第7話 大切なもの
加代が山田の親の家へ帰ると言ってから早十五日が来た。
// あの娘はどうしているかしらん。加代に限って、二三日すれば必ず戻りますわ、と呉々も約束しているのに・・・・・・・・。彼の女が心を替えたとも思われぬし、病気でもして具合が悪いのかしらん。このように何日経っても帰って来ないんだったら、見舞いにか又は様子を聞きに行って見なければなるまい。彼の娘のことだから安心しては待っているのだが・・・・・・・・早く帰って来ないか待ち遠しくて壽命の削られる思いだ・・・・・・・・早く長さんといって、にっこり笑って帰ってくれりゃいいのだがナア・・・・・・・・今日あたり帰っているかもしれないぞ・・・・・・・サア・・・・・・・・早く帰ってみよう・・・・・・//
彼は正月の用意の為に味野の方面に出掛けて行って、今、宇野の藤井の山の下あたりへ帰りながら、そう一人心でつぶやいて、前よりも足を繁く進んだ。
日は西の和田の山にとうに隠れて、小豆島あたりから暮れてくる夜が、もう直島の空一面に襲ってきた。島を溶かしたかと思はれる黒いもやが、こちらを指してどんどんと流れてくる。手の届くように鬘島がもう黒い。薄暗くなった沖の海が、僅かな風にも寒そうに震えている。
長兵衛が、玉から宇野へ越える山道を過ぎて、海岸へ突出している山を廻って、天狗山が真向いに望まれた時、
海岸と畠の境である、雑草の生い茂った中から、
「長兵衛、一寸待って呉れ。」
浜(塩田)の八藏が飛出してきた。
アッ? 悪い者に見つかった、と思ったが、
「八藏さん、用かい。」
おだやかに訊いた。
「長兵衛、今日は貴様に無理かも知れんが、お願いしたいことがある。」
「俺にお願い?出来ることならやりましょう。」
「實は一つ、是非訊いたり叶えたりして貰いてえものがあるんだ、が。」
八藏は悪意をたくらんでいる様子を、そろそろとほのめかして、いやに、ニヤニヤ、と笑っている。
「訊ねたいとは?」
長兵衛は主人のことや責任のこと、加代のことなどが気になって忙しい心であったが、相手の心を慮って落ちついて聞いた。
「おい長兵衛、塩田見張りの加代をどこへ隠しているんだ。白状しろっ。」
「えっ、加代のことぁ俺も知らねぇ。が、この前帰るといって所へ帰ったんだろうよ。」
「何っ、加代の所へ帰った?嘘をぬかせ? 貴様がいい加減なことを、していやがるんだろ。」
「そんなことぁねえ。加代のことを俺がどうすることとか出来るか。塩田の旦那に訊いて見ろ。」
長兵衛はむっとして、はね返すように言った。
「嘘じゃなかろうナア.」
「嘘や、いつはりを言う俺じゃねぇ。」
「よ――し、そのかばちを覚えておれ。」
八藏は、ぺっと唾を吐いて腕をぐっとまくった。
「あ、覚えている。が、今日は急ぐから帰る。」
長兵衛が帰ろうとすると袂を掴んだ。
「まだ用事は済まねえよ。」
「もう、いい加減で放せ? 奉公している者は自由が許されんからナア。」
振り放して駆け出そうとした。
「まて言ったら待てッ。」
八藏は前よりも力を入れて握った。
「済まなきゃ早く言ってくれよ。」
仕方なく立止った長兵衛。
「長兵衛、俺が今日ここで待っていたのは、貴様の大切なものを貰いたいためなんだ。」
「大切な物というと?」
「貴様大切な物が分からねえのか。バカッ・・手前が臍の緒を切ってからこの方持っているものだ。」
「何っ? 俺の命とでもいうのかッ。」
「きまりきったことさ。今分かったか。」
「命を、いいののちを・・・・・。」
長兵衛は後にはね返る程愕然とした。
「貴様、命は惜しい心があるのかッ。」
八藏は、人の良い長兵衛の狼狽気味を快さそうに、ニヤニヤと笑いながら見詰めている。
「俺はもう帰る。手前達と関ってはおれん。」
長兵衛は気味悪くなって駆け出そうとした。
「長兵衛、貴様、今夜はここから帰れと思い帰って見ろ。貴様ももういい加減で観念しろ。この以前の祭の夜にだって往生したかと思や、未だ生きていやがるだナア。」
「八藏さん、俺をここから返さない気だナア。」
「帰しゃしない。」
八藏の日焼けした赤黒い顔が、夕闇の中に恐ろしく殺気を帯びている。
八藏と一人一人の喧嘩ならば負けりゃしないけれど、計り知れない大きな危険が身に迫っていることを感じた長兵衛は、
「放せ?」
といって一散に宇野の方へ走り出した。
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