克服しようと思えば、創業時の困難を思い起こせということか。

以下にその全文を掲載する。
一部PCにない漢字があって、?マークを入れているが、敬の字の下に弓の字を合わせたもので、ユタメと読ませるそうだ。武左衛門の孫で、成長して武吉郎といい、2代目の当主となる人だ。この方は、明治政府の貴族院議員となり、地域だけでなく国にも尽くされた。児島に迨暇堂と言う大きな邸を作ったことでも有名な人である。今年5月、我が狂言講座の公演を行ったのがこの迨暇堂である。

尚、この碑文の読み方は、山田まちづくり講座の佐藤さんが作られたものである。

東野﨑塩田の碑

(水上清『塩と碑文』より抜萃、別記註を(  )挿入し、註・振り仮名を一部加筆した。)

子与氏(学者の名)曰く、諸侯の宝三は土地・人民・政事なり。然るに政事は人民の為に設けられ、人民は土地に由って生ず。則ち土地は人民・政事の本なり。是の故に国家の利は土地より大なるは莫し。而して兵力を以て之を取るを劫奪(コウダツ)(脅し取るの意)と為し、勢威を以て之を得るを兼并(ケンペイ)(一つに併わすこと)と為し、人を害するに過ぎずして己のみを利す。人と共に利して而して害無きは其れ唯墾闢(コンビャク)(開墾)か。備前の野﨑翁は此に見る有り。資産を擲(ナゲウ)ち心力を労し、畢生(一生)墾闢に従事し、新地を得たるもの勝(アケ)て数ふ可からず。而して東野﨑塩田を最大と為す。地は本(モト)児島郡沼・山田・東田井地・梶岡・上下山阪(坂)・胸上八邨(村)海浜、潟鹵(セキロ)(塩気を含む潟、海瀬)に係る。翁は其の墾(ヒラ)くべきを相し、天保元年六月之を藩主池田侯に請ひ允可(インカ)(許可)を得たり。九年正月始めて工を起し、地を分けて南北両区と為す。南区に就いては逶迤(イイ)(つらなる・つづく形)として土隄(堤)を築くこと長さ弐千参百拾壱(二千三百十一)間、外は石埭(セキタイ)(石にて河水を堰る「いせき」のこと)に副いて以て激浪を捍(フセ)ぎ、内は則ち隆きは削り、汚らわしきは塡(ウズ)め、溝を鑿(ウガ)って田を画し、田には皆軟砂を播き、盧舎(ロシャ)(こや)、器械悉く具(ソナワ)る。実に十二季三月なり。田を得ること柒(七)拾参(十三)町玖(九)反陸(六)畝柒(七)歩其の地を名づけて東野﨑邨(ムラ)と曰(イ)う。官は為に里正(名主のごとき者)を置き之を監せしむ。文久二季五月北区に工を起し、南区の如く三季五月竣(オワリ)を告ぐ。堤千百参拾(三十)間余、田十玖(十九)町捌(八)反玖(九)歩にして其の地を分けて胸上・西田井地両邨に属せしむ。而して人総て南北区を称して東野﨑浜と曰う。蓋し(まさしく)西に野﨑浜有ればなり。両区の塩竈肆拾伍(四十五)舎雇丁五千、指して塩を得ること年凡(オヨ)そ拾万石大いに国家を益し而して己の利も亦貲(ハカ)られず(分からない位多くある)。是より先、翁は野﨑浜等の塩田を闢(ヒラ)き、後又福田邨を墾(ヒラ)く。稲田一時并収(ヘイシュウ)し、其の入富巨萬(万)を致す。而して子孫業を継ぎ益(マスマス)降盛にして、鬱然(ものごとの盛んなること)として山陽道の一大富豪と為れり。史選の所謂素封(ソホウ)(財産があること・大金持)千戸の諸侯と等しき者然るに非ずや。古は土地、皆国君の有する所而して下民偶々新田を墾くも亦佃戸(デンコ)(小作人の意)と為るを免れず。今や王制一新し、民皆地券を賜わる。則ち翁の開きし所の土地は皆其の宝と為り、役使する所の人民、固(モト)より其の宝なり。而して国会の開近きに在り、資産有る者国政を議するを得れば則ち政事も亦将に其の宝と為す、三宝皆既に己に帰し儼然として一諸侯たる豈(どうして)啻(タダ)に昔時素封の比ならんや。翁諱(イミナ)(称号)は弣(ユヅカ)、称して武左衛門、野﨑氏は郡の味野邨の人、晩(オソ)く大里正(大庄屋に同じ)と為り五口(五人扶持)の糧を賜わり、称姓佩刀(ハイトウ)を許され、墾闢の功を賞せらる。其の世系行実は墓碣(ボケツ)に詳(ツマビ)らかなり。子は彇(ユハズ)と曰い、常太郎と称す。克(ヨ)く父の蠱(コ)を幹(ヨク)す(事をよくする意)。不幸にして夭折す。孫を?(ユタメ)と曰い、武吉郎と称し士族に列す。則ち今の主なり。頴敏(エイビン)(さとくかしこくの意)勤倹にして父祖に愧(ハ)じず。明治壬午(ジンゴ)(明治十五年)秋海大いに溢壊(イッカイ)し、両区の堤防・塩田悉く没す。君拮据(キッキョ)(骨折り働く)修補し歳尾(年末)に至って復旧す。癸未(キビ)(明治十六年)の夏、塩を東京博覧会に致し二等賞牌及び金若干を受く。属して曰う、碑を建て不朽の祖功を旌(アラワ)さんと欲すと、遠く図及び状を寄せ余に文を請う。余少時翁を訪う。翁岸然(角だった形)魁梧(カイゴ)(丈高くたくましいこと)深沈にして大度あり。余の為め当時の勤苦を語って曰く、初め土石を風濤乱立の間に投じ以て堤防を築くに随うて成り、随うて頽(クズ)れ、資竭(ツク)し、力弊(ヤブ)れ中止せんと欲すもの数次にして終に能く之を成せり。嗚呼其の崛強(クッキョウ)耐忍なるは古の豪傑の攻城野戦に百敗に屈せず、以て封侯(大名に領地を与え支配者となること)の業を開きし者と何ぞ異らん。之れ子孫たる者、其れ朝夕拳拳(忠勤なるの意)祖功を追念せざる可けんや、乃(スナワ)ち銘を作って曰く。
創業の難は既に往き守成の難方(マサ)に来る。守成の難に処せんと欲すれば唯創業の難を念ぜよ。
明治十七年甲申九月  東京大学教授従五位三島毅撰(詩文を作ること)
     正三位池田茂政篆額(碑上部の篆文の題字)  従五位長炗書
                                  東京吉川黄雲刻字

東野﨑浜に塩水を供給し、作った塩を運ぶための水路ともなっていた汐入川に架かる跳ね橋、その向うの林に塩竃神社がある。
境内の入口付近に、東野﨑塩田の碑がある。碑のアップである。

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