2011年10月13日木曜日

タマノクルーズ-たまの西海道-案内資料(4)

10月13日(木)

朝から雨模様の天気は、週間予報より1日早いが、土曜日の雨予報は繰り上がって晴れになるかもしれない。月一ゴルフの月例杯の日なので、気になるところ。
それより何より、月曜日(クルーズの日)は必ず晴れになって欲しいと願う。週間予報でも、月曜以降は暫く晴れ予報が続いていたんで、大丈夫かな。台風だけは絶対に来ないように!

さて、今日は、玉野市中央部(築港・宇野地区)からやや西に入った、玉から和田地区にかけてのスポット紹介である。

16.玉野ゴルフ倶楽部(18ホール/6,470ヤード/パー72)
昭和36年10月、瀬戸内海を望む谷あいに造られた、岡山県下初の18ホールチャンピオンコースとしてオープン、戦略性に富んだコースとして多くのゴルファーに親しまれている。50年の年輪を重ねた木々と四季折々の美しい花々が気持を和ませ、茶ドラ山の自然に恵まれた環境の中でゴルフを楽しむことが出来る。今では珍しいコーライグリーンが、プレーをより面白くしてくれる。
写真は、玉野GCの名物ホール、高低差50m位はあるかと思われる打ち下ろしの9番ホールだ。風のある日は、中々届かないが、油断するとグリーン先の池ポチャになりかねない。

17.玉比咩神社
式外社として古くから知られた神社で、境内に高さ10.6m、基部周囲29mに及ぶ先の尖った自然石があり、基部は水に囲まれその西面に直径40cm程の円い部分があり、この石を霊石として昔から崇めている。原始時代の自然物信仰の名残で、これが往時の玉の海岸であり、この円形部を太陽になぞらえて拝んだものと思われる。玉比咩の名もここから生まれたという。
又、玉の旧家立石姓もこの石が元であろう。霊岩由緒の一節に次のようなくだりがある。「昔、この珍しい形の巨岩を御神体として祭ったのが、原始信仰である玉比咩神社の起源である。御祭神は海神の娘豊玉姫命即ち竜宮の乙姫様で、日本書紀によれば産室にあって竜に化身したと言われている。海上の守護神、安産の神として知られている。往古は形状が玉の如くであるため玉石と称されていた。玉石の玉が当地の地名「玉」となり、社名「玉比咩」と称されるようになったものと考えられる。」
写真は、立石と霊岩由緒である。こちらの看板は、真新しいのでよく分かる。

18.三井造船㈱玉野事業所
大正6年(1917)6月、日比町玉、和田を理想の造船立地場所として選定、約57町歩を有する工場建設に掛かった。その間、宇野仮工場で造船をスタートした。(8.項参照)大正9年(1920)、県下初の重工業としての工場、三井物産株式会社造船部玉工場が完成した。
第一次世界大戦後の軍縮等の影響により、大正10年(1921)以降、大不況が続いた。不況克服のため、他社に先駆けて低燃費のディーゼル船に転換すべく、デンマークB&Wのディーゼルエンジンを導入、国内特許権を得た。これは、以後の玉工場の土台を支えることとなった。昭和6年(1931)に起こった満州事変の頃から、産業の軍事特需により昭和10年(1935)から黒字化。昭和12年(1937)、造船部は三井物産株式会社から独立し、株式会社玉造船所となった。
昭和15年(1940)、造船の日比町と港発展の期待が高い宇野町が合併、造船所と運命共同体とも言える玉野市が誕生した。昭和17年(1942)、三井造船株式会社と社名変更。昭和21年(1946)、財閥解体などで本社機構を東京から玉野に移し、玉野製作所として苦渋の経営を行った。終戦前22,000人いた従業員も7,000人となった。
朝鮮戦争を機に生産が活発化、昭和27年(1952)、本社を再び東京に移し、玉野造船所と改称、高度経済成長とともに発展の一途を辿った。石油危機から構造不況、円高不況と苦しい時代が続き、昭和53年(1978)、玉野事業所と改称、海洋構造物や新素材、システム開発等多角化を図るも規模縮小を余儀なくされた。
平成に入り、世界最大出力のディーゼルエンジンや高速旅客船の建造、最新鋭ディーゼル組立工場の建設、高効率バラ積み貨物船(通称「三井の56BC」)の連続建造等、経営合理化と高操業により安定した経営を維持してきた。しかしながら、現在、欧米の財政悪化等に起因する株安円高、中国やインド、東南アジアなど新興国の台頭により、厳しい経営環境にさらされている。
写真は、超優良製品「56BC」(載貨重量56,000トン型のバルクキャリア(バラ積み貨物船))の進水風景である。

19.ワイ・エス・ケー株式会社
大正13年(1924)、深井町に由良染料㈱日比作業所できる。日本海軍の主力爆薬としてのピクリン酸(下瀬火薬)の製造を終戦まで供給。火工品・産業用爆薬、化成品・有機中間体類、特殊機能品類、産業機器類を開発・製造・販売する会社。
写真は、YSK岡山工場である。三方を山に囲まれ前は海なので、普段中々見ることの出来ない会社である。

20.児島高徳井戸(児島高徳伝承の地)
児島高徳は、「太平記」(南北朝時代の軍記)の中で中心的に活動する武将である。南朝方について後醍醐天皇を援け、「天勾践を空しゅうする莫れ、時に范れい無きにしも非ず」という詩を書いて、天皇に忠誠を誓った。建武2年(1335)、足利尊氏の反乱により、戦況不利となった南朝方の高徳は、一時児島利生(オドウ)の辺りに隠れ住んでいた。現在、和田利生という所に共同井戸があり、「高徳井戸」と言われているが、その頃高徳が使っていた井戸なのかもしれない。
井戸の横に「高徳伝承の地」という看板が立っているが、直接見ても読み取れないほど字が翳んでいる。奇特な人に新しく付け替えて欲しいと思うが・・・。

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