第5話 別れ
加代は、この児島郡でも名高い山田村の屈指の金持ちの家に生れたのであったが、祖父の代から傾きかけた家運は、父の代になってから到底支えられなくなった。たくさんの不動産は人手に渡ってあまつさえ、子女の養育にもことをかくような状態に立至ったので、父の遠縁に当たる宇野の、塩田見張りの内へ行儀見習という名目の下に、奉公に出しているのであった。
それが数日前から、家の方にちと用事があるので暇を少し貰って帰ってこい、と言う知らせがあったので、忙しい中を旦那に暇を貰って帰ろうとした。
// ちょっと帰ってくることを長さんに知らしておいた方がいいだろう。早くは帰ってくるけれど、一言言っておかないと、あの人がどんなに心を使うかわからない。僅かな暇で会えるのだから、ちょっと会ってこよう //
彼女はそう想って、ずっと西の山裾にある長兵衛の酒屋へやって来た。
門の中をちらと覗いて見たが、長兵衛らしい者がいそうにない。入っていって逢うのも皆に風が悪いし、このまま会わずに帰ってお家の用事はどんなことかしらないけれど、早くやってこようかしらん。長さん、都合よく出て来てくれるといいのにナア。
彼女はそんな思案にくれながら、いらいらとして門の脇から、畑村の方へ通ずる露路をうろうろとしていると、露路の尽きるあたりの酒倉の方から、下駄の音が聞えて来た。
// アラ、あの足音は必ず長さんだ? //
彼女は小声に叫んで足音の音へ小刻みに走って行った。
「あ、加代さんじゃないか。」
パッタリと加代に出会った長兵衛は彼女を擁き寄せた。彼は村の方に用事があって、行って帰る途中であった。右手に帳面を提げて意気な角帯に前掛をかけて、お祭から1ヶ月経った今は、顔の疵も綺麗に治って何時ものように明朗な笑いを浮かべている長兵衛であった。
「長さん、私、二三日帰ってきますワ。」
「どうしたんだ。」
「お母さんから、少し用事があるから帰ってこいと仰るのよ。私もどんなことか見当がつかないけれど、二日か三日かしたら帰ってくるわヨ。」
長兵衛の襟のあたりをいじりながら、加代は泪にうるんだ瞳で長兵衛を見上げた。
「加代さん、そうかい。それで俺を訪ねてきて探していたんだナア。有りがとう。だが、どんな用事か済んだら直ぐ帰ってきてくれよ。俺もお前のことばかり思っているからナア。」
彼はそう云って柔らかくもたれかかっている彼女の体を擁き緊めた。急いだのだろう。お化粧気のない首筋が透通るように白く美しかった。
「私とのことを一言長さんにお伝えしようと思ってやってきたの。もうこれで安心して帰ってこれるワ。」
彼女は、そう言ったけれどそこを立去りたくないように、もじもじとして長兵衛の前掛の端をいじっていた。
「それなら早く出かけないと、この頃の日は短いからちょっとでも早く出た方がいいよ。」
彼はそう言って促して、彼女の抱えている小さな風呂敷包みを持って歩きかけようとした。
「あの長さん、私、少しでも離れているのが寂しいワ。長さんとも少し話していたいワ。」
彼女は凝と立ったまま歩こうとはしなかった。
「そんなことを言ったって、又こんなところを人に見られるとうるさいから、もう二日三日すれば又逢えるじゃないか。」
といってお加代を慰めたものの、彼の心にも何故か離れ難い愛着があった。
「私、何かも一つ長さんにお伝えしたいことがあるのよ。」
彼女は長兵衛の前掛の端をかみながら、睨むように彼の顔を見上げ、意味ありげににっこと微笑した。
「何だい。俺がお土産でもことづけないから催促かもしれん。そうだ。お土産をお前の母さんに送ろう。」
彼は、小走りに酒屋の方へ取って返そうとした。彼の邪気のない心のままに。
「そんなことじゃないのよぅ・・・違うワ。違うワ。ホホホ・・・・・。」
彼女はそれを、手を振って笑いながら措止した。
「どんなことだい一体、早く言って帰らんと日が暮れたら、又困るだろう。」
静かに彼女の肩に手をかけて促して見たが、何を想っているか、それともどんなに言いにくいのか、丸味を帯びた柔らかな肩が小さく波打つように揺れていた。
「あのナ、長さん。私、何だか赤ん坊が出来ているようなの・・・・・・。」
暫くして漸く聞き取れる程度の声で言ったと思うと、彼の前掛で顔を覆った。
そんなことを言い出そうとは予期してなかった彼は、
「ほんとかいッ? 加代さん?」
彼は真偽を確かめようとして、彼女の顔をもたげあうと、脇の下あたりに腕を回して、じっと抱き上げた。
抱かれたまま彼女は、
「嘘なんか言うものですか。」
にっこりと白い歯を出して、彼の鼻の下あたりで微笑した。
「加代さん、それじゃいい赤ちゃんを生んでくれ。俺は何かしらん。ぞくぞくとする程うれしい。」
彼女の手を握って、彼は愉快らしく大きく笑った。
「私、今の月から気がついたの。長さんの赤ん坊よ。」
「勿論俺の子供さ。元気で早く産んでくれよ。楽しみが一つ増えた、というものさ。」
「長さん、ほんとに産んでもいい?」
「産まなくってどうするんだ。俺は手を受けて待っているよ。」
「それじゃ待っていて頂戴ねぇ。」
彼女は一つ大きな息をすーっと吐いて、心の底から何もかも言ってしまった快さを見せて顔を表情いっぱいにして笑った。
「もう帰らなけりゃいけないよ。妊娠している体なんだから無理しないように、気を付けて帰っておいで。」
「それじゃ帰って来ますヮ。左様なら。」
彼女は、長兵衛を振り返って、にっこりと笑ったまま小急ぎに歩きかけようとした。
「加代さん、俺もそこの土橋のところまで見送ろう。」
彼は彼女の後からついてきた。
「いや長さん結構です。私一人でいいですの。」
長兵衛の忙しい体をよく知っている彼女は、それを押し留めようとした。
「いいや、そんなに遠慮しなくってもいい。そこまでだ。」
二人は連れ立って歩きかけた。
家並みの間の細い道を通って大川の土提に出ると、膚に沁みいるような晩秋の風が蕭?として吹いて過ぎた。土提の右側の畠も左側の蘆も冬の来る前の、薄暗い冷たさの中に閉じ込められていた。遠い備讃瀬戸の島々が、手に取るように明瞭に輪廓を浮かべている。もう寒い冬が来るのだ。
二人は隣村の田井越に出る道になる、大川の土橋の上まで来た時、
「俺、ここで別れるからナア。随分気をつけて帰ってくれ。大切な体になっているのだから無理しないで、又早く帰ってきてくれ。」
手に持ってきた風呂敷包みを加代に渡しながら長兵衛は言った。
「ありがとう。ここまで見送っていただいて嬉しかったワ。又直ぐ帰って来るワ。」
彼女は、今一度礼を言って長兵衛を見上げた。
「じゃ、俺も別れよう。」
彼は、二度そう言って橋の上に立って葭の間に次第に見え隠れして、遠ざかって行く加代を見送っていた。
加代がサヨウナラを言っているのであろう。山越に近い林の中で右手をあげているのが小さく見えた。
加代が越して行くであろう山路の頂きあたりの禿山に、午下がりの陽が黄色く写したように照っていた。
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