2012年6月15日金曜日

宇野情話 洲巻長兵衛(4)

第4話 一番鶏

「寒くはないか。」
「いいえ、ちっとも。」
「ようし、無理もない。ついて来い。」
二人は裏門を出て、細い路を駆けるように歩いた。
祭の夜といっても、もう更けている。暗い淋しい夜がどこまでもどこまでも拡がって、北の方に見える天狗山の饅頭のような姿が馬鹿らしい程落ちついて見える。道端の稲の穂を夜風が寒そうになびかせて過ぎた。
虫の声も衰えかけているのか、こおろぎの声も無量に淋しい。
老松の立ち並ぶ間の段々を五六十登ると社殿の前に出た。
「長兵衛、長・・・」
旦那がどなるように大きな声を立てたが、答えるものは社殿の奥深く響く木霊ばかりである。
「長さん、長さん。」
加代も出来るだけ大きな声を張り上げた。
いぜんとして、松の梢を吹く風の音と、ちちちヽヽと縁の下の方で啼く虫の声よりは聞こえない。
// どこらに彼が倒されているであろうか。//
旦那はつぶやきながら、彼等が酒を飲んだ本殿の前の溜りの方にやってきた。
酒の臭いがプンプンとする。
「加代、ここで彼等が飲んだんだ。」
「旦那様、そうでしょうか。」
真っ暗なのでよく分からないが、手探りに歩いていると暗燈の転がったのや、皿のような物や、鍋や徳利などが足の先にさわった。
// 加代、大分乱暴されたらしいぞ。 //
旦那はそう言いながら、そこらあたりをぞろぞろと捜し回った。
「旦那様、どうして長さんの呻き声も聞えないんでしょう。」
彼女も不安におののきながら、旦那の後からついて探していた。
「長兵衛、長兵衛、居たら返事をしろッ!」
旦那は、びりびりとする程大きな声で呼んだが、何人の返事もない。只、眞暗な闇に薄気味悪い静寂があるばかりであった。
「長さん、長さん、長さんいないの。長さん返事してちょうだいッ?」
彼女も旦那と同じように叫んでみた。けれど何の反応もない。
「加代、こう暗くっては鼻をつままれても分からないよ。灯りを持ってくるとよかったにナア。」
「私これから持って参りましょうか。」
「いや、まあ、も少し探してみよう。」
ぞろぞろと手探りに捜し回ったが、皿や徳利や鍋のようなものや膳などが、ごちごちと手の先にさわるばかり。
「加代、ここら辺りにはいない。少し出口の方を探して見よう。こちらへ来い。」
旦那はそう言うと加代に手を取らせて、出口の方へ連れて行った。
「この辺りを見よう、格子戸の下の方をよく気をつけて見よ。」
「はい。」
彼女がそう返事をし終らぬ中に、
「旦那様、長さんはここに。」
彼女の恐怖と不安の戦慄した叫び声が恐ろしい程、鋭く響いた。

「何、長兵衛が居たかッ。」
旦那は手探りで、いざりながらやって来た。
「長兵衛、元気を出せ。しっかりしろ、こら長兵衛?」
「長さん、長さん気を確かに、確かに。加代ですよ、加代ですよ。長さん・・・・。」
二人は、そこに横たわっている黒い長兵衛の姿の前で根限り叫んだ。
長兵衛は、ちっとも返事がない。
//脈はあるかしらん。//
旦那はそうつぶやいて、長兵衛の手首を握ってみた。
「大丈夫だ。脈はあるッ。」
旦那は思わず大きく叫んだ。
「加代、もう心配すな。そらこれへ手洗鉢から水をしませてきてくれ。早う、早う。」
旦那は、懐中から手拭を取り出して、そこでかたかたと震えている彼女に渡した。
彼女は、間もなく手拭に水をたっぷりと浸してきた。
「長兵衛、しっかりしろ、こらっ長兵衛?」
旦那は、その手拭の水を搾りながら長兵衛の口のあたりへ滴を落した。そうして長兵衛の名を繰り返し繰り返して、彼の耳のそばで叫んだ。
「旦那様、長さんはもういけないのでしょうか。何にも返事が有りませんが。」
加代は恐ろしさと悲しさに、夜半の冷たさが混じって彼女を襲ってきた。旦那の横に坐って長兵衛の胸のあたりを手早く撫でながら、不安そうに真黒い旦那の顔を見上て訊いた。
「大丈夫だ、心配すなッ。脈もあり息もしているのだッ。も少ししたら気が付くから。」
旦那は泣き出しそうな加代に心配させまいとして、語気も鋭く叱るように言った。
長兵衛の頭の髪はザンバラに乱れ、着物も無茶無茶に引裂かれて、帯も羽織も何れに行ったか、暗がりで見てさえも余りにみじめであった。
「ほんとに村の若い奴等は酔った機嫌で、ひどいことをやったナア。不都合な奴だ。こんなことをするんだったら、わしにでも酒屋の旦那にでも言って出たらいいものを。」
「ほんとですワ。旦那様、余りですワ。」
彼女はボロボロと泪を落した。
あたりはひっそりとした暗黒の世界であった。縁の下で啼く虫の声が彼らの胸に痛々しく、響いてきた。
「あれ、旦那様。一番鶏が啼いていますワ。」
「どれ、どれー。」
遠い百姓屋で鳴く鶏の声が旦那の耳に聞こえた。
「あ、もう夜が明けるのも遠くはない。夜の明けるまでこうして動かさぬように寝せていてやろう。」
羽織を脱ぎながら旦那はそう云って、長兵衛の上にパッと掛けてやった。
加代も着ている一枚の寝巻を脱いで掛けようとすると、旦那が
「お前、こんなに風が冷えてきたのに、そんな一枚の着物を脱いでしまって、風邪でも引いたらどうするのだ。長兵衛が治るのが良いなら、わしの言う通りにして着物を着ておれ。」
「はい。」
加代は旦那の言葉に逆らうことは出来なかった。
遠くの方で又鶏の声がきこえた。

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