2012年6月21日木曜日

「宇野情話 洲巻長兵衛」の紹介を終えて

6月21日

宇野に残る恐ろしい伝説「簀巻きの長兵衛」の物語を小説風に書かれたものを9回に分けて紹介してきたが、如何だっただろうか?
(9回で終わったのは、苦界に投げ込まれたからではない。)

面白いと言えば面白い物語ではある。しかし、正直小説としての価値には疑問があったし、歴史書としての値打ちは全くない。ただ、この本が昭和10年に書かれた未発表の小説というところに値打ちがあると思うし、恋愛に対する人間の感情というのは、いつの時代も変わらないということがよく分かるという点で価値を感じることができる。
又、宇野の若い衆が色男の長兵衛を嬲り殺し、簀巻きにして獺越の浜に投げ捨てるという残忍な行為に至った経緯も、この筋立てだけではなかなか納得がいかない。彼らが単に悋気だけでこのような一方的な狼藉に及ぶという、単純過ぎる集団だったとは俄かには信じがたい。長兵衛自身にも何らかの落ち度があったとういうのが、人間心理としては正しいような気がする。
それと、長兵衛が浜に放り出された後、宇野の村人が訳の分からぬ奇病に倒れ、それが長兵衛の祟りであろうと恐れた村人たちは、長兵衛の霊を鎮めるためにお地蔵様を作っただけでなく、毎年7月23日に長兵衛の霊を慰めた。その後、今に至るまで連綿と盆踊りが続けられている。そのような後日談もこの小説には書かれてないという点で、やや物足らなさが感じられる。
ただ、間に描かれた挿絵は、当時の姿や風景がうまく描かれ、中々秀逸な絵である。

今回、ここに紹介したのは、このような小説を書いた人が宇野に居たということを紹介したかったからであり、宇野の伝説とその後の対応が今も続いていることの原点を知ってもらいたいと思ったからである。
今があるのは、それを生じさせた歴史と謂れがあるということだ。

2012年6月20日水曜日

宇野情話 洲巻長兵衛(9)

第9話 渦潮 

 今夜は嬪入りの夜だ。
 外には庄屋が迎えに来た花婿の駕籠と、花嫁の駕籠が提灯をつけて、綺麗に並んでいる。駕籠担ぎが勝手の方でよばれていい機嫌になっているらしい。
 仲人役の平左エ門さんや花婿、その庄屋の親戚がずらりと、座敷に礼装をもって待っていた。花嫁の支度を待って貰って帰るのだ。沢山つけられた行灯の灯りの中に、面白い話や、目出たい数々の物語りに花が咲いている。
 それが次の間で衣装の着付けをしている加代の耳にはよく聞えた。
// 嬉しくない結婚式。父母が勝手に決めてしまって、私に嫌な想いをさせるのだ。家へ帰ってから丁度今夜で十七日だ。家に帰ってから、それ衣装だ、箪笥だ、長持だ、結納だ、といって親達の勝手のままに今日まで来てしまった。が、私はどうしてもこのお嫁入りなど出来るものじゃない。二三日したら帰るわ。きっと帰るわ。と固く約束した長さんは、どんな思いで待っていて下さるだろう、長さんは怒っていなさるに相違ない、私がこんなに大きな嘘をついているのだから。
 だって私、お嫁に行きやしないからいいわ、死んだって行きやしないから。帰る時、土橋の上まで見送って下さった長さんは、今どうして待っていて下さるだろう。//
 彼女は、一人思って一人泣いた。
 その中に髪結も済み、衣装の着付けも終った。
 勝手口の方では人の出入りがやかましく賑やかで、人々がみんな悦びの挨拶だ。座敷の方でもわいわいと哄笑がもれて来る。
// 今夜、輿入れか、結婚か、虚栄の為の縁か //
 そう思うと彼女は切迫詰まった今、もう結婚の心などは飛んで、恋しい長兵衛の上に走っていた。
角隠しも着けてしまった。それは夢のようであった。
「一寸、裏に出て夜風に合って来ますワ。」
 彼女は裏に立出でた。
 東の塩田の上にある丸い月が裏山の林に蒼白い影を落している。
// あッ、長さんと一緒に眺めたあの月、祭の前に眺めた夜半の月もあんな色だった。//
 彼女は吾にもなく走り出していた。
 裏の繁みから細い山路へ、山路からとろとろと下って様子を知った田んぼの中へ、田んぼを通り抜けて街道へ、彼女は小走りに走りかけた。
// あ、長さんに会わなきゃ、今夜のこんな有様を話して、許しを乞わなければ、長さん、あの月影を見ながら待っていて下さい。//
 婚礼の盛装のまま彼女は真白く月影にうかんで見える街道を宇野へ、宇野へ、と一散に走り出した。
 十五日程泣きつづけた涙の心も、今日はきれいに拭われてしまった。
 三町程走ると大きな峠にかかる。平生は昼でも恐ろしいこの峠、松と杉と雑木と雑草の生茂る峠の山、黒い巨大な牛の横たわるように見えるこの峠の中も、ごろごろとした凹凸の険しい路も、何の不安もなく、頂まで駆け上った。
// もう四里程行けば宇野だ。//
 彼女は一息に峠を駆け下りた。重たい着物と帯が邪魔になって仕方がない。パッと着物の裾を端折った。頭がくらくらする。手を当てて見れば大きな島田に角かくしがかかっている。
「こんな物は用がない。」
 傍らの道草の中へ投げ込んだ。
 峠を下り切ると右手は山、左手は海、海と山の境が僅かな一本の砂浜路、長く長く何里となく続くこの道を、一生懸命で走り続けた。蒼白い月の光が何物をも深い静寂の中に押沈めていた。
 今夜は波が荒いのか、押寄せた波しぶきが顔のあたりへ飛んで来る。道は走りにくい石ころ混じりの砂浜だ。幾度も転びそうになりながら、
// 長さん待っていてよ。加代は結婚なんかしませんから //
 そう心で思いつめて、どんどんと走った。
 心は焦り焦り跳び続けるけれど脚は心に伴わない、だんだんだんと腰から下が棒のように固く、感覚が次第に失われて来るのを感じた。始めのように石を蹴っても痛くない。物につまずいても容易に起き上れなかった。呼吸が波の音よりも激しく、胸のときめきも大きくなってきた。
 月にうかんだこの水と土との境の一本路を、唯一つの運命の絆の如く、前もいいか後もいいかわきまえなかった。唯この一筋の道、この海岸線のうねりに添った一本の砂浜路が宇野へ通ずる路なんだ。
// 長さんが待っている。長さんの声がする。あ、速く急がなきゃならない。//
 この辺りはもうどこらであろうか、と彼女が右手の家村の方を振り向くと、入り込んだような山の奥に、黄色い灯りがちらちらと散らばって見えた。
// あ、ここは後閑だ。//
// まだまだ宇野は遠い。何故、早く駆けられない。//
 心はもうとっくに、宇野の灯を見、宇野の村を眺めているけれど、体は歩くよりも遅かった。歩いているよりも引きずっているのだ。
 後閑の入江の奥の黄色の灯影も彼女から中々遠ざかろうとはしない。
// ええ、いまいましい。//
 さっきから少しゆるみ掛かって来た帯が気にさわってきた。岡山から舟で買ってきた庄屋の調度の一つ、この羽二重の自慢の帯もけがらわしい。身に着けたい物ではなかった。
 ゆるみかかったのを幸い、ぐるぐるとほどいて手に巻きつけて畳むと、波を目がけて
// ええ癪にさわる。//
 投げ捨てた。
// 帯も着物も大切じゃない、長さんに約束を果たすのが、一番大切なのだ。//
 彼女は、一本の腰紐をほどいて、たすきにかえた。
// 頭にはまだ島田がある。//
 ぐらぐらとゆすっている中に、だんだんと根がゆるみ始めた。強く強く引きむしるようにゆすると、髪はばらばらと洗髪のように後へ流れた。
// これでいい。これでさっぱりしたわ。//
 彼女は運ばない足に鞭打って、心と体の調和しない速さに悩まされながら、漸く田井から宇野越の峠へかかってきた。
「あ、宇野が見える。長さんの宇野だ。」
 蒼い月影が静かに夜の村に降りかかっていた。長兵衛とこの前別れた土橋も、銀色に光る大川の上に見えた。
 長兵衛のいる懐かしい酒屋の倉も家も彼女が奉公先の旦那の大きな邸も、塩田も葭の原も、小さな百姓屋のほの黄色い行灯の灯影も、ずんずんと更けて行く夜のうるんだ月の光の中に安らかな夢を迎えているように、すべてが静寂な村であった。
 彼女は疲労も何もない。足の足袋が破れて血が滲んでいるのさえ判らなかった。冷たい夜風に汗ばんでいる肌もこころよく、峠から真直ぐに松林の中を駆け下った。
 長兵衛と判れた土橋を渡って、田んぼの路を過ぎて村に入ると、直ぐ長兵衛の酒屋へかけった。
 門から玄関へ飛込んで、長さんに逢わして貰いたかった。が、彼女にも未だ理性は失われていなかった。今までどこかにひそんでいた理性が静かに、胸から脳裏へずんずんと蘇ってきた。
// こんな取り乱した姿を人に見られては風が悪い。長さんにこんな帯も着物もバラバラになっているところなど見せたくない。//
 彼女はそう思って、玄関の中へいきなり飛込むことは躊躇された。
// そうだ? //
 彼女はつぶやいて、門の側から塀伝いに長兵衛の部屋の下まで来た。
 窓の下から上を見上げると、部屋の灯がない。實直な長兵衛が夜帳面の整理に、日頃夜中までは消したことのない灯なんだ。それが見えない。
// どうしているのかしらん。長さんの名前を呼んでみよう。// 長さん、長さん。//
夜逢いたくなってやって来る時には、何時もこの窓の下で呼ぶのだったが、今夜に限って返事がない。
 彼女は、又、不安が焦燥と共に胸を固く緊めつけてきた。
// どうしよう。又、困ってしまうわ。//
 仕方なしに門の方へ引かえそうとした時、向うの方の路から沢山の提灯の影がぞろぞろとやってきた。
// なんであろうか。//
 と思って、門と部屋の方に続く塀の窪みに身を屈めていると、
 ぞろぞろとやって来る人々の足音と共に、話声が明瞭になってきた。
// もう到底生きてはいまい。昨日も山捜し、今日は海辺り探し、それに村中総出の有様じゃからナア。もう望みはないよ。//
// 俺もそんな気がする、平生真面目な長兵衛だから、主人の使いに行って二日も三日も帰らずに、他の方へ行っているなんてことは全くない。これ程までに捜して居ないんだから、よくよく居ないんだ。//
// そーら、この前の祭の夜さも、村の若え衆が寄り集まって、彼を袋叩きにしたというではないか。あの時にも半殺しになっていたんだからナア。今度も行方が知れぬのは十中八九まで殺られているのに違いはない。//
 村の年寄った人や中老の人達がゾロゾロと三十人程門の中へ入って行った。
 彼女は、思いがけなくもそれが長兵衛の危難の話であると思うと、悶絶しそうな体を、漸くそこの土壁に支えていた。
// ナント、長兵衛のような素直な男を、どうした事かナア、村の若い奴等の悪戯か、それとも狐の仕業か。だが、あの藤井の海岸のおそごえあたりに散らばっていた、着物の千切れや帯の切れは、ありゃ長兵衛の物に違いねえよ。//
// そうだそうだ。あのあたりに転がっていた下駄や帳面から見ても、もう長兵衛は生きてはいないに決まっている。あすこらで暴れたらしい人間の足跡を見ても分る。殺されて海に投げられたんだよ。//

 長兵衛が不明になって、行方捜査に出掛けた村人達が、その結果の報告を酒屋の主人に告げるべく、そんな話を口々にしながら、門の中から玄関の方へやって行った。
// あの人達が今話しながら通ったことは、みんなほんとうのことなんだ。長さんが居ないのは殺されているに決まっているわ。確かに村の若い人たちに苦しめられ続けたんだもの。もうちっとも間違いッこはないわ。//
 彼女はフラフラとして立上った。
 体中の希望と力がどこへ奪われてしまったのか。さっきまでしまり切った力の泉はどこに行ったのか。山田から一息に走ってきたあの意気は。彼女の頭には、もう何も考える力も求める心も失われてしまっていた。余りに忽然として現れた絶望のみが、空虚な渓となって寒々しげに、体の中を流れて行った。
 足袋はだしの爪先からは、冷たさへ擦り傷の疼きが、キリキリと下腹の方にこみあげて来る。夜の寒さと疲れがにわかに襲ってきた。
// あ、あ、すべてが駄目か? //
 彼女はよろよろよろよろと、あてもなく歩き始めた。黄色い月と蒼い光の中を、何時か道は藤井の海岸であった。
 磯慣松の間を、尚もよろよろとして歩んで行った。
// 村の人たちの言っていたおそごえ。ここがおそごえだ。あの引潮のすさまじい流れの中に、長さんは投げ込まれてしまったのか。//
 沖は引潮が高辺あたりの海へ向けて、恐ろしい速さで、波頭をたてながら渦を巻いて流れていた。気味悪い渦巻きの音が聞こえて来る。
 昔から水死人が流れてきたり、身投げする者が多いこのおそごえには、一本松の下にお地藏様が立てられていた。
// お地藏様に訊いて見よう。//
 幻滅の悲しみに空ろになった心に、そうつぶやいて、彼女がお地藏様に近付きかけた時、
 ちらっと、彼女の目を射るものを砂の中に見つけた。
// 妙に気にかかる。貝殻かしらん。・・
 手を伸ばして拾ってみると、それは千切れて半分になっているかんざしであった。
// あらッ、かんざしだッ。忘れられないこのかんざし、長さんと二人でこの一本のかんざしを割って、半分ずつ肌身離さず持っていようと誓ったこのかんざし。//
 彼女はそれを抱いたまま、蒼い月を眺め入った。
// 長さんがここまで逃れてきて、このかんざしを落としてしまったのだ。この誓いのかんざしを、・・・・・・・・ 私のかんざしも出して見よう。//
 彼女は懐の中から大切そうにかんざしの半分を取り出した。
// 長さんの持っていたのと合して見ようー。//
// アア、このかんざしはぴったりと合うのに、何故、長さん居てくれないの。あの夜、二人で千切ったかんざしのことが想われる・・・・・・・・・・//
// 長さん・・・・・・・・長さん・・・・・・・・//
 渚をあちこちと、よろよろよろよろと歩みながら、声を限りに叫んで見た。答えるものは松風の音と、潮の響きよりなかった。中空に浮んだ丸い月と、ちらばらに輝いている星の光のみが、人の運命を嘲笑うかのように、静かな瞬きを続けていた。
// 加代さ――ん、加代・・・・さあ――ん・・・、加代さあ・・・・・・ん。//
 どこからか、懐かしい長兵衛の声が聞こえて来た。
 彼女は、ふと耳をそば立てた。
// 加代さあ・・・・・ん、かよさあん・・・・・・、加代さあ・・・・・・ん。加代さあん・・・・・・・・・・//
 潮のどよめきの中で、続けさまに彼女を呼ぶ長兵衛の声が聞こえた。
// あら長さんだ。長さんの声だ。//
 彼女は沖へ突出している岩の先へ、駆け出して行った。
// 加代さあん・・・・・、加代さあん・・・・・・。ここだよ・・・・ここだよ・・・・お出でよ・・・・・・お出でよ・・・・・・・・//
 長兵衛の声はまだも、潮の中から聞こえてくる。
「長さあん・・・長さあん・・・・・どこ―・・・・長さん・・・・・・。」
 彼女は叫んだ。
// ここだよ、ここだよ、加代さあん・・・お出で、おいでよ・・・・・・・・//
 波の底に笑いながら、長兵衛が彼女を招いているではないか。
// 長さん、あ、なつかしかったわ。そこにいなさるの・・・・・あ、恋しい長さ・・・ん。//
 どぶん! 彼女は何物かに抱きつくように、波を目がけて身を躍らせた。
 白い泡と、飛び上がったしぶきが金色に光った。けれど、もうその姿は渦巻いて流れる潮の中には見出すことは出来なかった。

                                (完)

2012年6月19日火曜日

宇野情話 洲巻長兵衛(8)

第8話 血祭り

影が近づいたと見れば吾一である。
「長兵衛ッ、貴様、仲々寿命に未練のある奴だナア。村の祭りの時もいい具合に伸ばしてやったが、未だいじいじしていやがったナア。」
舟乗りの甚助が近づいて、彼の肩先をゴンと突いた。
長兵衛が恐々に自分の周りを見廻すと、何時の間にか十二、三人の顔見知りの若連中が取り囲んで、冷たく無言で彼を見詰めている。
彼は全身の神経を奪われたように、腰から下が他愛もなく震える。
// 逃れないのだろうか //
そんな考えがサッと走った。
// どうしてでも遁れなければならぬ //
そんな考えもサッと胸をかすめた。
「皆さん、どうか帰らして下さい。」
哀願しながら押え切れない心の焦操を、体に波打たせながら、皆の面を拝むように見渡した。
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
誰も一言も発しない。
言葉を発しないほど深い陰謀が隠されているのだ。
「皆さん、俺は悪いことはしてやしないんだ。早く帰して下さい。」
「喧しいッ。」
誰かが彼の腰のあたりをしたたか蹴りつけた。
恐しさと逃れること以外思っていない彼は、そこによろよろとよろめいてつまずいた。
皆の憎悪にやけるような視線が、彼の体一面にびりびりと射されるように感じる。
「こら長兵衛、いらぬ事は長く言いたくねえが、冥土の行き土産に一言知らしてやろう。実は今朝からこの若い者が全部寄り集って、貴様の大切なものを貰うことに決めたんだ。重ねて聞かしてやるが、貴様も村祭の折りくたばっていやがったらいいものを、塩田見張り旦那などの取りなしで、又痩せ命を継いでいやがるんだ。貴様がいちゃ俺達宇野の娘等に顔を向けられねえよ。これからナア、いいところへやってやるから安心しろ。」
沈黙の中で八藏が口を切った。
「八藏さん、許してくれ。俺は酒屋へ奉公のために来て、年期の間勤めようと一心になっているんだ。年期の奉公が済んだらどこへでも去ぬるから、否、今の今からでも俺は国の方へ帰るから許してくれ。」
長兵衛はひざまずいたまま八藏を見上げて心から言った。
「長兵衛、もう遅い。その心で往生の土産にしろッ。」
脛をまくると、ポイ、と八藏は長兵衛の肩先を蹴上げた。
「八藏さん、ひどいナア。」
後へぐらりと転げながら八藏を睨みつけて、ぐっと立上ると、そこの人垣の間を素早く逃れ出た。
不意を打たれて一同の者は、逃がすものかと長兵衛を追った。
// もう彼等につかまっては最後だ。どうしても逃げよう。ここから海岸伝いに池の方へ出て、そこから旦那さんに助けて頂こう!
// どうしてもつかまってはならぬ //
長兵衛はそう僅かに理性で感じたが、心は無二無散、火をかけられた鼠のように、海岸の磯慣松の間をどんどんと走りつづけた。
黒い影が十二、三、又それに劣らぬ速さで追って行く。
 
夜はすっかり拡がってしまって、西の方に遠く玉の塩田の灯がぼんやりと浮かんで見える。思い出したように吹く磯風が松の梢をザーザーと騒がせた。
一言に物を言わぬ十二、三の黒い影、緊張した空気が松の間から砂山へ、砂山から更に松原へ、松原から渚へ、渚から又砂山へ、長い長い遠浅の砂山を追う者と追われる者の影が点々として、夜目にもほの白い砂の上を走って行く。
海も暗い、島も暗い。左手は垂れ下った絶壁の崖。行く手の白い砂の浜に行く路はないのだ。
長兵衛は下駄も脱ぎ羽織も捨て、懸命に走ったが、後から追ってくる者の足も速い。この崖の突っ端を廻ると池の浦あたりになろう、と思った時、
「こらっ、長兵衛っ。」
一言息せき切って怒鳴ったと思うと、誰か跳び付いてきた。
「何をっ。」
跳びついた勢を利用して長兵衛が腰を上げて肩をかがめると、その男は前へスッテンと転んだ。
がくがくと足の胛のあたりまで喰い込む砂浜は、度々彼も転げそうであった。
//早くあの突っ端を廻って池の浦から本村へ、そうして主人の家に助けていただかなくちゃ//
浜も砂から石ころに変わって来た。
ころころとした石ころの渚は、砂よりもまだ走り難い。
後の間近でも走る者の足音が聞える。
もっと速く、速く速く、心はもう旦那の顔が見えるけれど、体はまだまだ長い浜辺を走っている。
目ざす突っ端の山崩れで、渚に岩のころがっている下まで来た時、
「あつっ?」
そこに転げていた水苔の附いた、小さな岩にけつまずいて、ころころと彼の体は波打際へ。
「しまったっ!」
立上ろうとした時は、後から来た者のために身動き出来ぬ程押しつけられていた。
「よくも長兵衛、逃げやがったナア」
「もう容赦はないぞ!」
「ええ、一思いに参らせ、参らせ!」
「長兵衛、貴様性根の太い奴だナア。」
拳骨と足蹴と罵りが雨のように彼の頭に降りかかった。
誰も彼も呼吸がととのわぬ程に乱れている。誰しもが根限り走り続けたのだ。
// もう駄目だ。//
彼は、抵抗しようにも起き上った時は、手も足も荒縄をもって縛りあげられていた。
「この野郎。」
「この野郎!」
拳骨や棒切れが飛んでくる度に、神経が痛烈な悲鳴をあげた。
頭といわず、顔といわず、胸のあたり腰脚、所構わず憎悪の一撃一撃が加ってくる。
長兵衛は、ぐったりとそこへ崩れた。
鼻からは血が抜けて口の中へどろどろと流れ込んだ。眼尻からも額からもみみず腫れや切れ口から、滲み出した血糊が顔一面を染めて、暗い中でもぞっと身震いする程気味悪かった。
「おい村の若連中、よくも俺をむごい目に遭わしたナ。俺は何にも言わねえけど、よく覚えておれ。長兵衛がこの眼を覚えておけッ‼」
彼はそこに立って、てんでに棒切れや縄切れをもって立っている一同を睨みつけた。
血走った白目、悪鬼の如き形相、一同はじりじりと後退りした。
「構わぬ。皆やってしまえ。」
八藏が下知すると、
「誰もかも腹の空くだけ叩け、叩け。」
又誰かが命令した。
一斉に思い思いの一撃が降りかかるあられのように・・・・・。
「ウム、ウム・・・・・・・。」
長兵衛は意識があるのかないのか、唸りつづけた。
頭の髪は乱れて額がこめかみをきたなく流れ、着物も帯もばらばらに引破られて、泥と砂と水苔がどろどろとしてくっついている。
「おい早く持って来い。簾と縄を。」
年量のが言うと、まだ若いのが、長い竹の簾を担いで来た。
「それだ。それだ。」
「長さん、悦べ。」
「ワハハ・・・・・・」
口口にはしゃぎながら簾の中へ長兵衛を巻込んでしまった。そうして簾が開かぬように、上からも荒縄をもって固く縛った。

簾の中では、苦しい無念そうな長兵衛の声がうめく。
「これが村の若者の血祭りと言うものさ。」
吾一がそう言って端の方をもたげた。
すると又、二三人の者がそれに肩を入れて、よいさと担ぎ上げた。
「ソラ行け?」
簾を担いだ者が駆け出すと、他の者はそれにつかまった。ワイワイと凱歌をあげて・・・。
一町ばかり引返すとそこは急流が渦巻く、岩の突端があった。
「ここから投げよう。」
「ヨーシ。」
「一つ、二つ、三つ。」
十二三人の者が手を掛けて、拍子を揃えて放り込んだ。
=ドブン=
なまぬるい水音があがったが、それは渦を巻いて流れて行く引潮の音にかき消された。

×××××× ××××××

2012年6月18日月曜日

宇野情話 洲巻長兵衛(7)

第7話 大切なもの

加代が山田の親の家へ帰ると言ってから早十五日が来た。
// あの娘はどうしているかしらん。加代に限って、二三日すれば必ず戻りますわ、と呉々も約束しているのに・・・・・・・・。彼の女が心を替えたとも思われぬし、病気でもして具合が悪いのかしらん。このように何日経っても帰って来ないんだったら、見舞いにか又は様子を聞きに行って見なければなるまい。彼の娘のことだから安心しては待っているのだが・・・・・・・・早く帰って来ないか待ち遠しくて壽命の削られる思いだ・・・・・・・・早く長さんといって、にっこり笑って帰ってくれりゃいいのだがナア・・・・・・・・今日あたり帰っているかもしれないぞ・・・・・・・サア・・・・・・・・早く帰ってみよう・・・・・・//

 彼は正月の用意の為に味野の方面に出掛けて行って、今、宇野の藤井の山の下あたりへ帰りながら、そう一人心でつぶやいて、前よりも足を繁く進んだ。
 日は西の和田の山にとうに隠れて、小豆島あたりから暮れてくる夜が、もう直島の空一面に襲ってきた。島を溶かしたかと思はれる黒いもやが、こちらを指してどんどんと流れてくる。手の届くように鬘島がもう黒い。薄暗くなった沖の海が、僅かな風にも寒そうに震えている。
 長兵衛が、玉から宇野へ越える山道を過ぎて、海岸へ突出している山を廻って、天狗山が真向いに望まれた時、
 海岸と畠の境である、雑草の生い茂った中から、
「長兵衛、一寸待って呉れ。」
 浜(塩田)の八藏が飛出してきた。
 アッ? 悪い者に見つかった、と思ったが、
「八藏さん、用かい。」
 おだやかに訊いた。
「長兵衛、今日は貴様に無理かも知れんが、お願いしたいことがある。」
「俺にお願い?出来ることならやりましょう。」
「實は一つ、是非訊いたり叶えたりして貰いてえものがあるんだ、が。」
 八藏は悪意をたくらんでいる様子を、そろそろとほのめかして、いやに、ニヤニヤ、と笑っている。
「訊ねたいとは?」
 長兵衛は主人のことや責任のこと、加代のことなどが気になって忙しい心であったが、相手の心を慮って落ちついて聞いた。
「おい長兵衛、塩田見張りの加代をどこへ隠しているんだ。白状しろっ。」
「えっ、加代のことぁ俺も知らねぇ。が、この前帰るといって所へ帰ったんだろうよ。」
「何っ、加代の所へ帰った?嘘をぬかせ? 貴様がいい加減なことを、していやがるんだろ。」
「そんなことぁねえ。加代のことを俺がどうすることとか出来るか。塩田の旦那に訊いて見ろ。」
 長兵衛はむっとして、はね返すように言った。
「嘘じゃなかろうナア.」
「嘘や、いつはりを言う俺じゃねぇ。」
「よ――し、そのかばちを覚えておれ。」
 八藏は、ぺっと唾を吐いて腕をぐっとまくった。
「あ、覚えている。が、今日は急ぐから帰る。」
 長兵衛が帰ろうとすると袂を掴んだ。
「まだ用事は済まねえよ。」
「もう、いい加減で放せ? 奉公している者は自由が許されんからナア。」
 振り放して駆け出そうとした。
「まて言ったら待てッ。」
 八藏は前よりも力を入れて握った。
「済まなきゃ早く言ってくれよ。」
 仕方なく立止った長兵衛。
「長兵衛、俺が今日ここで待っていたのは、貴様の大切なものを貰いたいためなんだ。」
「大切な物というと?」
「貴様大切な物が分からねえのか。バカッ・・手前が臍の緒を切ってからこの方持っているものだ。」
「何っ? 俺の命とでもいうのかッ。」
「きまりきったことさ。今分かったか。」
「命を、いいののちを・・・・・。」
 長兵衛は後にはね返る程愕然とした。
「貴様、命は惜しい心があるのかッ。」
 八藏は、人の良い長兵衛の狼狽気味を快さそうに、ニヤニヤと笑いながら見詰めている。
「俺はもう帰る。手前達と関ってはおれん。」
 長兵衛は気味悪くなって駆け出そうとした。
「長兵衛、貴様、今夜はここから帰れと思い帰って見ろ。貴様ももういい加減で観念しろ。この以前の祭の夜にだって往生したかと思や、未だ生きていやがるだナア。」
「八藏さん、俺をここから返さない気だナア。」
「帰しゃしない。」
 八藏の日焼けした赤黒い顔が、夕闇の中に恐ろしく殺気を帯びている。
 八藏と一人一人の喧嘩ならば負けりゃしないけれど、計り知れない大きな危険が身に迫っていることを感じた長兵衛は、
「放せ?」
 といって一散に宇野の方へ走り出した。

2012年6月17日日曜日

宇野情話 洲巻長兵衛(6)

第6話 縁談

加代が家に帰ると待構えていたように、母が飛び出してきた。
「加代、よく帰ったナア。サア、こちらへ上れ。お前の帰るのばかりを待っていた。」
そう言って母は上機嫌で迎えた。
「母さん、私路にくたびれましたワ。」
日の暮れない中にと急いだので、路は悪いし、彼女はそこにぐったりと、足も体も一緒に投げ出してしまった。
「お前、ゆっくり休すんでおいで。お母さんがとてもお前の悦ぶ相談があるんだから。」
奥の座敷の方から炬燵を引摺ってきながら母は言った。
「お母さん、どんないいお話なの?私、急いで帰った価値があるわ。」
加代は着物を脱いで平生着に替えながら、着て帰った方をそこらへ押やりながら、善良で嬉しそうな母の顔を見つめた。
「実はお前に早く帰って来いと傳言したのも、お母さんやお父さんの方でも突然だったのだが、この向うの庄屋の息子さんの與吉さんを知っているだろう。あの若旦那様だ。とても上男の気前の良い若様だ。あの人がお前を貰いたいと仰るので、あの庄屋の新屋を知っている平左エ門旦那が仲介人になって、もう見合もなんにもしなくていいから、成るべく早く支度して貰い受けたいとのお言葉なんだ。」
母はぞくぞくとする程喜ばしそうな瞳を、加代の顔一面に浴びせかけながら早口に言ってしまった。

彼女は炬燵に手を伸ばして、掛蒲團の襟に頬を埋めたまま、
「おかあさん、そんなことだったの?」
と云って、禄々顔をもたげようともしなかった。
これ程、掘っても捜してもない程いい玉の輿に乗る訳をしているのに、娘はうなだれてしまったりなどして、そんな気分が勝れないのかしらん、と思った母は、
「加代、お母さんが一寸話の口を言ったまでのものだが、まだまだいいことがあるだんよ。お前大そうくたびれているらしい。そのまま、ぐっすり休すんでおおきよ。夕方でもお父さんがお帰りになってから、又三人で色々お話して見ようからナア。」
彼女の心を知らない母は、気も軽々として彼女が物心ついて以来の浮々とした話具合であった。
「おかあさん、私そんなお話が聞けない程疲れてはいません。けど、そんなお話なら私直ぐこのまま宇野へ帰りますわ。」
「え? お前どんな気をして言っているのかい。これ程願い奉っても無いような縁談を聞きたくないことは、お前どうかしているのではないか。あの宇野から帰る途中の後閑あたりの海岸で狐にでもつかれたのじゃないか?」
この話を聞いて娘は悦びと幸福の未来に瞳を輝かして嬉しがるだろうと想っていたのに、しおれ切ったような姿をして、又直ぐ宇野へ帰ろうと言い出したのを見て、母はほんとに驚いてしまった。
「お母さん私あの若様のお嫁にはなりません。幼い時から私虐めつけられたり、あの若様の乱暴には・・・・・。私が宇野へ行く以前などでも恐い程私に付きまとうの。何かお道楽もひどいんだかで、お金の使いにも荒いんだって、私どんないいお家でもすっかり嫌よ。」
予期に反して驚いて眼を見張っている母の顔へ、刻みつけるような反感をもって言ってしまった。
「まあ、お前何時の間にそんな娘になってしまったのかい。勿体ない庄屋様が所望されるのを断るお前の心も知れぬわい。」
単純で少しの思慮もない人が良いといったらそのまま信じ込んでしまうような、善良な母は、娘の心が解せかねて目をしばたたきながら、娘の姿を焼けつくように見つめていた。
加代はふてぶてしげに布団の綴じ糸を前歯で噛みながら、
// 私のお嫁に行くのは長兵衛さん一人なんだ。あの人以外は死んでも行きやしないから//
そう思って面をあげようともしない。
母はやや娘の態度に失望したけれど、平凡で素直にいいと信じ込んでいることは、何の批判もなしに娘のためにも、いいことに違いないと信じ込んでいた。
「加代、お前はあまり好ましくないと思っているかもしれないが、家の様な貧乏人さえ相手にして下さるのだ。それにお庄屋様から婚礼の調度を全部調えて下さるんだよ。こんな有りがたいことがあるものか。向うのお家では、どんなにでもして、お前の体さえ貰えばそれで充分だと仰っているのだよ。」
母は本気になって彼女を口説き始めた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
加代は黙ったままそれを聞いていたが、母の心はいじらしいほど同情出来るけれど、嫌な結婚をどんな条件であろうともして、自分の誓い合った恋を諦めることは出来なかった。
それは出来ないことだ。長さんに対して出来ないのだ。
「お前が嫁に行くといっても、家は現今のような有り様では一枚の晴着さえもむずかしいのだからナア・・それにあのお庄屋へ行けば、家の借金も大目に見て幾割も引いてやろうと仰るのだよ。お前も余りに乗り気にならないところを見れば、何か考えがあるのだろうが、母さんの為か父さんの為をも思って見てごらん。」
母は叱るようにすかすように、色々と彼女の同意を得ようと一心である。
「おかあさん。私、家のことならどんな身替りにでもなりますけど、こればかりは出来ませんわ。」
母の切迫した面持ちを盗見るようにして言った。
「お前はお母さんの言うことに気に入らないようだが、どうしてかい。どんなことでもお前の考えを聞かせておくれ・・・。」
「おかあさんあるワ。」
「どんなことがあるのかえ。」
優しく彼女の心を探ろうと思って、母の言葉は静かであった。吾が子のことは無鉄砲なことでも聞き入れてやりたいような、そんな思い遣りのこもった言葉であった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「加代、言っておみよ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
彼女は自分の心を打明けて母を失望の渓に落し込むには、あまり単純で慈しみ深い母であるだけ恐ろしかった。
「お前は、幼い時からお母さんにだけは嘘を言わない子だったのだよ。お前の考えを言っておくれ。お母さんは、怒りはしないから。」
母は哀願するように彼女を促した。
「お母さん。私、この月はあるものがなかったの。」
彼女は、耳の付け根あたりから、顔へ首筋へ背中へ手の先までも、真赤な熱いものが突走ったように思はれた。
「ええ? 加代ッ? ほんとかッ?」
差し向いに当たっていた炬燵から飛出して来て、娘の肩に手をかけて真偽を正そうとした。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「黙っていては分からないよ。ほんとのことを言っておしまいよ。」
矢張り優しい母である。娘の言葉を聞いても少しも憎しみを浮かべようとはしなかった。
「お母さんにすみません。私、約束した人があるのよ。」
彼女は母にこれ以上気を揉ますことは、良心がゆるさなかった。
「あ、そうだったか。お前も大きくなったナア・・。」
薄暗い天井を見上げて母は、前後に迷ったように両手を?の上に揃えて溜息をついた。
外はもう暮れかけているのか障子の影が煤黒くなってきた。百舌鳥がひっきりになしに鳴いている。さっと木枯しが吹いてきたと思うと二三枚の木の葉が、障子をさらさらとかすめて、ごっそりと落葉の群れの中に混じっていった。
「加代、併し今の中ならお庄屋様の方へも、お前の体の有様を隠しても、どうにかうまく誤魔化せるよ。この月になってもまだ十五日しか経っていないんだからナ。
早いことにしよう。お前の約束もいいだろうが、それはこんないい話のない場合のことで、兎に角お母さんに委しておおき。お母さんがいいと思ったらほんとにいいんだからなあ。」
と暫くして母は言ったが、名聞と財産と地位の前には他のこと一切お構いなしの、単純で質朴な一方向の母には、どう言っていいか判らなかった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
黙ったままで否定の意を悟らせようとしたが、
// それ程、お母さんの好ましいお庄屋様の、向う見ずの道楽息子に嫁入りが気に入りなら、お母さん、自分でなさったらいいでしょう。私には私のいいと思った人に嫁ぐのが本当だわ。私にはそんなにお母さんが仰らなくっとも、もう長さんと言う人があるんですもの。あの人とは固く固く誓い合っているの。今ではその人の子供まで出来かかっているんですもの。
そんなことを押隠してまでも、他の人の所に縁を結うとは思いません。そんなことはいいことでやありませんもの。私はお庄屋でなくっても乞食でも構いませんわ //
そう言ってしまおうかと思ったが、それではあれほど望んで弾み切っている母に、あまりにも大きな失望を与えることだろう。
彼女はそう思って顔も上げずに、俯向いていた。
そのとき、庭先の方に下駄の音がして父が帰ってきた。
その足音を聞くと母は当惑顔でいたのがさっと立上って、小走りに歩いて行って、暫く何か言っていたが間もなく、
「よし、そう決めよう。」
と父は元気のいい躍り上がるやうな口調で言ったと思うと、又下駄の音を前よりも高く響かせて出て行った。
もう外は暮れて暗いのだろう。遠くの塩田から夕潮を汲み出す水車の音がギイギイと聞えてきた。
×××× ×××××× ××××

2012年6月16日土曜日

宇野情話 洲巻長兵衛(5)

第5話 別れ

加代は、この児島郡でも名高い山田村の屈指の金持ちの家に生れたのであったが、祖父の代から傾きかけた家運は、父の代になってから到底支えられなくなった。たくさんの不動産は人手に渡ってあまつさえ、子女の養育にもことをかくような状態に立至ったので、父の遠縁に当たる宇野の、塩田見張りの内へ行儀見習という名目の下に、奉公に出しているのであった。
それが数日前から、家の方にちと用事があるので暇を少し貰って帰ってこい、と言う知らせがあったので、忙しい中を旦那に暇を貰って帰ろうとした。
// ちょっと帰ってくることを長さんに知らしておいた方がいいだろう。早くは帰ってくるけれど、一言言っておかないと、あの人がどんなに心を使うかわからない。僅かな暇で会えるのだから、ちょっと会ってこよう //
彼女はそう想って、ずっと西の山裾にある長兵衛の酒屋へやって来た。
門の中をちらと覗いて見たが、長兵衛らしい者がいそうにない。入っていって逢うのも皆に風が悪いし、このまま会わずに帰ってお家の用事はどんなことかしらないけれど、早くやってこようかしらん。長さん、都合よく出て来てくれるといいのにナア。
彼女はそんな思案にくれながら、いらいらとして門の脇から、畑村の方へ通ずる露路をうろうろとしていると、露路の尽きるあたりの酒倉の方から、下駄の音が聞えて来た。
// アラ、あの足音は必ず長さんだ? //
彼女は小声に叫んで足音の音へ小刻みに走って行った。
「あ、加代さんじゃないか。」
パッタリと加代に出会った長兵衛は彼女を擁き寄せた。彼は村の方に用事があって、行って帰る途中であった。右手に帳面を提げて意気な角帯に前掛をかけて、お祭から1ヶ月経った今は、顔の疵も綺麗に治って何時ものように明朗な笑いを浮かべている長兵衛であった。

「長さん、私、二三日帰ってきますワ。」
「どうしたんだ。」
「お母さんから、少し用事があるから帰ってこいと仰るのよ。私もどんなことか見当がつかないけれど、二日か三日かしたら帰ってくるわヨ。」
長兵衛の襟のあたりをいじりながら、加代は泪にうるんだ瞳で長兵衛を見上げた。
「加代さん、そうかい。それで俺を訪ねてきて探していたんだナア。有りがとう。だが、どんな用事か済んだら直ぐ帰ってきてくれよ。俺もお前のことばかり思っているからナア。」
彼はそう云って柔らかくもたれかかっている彼女の体を擁き緊めた。急いだのだろう。お化粧気のない首筋が透通るように白く美しかった。
「私とのことを一言長さんにお伝えしようと思ってやってきたの。もうこれで安心して帰ってこれるワ。」
彼女は、そう言ったけれどそこを立去りたくないように、もじもじとして長兵衛の前掛の端をいじっていた。
「それなら早く出かけないと、この頃の日は短いからちょっとでも早く出た方がいいよ。」
彼はそう言って促して、彼女の抱えている小さな風呂敷包みを持って歩きかけようとした。
「あの長さん、私、少しでも離れているのが寂しいワ。長さんとも少し話していたいワ。」
彼女は凝と立ったまま歩こうとはしなかった。
「そんなことを言ったって、又こんなところを人に見られるとうるさいから、もう二日三日すれば又逢えるじゃないか。」
といってお加代を慰めたものの、彼の心にも何故か離れ難い愛着があった。
「私、何かも一つ長さんにお伝えしたいことがあるのよ。」
彼女は長兵衛の前掛の端をかみながら、睨むように彼の顔を見上げ、意味ありげににっこと微笑した。
「何だい。俺がお土産でもことづけないから催促かもしれん。そうだ。お土産をお前の母さんに送ろう。」
彼は、小走りに酒屋の方へ取って返そうとした。彼の邪気のない心のままに。
「そんなことじゃないのよぅ・・・違うワ。違うワ。ホホホ・・・・・。」
彼女はそれを、手を振って笑いながら措止した。
「どんなことだい一体、早く言って帰らんと日が暮れたら、又困るだろう。」
静かに彼女の肩に手をかけて促して見たが、何を想っているか、それともどんなに言いにくいのか、丸味を帯びた柔らかな肩が小さく波打つように揺れていた。
「あのナ、長さん。私、何だか赤ん坊が出来ているようなの・・・・・・。」
暫くして漸く聞き取れる程度の声で言ったと思うと、彼の前掛で顔を覆った。
そんなことを言い出そうとは予期してなかった彼は、
「ほんとかいッ? 加代さん?」
彼は真偽を確かめようとして、彼女の顔をもたげあうと、脇の下あたりに腕を回して、じっと抱き上げた。
抱かれたまま彼女は、
「嘘なんか言うものですか。」
にっこりと白い歯を出して、彼の鼻の下あたりで微笑した。
「加代さん、それじゃいい赤ちゃんを生んでくれ。俺は何かしらん。ぞくぞくとする程うれしい。」
彼女の手を握って、彼は愉快らしく大きく笑った。
「私、今の月から気がついたの。長さんの赤ん坊よ。」
「勿論俺の子供さ。元気で早く産んでくれよ。楽しみが一つ増えた、というものさ。」
「長さん、ほんとに産んでもいい?」
「産まなくってどうするんだ。俺は手を受けて待っているよ。」
「それじゃ待っていて頂戴ねぇ。」
彼女は一つ大きな息をすーっと吐いて、心の底から何もかも言ってしまった快さを見せて顔を表情いっぱいにして笑った。
「もう帰らなけりゃいけないよ。妊娠している体なんだから無理しないように、気を付けて帰っておいで。」
「それじゃ帰って来ますヮ。左様なら。」
彼女は、長兵衛を振り返って、にっこりと笑ったまま小急ぎに歩きかけようとした。
「加代さん、俺もそこの土橋のところまで見送ろう。」
彼は彼女の後からついてきた。
「いや長さん結構です。私一人でいいですの。」
長兵衛の忙しい体をよく知っている彼女は、それを押し留めようとした。
「いいや、そんなに遠慮しなくってもいい。そこまでだ。」
二人は連れ立って歩きかけた。
家並みの間の細い道を通って大川の土提に出ると、膚に沁みいるような晩秋の風が蕭?として吹いて過ぎた。土提の右側の畠も左側の蘆も冬の来る前の、薄暗い冷たさの中に閉じ込められていた。遠い備讃瀬戸の島々が、手に取るように明瞭に輪廓を浮かべている。もう寒い冬が来るのだ。
二人は隣村の田井越に出る道になる、大川の土橋の上まで来た時、
「俺、ここで別れるからナア。随分気をつけて帰ってくれ。大切な体になっているのだから無理しないで、又早く帰ってきてくれ。」
手に持ってきた風呂敷包みを加代に渡しながら長兵衛は言った。
「ありがとう。ここまで見送っていただいて嬉しかったワ。又直ぐ帰って来るワ。」
彼女は、今一度礼を言って長兵衛を見上げた。
「じゃ、俺も別れよう。」
彼は、二度そう言って橋の上に立って葭の間に次第に見え隠れして、遠ざかって行く加代を見送っていた。
加代がサヨウナラを言っているのであろう。山越に近い林の中で右手をあげているのが小さく見えた。
加代が越して行くであろう山路の頂きあたりの禿山に、午下がりの陽が黄色く写したように照っていた。
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2012年6月15日金曜日

宇野情話 洲巻長兵衛(4)

第4話 一番鶏

「寒くはないか。」
「いいえ、ちっとも。」
「ようし、無理もない。ついて来い。」
二人は裏門を出て、細い路を駆けるように歩いた。
祭の夜といっても、もう更けている。暗い淋しい夜がどこまでもどこまでも拡がって、北の方に見える天狗山の饅頭のような姿が馬鹿らしい程落ちついて見える。道端の稲の穂を夜風が寒そうになびかせて過ぎた。
虫の声も衰えかけているのか、こおろぎの声も無量に淋しい。
老松の立ち並ぶ間の段々を五六十登ると社殿の前に出た。
「長兵衛、長・・・」
旦那がどなるように大きな声を立てたが、答えるものは社殿の奥深く響く木霊ばかりである。
「長さん、長さん。」
加代も出来るだけ大きな声を張り上げた。
いぜんとして、松の梢を吹く風の音と、ちちちヽヽと縁の下の方で啼く虫の声よりは聞こえない。
// どこらに彼が倒されているであろうか。//
旦那はつぶやきながら、彼等が酒を飲んだ本殿の前の溜りの方にやってきた。
酒の臭いがプンプンとする。
「加代、ここで彼等が飲んだんだ。」
「旦那様、そうでしょうか。」
真っ暗なのでよく分からないが、手探りに歩いていると暗燈の転がったのや、皿のような物や、鍋や徳利などが足の先にさわった。
// 加代、大分乱暴されたらしいぞ。 //
旦那はそう言いながら、そこらあたりをぞろぞろと捜し回った。
「旦那様、どうして長さんの呻き声も聞えないんでしょう。」
彼女も不安におののきながら、旦那の後からついて探していた。
「長兵衛、長兵衛、居たら返事をしろッ!」
旦那は、びりびりとする程大きな声で呼んだが、何人の返事もない。只、眞暗な闇に薄気味悪い静寂があるばかりであった。
「長さん、長さん、長さんいないの。長さん返事してちょうだいッ?」
彼女も旦那と同じように叫んでみた。けれど何の反応もない。
「加代、こう暗くっては鼻をつままれても分からないよ。灯りを持ってくるとよかったにナア。」
「私これから持って参りましょうか。」
「いや、まあ、も少し探してみよう。」
ぞろぞろと手探りに捜し回ったが、皿や徳利や鍋のようなものや膳などが、ごちごちと手の先にさわるばかり。
「加代、ここら辺りにはいない。少し出口の方を探して見よう。こちらへ来い。」
旦那はそう言うと加代に手を取らせて、出口の方へ連れて行った。
「この辺りを見よう、格子戸の下の方をよく気をつけて見よ。」
「はい。」
彼女がそう返事をし終らぬ中に、
「旦那様、長さんはここに。」
彼女の恐怖と不安の戦慄した叫び声が恐ろしい程、鋭く響いた。

「何、長兵衛が居たかッ。」
旦那は手探りで、いざりながらやって来た。
「長兵衛、元気を出せ。しっかりしろ、こら長兵衛?」
「長さん、長さん気を確かに、確かに。加代ですよ、加代ですよ。長さん・・・・。」
二人は、そこに横たわっている黒い長兵衛の姿の前で根限り叫んだ。
長兵衛は、ちっとも返事がない。
//脈はあるかしらん。//
旦那はそうつぶやいて、長兵衛の手首を握ってみた。
「大丈夫だ。脈はあるッ。」
旦那は思わず大きく叫んだ。
「加代、もう心配すな。そらこれへ手洗鉢から水をしませてきてくれ。早う、早う。」
旦那は、懐中から手拭を取り出して、そこでかたかたと震えている彼女に渡した。
彼女は、間もなく手拭に水をたっぷりと浸してきた。
「長兵衛、しっかりしろ、こらっ長兵衛?」
旦那は、その手拭の水を搾りながら長兵衛の口のあたりへ滴を落した。そうして長兵衛の名を繰り返し繰り返して、彼の耳のそばで叫んだ。
「旦那様、長さんはもういけないのでしょうか。何にも返事が有りませんが。」
加代は恐ろしさと悲しさに、夜半の冷たさが混じって彼女を襲ってきた。旦那の横に坐って長兵衛の胸のあたりを手早く撫でながら、不安そうに真黒い旦那の顔を見上て訊いた。
「大丈夫だ、心配すなッ。脈もあり息もしているのだッ。も少ししたら気が付くから。」
旦那は泣き出しそうな加代に心配させまいとして、語気も鋭く叱るように言った。
長兵衛の頭の髪はザンバラに乱れ、着物も無茶無茶に引裂かれて、帯も羽織も何れに行ったか、暗がりで見てさえも余りにみじめであった。
「ほんとに村の若い奴等は酔った機嫌で、ひどいことをやったナア。不都合な奴だ。こんなことをするんだったら、わしにでも酒屋の旦那にでも言って出たらいいものを。」
「ほんとですワ。旦那様、余りですワ。」
彼女はボロボロと泪を落した。
あたりはひっそりとした暗黒の世界であった。縁の下で啼く虫の声が彼らの胸に痛々しく、響いてきた。
「あれ、旦那様。一番鶏が啼いていますワ。」
「どれ、どれー。」
遠い百姓屋で鳴く鶏の声が旦那の耳に聞こえた。
「あ、もう夜が明けるのも遠くはない。夜の明けるまでこうして動かさぬように寝せていてやろう。」
羽織を脱ぎながら旦那はそう云って、長兵衛の上にパッと掛けてやった。
加代も着ている一枚の寝巻を脱いで掛けようとすると、旦那が
「お前、こんなに風が冷えてきたのに、そんな一枚の着物を脱いでしまって、風邪でも引いたらどうするのだ。長兵衛が治るのが良いなら、わしの言う通りにして着物を着ておれ。」
「はい。」
加代は旦那の言葉に逆らうことは出来なかった。
遠くの方で又鶏の声がきこえた。

2012年6月14日木曜日

宇野情話 洲巻長兵衛(3)

 第3話 安否


塩田見張りの旦那の家に若い連中が押しかけてきた。
「旦那さん、見張りの旦那さん?」
彼らは口口に叫びながら、よろよろとして杉垣から門をくぐって玄関へやってきた。
「旦那さん、一杯呑みに来ましたよ。若連中が来ましたよ。起きて下さいよ。旦那さん・・・よー」
彼等は玄関のあたりで面白そうに、舌の回り兼ねる調子ではしゃぎ続けた。
「おい若え連中、今頃来たんか。もう夜も更けているじゃないか。もう今日は来ないかと思ってわしも休もうとしていたところだ。が、お前達が来たのならこちらへ上れ。」
旦那は彼等を見渡して優しそうに言った。
「いいえ、旦那さん、俺達ゃこの土間で結構ですよ。ここ・・・んな・・・に・・・酔っているんですからナ。旦那さん、ここ・・・んなに酔って・・い・・ますけ・・・ど・ゆ・・るして下せえ。」
若連中の頭八藏は旦那の前へよろよろと覚束ない足取りでいって、ろれつのまわらぬ舌でそう言ったかと思うと、さげてきた徳利を右手に持って、懐から盃を取り出して、なみなみと注いでぐっと呑み干した。
「お前達、その土間がよけりゃ、むしろでも敷いてやろうか。」
旦那は大きな腹を突出して懐手をしたまま、にこにこと笑い続けている。
「なーに、旦那さーん、心配ござんせんよ。俺達の酔っぱらいに筵も茣蓙もいりゃしませんや。この土間で上等ですよ。」
吾一はそう云って土間にぺったりと尻を据えた。
他の連中もそれを見て、一様にべたべたと土間に大きな胡座をかいた。中にはもういい氣持ちになって玄関の上り框に、いぎたなく寝ころんでいる者もいる。
そうして皆もてんでにさげてきた徳利を傾け始めた。
酔っぱらった他愛のない言葉が、怒るように泣くように叫ぶように、笑うように混じり合って騒々しかった。
こうして祭の夜には、村の若連中は塩田見張りの旦那の中へ、ご馳走をよばれにやって来るのが毎年の慣わしであった。
暫くして八藏が
「あの旦那さん、お加代は今おりますかナァ・・?」
奥へ入ろうとする旦那を呼び止めて言った。
「う・・ん、加代ももう休んでいる頃だが、何か用かい。」
「ち・・・ょっと、・あ・・わして頂きた・・・いの・・・・・で」
彼は旦那を見つめてよろよろと立ち上ろうとした。
「お前らがそんな酔ったざまで加代に会ったって、あの娘が怖れて逃げるさ。」
旦那はそう言いすてて奥へ行こうとした。
「旦・・・那サン・・・ほ・・んとですよ。聞いて下せえよ。ここれだけゃほんとですよ。ぜいぜい。」
割合に酔っていない甚助と吾一が立って旦那に願った。
「お前達の面白半分に加代を合わせられるか。もう少し酔が醒めなきゃ駄目だ。」
旦那はどこまでも冗談にして相手にしない。
「そそ・・・れじゃ、旦那さんにお願いしますよ。あの今まで八幡様で飲んでいましたが、癪に障ってきたから、酒屋の長兵衛の奴を皆して叩き伸ばしてきましたよ。いい気味でサァ。一言、加代に知らせて歓ばしてやりとうてきましたよ。ワハハハハハ・・・・。」
甚助はそこの柱に身を支えて、いじいじと体をくねらした。
「何ッ、長兵衛を伸ばした?殺したと言うのかっ? 冗談言うナッ?」
旦那は鋭く甚助を睨みつけた。
「旦那、嘘じゃごござ・・・んせんよ。ほ・・・んとのことですよ。」
八藏は徳利を持ったまま、どろんとした眼をむいて言った。
「何、ほんとだ!! お前達の酔っぱらいの言うことは真か嘘か分らん。冗談言わずにそこで飲んであかせよ。」
旦那は相手にしないようにしかも半信半疑で彼等を見つめている。
「旦那さん、嘘なら行って見て下さいよ。あの八幡様の社の中で一人ばっかり番をしていますよ。」
吾一は面白げに言うと、からからと笑った。
「旦那さん、俺達に、一番の邪魔者長兵衛に、腹が今夜出ましたよ・・・。ワハハ・・・・・・・。」
皆口を揃えてそう言った。
「こらっ? 手前達にもしそんな乱暴があったらこのわしが承知しないぞ。あんなに人の良い賢い長兵衛を痛めるとは、いいかっ?」
旦那の柔和な面にサッと剣が走った。
「あの、平生から長兵衛と仲の良い加代にも一言知らせて下さいよ、旦那さん。」
船乗り稼業の平助が、変な笑いを浮かべて旦那を見上げた。
「お前たちが口口に言ったので訳が分からん。わしが一寸行って見る。」
旦那はそう言い捨てて奥の間へ駆け込んだ。
先頃から寝ようと思っても、何かしらいじいじとして不安な加代は、漸く寝付かれたと思った頃、彼等がどやどやと騒いで来たので、又眠りを破られてしまった。彼女の寝る女中部屋は奥の方であったが、夜の静まった頃ではあるし、玄関の物声が手に取るように聞こえる。
あの若連中の中には私の長さんも必ずいるであろう。長さん、長さんと叫びたいような心がする。が、平生やさしい長さんのことだから、なんぼお祭だからと言ったって、あんな酔ってはいなさるまい。長さんの声は聞こえないけれど、八藏さんか吾一さんや甚助さんのように、あんな大きなどら声はなさらないのだ・・。
彼女はそう思って眠られない心を、秘かに悦びながら抱いていると。
「長兵衛の奴を叩き伸ばしてやってきた。いい気味だ!!なんていい気味なんだろう?」
その言葉を聞くと、彼女の今までの温い長兵衛を想う心は跳ね飛んでしまって、凝然とした冷たい世界が忽然とひろがってきた。彼女はいたたまれず寝巻のまま玄関の次の間に忍んできて全身戦慄を押さえながら一言も洩らすまいと、全霊の聴覚をもって彼等のどら声を聞いた。
彼等が他愛なく喋る気味良さそうな声も、彼女の身体には全身に針を打たれるように、気も遠くなる程驚いた。
// 長さんがもしかしたら殺されているのかもしれない //
彼女は寝巻の襟をぐっと握り寄せて、口唇をじっと噛んだ。
// 長さんが叩かれて気を失って倒れているのだ //
// 長さんが死んでしまやしないかしらん //
気が転倒しそうになるのを漸くこらえて、下腹に力を入れてみたけれど、恐ろしい不安が大きな胴震いになって、腹の底の方から、食い縛っている奥歯のあたりへ留め度もなく、かたかたかたかたと震わせてきた。
// あ、私はどうしよう。//
長さんも私のために苦労ばかり、村の人はこんなに私と二人の間を裂きたがるのだろう。どうしてだろう・・・・。
どんなにしたって離れるものか。死んだって離れやしないから。見ておいでよ。村の人たち。
// 長さん、死んじゃいけないよ。生きていて下さいよ。加代がこれから参りますから //
// あ、情けないこと // お祭だというのに・・・・

彼女はそのまま裏口の方へ駆けり出ようとすると、そこで旦那にぱったり出くわした。
「あら、旦那様? ご免遊ばせ・・・。」
「加代じゃないか。この夜中にどうしたんだ、取り乱してしまって。」
旦那は加代に何も知らせたくなさそうに、何気なくなだめようとした。
「旦那様、加代は、みんな今のお話を聞いていましたっ。」
泣こうに泣けない程驚いた彼女の心も、旦那の思い遣りの心を聞くと、熱い涙がそろそろと込み上げてきた。悲しまぎれに袂で顔を覆った。
「何、今の話を聞いたッ!!お前は休んでいたらいいのだ。そんな姿で出歩いていると風邪を引くぞ。」
旦那はどこまでも心配させまいとして、優しくそう言って歩き出そうとした。
「旦那様、どうぞ連れて行って下さい。お願いでございます。」
加代は泣きながら、旦那の羽織の袂にすがった。

2012年6月13日水曜日

宇野情話 洲巻長兵衛(2)

 第2話 祭の夜


「おい皆聞け!!」
 若連中の頭、八藏は盃を左手にして立ち上がった。
 車座になって酒を呑んでいた若連中は、半ば酩酊した眼をどろんとさせて八藏に注目した。
「おい皆の者!!」
 今日この楽しみに、こうしたことを言うのもあながち無用なことじゃなかろう。それが外のことでもねえ。ここに座っている長兵衛のことなんだ!!
 こやつが俺達の宇野へ来やがってから四年になる。よそから来た分才もわきまえやがらず、おのれの色男を鼻にかけやがって、この周りの娘を引っ掛けて回りやあがる、不都合も甚だしい、こやつが宇野へ来やがってからは、どこの娘の家へ遊びに行ったって、二口目にゃ長兵衛の話さ。俺達には肘鉄砲が積の山さ。
 えーッ、こんな馬鹿らしいことがあるかっ。
 よそから来た奴にこの宇野若者の上手を走られてじっとよだれをたらして見ておれるかいっ。
「皆の者、どう思うかっ。」
 彼の塩田で日焼けした顔が、酒の酔でほのかな暗燈の灯りにも赤銅色に光って見えた。その言い終ったと思うと盃を右手に持ちかえてぐっと一息に干して、傍に座っている長兵衛目がけて投げつけた。
 盃は彼の額をかすめてその後の格子戸の敷居に当たって、パツッと破れて散った。
「今度は俺の言う番だっ!!」
 骨格の逞しい吾一が立ち上がった。
「おいッ、今八藏が言ったが実に長兵衛はけしからん。つい先日のこと俺の婆さんの生命が明朝まで持てめえかもしれぬというので、この向うの畑村へ行って帰りの時、丁度子の刻だったよ。それあの中ん所の川の堤を帰っていると、先の方に二つの影がボンヤリと立っているので悟られないようにこっそりと近づくと、ナンダア、長兵衛とお加代じゃないか。見ている俺が恥ずかしい始末、月のあかりで近寄って見ると手に取るように何もかも見える。平生、おとなしそうな面しやがってあのざまだー。」
 吾一はホロ酔の快さで、思うことを喋ってしまった。手を振り足をあげ、着物の裾をパッと端折って威圧的に長兵衛を見下ろしていたが、ポンと足で長兵衛の肩のあたりを蹴った。
よろよろと後に倒れかかった長兵衛。
「おい吾一さん、あまり乱暴じゃないか。」
四面楚歌の中にいる長兵衛は、全身の憤怒をこめた眼で睨みつけた。
「何が乱暴だ。貴様こそ俺たち宇野の若者の風上にも置けねえ奴さ。この間、夜の夜中、草叢の中でお加代と二人ごそごそとやっていたざまは何だ。こん畜生めー。」
二度目の足蹴が脇腹へ飛んで来た。
「吾一っさん、俺がおとなしいかと思ってあんまりだナァー。」
「何ッ、文句があるのかッ。文句がありゃ聞こう。」
吾一は徳利を傾けながら、商人風の意気な長兵衛をぐいと睨みつけた。
暗燈の灯の中に酒の臭いと怒気と緊張と、管を巻く声が騒々しい。
この村の慣しとして輿を担いだ若連中が、八幡様の本殿の前のたまりで夜どおし酒を飲んで楽しむのであった。一年中に一度のお祭りに、こうした若連者の集いは最も愉快なものであった。二十人程の若連中の一人として長兵衛も交っているのであった。
「おい吾一、少し待て。こん度は俺が言ってやろう。」
舟乗り家業の甚助が吾一を制しながら立ち上った。
酒が大分回っているらしい。足下がふらふらとして覚束ない。
「おい長兵衛、俺ゃ舟乗りだが貴様がいるために俺ゃ大きな損のし通しだ。今あすこの塩田の見張りの旦那の中に奉公に来ているお加代かって、俺に一度もいい顔をしたこたあねぇ。児島小町だなんでいわれるお加代の機嫌のいい面も一度は見てえもんだ。―――――
それというのも貴様の居やがるせいなんだ。貴様さえいなきゃ、この宇野の若連中の思いのままになるじゃねえか―――――。おい長兵衛、どうだ。」
彼はポイと尻をはぐって、薄汚れた褌の尻を俯いている長兵衛の頭の上に乗せかけた。
「おい、そこらの若えの、一杯注いでくれ。」
そこにあいた盃を取り上げて、甚助は皆の方に差しだした。
―――オーイ甚助面白いぞ―――やれやれ―――長兵衛の頭を腰掛だ―――。いい気味だ―――ええぞええぞ―――そら注いでやろう。―――
ぐるりと丸く座になっている連中が、わあっと面白がった。気味よさそうに。
「おい甚助さん、貴様は精根があるのか、ねえのか?俺を余り馬鹿にするねえ。」
長兵衛は彼の体をうんと前にのめらして立ちあがった。

足の定まってない甚助、八藏の座っているあたりへ、タタタタとよろけて、どしんと尻餅をついた。
「長兵衛、承知しねえぞ!!」
八藏はすっと立ち上って長兵衛の前に立ちふさがった。
「いや俺はもう帰る。ここへ来たのが間違いだった。」
「何、帰る・・・・・? 帰らすものか・・・・・。」
長兵衛は急いで飛び出して帰ろうとした。
「帰らしゃしないぞ!! 畜生!!」
座っていた連中が全部立ち上って、長兵衛を取り囲んだ。
長兵衛は隙をねらって逃げようとした。
「こりゃ逃がすものか。」
彼の後から誰かがはがい締めにした。その手の力の強いこと。
「打て打て、やってしまえ。」
誰かが命令すると、振り払って逃れようとした長兵衛の頭といわず腰といわず、拳骨と足蹴の雨が降って来た。
「乱暴するなー。」
彼は一心に叫んで頭をじっと両腕で抱いた。もう何も言いたくない。全身をいっぱい憤りがぐんぐんと走る。
半ば酔い、半ば理性を奪われている彼等には、興に乗って面白いがままに長兵衛を打ちつけた。
拳骨ではない棒でもない。徳利のような重たい瀬戸物のようなものが、彼の後頭部にかあんと落ちかかってくるのを感じると、鈍い痛みが脳から体全身にびりびりと響いていって、前後も分からずべったりとそこに打ち倒れた。
暗燈の灯影はたちまわる人々の姿を、影絵のように黒く浮かせていた。
八幡様へ参る氏子の人もない。昼の間に参っているのであろう。
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2012年6月12日火曜日

宇野情話 洲巻長兵衛(1)

今日から、小説「洲巻長兵衛」のスタートである。
原文には、各段のタイトルはついてないが、紹介者であるサッキーが勝手に各段のタイトルをつけ、小説の展開が少しでも盛り上がるようにできればと思う。



第1話 逢引


「長さん、もう七日したらお祭だワ。」
お加代は長兵衛の方へじっとにじり寄っていった。
八幡様の森の上に黄色い月がぽっかりと浮かんでいる。海の方から吹いてくるそよそよとした風が、塩田のあたりから、ずーっと小浦の蘆の泥沼の上を吹いてきた。そよそよと蘆のなびくのが人のいない夜のささやきのように聞こえる。静かな秋の夜であった。
「そうさ、祭りがきた。それで俺の店の方も中々忙しいのさ。」
色男で鳴っている長兵衛の男らしい顔が、にっこりとほほえんだ。そうしてお加代の肩をじっと抱いた。
「それだったら約束があるわ・・・忘れたの?」
「何だったかナア、とんと近頃忙しいので忘れてしまっているよ。」
「まあ、いけないわよ、あれあのことよ。」
「一向に存ぜず。忘れてござる。」
彼は腕の中にある処女の耐えられないような甘美な体臭と髪のこころよい匂いにうっとりとしなから、わざと空呆けて言った。
「長さん意地が悪いー、あんな約束を忘れているなんて・・・・。」
児島小町と言われるお加代の美しい顔が、ちらっと彼の瞳をにらんで蕾のような口唇がニコッと開いた。
「何だったかナア、そんな大きな忘れ物なんかした覚えはないが、そんな忘れ物していたら俺の首を差上げよう。その代わり生命だけはお助けだ。」
彼はからかおうとして口から出まかせのことを言ったが、おかしくなってプっと吹き出した。
「まあ、おかしいわ」
彼女も一緒になっておかしそうに笑った。
「ね、長さんあのこと、私のあアレ。」
「何?お前のあアレ、・・・そんなこと忘れている。」
「もう知らないっ‼」
彼女は如何にも腹立たしげにすねた格好をして、長兵衛の胸に伏した。
美しい抜け出るような襟足が、蒼白い月の光におどろく程魅惑的であった。
「あ、アレか。この前の約束のあの着物のことか。なあんだ、女はそんなことに至極鋭敏だなあ。」
彼はお加代の白い首筋を軽く撫でた。
「そうよ。きまっているわ。お祭りで私、それが一番楽しいんですもの。」
「それだったら、着物もかんざしも同じように注文してあるさ。」
「長さん、ほんと‼」
彼女の白い両の腕がすーっと着物の袖より抜け出して、長兵衛の首に艶めかしくまつわりついた。蒼白い月の光の中にその徳利型の腕の白さ美しさ。お互いの吐く息と吸う息が、ほんのりと温かく感じられる。
「嘘を言ってどうするか。お加代さんのことじゃないか。忘れたりなんてしてたまるかい。」
「うれしいワ。」
「明日朝行くことになっているから、もう貰ってこよう。早いのは間に合うからなあ。」
「私、待っているわ。明日の夕方には帰れるの。うれしいわ。」
「そうだなあ、黄昏頃には帰れるだろうよ。」
月が大分登ってきた。雲のない空に冴えかえるような黄色い月が。遠い高辺の山あたりはぼんやりと霞んで麓の海には蛸をとる舟の漁り火がちらちらと見える。近くの天狗山のふもとの方では狐の鳴き声がする。二人の腰を下ろしている草叢では友を呼ぶ虫の声が哀れっぽい。夜はだんだんと二人の世界を包んで更けていった。
「あれ、月があんなに登った。加代さん、家に帰らなきゃならないんじゃないかい。」
彼女の背中に手を回して、力強く抱きしめた。
彼女の柔らかな乳房のあたりから伝ってくる、魂をとろかすような血潮のときめきに、彼は放そうとはしなかった。
「私ちっとも構わない。さっき来る時裏の戸口からすーっと抜けて来たのよ。誰にも気づかれてはいないわ。」
力強い男の腕の中に、彼女のすべてを委ねていた。
きびきびとした男の筋肉の動きが、彼女の脇の下あたりにじりじりと喰い込んでくる。男の頼もしい腕が・・・・。

「そんなら俺もこうしていて安心出来る。・・・・が、併し加代さん、近頃、村の若い連中が俺とお前に対して甚だひどい仕打ちをするなあ・・・・・。」
「ええ、ほんとにねぇ。私にかってどんな悪戯や乱暴するかしれやしないわ。ついこの間のことよ。旦那様が讃岐へお出でになったので、もうお帰りの時分と思って池の浦の浜へお迎えに行きかけたらねぇ、あの浜の突先を回るところで、向うの塩田の八藏さんが追いつけて来て、散々悪口やら変なことばかり言うの。そうして着物の袂や髪を引っ張って歩かさないの。夕暮れ頃ではあるしどうしようかしらんと思って困ってしまっていると、又、山の畑から戻って来る吾一さんに出くわして、私生きた心地はなかったわ。」
彼女の声と瞳が涙にうるんで、長兵衛を見上げた。
「何故、そんなことがあったのに俺に知らさなかったのだ?」
「だって、口を揃えて長さんの悪口ばかり・・・。」
彼女の声が次第に鼻にかかって来る。
「そうだったのか。しかし、俺達がどんな悪口を言われたって二人の世界なんだ。愛し合っている者を離そうとしたて離れるものか。そうだろう、加代さん。」
柔らかいお加代の体を又、じっと抱きすくめた。
「ホントよ。私殺されたって離れやしないわ。長さん永久に変わらないでねぇ。お加代のためによ。」
お加代は、長兵衛の腕で泣いた。我慢していた迫害の悲しみが一時に堰を切り、愛しい男の胸に流れ込むときの、甘えたいような悲しいような、愛しい男の胸の中に融け込んでしまいたいような、泣けるだけ泣いて涙をしぼりたい。そんなすすり泣きであった。
「加代さん、そんな悪戯や悪辣な手段は俺にも毎日のように加えられている。昨日もやって来たよ。あの八藏が、吾一と二人連れだって俺の主人の傍にやって来て、俺のあることないこと色々並べたてて揚句がこの酒屋から追出してしまえ、といって主人に頼み込んでいた。俺は酒藏の出口のところでその話を聞いていたが、癪に障ってならない。飛び出して行って一つ談判してやろうと思ってかっとなったが、主人も賢い人なんだからいい加減にあしらっていたので、俺も出るところじゃないと思ってこらえていたよ。」
彼の瞳に涙がうるんできた。月の光がその白い露にちらちらとゆれた。
「長さん、私、これからどんなことがあっても耐えるわ。あなたの女房に晴れてなれるまでは・。」
「加代さんありがとう。俺が来年のこの頃は一人前になれる。そうしたら一人前の杜氏となってでも酒屋になってでも、結構独立出来るんだから、楽しんでいて呉れよ。」
彼女の顔をぐいと引寄せようした。
「長さん、あなたの独立を待っているわ。」
彼女は長兵衛のなすがままに快く体を委せていた。
「加代さん、赤ん坊は欲しくないかい。」
「ええ、赤ちゃん、可愛いワ。」
加代さんがお母さんになるんだよ。」
「マア、長さんがお父さんに、ホホホ・・・・。」
草叢で哀れっぽい虫の声が、澄み切った月への伴奏のように鳴き続けている。
露のおりた草の葉に月の光が宿って、風の吹くたびにきらきらと光って揺れた。
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2012年6月11日月曜日

簀巻きの長兵衛物語の紹介

6月11日

玉野の歴史を語るとき、玉野市宇野にある獺越(うそごえ)の浜に、簀巻きにされた長兵衛という美男子が投げ込まれ、その祟りがあったという話を聞くことがある。粗筋はこうだ。

今から160年ほど前、備後の国から宇野に移ってきた長兵衛という若者は、好男子で地区の女性に大もて。気に入らない土地の青年どもは、好き勝手をするこの若者を袋叩き、簀巻きにして獺越の海に放り投げた。その後、宇野に奇病が流行ったことから長兵衛の祟りということになり、お地蔵さんを作り、旧7月23日の夜、盆踊りをして供養、今も続けられている。

宇野3丁目の中山トンネルを抜け玉野浄化センターの南端の辺りがかつて獺越鼻と呼ばれていた所で、流れが早い所であった。今では絶滅したとされるニホンカワウソがこの辺りに生息していたと思われる。以前三井造船の進水式では、フェリーが獺越を通過したら、進水作業のゴーサインを出していた。支綱切断の時間になる頃、フェリーが丁度三井造船の沖合を通過する、その辺りである。




さて、今日から暫く、昭和10年にこの土地の宮田熊夫さんという方が書かれた小説『宇野情話 洲巻長兵衛』を紹介する。書かれてから既に77年が経過しており、公に発表もされていないようなので、著作権などの問題もないだろうと勝手に思って紹介する。
元は、3年前、宮田さんの家族の方が玉野の歴史研究家・榧先生の所に持って来られたものを、「デジタル化してもらえないか」と私に紹介を兼ねて依頼されたものである。この年「宇野港100年物語展」を行うこととしていたので、その展覧会にも展示した逸品である。歴史書としての値打ちはともかく、恋愛小説として楽しんでいただければと思う。
もう一つ、この小説には挿絵が描かれていて、この挿絵が何とも微妙なタッチであり、これらも紹介しながら進めてゆきたい。
初回の今日は、宮田熊夫さんの「はしがき」から。



   宇 野 情 話
        州 巻 長 兵 衛

作 宮田熊夫

=表紙は宇野の塩田の一部=


はしがき


 僕が「州巻長兵衛」を書こうと思ってから、早や三年になる。
 僕が州巻長兵衛の話を聞いたのは、もうずっと前のことであった。その話というのも、昔、宇野の酒屋の長兵衛という若い男が奉公しておった。その長兵衛の男振りと気前の良いのに、村の娘達が慕っておった。それを快く思わなかった、村の若い者連中がある夜のこと、彼を簾に巻いて、藤井の海から投げ込んで殺してしまった。
 それだけの話を聞いて、それよりもっと詳しく聞かせてもらおうと思ったが、誰もそれ以上に詳しくは知らない。
 だからここに書いた物語りも、殆ど全部といってもいい程、僕の空想の産物なんです。いいか悪いかそんなことは頓着なくて、始めて一つの小説を纏めた、と思う歓びを感じています。
 書いている途中、弟の死に遭ったり、色々のゴタゴタやおまけに僕が風邪になど罹って思うように書けなかった。
 それから二三枚挿絵を入れておいた。一寸思いついて書いたが、不細工な絵だ。無いよりもいいかしれない。或いは無い方がましかも分からない。

                       昭和拾年十一月十三日
                           宮田 熊夫