12月14日(月) 赤穂浪士の吉良邸討ち入り
12月14日は、忠臣蔵で有名な赤穂浪士四十七士による吉良邸討ち入りの日に当たる。
時は元禄14年(1701年)3月14日、赤穂藩藩主/浅野内匠頭は、勅使(天皇の使者)饗応の接待役を果たすべく高家/吉良上野介にその作法等を習おうとするが、なぜか(付届けの額が少なかったのかも?)意地悪く扱われた (つまり今で言うイジメに遭った訳だ) 。堪忍袋の緒が切れた内匠頭は、江戸城内松の廊下で刃傷沙汰に及び、徳川綱吉の命により即日切腹となった。一方の吉良にはお咎(トガ)めなしだった。
桜舞い散る庭先での切腹を前に詠んだ有名な辞世の句は、内匠頭の気持を率直に表している。
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」
(風に散り行く桜の花びらも名残惜しい。だけど、私自身の名残惜しさは比べようもない。散り行くわが身の悔しさをどこにぶつけたらいいんだ!)
主君の無念を晴らすべく大石内蔵助率いる四十七士は、幾多の艱難辛苦を乗り越え、翌元禄15年12月14日、吉良邸への討ち入りに見事成功、上野介の首級を旗印に江戸の町を凱旋した。
今から18年前(平成3年、1991年)、JR東日本のプロジェクト担当のため約2年間の東京赴任を始めた頃、一人泉岳寺(港区高輪)を訪ねたことがある。季節外れ(初秋)にも拘らず、四十七士の墓には、線香の煙が絶えることはなかった。
0 件のコメント:
コメントを投稿