2011年10月18日火曜日

タマノクルーズ-たまの西海道-案内資料(7)

10月17日(月)

いよいよクルーズ当日だ。
やや曇り空で透明さはないが、暑くもなく寒くもなく、良いクルーズ日和となった。9時受付開始にも拘らず、9時過ぎには定員の55人が全員揃った。嬉しい行事には、皆早くから集まるものだ。
定刻の9時半に乗船完了。クルーズ遊覧船のからこと丸は、獺越~藤井海岸~玉(三井造船)~向日比~日比を通り、大槌島の裏側を周回、王子が岳の雄姿を観て渋川港に到着した。下船した客は、渋川海岸のゴミを拾いながら、一路渋川マリン水族館へ。数多くの標本や水槽で泳ぐ珍しい魚、餌を求めるアシカやペンギンを興味深げに眺める乗船客。その後、ダイヤモンド瀬戸内マリンホテルでのバイキングランチ。手の込んだ料理の数々に、どの客も大満足。
進水時刻の関係から、やや短く感じたランチタイムを切り上げ、クルーズ船に再乗船。三井造船では、造船と機械の担当者2名が乗船し、進水と工場の見学説明があった。陸上から静かに滑り降りる船の迫力に、思わず感動の拍手が起こった。

その後、直島の南を周回し、向島~家島~京の上﨟島~喜兵衛島と巡り、予定より15分程早く宇野港へ辿りついた。全員無事に、満足して帰られたことが何よりであった。
写真は、からこと丸船尾のキャビンで寛ぐ若手女性三人衆。後方に三井造船の景色が見える。

さて、第7回の今日は、渋川地区の紹介だ。

31.渋川海岸
約1Kmの白砂青松の渋川海岸は、「日本の渚百選」「海水浴場百選」にも選ばれ、子どもたちの海洋研修場・岡山県青年の家、海をテーマに開館した渋川マリン水族館、市営ヨット艇庫を有する、県下最大の海水浴場である。1年を通じてヨット、ウィンドサーフィンなどのマリンスポーツが楽しめる海岸としても有名である。又、夕暮れ時のシルエットは絶景で、非常にロマンチックなスポットへと変貌する。香川県との距離も近く、その昔、西行法師が四国に渡るために立ち寄った所としても知られ、本州四国を結ぶ電信用海底ケーブルの第1号が敷設された所でもある。
隣接の公園には、長さ日本一(900m)の藤棚があり、毎年4月から5月上旬にかけて見事に花開く。この藤の実から製造するお酒「渚百選たまの藤ロマン」は、玉野特産品として販売されている。
写真は、広大な渋川海岸から王子が岳方面を望む。海岸には、渋川青年の家が所有するカッターが横たわっている。

32.西行法師像
西行法師は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶・歌人。出家前の名前は佐藤義清(ノリキヨ)。鳥羽上皇に仕える武士であったが、23歳で出家してから50年間、東北、近畿、四国、九州地方を旅した。「新古今和歌集」に最多の94首が収められ、その他の勅撰集の歌を合わせると、265首が収められている。個人の歌集に「山家集」がある。
保元の乱に敗れ四国に流された崇徳上皇は、1164年寂しく生涯を終えた。西行は、御陵にお参りしようと渋川海岸まで来たが、強風のため船が出ずここに暫く滞在することとなった。西行は、この地で「下り立ちて 浦田に拾ふあまの子は つみよりつみを習うなりけり」という歌を詠んだ。無心に「つみ」といわれる貝を拾う漁師の子を見て、仏道でいう殺生の罪作りをしなければ生きていけない漁民の暮らしに思いを馳せ詠んだ歌である。
渋川海岸には、西行法師像が建っており、毎年3月初めには西行祭りが行われている。
写真は、渋川マリン水族館前に建つ西行法師像。

33.渋川八幡宮「浜の神さま」
渋川八幡宮の境内に、「浜の神さま」と呼ばれる小祠があり、次のような伝説が伝えられている。
昔、渋川に依田某という人がいて、あるとき用事があって京へ上ったのである。仕事の関係から幾日か京に滞在していたが、その間に都の女といい仲になってしまった。愛しあった二人は夫婦になろうと約束し、やがて京を離れる日がくると、彼は女を連れて渋川への帰途についた。二人は長い船旅の末、ついに宇野が見える沖合にさし掛かったとき、彼は彼女に「もう渋川も近い。いきなりお前を連れて帰っては皆が驚く。しばらく、この島に上がって待っていて欲しい。」
彼は、彼女を京の上臈島に残して渋川に帰っていった。何日か経ったある日、渋川の海岸に若い女の死体が流れついた。村人たちは、この水死体を見つけて「可哀相に、どういう事情か知らないが、ええとこへ行きなさいよ。」と沖へ押し流してやった。ところが翌日、又同じ所に死体が流れついているではないか。村人は気味悪がり、さらに沖の方に押し流してやったが、翌日には、又同じ場所に流れついていた。その内、この若い女は依田某という者が都から連れて帰った女であることが分かった。京の上﨟島へ置き去りにされた彼女は、いくら待っても迎えに来ない男へのやるせない慕情と離れ小島に一人残された心もとない寂しさに耐えかねて、ついに海に身を投げたのであろう。
そして、彼女の魂は渋川の浜辺に流れつきここを離れようとはしなかったのである。これを哀れと思った村人たちは付近の松林の中に懇ろに葬り、そこに小さな祠を建てて祀ったのである。依田某は、後悔し、社や鳥居の建立からお祭りまで全て身をもって奉仕し、その菩提を弔ったという。
今も人々から「浜の神さん」と呼ばれ、松林の中にひっそりと祀られている。
写真は、渋川八幡宮入口。撮影日当日(10/10)は、お祭が終った後の片づけを行っていた。

34.渋川マリン水族館(玉野海洋博物館)
水族館と陳列館を合わせた施設で、34個の水槽には、瀬戸内海や四国沿岸の魚を中心に約180種、2,000匹を飼育展示している。陳列館は、珍しい海の動物を標本として陳列する他、魚類、甲殻類の剥製を始め、海の性格や利用に関する資料、内海の自然や人文現象を教える多くの貴重な資料を展示している。その他、アシカ池、ペンギン池、ウミガメ池など、楽しい施設があって、海洋の自然や生活、利用などについて多くのことを学ぶことができる。
写真は、水族館の水槽で泳ぐ大きなウミガメたち。

35.ダイヤモンド瀬戸内マリンホテル
1Km続く白砂青松の海水浴場で有名な渋川には、昭和34年(1959)に建てられた国民宿舎「玉野荘」があったが、老朽化により建替えが必要となった。施設を所有する玉野市は、昭和61年(1986)シャロン㈱と大型ホテル建設で合意。昭和63年(1988)「瀬戸内国際マリンホテル」を建設オープンした。地上6階地下1階、客室191、収容人数540人を有するリゾートホテルだったが、筆頭株主シャロン㈱の経営破綻により、平成14年(2002)に閉鎖した。
その後、経営を引き継いだのが、全国的に会員制リゾートホテルを展開しているダイヤモンドグループであった。玉野市唯一の本格的リゾートホテル「ダイヤモンド瀬戸内マリンホテル」は、豪華な雰囲気をリーズナブルな料金で味わうことのできるホテルとして人気を博している。
写真は、ダイヤモンド瀬戸内マリンホテルの全景。

2011年10月15日土曜日

タマノクルーズ-たまの西海道-案内資料(6)

10月15日(土)

クルーズまであと2日。予報どおり今日は曇り空。ということは、月曜日は必ず晴れる。今から楽しみがうずうずする。
さてそこで、今日は、日比から渋川地区沖の島を紹介する。何れも楽しい話が盛りだくさんだ。お楽しみに!

26.日比観音院
日比の天神山という小山にある真言宗の寺院。寺号は與楽山常光寺観音院。海を隔てて弘法大師誕生の地讃岐が望見される。本堂には五間四面の内陣を配し、弘法大師作である本尊十一面観世音菩薩像(市重文)が厨子に納められ祀られている。この像は、50年に1度開扉される秘仏である。
はだか祭り(会陽)と言えば西大寺の奇祭であるが、元々備前地区真言宗系の寺で行われる修正会という仏教行事で、日比観音院でも伝統法会として古くから盛大に行われていた。戦時中に一時中止されていたが、戦後復興した。しかし、狭い山内での危険性を考慮し、昭和32年日比第2小学校で行われたのを最後に、観音院の会陽は途絶えた。
戦時中三井金属日比製煉所で死亡した中国人労務者25人の遺骨が、製煉所によって日比観音院と正善寺で供養されていた。昭和30年頃、「遺骨を家族に送り届ける方法はないか」との地元の人の声があり、昭和32年、中国紅十字会会長李徳全を迎えて中国殉難者慰霊祭を行うこととなった。その慰霊のために鎮魂の鐘が建立され、毎日世界平和を祈願して鳴り響いている。
写真は、観音員の本堂と毎日の時を知らせる鎮魂の鐘。

27.パンパシフィック・カッパー㈱日比製煉所
明治26年(1893)、渾大坊益三郎が日比に小規模な製煉所を創設。
同30年(1897)杉山岩三郎は規模を拡大。大正5年(1916)、鈴木商店が進出し、大規模化。昭和2年(1927)、鈴木商店倒産。
昭和11年(1936)、昭和鉱業㈱が日比製煉所を再開。
昭和17年(1942)、三井金属が昭和鉱業日比製煉所を買収、事業を継続。
昭和43年(1968)、三井金属鉱業・日鉄鉱業・古河鉱業(現古河機械金属)3社の出資によりPPCを設立。平成16年(2004)3月、古河機械金属が日比共同製錬の株式を古河メタルリソースに譲渡。平成18年(2006)4月、三井金属鉱業が日比共同製錬の株式をパンパシフィック・カッパーに譲渡。組織的には、管理部門がPPCで、製造と技術部門は日比共同製錬㈱玉野製錬所に属する。
製品の用途は、電線、伸銅品(銅管、銅屋根板)、銅合金(プロペラ、歯車、洋食器、貨幣)
ところで、PPC事業所名の「煉」と子会社の工場名「錬」の違いに注意していただきたい。何故このような使い分けをされているのか?どうしてでしょうか?
写真は、海から見たPPC。この写真は、岡本さんから提供いただいた。

28.大槌島(170.8m)
誰もが知っているおむすび形の無人島。渋川から沖合約3Km、周囲は約1.67Km。
備前の国の鍛冶屋は、日比は塩地で水も悪く、刀を鍛えるのに不適だったため、二度と刀は打つまいと決心、金床を海に投げ捨てさらに槌を二つ投げ捨てた。すると、金床はそわい(潮が満ちると海に沈む岩場)となり、遥か沖に飛んだ槌が小槌、手前に落ちたのが大槌になったという。
この辺りは、鯛、鯖、鰆の良い魚場で、讃岐の漁師と争いが絶えなかった。享保17年(1732)、大槌島の東に延びる大曾の瀬と西に延びる西の瀬(鰆大魚場)を巡って讃岐・直島漁民と備前側の日比・利生・渋川漁民が争った。讃岐・直島は全ての魚場を讃岐・直島のものとして幕府に提訴。
備前藩は、菅野彦九郎を立てて大反論をした。江戸から2名の調査官が訪れ、10名の判士(大岡越前守忠相の名もある)の裁きで備前側が勝訴、大槌の北半分が備前、南半分が讃岐となった。

29.堅場島(タテバシマ)(45m)
倉敷市児島港の湾の中央に浮かぶ、面積/0.12km2、周囲/2kmの無人島。島は平たく鯨が浮かんでいるように見えることから、地元では鯨島とも呼ばれる。以前は、管理人が住んでみかんの栽培などをしていたが、今は無人となっている。島の周辺は浅瀬の藻場となっており、釣り人も多いようである。島の所有者は、玉野市の人。
写真は、王子が岳から見た竪場島。大空に浮かぶハンググライダーとのコラボ写真は、我ながらよく撮れたと思う。下の写真は、竪場島に上陸するための桟橋。この桟橋は、からこと丸の社長が造られたとのこと。聞くところによると、今もみかんが採れるらしい。因みに島の持ち主は、宇野港土地㈱さんである。

30.祖父祖母島(ジンバジマ)
堅場島の東側に位置する小さな無人島で、海鳥たちの休憩場となっている。
誰かが言ってました。「この島は、小笠原諸島にある父島母島の親の島だ」と。
それってホント??
この写真は、大前さんの船でクルーズの下調べに行ったとき、大前さんに撮っていただいたものです。背景の大槌島とのコントラストが美しい写真です。

2011年10月14日金曜日

タマノクルーズ-たまの西海道-案内資料(5)

10月14日

玉野市西部の歴史・文化を訪ねるアートクルーズ。
今日は、サッキーの住む日比地区の紹介だ。玉野市西部にも、探せば自然美と歴史がたくさんある。見えないお宝を発掘し、世に広めることも大事なことかと思う。

21.地蔵山(155.8m)
和田地区にある山で、東側は海に臨み眼下に三井造船を見ることができる。頂上付近にある八畳岩という広い岩には柵が設けられ、展望台となっている。ここからの眺望は、玉野市の山々の中でも素晴らしいものである。
16世紀戦国時代には、四国の香西氏が力を伸ばそうとして、一族の四宮隠岐守が対岸の日比に進出、本城を向日比の城山(84.7m)に置くと同時に、地蔵山山頂を見張り所として塁を設けた。
又、地蔵山の名の由来かどうかは分からないが、和田3丁目からの集落を100m上がった所に大きな岩があり、その下に石の地蔵仏を祀った祠が置かれ、今もお参りされている。
写真は、八畳岩から眼下の三井造船を望むもの。

22.古浜・亀浜塩田
古浜は、日比では古い塩田で、享保2年(1717)に開かれた。亀浜は、古浜の沖手になる塩田で、天保3年(1832)、野﨑武左衛門によって開かれた。亀の形をしていることから亀浜と呼ばれた。
現在、亀浜の跡地は、御崎2丁目で御崎シーサイドと呼ばれる住宅団地となっている。
写真は、御崎シーサイドから向日比にかけて掛かる亀浜橋。この団地が造成され始めたのは昭和49年。橋の竣工日がそれを物語る。
川は、塩田に海水を入れる汐入川である。塩田に海水を撒くための潮川(チョウセン)ともなった。この川の一部に、塩田当時から築かれていた石垣も残っている。

23.御前八幡宮(ミサキハチマングウ)
御前八幡宮は、昭和18年(1943)、日比八幡宮、和田八幡宮、御前神杜の3社を合併し、元の御前神社の社殿を改築し、和田、日比、向日比村区の氏神としたものである。
日比八幡宮は、元宮山にあったものを文明19年(1487)に麓の内間に移したというが、元禄9年(1696)に改築の記録も残っている。この地方の大社で、神主である堀家は、天神山西福寺医光院の僧であったが、寛文6年(1666)池田光政の廃寺の結果、還俗して権之進と称し日比八幡宮の神主となり、当地方での神主の組頭を八浜の尾崎家と交替で勤めて来た家柄で、現に御前八幡官の神職を勤めている。日比は当地方きっての集落地で、市内では八浜に次ぐ商港であった。ことに内海航路の舟掛りとしての重要港で、神官堀家は藩の費用で家を修繕し、船掛りした大名たちの宿舎に宛てられていたので、昭和の初年まで「○○様御宿」と書かれた木札が多く残っていた。
大槌島の大蛇退治がこの社頭で行なわれたと伝えられている。日比八幡宮のお祭りには御神幸に御座船という全長25尺(7.6m)もある総ケヤキの船を造り、その中にご神体を入れて、この船に車をつけて子どもが引いていた。昔、海岸伝いに船でお仮屋まで渡御していた名残であろう。惜しいことに今はその船もなくなった。普通どこの神社でも山車や輿でご神幸が行なわれ、港町日比の特色を示したものだったであろう。最近、地元でこの船歌祭りの再興を図りたいと願っている人もいるようだ。
岡山藩士船戸助九郎蟄居の地で、延宝6年(1678)から天和2年(1682)まで4年問に亘って、帰参が叶うようにと日比八幡宮に願をかけ太刀を奉納した。御勘気御赦免の後、その子弾之進が牛玉と馬角という珍しい品を奉納している。牛玉は牛の胃の中に出来た塊であるといわれるし、馬角は馬のできものの一種であろう。牛玉、馬角等は、神秘な物として各地に奉納されている例が多い。この牛玉、馬角の入れ物である漆塗の箱は、桃山期の特徴をよく備えた美しいもので、市内における貴重な美術品である。又、助九郎の奉納した大刀は、二男久左衛門が磨きあげて盛装したことが誌されている。又、御前神杜には二つの言い伝えがある。
その一つは、貞治3年(1364)、御崎の湯頭七司という人が、伊予国波止浜から勧請して来たという。一説には、元讃岐国綾歌郡松山村高屋にあった社が、洪水のため社殿もろとも流失し、それがこの地に流れついたので、村人がこの海岸に奉斎したものである。故に高屋の人は、毎年例祭には必ず代表で参拝することが続いているのだという。
今一つの村社八幡宮は、向日比山崎にあった八幡宮で、一説には貞和4年(1384)、四宮城主の四宮裕右衛門が宇佐八幡の分霊を迎えたともいう。天正以前よりの存在であったことは確実のようで、神社書上帳にも「天正年中以前より有来り年数知れ申さず云々」とあり、寛文13年(1673)、再建立の棟札がある。向日比で四宮城との関係の深い神杜であったことが知れる。同時に合祀した和田の荒神様は、和田二道目にあり、昔から船持ちの多かった和田の氏神であった形跡がある。規模も小さく記録もないが、和田の荒神様としてこの地方ではその祭礼が盛んであった。
写真は、御前八幡宮の社殿と、4年前に宮司の堀さんにお見せいただいた牛玉と馬角それに美しい漆塗りの箱である。

24.神登山(188.9m)
和田3丁目にある和田消防署北の登山口から登り始め、舗装された道を登っていくと、良く整備された登山道になる。至る所に大岩がゴロゴロしており、眺望を楽しみながら10分ほど行くと一段と大きな岩のある所が頂上。山頂からの瀬戸内の眺望は抜群で、何時まで見ても見飽きない。その名の通り、この山には、稲荷様が祀られ、里人は祠を作り、神宿る聖地の山なのである。
写真は、神登山から東備讃瀬戸を望む風景。

25.日比港
響灘から日比となったと言われ、潮待ち港として栄える。加古浦(藩御用達の港)にもなり、朝鮮使節も立ち寄った。お台場を設置。明治22年(1889)日比・渋川・和田の3村が合併して日比村、明治39年(1906)玉を併合して日比町、昭和15年(1940)宇野町と合併して玉野市となった。
日比港は、一時多度津行きのフェリーが往復したこともある。現在、隣接する製錬所の専用バースと貨物船の公共バース(-10m岸壁)が設置されている。
江戸時代の木造船は帆走船であったため、風の方向と潮の流れが船を進める大きな頼りであった。瀬戸内海の潮流は、東は鳴門-淡路の海峡から、西は関門と豊予海峡の両方から流入し、約6時間を周期として東西へ夫々流出する運動を繰り返している。その東西へ満ち引きする潮の分かれ目が笠岡市の沖合である。そこで「一潮」と言われる周期の約6時間を、日比港を基点として潮流に乗って航海すると、東は姫路市の播磨辺りで満ち潮に変わる。そこで、次の引き潮の訪れるまで待つのである。これを西に向けて満ち潮に乗って走ると笠岡の沖合で引き潮に変わるが、今度はそのまま引き潮に乗って広島大崎上島の木の江港、大崎下島の御手洗港や鞆の浦辺りまで一気に走ることができる。日比港が、潮待ち港と言われる所以である。
江戸時代、朝鮮国王から幕府へ派遣された友好使節は、沿岸から動員された船が加わり1,000隻を超えた。その賑やかな様子は、日比の旧家に伝わる絵巻に描かれている。朝鮮使節は牛窓に1泊するのが通例だったが、潮待ちのため日比港に二度寄港している。日比港には、ドイツの医師シーボルトも訪れ、入浜式塩田と蛸壺漁に感心している。
写真は、岡本氏が写した日比港の灯台。

2011年10月13日木曜日

タマノクルーズ-たまの西海道-案内資料(4)

10月13日(木)

朝から雨模様の天気は、週間予報より1日早いが、土曜日の雨予報は繰り上がって晴れになるかもしれない。月一ゴルフの月例杯の日なので、気になるところ。
それより何より、月曜日(クルーズの日)は必ず晴れになって欲しいと願う。週間予報でも、月曜以降は暫く晴れ予報が続いていたんで、大丈夫かな。台風だけは絶対に来ないように!

さて、今日は、玉野市中央部(築港・宇野地区)からやや西に入った、玉から和田地区にかけてのスポット紹介である。

16.玉野ゴルフ倶楽部(18ホール/6,470ヤード/パー72)
昭和36年10月、瀬戸内海を望む谷あいに造られた、岡山県下初の18ホールチャンピオンコースとしてオープン、戦略性に富んだコースとして多くのゴルファーに親しまれている。50年の年輪を重ねた木々と四季折々の美しい花々が気持を和ませ、茶ドラ山の自然に恵まれた環境の中でゴルフを楽しむことが出来る。今では珍しいコーライグリーンが、プレーをより面白くしてくれる。
写真は、玉野GCの名物ホール、高低差50m位はあるかと思われる打ち下ろしの9番ホールだ。風のある日は、中々届かないが、油断するとグリーン先の池ポチャになりかねない。

17.玉比咩神社
式外社として古くから知られた神社で、境内に高さ10.6m、基部周囲29mに及ぶ先の尖った自然石があり、基部は水に囲まれその西面に直径40cm程の円い部分があり、この石を霊石として昔から崇めている。原始時代の自然物信仰の名残で、これが往時の玉の海岸であり、この円形部を太陽になぞらえて拝んだものと思われる。玉比咩の名もここから生まれたという。
又、玉の旧家立石姓もこの石が元であろう。霊岩由緒の一節に次のようなくだりがある。「昔、この珍しい形の巨岩を御神体として祭ったのが、原始信仰である玉比咩神社の起源である。御祭神は海神の娘豊玉姫命即ち竜宮の乙姫様で、日本書紀によれば産室にあって竜に化身したと言われている。海上の守護神、安産の神として知られている。往古は形状が玉の如くであるため玉石と称されていた。玉石の玉が当地の地名「玉」となり、社名「玉比咩」と称されるようになったものと考えられる。」
写真は、立石と霊岩由緒である。こちらの看板は、真新しいのでよく分かる。

18.三井造船㈱玉野事業所
大正6年(1917)6月、日比町玉、和田を理想の造船立地場所として選定、約57町歩を有する工場建設に掛かった。その間、宇野仮工場で造船をスタートした。(8.項参照)大正9年(1920)、県下初の重工業としての工場、三井物産株式会社造船部玉工場が完成した。
第一次世界大戦後の軍縮等の影響により、大正10年(1921)以降、大不況が続いた。不況克服のため、他社に先駆けて低燃費のディーゼル船に転換すべく、デンマークB&Wのディーゼルエンジンを導入、国内特許権を得た。これは、以後の玉工場の土台を支えることとなった。昭和6年(1931)に起こった満州事変の頃から、産業の軍事特需により昭和10年(1935)から黒字化。昭和12年(1937)、造船部は三井物産株式会社から独立し、株式会社玉造船所となった。
昭和15年(1940)、造船の日比町と港発展の期待が高い宇野町が合併、造船所と運命共同体とも言える玉野市が誕生した。昭和17年(1942)、三井造船株式会社と社名変更。昭和21年(1946)、財閥解体などで本社機構を東京から玉野に移し、玉野製作所として苦渋の経営を行った。終戦前22,000人いた従業員も7,000人となった。
朝鮮戦争を機に生産が活発化、昭和27年(1952)、本社を再び東京に移し、玉野造船所と改称、高度経済成長とともに発展の一途を辿った。石油危機から構造不況、円高不況と苦しい時代が続き、昭和53年(1978)、玉野事業所と改称、海洋構造物や新素材、システム開発等多角化を図るも規模縮小を余儀なくされた。
平成に入り、世界最大出力のディーゼルエンジンや高速旅客船の建造、最新鋭ディーゼル組立工場の建設、高効率バラ積み貨物船(通称「三井の56BC」)の連続建造等、経営合理化と高操業により安定した経営を維持してきた。しかしながら、現在、欧米の財政悪化等に起因する株安円高、中国やインド、東南アジアなど新興国の台頭により、厳しい経営環境にさらされている。
写真は、超優良製品「56BC」(載貨重量56,000トン型のバルクキャリア(バラ積み貨物船))の進水風景である。

19.ワイ・エス・ケー株式会社
大正13年(1924)、深井町に由良染料㈱日比作業所できる。日本海軍の主力爆薬としてのピクリン酸(下瀬火薬)の製造を終戦まで供給。火工品・産業用爆薬、化成品・有機中間体類、特殊機能品類、産業機器類を開発・製造・販売する会社。
写真は、YSK岡山工場である。三方を山に囲まれ前は海なので、普段中々見ることの出来ない会社である。

20.児島高徳井戸(児島高徳伝承の地)
児島高徳は、「太平記」(南北朝時代の軍記)の中で中心的に活動する武将である。南朝方について後醍醐天皇を援け、「天勾践を空しゅうする莫れ、時に范れい無きにしも非ず」という詩を書いて、天皇に忠誠を誓った。建武2年(1335)、足利尊氏の反乱により、戦況不利となった南朝方の高徳は、一時児島利生(オドウ)の辺りに隠れ住んでいた。現在、和田利生という所に共同井戸があり、「高徳井戸」と言われているが、その頃高徳が使っていた井戸なのかもしれない。
井戸の横に「高徳伝承の地」という看板が立っているが、直接見ても読み取れないほど字が翳んでいる。奇特な人に新しく付け替えて欲しいと思うが・・・。

2011年10月12日水曜日

タマノクルーズ-たまの西海道-案内資料(3)

今日は、第三弾である。
クルーズ紹介もいよいよ佳境に入り、段々面白くなってきた。かな!?

11.玉野市営電気鉄道跡
昭和28年(1953)4月、備南電気鉄道が国鉄宇野線から延びていた、三井造船への専用引込線を有効活用する形で宇野~玉(後の三井造船所前)間に開設された。昭和31年(1956)、経営が玉野市に譲渡され、「玉野市電気鉄道」となった。昭和35年(1960)には奥玉にある玉遊園地まで延長、営業キロは最長の4.7Kmになった。その後、気動車に動力変更を行うなどの経営努力を行うも経営は改善されず、遂に昭和47年(1972)3月末廃線となった。鉄道跡地は、当時全国的にも珍しかった自転車道に転用され、市民の通勤・通学に便利な自転車・歩行者専用道路となった。
気動車に変更になったとき不要となった電車(モハ103号)は、琴電に売られ琴電760号として活躍してきた。その後、老朽化により廃車となることを知った玉野市民有志は、その里帰り運動を行い、2006年9月、41年ぶりに玉野への帰還を果たした。現在、終着駅近くに建つ「すこやかセンター」に保管されている。
写真は、里帰りして、すこやかセンターに保存されている琴電760号(玉野市電モハ103)である。保存に至る説明文も架かっている。
12.玉野浄化センター
宇野3丁目の中山トンネル南側に建つ下水処理場「玉野浄化センター」は、昭和56年運転を開始、約40,000人の生活排水と事業場の排水等を合せて1日に約15,000?の汚水を、標準活性汚泥法という微生物を使った処理方法で浄化して海に放流している。汚水の処理は、24時間365日休むことなく続けられている。現有水処理能力は、日最大30,000?、年間汚泥発生量は約2,700トン。
発生した汚泥は、焼却後埋立て・セメント原料化・コンポスト(堆肥)化により処分され、約7割がセメント原料・コンポストとして再利用されている。
写真は、海上から見る玉野浄化センター。その向うの山を貫通し、藤井海岸につながるトンネルが中山トンネルである。

13.獺越(ウソゴエ)(簀巻きの長兵衛物語)
中山トンネルを抜け玉野浄化センターの南端の辺りがかつて獺越鼻と呼ばれていた所で、流れが早い所であった。今では絶滅したとされるニホンカワウソがこの辺りに生息していたのだろうか?
以前三井造船の進水式では、フェリーが獺越を通過したら、進水作業のゴーサインを出していた。支綱切断の時間になる頃、フェリーが丁度三井造船の沖合を通過するからである。
今から160年ほど前、備後の国から宇野に移ってきた長兵衛という若者は、好男子で地区の女性に大もて。気に入らない土地の青年どもは、好き勝手をするこの若者を袋叩き、簀巻きにして獺越の海に放り投げた。その後、宇野に奇病が流行ったことから長兵衛の祟りということになり、お地蔵さんを作り、旧7月23日の夜、盆踊りをして供養、今も続けられている。

浄化センター左端の部分に、今も僅かに獺越の面影を示す岩場が残っている。
この浜に簀巻きにされて捨てられた長兵衛の話を、昭和11年に小説にされた方がいる。宮田熊夫さんの書かれた「宇野情話-州巻長兵衛」である。小説原本には、表紙を含み11枚の挿絵が描かれているが、中々秀逸な絵なので本邦初公開で1枚だけ紹介しよう。写真の挿絵は、悲恋の始まりとなる、長兵衛とその恋人・お加代との逢引の図である。長兵衛の右手の位置がやや気になるが・・・

14.藤井海岸
中山トンネルから海岸道路の走っている藤井海岸は、かつては遠浅で海水浴に適していた。明治末から大正、昭和にかけて海水浴客が訪れ、藤井海浜院(保養所)が開設され、夏は賑わっていた。玉野では、藤井と高辺、渋川(浦田海浜院)が海水浴で知られていた。
中山トンネル完成は昭和49年(1974)、海岸道路全線開通は昭和61年(1986)12月。夏は、藤井海岸の沖合で花火が打ち上げられ(玉野まつり)、市内外から大勢の見物客で賑わう。

写真に写る工場は、以前三鋼㈱と言っていた三井物産厚板加工㈱である。造船用などの厚板の切断加工を行う会社である。写真には写ってないが、この左側(西側)には、宮原製作所と言う機械部品の加工を行う会社がある。

15.鳴滝園
市民病院前の汐入川(大川)を遡ると小渓谷に連なる滝があり、玉野市の景勝地となっている。100年ほど前の明治末期に天城の富豪星島謹一郎は、ここに高楼と茶室を備えた鳴滝園という自然美を活かした庭園を作り、多くの文人墨客が訪れていた。大正ロマンの竹久夢二も宿泊し、鳴滝図を 残している。
現在、倉敷の三宅石油の所有となっていて、先代社長が収集した唐枕が数多く展示されている。戦後はここにレストランが作られ、かつては三井造船に大型船を発注した船主さんの接待などで、毎晩賑わっていたと言う。レストランは一時閉鎖されていたが、今年4月から週末だけオープン、隠れた絶景スポットとしてじわじわと人気が出ているようである。

写真は、この6月に芸フェスの企画メンバーと鳴滝園に行った時の写真である。美味しそうなクリームパフェは、その折カフェで食べた鳴滝パフェである。景色もさることながら、ご馳走も素晴らしい。

2011年10月11日火曜日

タマノクルーズ-たまの西海道-案内資料(2)

10月11日

昨日体育の日は、カメラ片手に、渋川~マリン水族館~王子が岳~おもちゃ王国~瀬戸大橋カントリークラブ~渋川動物公園を回って来た。序に築港まで足を延ばして、築港八幡宮~北向き地蔵の写真を撮った後、山田茂氏の個展“still life”の鑑賞をしてきた。充分な足の運動になった。

さて第6~10番目の説明に入る。

6.宇高連絡船岸壁跡『宇高連絡船遺構』
宇野港第2突堤の一角に、古びた大きなコンクリート塊とその上にホーサー(係船索)を留める錆びたビットやリングのついた、宇高連絡船の発着バース遺構が残されている。昭和63年(1988)、宇高連絡船廃止とともに用がなくなり取り壊される運命にあった着岸設備だったが、宇高連絡船の果たした役割を後世に残したいとの思いで立ち上がった「宇高連絡船愛好會」の地道な努力により、遺構が残されることとなった。
平成17年(2005)に開催された野外アート展「はなの港*アート展」において、この岸壁を使ったインスタレーション作品“UNO:Sabi ha nemuranai”(いずみユウ作)が異彩を放っていた。
写真は、岸壁遺構と連絡船が入ってきていた岸壁の先端である。これらの遺構が、近代化産業遺産に登録されたようであり一時その標識も掲示されていたが、この辺りの親水化工事により今後どうなることか・・・?

7.宇野発電所名残の煙突
玉野市に電灯がついたのは、明治44年(1911)7月であった。(因みに日本に初めて電灯がついたのは東京銀座で明治15年(1883)。)当時、電気王とまでいわれた才賀藤吉は、宇野村に東児電気株式会社を設立。磯辺に宇野第一発電所を建設して宇野村一円に供給した。
大正8年(1919)、浜崎に宇野第二発電所を建設、東児島10ヵ町村全部に電力が供給されるようになった。発電機の回転音が直島までも響いていた。宇野港の西岸に聳えている高さ約66mのコンクリート製の大煙突は、当時活躍した宇野第二発電所の名残である。
写真は、中央に大煙突があって、右が宇野港、左は新浜塩田である。現在塩田跡地には市役所やショッピングモール“メルカ”などが建っている。

8.三井物産㈱造船部仮工場跡
大正6年(1917)7月、三井物産㈱船舶部が当時宇野港で空いている県有地その他一部(宇野発電所名残の煙突より北方宇野駅寄り)を借地して、玉に造船所ができるまで3基の船台を有する仮工場を始める。同年11月14日に造船部を設立。12月には、木造貨物船「海正丸」1,200㌧が進水。岡山県で木造船とはいいながら1,200㌧もの貨物船の進水式は初めてのことである。
僅か2年足らずの間に運送船・作業船などを含めて26隻が建造された。大正8年5月、玉に造船所ができ仮工場は閉鎖された。

9.新浜塩田跡地
天保13年(1842)築堤、22町。(児島郡誌)現在は、玉野市役所・玉野警察署等が建ち市内の中心地となっている。他に、古くは新浜の西に古浜(慶長期)、新しくは北に小浦(明治19年)があった。

10.岡山水上警察署跡
宇野港完成の翌年、明治43年(1910)、岡山水上警察所が岡山市三蟠から宇野に移転。 水上警察所廃止後も、建物は玉野警察署として昭和30年代前半まで使用されていた。
現在は、基礎の部分だけが、僅かにその名残を留めている。
写真は、水上警察署のモダンな建物と、下は今も残る基礎部分の赤レンガを示す。基礎の部分は、道路より下面の溝の所にあるので、注意しないと見落とす遺構である。見ると、「アア、これなんか!」と言う感じである。尚、水上警察署だった跡地は、月極駐車場となっている。

2011年10月10日月曜日

タマノクルーズ -たまの西海道- 案内資料(1)

10月10日(月)体育の日

1週間後、宇野港~藤井海岸~日比沖~大槌島~渋川港~三井造船~直島~宇野港と巡る「学びと遊び」をテーマとしたタマノクルーズが出港するが、現在、その乗船者たちに配布するクルーズ資料を編集している。長時間掛かったが、漸くその原稿が纏まった。
全部で45項目になった。殆んどが先人の調査、執筆された内容ではあるが、知らない人も結構多いことと思う。未だ写真の一部が不足しており、これから写真を撮りに行くこととする。一部の写真は、日比の岡本さんに提供していただいた。感謝!
尚、編集に当たっては、玉野市の歴史研究家/榧嘉明先生に監修をいただいたし、地区の古老/大前敬治氏に確認していただいたので、ほぼ間違いのない内容になっていると思う。
では、以下にその内容を5項目ずつ9回に分けて紹介しよう。

1.宇野港
古くは「宇野湾」と呼ばれ、塩田と漁業を中心とした小さな漁村だった。
港としての始まりは、天正年間(1573~1592)、豊臣秀吉が大阪城築城の際に使用する石材を現在の宇野港付近から搬出したと言われている。
明治39年(1906)に築港が始まり、明治42年(1909)7月、宇高連絡船のターミナルとして竣工。
明治43年(1910)6月、宇野線開通、宇高連絡船就航により、宇野港は本州と四国を結ぶ連絡港として発展してきた。昭和5年(1930)には、岡山県初の外国貿易港として開港。宇高連絡船は、昭和63年(1988)、瀬戸大橋開通により廃止されたが、その後もフェリー運行は継続し、今も本四を結ぶ重要な連絡航路として利用されている。宇野港は、平成18年(2006)、3万㌧バースを有する大型旅客船の寄港地として再生、港を中心とした市街地の飛躍、発展が望まれている。又、宇野港は耐震強化岸壁として、大規模地震発生時の緊急物資輸送や住民の避難にも使われることとなっている。
尚、宇野港をアートな港にしようという願いを込めて始まったのが、玉野みなと芸術フェスタである。
上の写真は、昭和中期の宇野港。中央に国鉄の宇高連絡船、手前に玉野石油㈱のタンクが見える。下の写真は、大型客船の接岸した現在の宇野港。
2.田井 広潟浜塩田跡(現築港)
天保10年(1839)築堤、25町13歩。築港老松通り(広潟浜塩田の南端)の八幡宮に石造の燈台がある。塩田竣工記念に18番浜埠頭に建立され、明治41年(1908)19番埠頭明神社に移転。(田井村誌)当時の運河(汐入川)の名残を今もかなり辿ることができる。
明治42年(1909)に築港された宇野港及び同43年に開通した宇野線・宇野駅は、この塩田の中央部を貫通開発して造られた。

3.老松通りの老松
広潟塩田の南端が今の老松通りで、宇野港築港の埋立てまでは老松通りから南は海だった。海岸に立っていた老松は、埋立て後も通りの真ん中に残され、通りの名称も老松通りと名付けられた。
現在、老松は残っていないが、付近の古老の話では、昭和36年(1961)3月6~10日の間に切り倒されたと言う。当時、急激に車社会となり、道の真ん中に残った老松は、交通事故を誘発しかねない危険な障害物となっていた。しかし、祟りがあると進んで切り手となる人が見つからず、延び延びになっていたのだ。切り倒した人がその後どうなったのか、諸説あるが確かなことは誰も知らない。
老松通りには、広潟塩田の歴史を窺い知ることの出来る築港八幡宮が建っている。

4.北向き地蔵
四国巡礼を経て仙台へ帰る途上、冬の暖を取ろうとして広潟26番塩浜の塩炊きのニガリに足を滑らせ亡くなった托鉢僧。浜の土手に祀られ、「西広潟二六のお地蔵さん」と呼ばれていた。
後年、塩を運ぶ船が出入りしていた川は狭くなり塩浜は埋め立てられ、今の場所(築港)に移され「北向き地蔵」となった。「月と日のかたらいともに 楠の木と二六の浜も とわの国かな」と、ご詠歌にも詠まれている。ご利益が多いのか、今も参拝者が絶えないお地蔵さんである。
平成16年の台風による高潮災害の後、お地蔵さんに集まったお賽銭を義援金として贈ったこともあるという。

5.檜垣直右(ヒガキナオスケ)知事の銅像
岡山の海の玄関口としての宇野港建設が初めて構想されたのは明治29年(1897)のこと。その後幾多の曲折があり、計画が本格化したのは、積極派の知事・檜垣直右の着任後だった。明治35年(1902)2月に着任した檜垣知事は、築港の実現を目指し尽力、宇野築港は『県政百年の発展を画する事業』として県民・議会の猛反対を押し切り、原案執行を強行した。こうして、明治39年(1906)8月1日、ようやく着工に漕ぎつけたが、知事はその4日前に休職を命じられ、岡山を去った。
3年後の明治42年(1909)、宇野港竣工式に招待された檜垣は、祝辞の挨拶に感涙したと言う。
宇野港のメモリアルパークに建つ第8代岡山県知事・檜垣直右の銅像は、昭和55年、彼の卓抜した先見性と英断を顕彰して、宇野港開港50年と市制40年を記念して建立された。
檜垣直右は、嘉永4年(1851)、萩城下宇野家に生まれ、7歳で檜垣家の養子となる。明治7年(1874)東京師範学校を卒業後、讃岐、伊予、石川の師範学校長、富山及び岡山県知事、朝鮮総督府京畿道長官などを歴任。昭和4年(1929)77歳で永眠。