2012年6月20日水曜日

宇野情話 洲巻長兵衛(9)

第9話 渦潮 

 今夜は嬪入りの夜だ。
 外には庄屋が迎えに来た花婿の駕籠と、花嫁の駕籠が提灯をつけて、綺麗に並んでいる。駕籠担ぎが勝手の方でよばれていい機嫌になっているらしい。
 仲人役の平左エ門さんや花婿、その庄屋の親戚がずらりと、座敷に礼装をもって待っていた。花嫁の支度を待って貰って帰るのだ。沢山つけられた行灯の灯りの中に、面白い話や、目出たい数々の物語りに花が咲いている。
 それが次の間で衣装の着付けをしている加代の耳にはよく聞えた。
// 嬉しくない結婚式。父母が勝手に決めてしまって、私に嫌な想いをさせるのだ。家へ帰ってから丁度今夜で十七日だ。家に帰ってから、それ衣装だ、箪笥だ、長持だ、結納だ、といって親達の勝手のままに今日まで来てしまった。が、私はどうしてもこのお嫁入りなど出来るものじゃない。二三日したら帰るわ。きっと帰るわ。と固く約束した長さんは、どんな思いで待っていて下さるだろう、長さんは怒っていなさるに相違ない、私がこんなに大きな嘘をついているのだから。
 だって私、お嫁に行きやしないからいいわ、死んだって行きやしないから。帰る時、土橋の上まで見送って下さった長さんは、今どうして待っていて下さるだろう。//
 彼女は、一人思って一人泣いた。
 その中に髪結も済み、衣装の着付けも終った。
 勝手口の方では人の出入りがやかましく賑やかで、人々がみんな悦びの挨拶だ。座敷の方でもわいわいと哄笑がもれて来る。
// 今夜、輿入れか、結婚か、虚栄の為の縁か //
 そう思うと彼女は切迫詰まった今、もう結婚の心などは飛んで、恋しい長兵衛の上に走っていた。
角隠しも着けてしまった。それは夢のようであった。
「一寸、裏に出て夜風に合って来ますワ。」
 彼女は裏に立出でた。
 東の塩田の上にある丸い月が裏山の林に蒼白い影を落している。
// あッ、長さんと一緒に眺めたあの月、祭の前に眺めた夜半の月もあんな色だった。//
 彼女は吾にもなく走り出していた。
 裏の繁みから細い山路へ、山路からとろとろと下って様子を知った田んぼの中へ、田んぼを通り抜けて街道へ、彼女は小走りに走りかけた。
// あ、長さんに会わなきゃ、今夜のこんな有様を話して、許しを乞わなければ、長さん、あの月影を見ながら待っていて下さい。//
 婚礼の盛装のまま彼女は真白く月影にうかんで見える街道を宇野へ、宇野へ、と一散に走り出した。
 十五日程泣きつづけた涙の心も、今日はきれいに拭われてしまった。
 三町程走ると大きな峠にかかる。平生は昼でも恐ろしいこの峠、松と杉と雑木と雑草の生茂る峠の山、黒い巨大な牛の横たわるように見えるこの峠の中も、ごろごろとした凹凸の険しい路も、何の不安もなく、頂まで駆け上った。
// もう四里程行けば宇野だ。//
 彼女は一息に峠を駆け下りた。重たい着物と帯が邪魔になって仕方がない。パッと着物の裾を端折った。頭がくらくらする。手を当てて見れば大きな島田に角かくしがかかっている。
「こんな物は用がない。」
 傍らの道草の中へ投げ込んだ。
 峠を下り切ると右手は山、左手は海、海と山の境が僅かな一本の砂浜路、長く長く何里となく続くこの道を、一生懸命で走り続けた。蒼白い月の光が何物をも深い静寂の中に押沈めていた。
 今夜は波が荒いのか、押寄せた波しぶきが顔のあたりへ飛んで来る。道は走りにくい石ころ混じりの砂浜だ。幾度も転びそうになりながら、
// 長さん待っていてよ。加代は結婚なんかしませんから //
 そう心で思いつめて、どんどんと走った。
 心は焦り焦り跳び続けるけれど脚は心に伴わない、だんだんだんと腰から下が棒のように固く、感覚が次第に失われて来るのを感じた。始めのように石を蹴っても痛くない。物につまずいても容易に起き上れなかった。呼吸が波の音よりも激しく、胸のときめきも大きくなってきた。
 月にうかんだこの水と土との境の一本路を、唯一つの運命の絆の如く、前もいいか後もいいかわきまえなかった。唯この一筋の道、この海岸線のうねりに添った一本の砂浜路が宇野へ通ずる路なんだ。
// 長さんが待っている。長さんの声がする。あ、速く急がなきゃならない。//
 この辺りはもうどこらであろうか、と彼女が右手の家村の方を振り向くと、入り込んだような山の奥に、黄色い灯りがちらちらと散らばって見えた。
// あ、ここは後閑だ。//
// まだまだ宇野は遠い。何故、早く駆けられない。//
 心はもうとっくに、宇野の灯を見、宇野の村を眺めているけれど、体は歩くよりも遅かった。歩いているよりも引きずっているのだ。
 後閑の入江の奥の黄色の灯影も彼女から中々遠ざかろうとはしない。
// ええ、いまいましい。//
 さっきから少しゆるみ掛かって来た帯が気にさわってきた。岡山から舟で買ってきた庄屋の調度の一つ、この羽二重の自慢の帯もけがらわしい。身に着けたい物ではなかった。
 ゆるみかかったのを幸い、ぐるぐるとほどいて手に巻きつけて畳むと、波を目がけて
// ええ癪にさわる。//
 投げ捨てた。
// 帯も着物も大切じゃない、長さんに約束を果たすのが、一番大切なのだ。//
 彼女は、一本の腰紐をほどいて、たすきにかえた。
// 頭にはまだ島田がある。//
 ぐらぐらとゆすっている中に、だんだんと根がゆるみ始めた。強く強く引きむしるようにゆすると、髪はばらばらと洗髪のように後へ流れた。
// これでいい。これでさっぱりしたわ。//
 彼女は運ばない足に鞭打って、心と体の調和しない速さに悩まされながら、漸く田井から宇野越の峠へかかってきた。
「あ、宇野が見える。長さんの宇野だ。」
 蒼い月影が静かに夜の村に降りかかっていた。長兵衛とこの前別れた土橋も、銀色に光る大川の上に見えた。
 長兵衛のいる懐かしい酒屋の倉も家も彼女が奉公先の旦那の大きな邸も、塩田も葭の原も、小さな百姓屋のほの黄色い行灯の灯影も、ずんずんと更けて行く夜のうるんだ月の光の中に安らかな夢を迎えているように、すべてが静寂な村であった。
 彼女は疲労も何もない。足の足袋が破れて血が滲んでいるのさえ判らなかった。冷たい夜風に汗ばんでいる肌もこころよく、峠から真直ぐに松林の中を駆け下った。
 長兵衛と判れた土橋を渡って、田んぼの路を過ぎて村に入ると、直ぐ長兵衛の酒屋へかけった。
 門から玄関へ飛込んで、長さんに逢わして貰いたかった。が、彼女にも未だ理性は失われていなかった。今までどこかにひそんでいた理性が静かに、胸から脳裏へずんずんと蘇ってきた。
// こんな取り乱した姿を人に見られては風が悪い。長さんにこんな帯も着物もバラバラになっているところなど見せたくない。//
 彼女はそう思って、玄関の中へいきなり飛込むことは躊躇された。
// そうだ? //
 彼女はつぶやいて、門の側から塀伝いに長兵衛の部屋の下まで来た。
 窓の下から上を見上げると、部屋の灯がない。實直な長兵衛が夜帳面の整理に、日頃夜中までは消したことのない灯なんだ。それが見えない。
// どうしているのかしらん。長さんの名前を呼んでみよう。// 長さん、長さん。//
夜逢いたくなってやって来る時には、何時もこの窓の下で呼ぶのだったが、今夜に限って返事がない。
 彼女は、又、不安が焦燥と共に胸を固く緊めつけてきた。
// どうしよう。又、困ってしまうわ。//
 仕方なしに門の方へ引かえそうとした時、向うの方の路から沢山の提灯の影がぞろぞろとやってきた。
// なんであろうか。//
 と思って、門と部屋の方に続く塀の窪みに身を屈めていると、
 ぞろぞろとやって来る人々の足音と共に、話声が明瞭になってきた。
// もう到底生きてはいまい。昨日も山捜し、今日は海辺り探し、それに村中総出の有様じゃからナア。もう望みはないよ。//
// 俺もそんな気がする、平生真面目な長兵衛だから、主人の使いに行って二日も三日も帰らずに、他の方へ行っているなんてことは全くない。これ程までに捜して居ないんだから、よくよく居ないんだ。//
// そーら、この前の祭の夜さも、村の若え衆が寄り集まって、彼を袋叩きにしたというではないか。あの時にも半殺しになっていたんだからナア。今度も行方が知れぬのは十中八九まで殺られているのに違いはない。//
 村の年寄った人や中老の人達がゾロゾロと三十人程門の中へ入って行った。
 彼女は、思いがけなくもそれが長兵衛の危難の話であると思うと、悶絶しそうな体を、漸くそこの土壁に支えていた。
// ナント、長兵衛のような素直な男を、どうした事かナア、村の若い奴等の悪戯か、それとも狐の仕業か。だが、あの藤井の海岸のおそごえあたりに散らばっていた、着物の千切れや帯の切れは、ありゃ長兵衛の物に違いねえよ。//
// そうだそうだ。あのあたりに転がっていた下駄や帳面から見ても、もう長兵衛は生きてはいないに決まっている。あすこらで暴れたらしい人間の足跡を見ても分る。殺されて海に投げられたんだよ。//

 長兵衛が不明になって、行方捜査に出掛けた村人達が、その結果の報告を酒屋の主人に告げるべく、そんな話を口々にしながら、門の中から玄関の方へやって行った。
// あの人達が今話しながら通ったことは、みんなほんとうのことなんだ。長さんが居ないのは殺されているに決まっているわ。確かに村の若い人たちに苦しめられ続けたんだもの。もうちっとも間違いッこはないわ。//
 彼女はフラフラとして立上った。
 体中の希望と力がどこへ奪われてしまったのか。さっきまでしまり切った力の泉はどこに行ったのか。山田から一息に走ってきたあの意気は。彼女の頭には、もう何も考える力も求める心も失われてしまっていた。余りに忽然として現れた絶望のみが、空虚な渓となって寒々しげに、体の中を流れて行った。
 足袋はだしの爪先からは、冷たさへ擦り傷の疼きが、キリキリと下腹の方にこみあげて来る。夜の寒さと疲れがにわかに襲ってきた。
// あ、あ、すべてが駄目か? //
 彼女はよろよろよろよろと、あてもなく歩き始めた。黄色い月と蒼い光の中を、何時か道は藤井の海岸であった。
 磯慣松の間を、尚もよろよろとして歩んで行った。
// 村の人たちの言っていたおそごえ。ここがおそごえだ。あの引潮のすさまじい流れの中に、長さんは投げ込まれてしまったのか。//
 沖は引潮が高辺あたりの海へ向けて、恐ろしい速さで、波頭をたてながら渦を巻いて流れていた。気味悪い渦巻きの音が聞こえて来る。
 昔から水死人が流れてきたり、身投げする者が多いこのおそごえには、一本松の下にお地藏様が立てられていた。
// お地藏様に訊いて見よう。//
 幻滅の悲しみに空ろになった心に、そうつぶやいて、彼女がお地藏様に近付きかけた時、
 ちらっと、彼女の目を射るものを砂の中に見つけた。
// 妙に気にかかる。貝殻かしらん。・・
 手を伸ばして拾ってみると、それは千切れて半分になっているかんざしであった。
// あらッ、かんざしだッ。忘れられないこのかんざし、長さんと二人でこの一本のかんざしを割って、半分ずつ肌身離さず持っていようと誓ったこのかんざし。//
 彼女はそれを抱いたまま、蒼い月を眺め入った。
// 長さんがここまで逃れてきて、このかんざしを落としてしまったのだ。この誓いのかんざしを、・・・・・・・・ 私のかんざしも出して見よう。//
 彼女は懐の中から大切そうにかんざしの半分を取り出した。
// 長さんの持っていたのと合して見ようー。//
// アア、このかんざしはぴったりと合うのに、何故、長さん居てくれないの。あの夜、二人で千切ったかんざしのことが想われる・・・・・・・・・・//
// 長さん・・・・・・・・長さん・・・・・・・・//
 渚をあちこちと、よろよろよろよろと歩みながら、声を限りに叫んで見た。答えるものは松風の音と、潮の響きよりなかった。中空に浮んだ丸い月と、ちらばらに輝いている星の光のみが、人の運命を嘲笑うかのように、静かな瞬きを続けていた。
// 加代さ――ん、加代・・・・さあ――ん・・・、加代さあ・・・・・・ん。//
 どこからか、懐かしい長兵衛の声が聞こえて来た。
 彼女は、ふと耳をそば立てた。
// 加代さあ・・・・・ん、かよさあん・・・・・・、加代さあ・・・・・・ん。加代さあん・・・・・・・・・・//
 潮のどよめきの中で、続けさまに彼女を呼ぶ長兵衛の声が聞こえた。
// あら長さんだ。長さんの声だ。//
 彼女は沖へ突出している岩の先へ、駆け出して行った。
// 加代さあん・・・・・、加代さあん・・・・・・。ここだよ・・・・ここだよ・・・・お出でよ・・・・・・お出でよ・・・・・・・・//
 長兵衛の声はまだも、潮の中から聞こえてくる。
「長さあん・・・長さあん・・・・・どこ―・・・・長さん・・・・・・。」
 彼女は叫んだ。
// ここだよ、ここだよ、加代さあん・・・お出で、おいでよ・・・・・・・・//
 波の底に笑いながら、長兵衛が彼女を招いているではないか。
// 長さん、あ、なつかしかったわ。そこにいなさるの・・・・・あ、恋しい長さ・・・ん。//
 どぶん! 彼女は何物かに抱きつくように、波を目がけて身を躍らせた。
 白い泡と、飛び上がったしぶきが金色に光った。けれど、もうその姿は渦巻いて流れる潮の中には見出すことは出来なかった。

                                (完)

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