2011年10月11日火曜日

タマノクルーズ-たまの西海道-案内資料(2)

10月11日

昨日体育の日は、カメラ片手に、渋川~マリン水族館~王子が岳~おもちゃ王国~瀬戸大橋カントリークラブ~渋川動物公園を回って来た。序に築港まで足を延ばして、築港八幡宮~北向き地蔵の写真を撮った後、山田茂氏の個展“still life”の鑑賞をしてきた。充分な足の運動になった。

さて第6~10番目の説明に入る。

6.宇高連絡船岸壁跡『宇高連絡船遺構』
宇野港第2突堤の一角に、古びた大きなコンクリート塊とその上にホーサー(係船索)を留める錆びたビットやリングのついた、宇高連絡船の発着バース遺構が残されている。昭和63年(1988)、宇高連絡船廃止とともに用がなくなり取り壊される運命にあった着岸設備だったが、宇高連絡船の果たした役割を後世に残したいとの思いで立ち上がった「宇高連絡船愛好會」の地道な努力により、遺構が残されることとなった。
平成17年(2005)に開催された野外アート展「はなの港*アート展」において、この岸壁を使ったインスタレーション作品“UNO:Sabi ha nemuranai”(いずみユウ作)が異彩を放っていた。
写真は、岸壁遺構と連絡船が入ってきていた岸壁の先端である。これらの遺構が、近代化産業遺産に登録されたようであり一時その標識も掲示されていたが、この辺りの親水化工事により今後どうなることか・・・?

7.宇野発電所名残の煙突
玉野市に電灯がついたのは、明治44年(1911)7月であった。(因みに日本に初めて電灯がついたのは東京銀座で明治15年(1883)。)当時、電気王とまでいわれた才賀藤吉は、宇野村に東児電気株式会社を設立。磯辺に宇野第一発電所を建設して宇野村一円に供給した。
大正8年(1919)、浜崎に宇野第二発電所を建設、東児島10ヵ町村全部に電力が供給されるようになった。発電機の回転音が直島までも響いていた。宇野港の西岸に聳えている高さ約66mのコンクリート製の大煙突は、当時活躍した宇野第二発電所の名残である。
写真は、中央に大煙突があって、右が宇野港、左は新浜塩田である。現在塩田跡地には市役所やショッピングモール“メルカ”などが建っている。

8.三井物産㈱造船部仮工場跡
大正6年(1917)7月、三井物産㈱船舶部が当時宇野港で空いている県有地その他一部(宇野発電所名残の煙突より北方宇野駅寄り)を借地して、玉に造船所ができるまで3基の船台を有する仮工場を始める。同年11月14日に造船部を設立。12月には、木造貨物船「海正丸」1,200㌧が進水。岡山県で木造船とはいいながら1,200㌧もの貨物船の進水式は初めてのことである。
僅か2年足らずの間に運送船・作業船などを含めて26隻が建造された。大正8年5月、玉に造船所ができ仮工場は閉鎖された。

9.新浜塩田跡地
天保13年(1842)築堤、22町。(児島郡誌)現在は、玉野市役所・玉野警察署等が建ち市内の中心地となっている。他に、古くは新浜の西に古浜(慶長期)、新しくは北に小浦(明治19年)があった。

10.岡山水上警察署跡
宇野港完成の翌年、明治43年(1910)、岡山水上警察所が岡山市三蟠から宇野に移転。 水上警察所廃止後も、建物は玉野警察署として昭和30年代前半まで使用されていた。
現在は、基礎の部分だけが、僅かにその名残を留めている。
写真は、水上警察署のモダンな建物と、下は今も残る基礎部分の赤レンガを示す。基礎の部分は、道路より下面の溝の所にあるので、注意しないと見落とす遺構である。見ると、「アア、これなんか!」と言う感じである。尚、水上警察署だった跡地は、月極駐車場となっている。

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