2011年10月14日金曜日

タマノクルーズ-たまの西海道-案内資料(5)

10月14日

玉野市西部の歴史・文化を訪ねるアートクルーズ。
今日は、サッキーの住む日比地区の紹介だ。玉野市西部にも、探せば自然美と歴史がたくさんある。見えないお宝を発掘し、世に広めることも大事なことかと思う。

21.地蔵山(155.8m)
和田地区にある山で、東側は海に臨み眼下に三井造船を見ることができる。頂上付近にある八畳岩という広い岩には柵が設けられ、展望台となっている。ここからの眺望は、玉野市の山々の中でも素晴らしいものである。
16世紀戦国時代には、四国の香西氏が力を伸ばそうとして、一族の四宮隠岐守が対岸の日比に進出、本城を向日比の城山(84.7m)に置くと同時に、地蔵山山頂を見張り所として塁を設けた。
又、地蔵山の名の由来かどうかは分からないが、和田3丁目からの集落を100m上がった所に大きな岩があり、その下に石の地蔵仏を祀った祠が置かれ、今もお参りされている。
写真は、八畳岩から眼下の三井造船を望むもの。

22.古浜・亀浜塩田
古浜は、日比では古い塩田で、享保2年(1717)に開かれた。亀浜は、古浜の沖手になる塩田で、天保3年(1832)、野﨑武左衛門によって開かれた。亀の形をしていることから亀浜と呼ばれた。
現在、亀浜の跡地は、御崎2丁目で御崎シーサイドと呼ばれる住宅団地となっている。
写真は、御崎シーサイドから向日比にかけて掛かる亀浜橋。この団地が造成され始めたのは昭和49年。橋の竣工日がそれを物語る。
川は、塩田に海水を入れる汐入川である。塩田に海水を撒くための潮川(チョウセン)ともなった。この川の一部に、塩田当時から築かれていた石垣も残っている。

23.御前八幡宮(ミサキハチマングウ)
御前八幡宮は、昭和18年(1943)、日比八幡宮、和田八幡宮、御前神杜の3社を合併し、元の御前神社の社殿を改築し、和田、日比、向日比村区の氏神としたものである。
日比八幡宮は、元宮山にあったものを文明19年(1487)に麓の内間に移したというが、元禄9年(1696)に改築の記録も残っている。この地方の大社で、神主である堀家は、天神山西福寺医光院の僧であったが、寛文6年(1666)池田光政の廃寺の結果、還俗して権之進と称し日比八幡宮の神主となり、当地方での神主の組頭を八浜の尾崎家と交替で勤めて来た家柄で、現に御前八幡官の神職を勤めている。日比は当地方きっての集落地で、市内では八浜に次ぐ商港であった。ことに内海航路の舟掛りとしての重要港で、神官堀家は藩の費用で家を修繕し、船掛りした大名たちの宿舎に宛てられていたので、昭和の初年まで「○○様御宿」と書かれた木札が多く残っていた。
大槌島の大蛇退治がこの社頭で行なわれたと伝えられている。日比八幡宮のお祭りには御神幸に御座船という全長25尺(7.6m)もある総ケヤキの船を造り、その中にご神体を入れて、この船に車をつけて子どもが引いていた。昔、海岸伝いに船でお仮屋まで渡御していた名残であろう。惜しいことに今はその船もなくなった。普通どこの神社でも山車や輿でご神幸が行なわれ、港町日比の特色を示したものだったであろう。最近、地元でこの船歌祭りの再興を図りたいと願っている人もいるようだ。
岡山藩士船戸助九郎蟄居の地で、延宝6年(1678)から天和2年(1682)まで4年問に亘って、帰参が叶うようにと日比八幡宮に願をかけ太刀を奉納した。御勘気御赦免の後、その子弾之進が牛玉と馬角という珍しい品を奉納している。牛玉は牛の胃の中に出来た塊であるといわれるし、馬角は馬のできものの一種であろう。牛玉、馬角等は、神秘な物として各地に奉納されている例が多い。この牛玉、馬角の入れ物である漆塗の箱は、桃山期の特徴をよく備えた美しいもので、市内における貴重な美術品である。又、助九郎の奉納した大刀は、二男久左衛門が磨きあげて盛装したことが誌されている。又、御前神杜には二つの言い伝えがある。
その一つは、貞治3年(1364)、御崎の湯頭七司という人が、伊予国波止浜から勧請して来たという。一説には、元讃岐国綾歌郡松山村高屋にあった社が、洪水のため社殿もろとも流失し、それがこの地に流れついたので、村人がこの海岸に奉斎したものである。故に高屋の人は、毎年例祭には必ず代表で参拝することが続いているのだという。
今一つの村社八幡宮は、向日比山崎にあった八幡宮で、一説には貞和4年(1384)、四宮城主の四宮裕右衛門が宇佐八幡の分霊を迎えたともいう。天正以前よりの存在であったことは確実のようで、神社書上帳にも「天正年中以前より有来り年数知れ申さず云々」とあり、寛文13年(1673)、再建立の棟札がある。向日比で四宮城との関係の深い神杜であったことが知れる。同時に合祀した和田の荒神様は、和田二道目にあり、昔から船持ちの多かった和田の氏神であった形跡がある。規模も小さく記録もないが、和田の荒神様としてこの地方ではその祭礼が盛んであった。
写真は、御前八幡宮の社殿と、4年前に宮司の堀さんにお見せいただいた牛玉と馬角それに美しい漆塗りの箱である。

24.神登山(188.9m)
和田3丁目にある和田消防署北の登山口から登り始め、舗装された道を登っていくと、良く整備された登山道になる。至る所に大岩がゴロゴロしており、眺望を楽しみながら10分ほど行くと一段と大きな岩のある所が頂上。山頂からの瀬戸内の眺望は抜群で、何時まで見ても見飽きない。その名の通り、この山には、稲荷様が祀られ、里人は祠を作り、神宿る聖地の山なのである。
写真は、神登山から東備讃瀬戸を望む風景。

25.日比港
響灘から日比となったと言われ、潮待ち港として栄える。加古浦(藩御用達の港)にもなり、朝鮮使節も立ち寄った。お台場を設置。明治22年(1889)日比・渋川・和田の3村が合併して日比村、明治39年(1906)玉を併合して日比町、昭和15年(1940)宇野町と合併して玉野市となった。
日比港は、一時多度津行きのフェリーが往復したこともある。現在、隣接する製錬所の専用バースと貨物船の公共バース(-10m岸壁)が設置されている。
江戸時代の木造船は帆走船であったため、風の方向と潮の流れが船を進める大きな頼りであった。瀬戸内海の潮流は、東は鳴門-淡路の海峡から、西は関門と豊予海峡の両方から流入し、約6時間を周期として東西へ夫々流出する運動を繰り返している。その東西へ満ち引きする潮の分かれ目が笠岡市の沖合である。そこで「一潮」と言われる周期の約6時間を、日比港を基点として潮流に乗って航海すると、東は姫路市の播磨辺りで満ち潮に変わる。そこで、次の引き潮の訪れるまで待つのである。これを西に向けて満ち潮に乗って走ると笠岡の沖合で引き潮に変わるが、今度はそのまま引き潮に乗って広島大崎上島の木の江港、大崎下島の御手洗港や鞆の浦辺りまで一気に走ることができる。日比港が、潮待ち港と言われる所以である。
江戸時代、朝鮮国王から幕府へ派遣された友好使節は、沿岸から動員された船が加わり1,000隻を超えた。その賑やかな様子は、日比の旧家に伝わる絵巻に描かれている。朝鮮使節は牛窓に1泊するのが通例だったが、潮待ちのため日比港に二度寄港している。日比港には、ドイツの医師シーボルトも訪れ、入浜式塩田と蛸壺漁に感心している。
写真は、岡本氏が写した日比港の灯台。

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