10月10日(月)体育の日
1週間後、宇野港~藤井海岸~日比沖~大槌島~渋川港~三井造船~直島~宇野港と巡る「学びと遊び」をテーマとしたタマノクルーズが出港するが、現在、その乗船者たちに配布するクルーズ資料を編集している。長時間掛かったが、漸くその原稿が纏まった。
全部で45項目になった。殆んどが先人の調査、執筆された内容ではあるが、知らない人も結構多いことと思う。未だ写真の一部が不足しており、これから写真を撮りに行くこととする。一部の写真は、日比の岡本さんに提供していただいた。感謝!
尚、編集に当たっては、玉野市の歴史研究家/榧嘉明先生に監修をいただいたし、地区の古老/大前敬治氏に確認していただいたので、ほぼ間違いのない内容になっていると思う。
では、以下にその内容を5項目ずつ9回に分けて紹介しよう。
1.宇野港
古くは「宇野湾」と呼ばれ、塩田と漁業を中心とした小さな漁村だった。
港としての始まりは、天正年間(1573~1592)、豊臣秀吉が大阪城築城の際に使用する石材を現在の宇野港付近から搬出したと言われている。
明治39年(1906)に築港が始まり、明治42年(1909)7月、宇高連絡船のターミナルとして竣工。
明治43年(1910)6月、宇野線開通、宇高連絡船就航により、宇野港は本州と四国を結ぶ連絡港として発展してきた。昭和5年(1930)には、岡山県初の外国貿易港として開港。宇高連絡船は、昭和63年(1988)、瀬戸大橋開通により廃止されたが、その後もフェリー運行は継続し、今も本四を結ぶ重要な連絡航路として利用されている。宇野港は、平成18年(2006)、3万㌧バースを有する大型旅客船の寄港地として再生、港を中心とした市街地の飛躍、発展が望まれている。又、宇野港は耐震強化岸壁として、大規模地震発生時の緊急物資輸送や住民の避難にも使われることとなっている。
尚、宇野港をアートな港にしようという願いを込めて始まったのが、玉野みなと芸術フェスタである。
上の写真は、昭和中期の宇野港。中央に国鉄の宇高連絡船、手前に玉野石油㈱のタンクが見える。下の写真は、大型客船の接岸した現在の宇野港。
2.田井 広潟浜塩田跡(現築港)
天保10年(1839)築堤、25町13歩。築港老松通り(広潟浜塩田の南端)の八幡宮に石造の燈台がある。塩田竣工記念に18番浜埠頭に建立され、明治41年(1908)19番埠頭明神社に移転。(田井村誌)当時の運河(汐入川)の名残を今もかなり辿ることができる。
明治42年(1909)に築港された宇野港及び同43年に開通した宇野線・宇野駅は、この塩田の中央部を貫通開発して造られた。
3.老松通りの老松
広潟塩田の南端が今の老松通りで、宇野港築港の埋立てまでは老松通りから南は海だった。海岸に立っていた老松は、埋立て後も通りの真ん中に残され、通りの名称も老松通りと名付けられた。
現在、老松は残っていないが、付近の古老の話では、昭和36年(1961)3月6~10日の間に切り倒されたと言う。当時、急激に車社会となり、道の真ん中に残った老松は、交通事故を誘発しかねない危険な障害物となっていた。しかし、祟りがあると進んで切り手となる人が見つからず、延び延びになっていたのだ。切り倒した人がその後どうなったのか、諸説あるが確かなことは誰も知らない。
老松通りには、広潟塩田の歴史を窺い知ることの出来る築港八幡宮が建っている。
4.北向き地蔵
四国巡礼を経て仙台へ帰る途上、冬の暖を取ろうとして広潟26番塩浜の塩炊きのニガリに足を滑らせ亡くなった托鉢僧。浜の土手に祀られ、「西広潟二六のお地蔵さん」と呼ばれていた。
後年、塩を運ぶ船が出入りしていた川は狭くなり塩浜は埋め立てられ、今の場所(築港)に移され「北向き地蔵」となった。「月と日のかたらいともに 楠の木と二六の浜も とわの国かな」と、ご詠歌にも詠まれている。ご利益が多いのか、今も参拝者が絶えないお地蔵さんである。
平成16年の台風による高潮災害の後、お地蔵さんに集まったお賽銭を義援金として贈ったこともあるという。
5.檜垣直右(ヒガキナオスケ)知事の銅像
岡山の海の玄関口としての宇野港建設が初めて構想されたのは明治29年(1897)のこと。その後幾多の曲折があり、計画が本格化したのは、積極派の知事・檜垣直右の着任後だった。明治35年(1902)2月に着任した檜垣知事は、築港の実現を目指し尽力、宇野築港は『県政百年の発展を画する事業』として県民・議会の猛反対を押し切り、原案執行を強行した。こうして、明治39年(1906)8月1日、ようやく着工に漕ぎつけたが、知事はその4日前に休職を命じられ、岡山を去った。
3年後の明治42年(1909)、宇野港竣工式に招待された檜垣は、祝辞の挨拶に感涙したと言う。
宇野港のメモリアルパークに建つ第8代岡山県知事・檜垣直右の銅像は、昭和55年、彼の卓抜した先見性と英断を顕彰して、宇野港開港50年と市制40年を記念して建立された。
檜垣直右は、嘉永4年(1851)、萩城下宇野家に生まれ、7歳で檜垣家の養子となる。明治7年(1874)東京師範学校を卒業後、讃岐、伊予、石川の師範学校長、富山及び岡山県知事、朝鮮総督府京畿道長官などを歴任。昭和4年(1929)77歳で永眠。
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