2009年2月27日金曜日

サッキータイム ~私のプロジェクトⅩ-7~

第7回 35年品質保証 ~近江で、新津で

私は、このプロジェクトに本格的な3社プロジェクト発足直前の平成3年8月から参画、平成10年3月、三井造船の最後の一人となるまで、6年8ヶ月の長きに渡り、JR東日本や東急車輛の人達と共に苦楽を共にしてきた。
このプロジェクトに参加した全てのメンバーには、夫々に夫々の思いがあると思うが、私自身には、プロジェクト最後の年、大きなエポックとして忘れることのできない出来事が起こった。このことによって、最後に私は、JRさんの懐の深さというか、度量の大きさに感服したのであった。
平成9年の夏に発覚した側構造のスポット溶接用銅定盤の欠陥に対して取った対応の手法と手続きは、それまでのプロジェクトの進め方の集大成でもあったということが出来た。欠陥の原因追及、復旧方法の提案とその方法に問題のないことを検証するために行った十分なテスト、それを自分の目で直接見て確認、完璧なやり方と確信を持っての最後の工事とすることができた。この間、数ヶ月をかけたテストと補修工事において、JRの皆さんが示した節度と理解ある対応に、私は深い感銘を覚えたのだった。
その思いに応えるために、私は、(本日、急用で参加できなくなった)ナストーア㈱近江工場の当時副工場長だったIさんと二人、この銅定盤に対し、90歳の年を数えるまであと29年間(5年経った今からはあと24年)、死ぬに死ねない35年間保証をしたのだった。35年の保証をしたのは、修復した銅定盤は理論上35年間変わらず使用可能であることに自信を持っていたからであり、それだけ完璧な修復をしたという自負があったのである。その結果、このJRのプロジェクトは、私の生涯をかけたプロジェクトとなった。(続く)

2009年2月26日木曜日

サッキータイム ~私のプロジェクトⅩ-6~

第6回 MESは何を支援したか ~東京で、金沢文庫で、そして新津で

各工場の生産設備や生産情報システムについては、本日(平成16年9月25日)、(懇親会に)ご出席の皆さんよくご存知のことなのでここでは省略することとし、工場支援ではどのようなことをしたのかについて簡単に紹介する。
・計画段階での支援;生産計画、工程・工数管理、品質管理、設備管理、資材管理、原価管理など各種生産管理手法の紹介と適用方法・・・製造現場における各種生産管理手法について、MESで実際の現場を取り仕切っている管理者などの講演を行う他、具体的な進め方・管理のポイントなどを紹介、生産管理ステム構築の基礎技術を習得してもらった。
・アーク溶接技能者養成;基本技能教育、超高技能を要する台車溶接の実践技能教育・・・MES千葉事業所において、アーク溶接の実技指導を行い、多くの技能者を育てた。
・電車製造のための作業標準作成;9名の製造技術者が、横浜市金沢文庫にある東急車輛製造でノウハウを聴取・修得、209系&E217系用作業標準930件を作成・・・MES玉野から選ばれた、作業長・リーダークラスの精鋭9名は、数ヶ月の研修と2年間の標準書作成に全力を傾けた。
・設備機器の安全性評価&メンテナンス方法の提示;評価基準&メンテナンス基準を作成、導入設備の選定に活用・・・導入設備の有効性と安全性を確認、メンテナンス方法を提示した。
・IE手法に基づく生産性調査;ワークサンプリング、タイムスタディ等により稼働率を測定、標準時間を設定・・・各工程が何人・何時間でできるのかを明確に示すことにより、各タクトバランスと総工数を明確にした。
・生産ピッチアップのための生産効率向上支援;物流システム改善、台車生産懇談会・・・ピッチ3(3日に1両のペース)から、P=2.5、P=2、P=1.5、P=1.25、P=1(1日1両)に、順次上げるに当たって、大きな壁となった物流のあり方と台車溶接ロボットの品質の問題解決に必死の努力を注いだ。(続く)

サッキータイム ~私のプロジェクトⅩ-5~

第5回 工場と車両の概要、そして成長~新潟県新津車両製作所にて

車両製造工場と生産車両の概要は、次のようなものであった。
本工場は、新潟県新津市(現在新潟市秋葉区)にあり、元々電車&気動車の検査修繕を担当していた「新津車両所」を車両製造工場に転換整備、平成6年10月、「新津車両製作所」として、自社保有車両の製造事業を開始したのだった。
工場規模は、敷地面積15万㎡、建物面積5.7万㎡、機械台数約1,000台、社員400人で運営されることとなった。この工場には、工程ごとに、加工、構体、艤装部品、艤装及び台車の5製造工場と最終試験工場が造られた。
新工場で生産される車両は、京浜東北線に投入された209系通勤型直流電車(10両編成)だった。209系は、新生JR東日本の命運を握るといっても過言ではない、画期的な新型通勤電車であった。その開発目標は、「重量半分、コスト半分、寿命半分」と言う従来の延長線上では考えられないようなものだった。その後、総武・横須賀線のE217系近郊型電車、中央・総武緩行線、山手線、常磐快速線などに投入されたE231系通勤型電車などが造られて来た。最初は、3日に1両のピッチでスタートした車両製造も徐々にピッチを上げ、平成12年11月には、累計両数1,000両の生産実績を達成、現在、年間250両(1日1両)の車両を、当初の頃より少ない人数で悠々と製造するまでに急成長したのである。(続く)

2009年2月25日水曜日

サッキータイム ~私のプロジェクトⅩ-4~

第4回 プロジェクトの進め方・基本コンセプト~MES玉野にて

解決すべき検討課題は余りにも多岐に渡り、複雑な関係にあった。正に難問山積と言う状態だった。当時、三井造船の仕事の進め方は、どちらかと言うと、演繹法的手法をとっていた。結果を予想して、先ずやってみる。そこでうまく行かなければ、軌道修正すると言うやり方だった。このやり方は、JR社内においては必ずしも評価されず、我々の仕事の進め方に対して、かなり厳しい改善要望が出された。目標に至る道筋を目に見える形で明確に示すこと、その道筋がJRの全メンバーに理解納得できるように、絵に描いて説明されるべきであるというものだった。つまり、計画主導的且つ帰納法的手法で進めるべきとの要望だった。
これを受けてプロジェクトメンバー全員、平成4年8月の盆休みを返上して玉野に集結。2泊3日の集合研修において、プロジェクト計画の進め方を固め、全員の共通認識を作り上げることができた。1ヵ月後、私はこれら計画を纏め上げ、JRメンバーの前でプレゼンテーションを行った。この内容は、JR関係者はもとより東急車輛メンバーにも理解と納得を得るのに十分な内容であった。この説明会を境に、MESプロジェクトメンバーの評価も急速に回復することが出来た。
JRは、モノづくりのことについては素人であったとは言いながら、JR流の仕事の進め方は、今回のような新規プロジェクトでは当然の進め方であったと思うし、逆にMESの考えの方が甘かったと反省したのだった。その後、基本計画に従った仕事を進め、溶接その他種々の実験データ等による理論構築を行いながら、真剣に真面目に取り組んだ。製造技術、品質管理、物流システムなど、東急車輛を交えた3社体制の下、お互いが切磋琢磨し合いながら進めた結果、3社の信頼と友好関係は揺るぎないものとなった。

次に、車両製造の基本コンセプトの考え方について紹介する。
JR東日本の経営戦略は、製造業を保有することによる技術サービス産業への展開、経営資源(土地・建物・人材)の有効活用だった。この経営戦略を実現するために、東日本管内に8箇所ある車両検修工場の内の一つを製造工場に転換、近代的な生産ラインを作り上げることにより、1日1両(当面は年間200両)の通勤型車両の生産を目指すこととなった。これを実現する工場の基本コンセプトは、以下のような考え方に基づくものだった。
①構体と台車の素材から完成までの一貫生産 ⇔ JRの技術レベルを高めるために、明らかに自社で出来ない物以外の全てを内製化すること。
②1日1両の完成を目標とした効率よいライン配置 ⇔ 製造コストを抑えるために、投入資源に対するアウトプットを最大とすること。
③加工、組立及び台車製造工程における自動化及び省人化の導入と内製化率向上 ⇔ 従来のメーカで必要とされた工数より少ない工数で製造できること。
④構体及び艤装工程における流れ作業(タクト)化と省人化 ⇔ 無駄な動きを排した合理的で効率的な製造方式を採用すること。
⑤CAD/CAMシステムの導入と加工ラインにおけるCAD/CAMリンケージ ⇔ コンピュータ技術を最大限活用して最高効率を達成すること。
⑥生産情報システムの構築による生産効率向上 ⇔ 人、物、設備の一元的管理を達成し、ジャストインタイムが可能な生産情報を提供できること。(続く)

サッキータイム ~私のプロジェクトⅩ-3~

第3回 車両新造プロジェクト結成~有楽町交通会館にて

プロジェクトメンバーには、初めは、何から手をつけていいか全く分からない五里霧中と言った状態だった。
9月に入ると、有楽町にある交通会館に3社の全メンバーが「車両新造プロジェクト」を組み、どう進めてゆくかが議論された。役に立ったのは、JRメンバーと共に、横浜の金沢文庫にある東急車輛に出向いて実施された、電車の造り方に関する勉強会だった。
私はこの時、艤装部品工場の基本設計を担当したが、東急車輛に出向いては、細かな作業の種類と工数、車両に必要な材料や部品の種類と数量、その製作に必要な設備機器の寸法・仕様など基本的データの収集を行った。全ての部品を供給するために必要な面積は、どれ位となるのかを知ることが最初に求められた課題であった。工場建設を最小のコストで最大の効果を得るためには、絶対的に必要な情報であった。
次に求められたのは、各機器のお値段が幾らになるのか、つまり工場建設に必要な投資額の算出であった。我々は現在の東急車輛の設備に比べ、格段に先進的で省人効果の高い設備・機器を目指した。メーカも可能性のある複数メーカとコンタクトを取り、最も能力高くかつ品質のしっかりしたメーカを選ぶようにした。このためには、必ずしも大企業ばかりを相手にせず、中小企業も相手にして対応した。これには、JRサイドがメーカ指定をせず、全て三井造船を信用した形で自由裁量の中で対応してくれたために出来たことであった。
次に必要なことは、工場全体のレイアウトと各工場内部の設備・機器レイアウトをどうするかと言うことだった。工場全体のレイアウトでは、材料や部品の流れがどうなるのかが基本であったが、この工場は更地に建設すると言うことではなかったため、既設の建て屋をどう活かし、新設建て屋をどこに建てるかと言うことも考慮しなければならない課題だった。
各工場の設備機器をどう配置するかは、個々の作業手順がどのようになっているのかを知らなければ出来ないことだった。例えば機器配置に於いては、機械本体の寸法、機械操作とワークのハンドリングに必要な面積、メンテナンスに必要なスペース、材料の置場、出来上がった部品の置場、作業テーブルや椅子の必要数、小物部品の保管棚、工具類の必要数と置場、クレーンやフォークリフトなど物流用の設備をどうするかも検討要素だった。
作業人員数の把握と配置は当然のことながら、彼らの福利厚生施設も必要な検討課題となった。設計や管理者の事務所、その中に必要な諸々の設備も検討課題だった。
洗浄など水を多く使う作業では排水処理設備、塗装や糊付など臭いやガスを多く発生する作業では排気ガス設備、溶接など煙やヒュームを多く発生する作業では排煙設備、など環境問題にも配慮する必要があった。有害で危険な作業と判断された酸洗いとメッキだけは、外注ベースとし設備投資から除外した。
新潟の冬は積雪が多く、建て屋の強度設計には、雪荷重を考慮しなければならなかったし、工場内の幹線道路には融雪装置も必要であった。そのためには地下水を汲み上げる井戸も必要な設備であった。
工場立地法では、新設工場内に必要な緑地面積が規定されており、それらをクリアすることも必要だった。(続く)

2009年2月24日火曜日

サッキータイム ~私のプロジェクトⅩ-2~

第2回 JR東日本初代会長/山下勇氏の教え~東京にて

恒常的な赤字体質とサービス精神の欠如によって、国民から見放されつつあった旧国鉄が分割民営化されたのは、昭和62年(ホテルバージが竣工した年)であった。初代の会長として招聘されたのが、鈴木内閣~中曽根内閣時代の第2臨調(土光敏夫会長)の第2部会(行政組織及び基本的行政制度の在り方)の部会長を務められ、当時三井造船の相談役をされていた故山下勇最高顧問である。彼は単身、官僚的体質と旧式の設備の中で、マイペースで仕事をしていた旧国鉄マンに、新生JRの生きる術を「技術サービス産業」と言うキーワードに込め、教育と改革を進めた。
即ち、「JRのサービスは、単に物を運ぶだけとか、乗客を輸送するだけと言うものではなく、技術に裏打ちされた安全で快適な輸送サービスでなければならない」と言うのが、彼の持論であった。ラッシュアワーの混雑対策にしろ、車両の合理的な検査方法にしろ、あらゆる場面で技術力を高めることが、サービスの質の向上に繋がるんだと言う理論であった。そして、その「技術力を高める最も早道は、モノ作りである」と。「JRには、技術を高めるのに格好の設備『車両』を持っている。これを社内で作ったらどうか。」と言うのが発端であった。
山下会長は、このプロジェクト推進に非常に熱心で、忘年会などの懇親会にも良くお出でになり、貴重な話を聞かせてくれた。その一つとして記憶にあるのが、「神が人間に与え賜うた二つの能力、『物を作る能力』と『人にサービスすることの出来る能力』に対して、人がなすべき最低限のことは、そのことに自ら責任を持つことだ」と言う言葉である。

ここで、三井造船がこのプロジェクトに参画した経緯を紹介することとしたい。
長い議論の末、JR社内に製造工場建設是か非かの実現性評価(フィージビリティ・スタディ:FS)組織を作ったのが、平成2年秋。このとき、車両製造技術のアシストとして東急車輛製造㈱、工場建設のアシストとして三井造船㈱が選ばれた。当時、三井造船社内には、全くの未経験分野で海のものとも山のものとも分からない事業に消極派も少なからずあったが、大恩ある山下さんの要請に答える形で、その貧乏くじ(今から言うとお宝くじ)を引いた張本人が、今日の幹事役を引き受けているO部長と、立派な加工工場を設計したEさんであった。
FSの結果、フィージブルである、つまり事業採算性が認められ、本プロジェクトは進めてしかるべきとの結論が出された。これを受けて、三井造船は、平成3年8月、造船部門、機械部門、システム部門等の中からY部長以下精鋭メンバー12名を選出し、本社に集結したのだった。(続く)

サッキータイム ~私のプロジェクトⅩ-1~

第1回 プロローグ~五泉市咲花温泉にて

平成16年9月25日

この日、新潟県五泉市の咲花温泉・佐取館で、新津車両製作所創業10周年記念懇親会が行われた。
新津車両製作所は、JR東日本が自ら車両を造ることによって、自社の技術力向上を図ろうとした一大プロジェクトである。車両製造工場の建設を三井造船が、車両製造技術の指導を東急車輛製造が、JR東日本と一体となって進め、平成6年に操業を開始することとなった。それから10年後、建設&操業に携わった多くの関係者が一堂に会して行われたのがこの日の懇親会である。その折、建設当時エンジニアリングコーディネータを務めていたサッキーが体験した諸々のことを、「私のプロジェクトⅩ」として発表することになったので、その全文を数回に分けて紹介する。題して「車両新造工場建設への挑戦」
尚、プロジェクトⅩは、当時NHKの看板番組として圧倒的な注目を浴びた番組だが、このプロジェクトがNHKの番組に登場することは遂に来なかった。


♪ 風の中のすばる 砂の中の銀河 みんな何処へ行った 見送られることもなく~
中島みゆきのテーマ曲に乗って繰り広げられる、日本の戦後の歴史と文明を劇的に変えた「プロジェクトX」の男たち。NHKの人気番組「プロジェクトX」は、熱い情熱を抱き、使命感に燃えて、戦後の画期的な事業を実現してきた「無名の日本人」を主人公とする「組織と群像の知られざる物語」である。

私(サッキー)は、本日の新津車両製作所創業10周年記念懇親会に当り、車両製造工場建設のフルターンキー・プラントメーカとしての立場で、本プロジェクトの概要をプロジェクトX風のタッチで紹介することを試みることとした。
皆さん、夫々に自分の中にプロジェクトXと呼ぶことの出来る、仕事なり出来事なりがあると思う。私自身も、三井造船と言う大きな組織にいたお陰で、プロジェクトXと呼べる仕事が少なくとも二つはあったのではないかと思う。
その一つは、ノルウェーのラスムッセンと言う船会社から受注し、昭和62年に竣工した、半没水双胴型プラットフォームの所謂「ホテルバージ“ポリコンフィデンス“の建造」である。北海油田に従事する人達が生活するための設備で、定員800人の超高級ホテルである。この建造の為に、早くからプロジェクト組織を組み、綿密な計画の下に、多くの新工法を駆使しながらスムーズな建造を達成したものである。
もう一つが、本日紹介するプロジェクトで、JR東日本が世界に類を見ない、自社運用電車の一定両数を内製化する、本格的な車両製造業への進出である。三井造船は、計画の初期段階から参画し、工場建設とシステム開発並びに工場運営支援を行い、JR東日本&東急車輛製造との三社協力体制のもと、初期の狙いであった通勤型電車の年間200両生産体制を操業開始後2年にして実現した。その後もJR新津は進化を続け、現在年間250両(1日1両の生産)の生産を行う、世界一生産性の高い美しい車両製造工場、それが新津車両製作所である。(続く)

2009年2月23日月曜日

サッキータイム ~MES玉野・海洋OB会~

2月23日(月)

昭和50年代、三井造船玉野事業所に二つの修繕ドックを一つにして、ドック「海洋」という広幅(幅約82m×長さ約120m)の建造ドックが造られた。第1次石油ショックで原油価格が4倍に跳ね上がり、北海などの海洋から採れる原油の競争力が増すと、石油掘削リグやジャッキアップリグなど特殊な形状をした海洋構造物の需要が飛躍的に増してきた。これに対応するための戦略設備として造られたのが、ドック「海洋」である。
「海洋」では、12,000㌧のクレーン船や瀬戸大橋の基部となるケーソンやアンカーフレームなど特殊な構造物も建造された。サッキーが昭和60年に建造マネージャーとして担当したのは、800人の客室を持つフローティングホテル「ポリコンフィデンス」の建造だった。ノルウェー沖で活動する掘削工たちの宿泊設備である。固定された掘削リグに橋を渡して乗り移るため、ホテルバージは海上に浮かびながら固定されなければならない。激しい潮流や強風の中でも、バージを一定の位置に保持するために採用されたシステムがDPS(ダイナミックポジショニングシステム)である。このバージには、あらゆる面で当時の最新最高システムが装備されていた。ホテル部分は、超一流5つ星並みのグレードであった。
新たな建造法を設計の初期段階から検討し、それを設計に組み入れることで、極めて効率的な建造を可能にした典型的なプロジェクトであった。
その頃、現場で活躍したスタッフや鉄工・溶接・艤装などの精鋭たちが集合した。遠くは、東京・大分などからも駆けつけ、久しぶりに当時の技術の粋などを語り合っていた。今回、初めて開催された海洋OB会である。
開催場所は、玉野に一つだけのリゾートホテル「ダイヤモンドマリンホテル」である。このホテルには、メグモネという地元のジャズバンドが生演奏をやってくれている。久しぶりに会うことができたので、1ショット。
宴もたけなわの頃、名古屋に行く時間となった。世話をしてくれた小林開さん、大変楽しい時間でした。ありがとう!又集まりましょう。

サッキータイム ~自主防災出前講座~

2月22日(日)

玉野市御崎シーサイド自治会自主防災会では、毎年この時期自主防災訓練又は出前講座を行い、住民の防災意識を高めている。今年は、昨年に続いて「いざと言うとき役立つ応急手当講習会」を実施した。講師は、玉野消防本部和田出張所の職員の方々だ。
倒れた人の意識を確認し、心肺機能を蘇生するために心臓マッサージを続けることが重要とのことだった。最近、AEDと言う器械の名前を良く聞くが、これはマッサージをした後、電気ショックを与えて心臓を止めるための器械らしい。一旦止めてから蘇生するかどうかを確認、再度マッサージを続けることになるとのこと。約50人ほどの会員は、真剣にマッサージの訓練に励んでいた。しかし、実際の場面でうまく行くかどうか、繰り返し訓練しておくことが大事である。
14年前の阪神淡路大震災で助かった人の67%は家族から、31%は隣近所の人から助けられたとのこと。公的機関から助けられた人は僅か2%だったとか。いかに家族やご近所の助けが大事であるかが分かると言うもの。日頃から近隣の方や家族と仲良くしておくことは、災害時の命の保証にとって極めて重要なことである。

サッキータイム ~コミュニティの集い~

2月22日(日)

毎年この時期、玉野市の行事としてふれあいのまちづくりを目標とした「コミュニティの集い」が行われる。地域で貢献のあった人たちに感謝状が贈られ、各地区の出し物が披露される。日頃の練習の成果が発揮される晴れの舞台だ。中でも、子供たちと地域住民とが一体となって演出される出し物には、コミュニティならではの温かみが感じられる。
上の写真は、コミュニティ協議会長から表彰を受けるK氏。中の写真は、藤井地区コミュニティ協議会から出された大合唱「崖の上のポニョ」。下の写真は、我が御崎シーサイド自治会から出された地域の民踊「日比音頭」。何れも大人と子供が一体となって演じられたもので、ほのぼのした舞台だった。

2009年2月19日木曜日

サッキータイム ~環境芸術家/八木マリヨ氏からのメール~

2月19日(木)

玉野みなと芸術フェスタ2003でプロデューサーをしてくれた、世界的に活躍されている環境芸術・彫刻家/八木マリヨ氏からメールが届いた。
今年の芸術フェスタを2年ぶりに山田から宇野に戻すことから、このBLOGにフェスタの原点となった、八木マリヨ氏から学んだ"UNO Andiamo avanti"のことなどについて書いていた。
その直後、思いもかけず八木マリヨ氏から玉野市に連絡が入った。彼女の公式サイトのアドレスがちょっとした隙に盗られたとのことから、リンクのアドレス変更の依頼を受けたものだった。
新しいURLは下記
http://www.mariyoyagi.net/

余りのタイミングのよさに、「何となく、天に届けた縄の精が引き連れてくれたのかと感じた次第です。」とのメールを彼女に書き送ったのだが、その返事が以下のメールである。


天に届けたあの縄はほんとうに繋がっています。
わたしは他でもよく体験していますから。
ヒトの想い心の絆はすばらしいですね。ヒトを超えるんでしょうね。

去年に私のサイトが委託者の隙に何者かに瞬時に盗られてしまい、
変更したものですから。また最近に、
わたしのウエブサイトの再修正中で、玉野フェスタのページを見たのです。

ますますのご発展を知りとてもうれしいです。
岡部氏からのメールで芸術フェスタも今年7年目と
しかもわたしが疲れから休ませて頂いたときの事が書かれていたものですから、
そういえば、アノときと、、と。思い起こせば UNO Andiamo Avantiは
わたしにとっても再スタートだったのでしょうね。私事と玉野復興も重なって、、 
もっともエネルギーのなかった時期でしたので、充分に役割を果たせず
心残りではありましたのですが、
みなさまの暖かい人柄と熱意ある行動力で、玉野フェスタの最初のイベントを担わせ
て頂けた事ほんとうに感謝いたしております。

実行委員長としてなおご活躍なのですね。
アートを通して製塩の歴史や文化遺産探訪などと
ふるさとの人々色々な世代のつながりが深くなり、
子供達がさらにふるさとへの誇りや愛着をもたれていくご様子なによりですね。
UNO Andiamo Avanti この合い言葉はこの世界中混迷の時代にこそふさわしいです。
玉野市民のみなさんは7年以上前から気づかれて、7年前にUNO Andiamo Avantiと進ま
れた。危機があっても、さらにさらに知恵を出し合い協力され力強い前進がお出来に
なっているのだと思います。ひとりひとりの心合わせてレッツゴー前進しましょう
ほんとうにありがとうございました。

わたしは6年の間に絵本2冊と個展3回、
イタリアからの招聘などで半年間ヨーロッパ周遊と制作、
ハーバード大学院特別研究員試験、ボストンブランダイス大学院での講演、縄リンク
ワークショップ(ヒスパニック系貧民層の子供達と)縄リンク(いのちの癒しイベント、
京都市)や環境芸術作品制作、その他、小さな講演(絵本のことやいのちのこと、縄の
こと)などなど添付のカードは昨年2月に完成させたパブリックアート作品です。
来年8年目のはじめ神戸市内で初めて個展を開きます。
ぜひ、名古屋からの帰り道途中下車しておこしください。
来年のことなどと、、笑われますが、、、
わたしにとってはもう去年からすでに準備制作なものですから、、
芸術フェスタもそうですよね。

ではこんねんどのフェスタもご盛況をお祈りいたします。
みなさまにUNO Andiamo Avantiよろしくおつたえください。

2009年2月17日火曜日

サッキータイム ~金山駅界隈~

2月11日(水) 建国記念日

金山総合駅は、JR東海道線、中央線、名鉄本線、地下鉄が乗り入れている交通の要衝である。名古屋駅の一つ南側に位置する。我が家(マンション6F)の窓から見下ろすことができる。赤い列車は名鉄の普通車だ。手前(南側)に東海道線、名鉄の向こう側(北側)に中央線のホームがある。
南口には広場があって、よく路上ライブの若者が大きな音で演奏しており、芸術家の露店などが並んでいる。駅を出て直ぐ右側に名古屋ボストン美術館がある。残念ながら未だ観たことがない。
北口には、「アスナル金山」という3階建てのモールがある。中央広場には舞台があって、休日にはプロのライブ演奏などをやっている。この日も、13時半から三浦大知という若手アーティストのライブがあるというので多くの若者や家族連れが今や遅しと待っていた。モールの一角“ASUNAL HALL”では、美術系大学の卒業作品展の準備で、10人くらいの学生が制作に夢中だった。
道を挟んだ向こう側にスーパー・ダイエーがある。日用品や食品は、いつもここで買っている。我が家から徒歩5分くらいの所だ。最下段の写真は、ダイエーの交差点から通りを撮ったもの。
金山駅界隈は、若者も多く、かなり活気に溢れた街だ。

2009年2月16日月曜日

サッキータイム ~斉藤清光氏&片岡幸夫氏~

2月16日(月)

駅東創庫を訪ねると、斉藤清光氏と片岡幸夫氏がソファーに座って語り合っていた。久しぶりの対面だった。両氏とは、芸術フェスタ2004以来のお付き合いで、2005の野外アート展においては、作品を出展していただいた。2004で実施したギャラリートークでは、アートの魅力とかアーティストにとって必要な環境作りの必要性などを訴えられていた。駅東創庫と言うアートの場の出現は、きっと彼らにとっても嬉しい出来事なのだと思う。

斉藤清光氏は、岡山県玉野市築港の出身で、現在ニューヨークで活躍している現代アーティストだ。 2004&2005年度には、玉野みなと芸術フェスタアドバイザーとしてテーマの選定やフェスタの進め方などにアドバイスを頂いた。
フェスタ2005の野外アート展では、二つの作品を出してくれた。一つは“EYE-ROACH”。もう一つは“WORD- ROACH”。両方ともゴキブリ“COCKROACH"をモチーフに人間の醜い欲望を皮肉った作品だ。彼の言葉を借りると「人間とは愚かな生き物だ。なぜなら、人間は言葉を持っているがゆえにその欲望には際限がない。自らで自らを滅ぼすまで。。。。。皮肉な運命です。私は、人間をゴキブリになぞらえました。(cock roach----word roach, eye roach)人類が滅亡しても生き残るといわれるゴキブリ、我々人間、どうにもならない無限の欲望を持つ生き物です。」
彼は、芸術フェスタへの期待を込めて「作家にとって欲しいもの、それは発表の場」と言われた。フェスタは一時的なイベントだが、そのイベントを契機に場の提供が可能なアートの運動を進めて行くことが、フェスタの目的の一つなのだろう。

岡山県立玉野高校で美術の教師をされている片岡幸夫氏の専門分野は、石の造形美術である。片岡先生は、岡山城東高校、岡山一宮高校、児島高校、岡山大安寺高校等で石で造ったモニュメントを数多く制作・設置されている。芸フェス2005の野外アート展では、時の流れを感じてもらいたいと“過ぎゆく時”という作品を作られた。今回玉野高校OB展にも賛助展示をされていた。

上の写真は斉藤清光氏と野外アート展に出展されたEYE-ROACH。下の写真は片岡幸夫氏とOB展に出展された作品。最下段の写真はOB展を企画・運営している玉高OB(OG)で、現在陶磁器の造形作家を目指して勉強中の藤重友美さん。芸フェスメンバーとして参加してくれることを期待している。


サッキータイム ~玉野高校美術部OB展~

2月15日(日)

フラッと駅東創庫(岡山県玉野市宇野駅東にある)を訪ねたら、ギャラリーでタイトルの展覧会をやっていた。
聞くと、宇野港銀座の角にある山田快進堂の壁に鯨の壁画を画いた当時の玉高生がいた。芸フェス2004で初めて手掛けた「海・山・大地」をテーマにした壁画だった。指導をされた片岡先生は、この子たちが大きくなって自分の子供達と一緒に「この絵は母さんが画いたんよ」と言うことで、青春の思い出として街に愛着もわくだろうというようなことを言われていた。
現在、大学生として夫々に活躍しているようだ。作品も面白いものが多かった。一人でもいいから、この中から芸フェスのメンバーになってくれたらナーと思う。


2月15日

2009年2月9日月曜日

サッキータイム ~宇野港を賑わいと潤いの芸術港に~

2003年12月16日 於玉野産業振興ビル

先日(2月4日)、芸術フェスタの原点について記したが、平成15年12月16日に行われた「宇野港を賑わいと潤いの芸術港に」というテーマのシンポジウム概要をここに紹介する。
プロデューサの八木マリヨ氏は、基調講演「コラボレーション縄アート ~UNO Andiamo avanti ~」で、次のような趣旨の話をされた。
①国際社会の一員として、地域や国際化の中で役立つ人材が求められている。
②20世紀は天才や独裁者の時代だった。21世紀は個々人が活躍する時代、心の時代とも言える。
③アートは、人間本来が持っている力を引き出す。
④なぜ縄なのか?
 ・ 400万年間の人類の生活で、縄が最も古く身近な道具である。
 ・ 縄はピラミッドの石運び、家建築で使われたが、縄は無くなったため無視されて来た。
 ・ 縄は自由自在、朽ち果てても無くなるものではない。
⑤Andiamo=Let's go.の意味 avanti=前に進もう の意味。

次に、パネルディスカッション「アートとみなとまちづくり」が行われ、アートのまちづくりに対する影響などを議論していただいた。コーディネーターには、玉野市企画部長(肩書きは何れも当時)の吉永宙司氏、パネラーとして、環境芸術・彫刻家/八木マリヨ氏、㈱ホライゾン代表取締役/中山桃氏、市民代表/三村卓也氏、玉野市長/山根敬則氏が、夫々の立場で思いを語ってくれた。
(1)芸術フェスタで考えていることについて
①中山氏
 ・縄アートを玉野市で作ることは意義がある。
 ・世界に発信できるものが出来ればよい。
②三村氏
 ・Tシャツが集まるか心配したが、船やスクリューは縄のイメージに合う。
③山根氏
 ・現代は物質的には恵まれているが、アートを生活の中に取込むことも必要である。
 ・皆がアートの中に加わることに意義がある。
 ・行政と住民が一緒になって活動することが大切と思う。
④八木氏
 ・芸術はただ見るだけでなく、プロセスがアートであることを理解してくれたことは収穫である。心の栄養をつけることがアートである。

(2) 「まちづくり」の感触について意見を聞きたい。
① 山根氏
 ・宇野は小作りの町。ロマンチックで芸術的なまちにしたい。
 ・客船が宇野港につくようなまちにしたい。(注:現在、大型客船の寄港回数が少しずつ増加している。)
② 三村氏
 ・ 宇野港はハード面が強い港。
 ・ たまの港フェスティバル、シーサイドクリスマス(注:現在はない)、市民参加による港つくりが必要である。
 ・ソフト面の充実が必要で、40代、30代の人がイベントに参加し始めている。
③ 中山氏
 ・宇野港の印象は最初寂しいまちと感じた。ホッとするとか暖かいまちには感じなかった。
 ・岸壁は立派だが釣り堀化している。
 ・行政はセールスが必要。イングリシュガーデン(注:玉野市の大型自然公園・深山公園内にあり、入園料を安くしてから入場者も増えている。)をPRしていない。
 ・口だけでなくPRすべき、都会の人に立ち寄って貰える様に賑わいが戻るようにすべき。
④八木氏
 ・自分が以前、神戸市から高松市に通ったときは、玉野市は通過点だった。
 ・自分は市民参加の部門を作り、誇りとメンテナンスのシステムを作ってきた。
 ・玉野市は「島と海と霧」の暖かいイメージを活用すべきだ。
 ・イングリシュガーデンを本格的なバラ園に。アーティスチックなバラ園を作ってはどうか。市民が参加して、ボランティアでバラ園の整備をしてはどうか。

(3)今後の宇野港の可能性について
①中山氏
 ・瀬戸内の美しさは類を見ない。
 ・高松、直島、犬島、倉敷のラインで芸術が盛んである。
 ・港から芸術を発信すべきだ。
 ・幸せは与えられるものではなく、自分達で勝ち取るもの。
② 八木氏
 ・神戸の震災後10ヶ月後に縄アートを神戸で行った。助け合うことの大切さを、地震直後のように再び思い出して貰うために行った。
 ・フェスタで縄が立った時に新しい友達が出来た。人のネットワークが出来る。
 ・玉野市も他府県の人を呼んでください。
③三村氏
 ・宇野港は人流港を目指しているが、人にやさしい港になってほしい。
 ・縄を燃やすことは問題がある。沖を通る船に迷惑がかかる。
④山根氏
 ・旅産業は裾野が広い。
 ・岡山、倉敷の観光客は減少しているが、深山公園には年間153万人、渋川には100万人、おもちゃ王国には40万人が来ている。
 ・玉野市は雇用の問題があり(注:造船不況が長期間続いたため)、従来型の産業からニューエコノミーの産業を育てたい。
⑤八木氏(追加)
 ・人が寄り付くようなアートが大切である。
 ・バスツアーで来るわくわくするような縄公園が大阪にできている。
 ・縄を燃やす・燃やさないは、大きな心の問題になるので議論してほしい。(注:その後実行委員会でも議論し、燃やすことの意義を確立した。2月5日のブログに詳細記述。)
 ・火を燃やすことは文化。ダイオキシンの問題はクリアーしている。
                                            以上

サッキータイム ~亀展~

2月8日

岡山市出石町のアートスペース「油亀」で「亀展」というのをやっているというので観に行った。というのも我が芸フェスメンバー3人が出展しているということだったためだ。山陽新聞にも大きく報道されていた。

写真は上から、新聞の切り抜き、北野静樹氏の染色作品、佐藤史仁氏の鉄材アート「亀卓」、清水直人氏の石膏造形「亀頭」、下の写真は、会場となっている油亀の全景。5月に出石芸術百貨街という街全体をギャラリーにしたアート展が開かれるが、ここから情報が発信されている。
下記URLをご参照、覗くとすごい情報がてんこ盛りだ。
http://aburakame.web.fc2.com/

2009年2月8日日曜日

サッキータイム ~宇野港ゆめ市場とみなとオアシス~

2月8日(日)

毎月第2日曜、岡山県玉野市築港(宇野駅前)にあるシーサイドパークで「宇野港ゆめ市場」が開催されている。初めて開催されたのは、2003年4月とのことだから丸6年になろうとしている。我が芸術フェスタとほぼ同じ期間活動していることになる。
運営主体は当初商工会議所が行っていたが、来客・出店数とも少なくなっていた昨年夏2ヶ月ほど中止され、廃止の案も浮上したようである。しかし出店者の強い希望があって、運営主体を出店者に移して継続されることとなった。ゆめ市場では、市内外の飲食店や鮮魚・野菜、雑貨商などが店を出すほか、楽団の演奏やショーなどもあって、大人から子供まで楽しめる。暖かくなる4月からは、玉野とんぼ玉クラブ(2005年4月、スマイルネット玉情協が立ち上げた同好会組織)が運営する「とんぼ玉教室」もここで体験コーナーを再開することになっている。
この日は、中国地方のみなとオアシス運営団体の出店もあって、かなり賑やかだった。みなとオアシス瀬戸田、みなとオアシスただのうみ、 みなとオアシス尾道、みなとオアシスたけはら、鳥取・賀露みなとオアシス、 潮風公園みなとオアシスゆうの6団体が来たらしい。上の写真はそれらみなとオアシスのブースである。
「みなとオアシス」とは、国交省の各地方整備局により登録された、港に関する交流施設・旅客ターミナル・緑地・マリーナなどを活用した交流拠点・地区の愛称である。宇野港でも、5年ほど前から「みなとオアシス宇野」が仮登録され、ワークショップや鬼が島へのクルーズなどの活動をしてきたが、脆弱な組織体制だったためか中々本登録されなかった。その後、商工会議所が運営主体になることになってからは、さすがに勢いよく前進し、昨年5月に本登録されたようだ。
3年前、WAVEの助成活動発表会で会ったことのある「鳥取・賀露みなとオアシス」のK氏に、ばったりこのシーサイドパークで再会した。今年も東京での発表会に行くらしい。我がスマイルネット玉情協も今年「タマノクルーズ」に対してWAVEから助成金を頂き、その発表で2/27に東京に行くことになっているから、東京での同席が偶然2度目になる。面白い鉢合わせと感心した。
中の写真は、藤の実飛ばしゲームの風景、玉野市渋川には日本一長い藤棚があり、その乾燥した実(種)を口で吹き飛ばすゲームである。ぶどうの種飛ばしは聞いたことがあるが、玉野では藤の実らしい。サッキーも挑戦した。7.1mと中々のスコアだった。
下の写真は、シーサイドパーク東側に新たにできた第3緑地に移設された檜垣直右翁の像である。檜垣翁は、第8代岡山県知事で宇野港の重要性に着目、議会の大多数の反対を押し切って宇野港築港の大事業を敢行した。今からおよそ100年前の出来事である。

2009年2月5日木曜日

サッキータイム ~縄柱に火を点けることで・・・~

2003年12月

世界的な環境芸術・彫刻家/八木マリヨ氏の創る巨大縄アートに、最後のセレモニーで火を点けることによって、Tシャツに込めた皆の願いを天に届けるという神聖なイベントに対して、異を唱える人が居た。数は少ないのだけど、そういう人の声というのは相当大きいため、数多く聞こえる。
それらの声に対して、八木マリヨ氏の指導をいただきながら、下記のような回答をすることにした。読者の皆さんはどう考えるのだろうか?

今回(2003年度)の芸術フェスタの総合プロデューサーである八木マリヨ氏は、1991年から地球環境の生存と人類の平和を推進するグローバルフォーラム(ニューヨーク本部)芸術部門の会員として、アースサミット、世界の芸術家会議&展覧会で、ネットワークをつくる活動をしてこられた。
又、北海道、神戸、イタリア、ドイツ、島根、エストニア、鳥取、京都などで市民参加の縄バイタル・リンクアートプロジェクトを展開し、「社会芸術」(パブリック・アート)を進めておられる。彼女が提案するパブリック・アートは、市民の誰もが集い利用できるスペースに「心をふくよかに満たし、ときめきをかもしだす環境をつくる」環境芸術である。地域の独自性を引きだし、個性をもたらし、地域の新しい顔として、市民文化を活性化する役割をもつ、と主張しておられる。
自然・歴史・地上産業・市民の暮らし・祭りや行事と、環境芸術が一体となることで、より魅力ある街や地域を創り、美しい誇りの持てるコミュニティやふるさとを育成する手助けをするのが、彼女のライフワークである。今回の「玉野みなと芸術フェスタ」に対しても、そのような思いを込めて取り組んでおられる。

宇野港の象徴、それは「船」。玉野市は、全国的にも有名な「造船の町」でもある。船と縄。船には係留のための舫い、ロープ、綱。船を推進させるためのプロペラ。その形状は螺旋。縄の螺旋とプロペラの螺旋。縄は、船そのものを象徴する。
巨大縄柱は、玉野の命であり柱でもある「海、港、船」を象徴するモニュメントとなる。であるからこそ、「玉野みなと芸術フェスタ」の初回イベントに相応しいと考えた。

モニュメントは、玉野市民や岡山県民、或いは全国の多くの人達が、愛用し汗の染み付いた着古しの木綿のTシャツが素材である。Tシャツには、宇野港への思いや将来の夢、自分の願いを書いていただいた。愛用のTシャツは、人々の最も肌身に近い日常着。それは人の分身、あなた自身を表すものである。

一人では決して創ることのできない巨大縄柱マリンモニュメント。多くの人達の協働で創りあげた、人々の祈りのこもった縄柱。だからこそ縄柱は粗末に扱うことはできないと考える。人々の祈りを天の神々に届ける儀式。それは、この縄柱を太陽の火で点火し、完全に燃焼させる「炎のアートセレモニー」でなければならないと信じている。これこそが、この縄アートのフィナーレを飾るクライマックスであり、真髄であるとも思っている。

玉野みなと芸術フェスタ実行委員会は、以上の考えに基づき、今回制作する「巨大縄柱マリンモニュメント」を最後のセレモニーにおいて、炎のアートセレモニーとすることを決意した。  以上


以下、何故「縄柱マリンモニュメント」を燃やすのか?についての想定問答集だ。

FAQ(良くある質問)

Q1;縄柱モニュメントを燃やして、ダイオキシンなどで大気汚染を起こすことは無いのか。
A1;天然素材に限るので問題はない。綿100%限定とし、新素材は除いている。

Q2;3R(リユース、リデュース、リサイクル)が叫ばれる現代において、燃やすなどと勿体ないことをすべきではない。
A2;着古して型崩れした物や汗の染み付いたようなTシャツを出していただく。阪神大震災のとき、八木さんのプロジェクトとは別に、救援として全国から神戸に古着が届いたが、着るには忍びないようなものまでたくさん届き、実際は倉庫に山積みされ、かびたりし困って秘密に焼却されたとのことがあった。
ドイツでも、赤十字に集まった物の中から難民の皆さんが引き取られても残る物がかなりあり、特に古Tシャツは汗が染み込んだあとという印象なので、余っていた。セーターやズボンの古着とは違うのである。通常は、木綿のシャツは、ウエスとして工業用に利用される。又、細かく裁断され車の椅子シートなどの心材に利用される。

Q3;燃やしてしまったら、何も残らないではないか。
A3;心、目に見えないものの計り知れない大切なものがあることを知ること、聞こえないもの見えないものを感じ、心に染み入る体験のために利用することも大きなリユースである。心に残る思い出も大きな財産。燃えた後の灰は、植木土の肥料としてリユースすることにしている。

Q4;火(燃やすこと)の意義は何だ。
A4;世界各地にある文化や伝統的行事にある、クリスマスツリーを焼く祭典や正月注連縄飾りを燃やすどんと焼きのように、感謝や思いや願いを天に届ける、見えない偉大な宇宙や神聖な気持ちを養うものだと考える。何か新しいことを始めるとき、古いものを浄化し、新規にスタートするとき、昇天するために火の祭典をしてきた世界旧知の文化行事と同等の行事である。
那智の火祭り、野沢の道祖神火祭り、京都の大文字焼きなど、日本にも伝統ある火祭りの行事がある。火はそれほど神聖な意味を持つものなのである。

Q5;言われることは分かるが、環境問題が厳しい現状において、法律に触れるようなことは無いのか。又、煙や飛灰が散って、市民に迷惑を与えるのではないか。
A5;国の法律として「廃棄物処理法」、県条例として「環境への負荷の低減に関する条例」があるが、モニュメントは廃棄物に該当しない。燃やす量からして環境負荷に圧迫を与えるものではない。玉野市が自粛を要請している野焼きにも当たらない。
煙は殆ど出ない。強風があれば飛灰は散るだろうが、スペイン村用地を借用して実施するので、民家まで影響を及ぼすことはないと考えている。宇野駅及び近所の会社などには、事前にお断りを申し上げておく。
Q6;海岸付近で10mもの巨大なモニュメントを燃やすと、航行する船から火災信号を送るなど誤報の元となるので、燃やすのであれば夜間は避けるべきではないか。又、類焼の問題や参加者・見物人などの安全対策はどうなっているのか。
A6;玉野市消防本部に事情を説明しており、誤報への対処をお願いしているし、短時間で燃えてしまうので、大きな影響は無いと考えている。
又、当日も出動してもらい、消しながら燃やす、燃やしながら消すなどの操作を行い、安全に燃やすことを計画している。縄柱の周囲に縄で立ち入り禁止措置を行うとともに、警備を兼ねた担当者を配置する。点火は、総合プロデューサー、実行委員長のほか、市民の限られた代表者のみとし、事前に十分な安全教育を行う。

Q7;市民の中に反対意見があるのに、敢えて強行する理由は何だ。
A7;逆に、芸術性と火祭りの行事を優先して、火をつけるべきだと主張する人も大勢いる。何をするにしても反対意見が出ることは避けられないと思う。今回のイベントは、野焼きなどとは全く違う次元のものである。環境芸術家である八木マリヨ氏の芸術の一環として、火をつけることとしている。今回のモニュメントは、永久に残せるような素材ではないことを考えると、いつかは処分が必要となる。そのとき、廃棄物と一緒に燃やすようになったら、皆さんの願いがゴミと一緒になってしまう。実行委員会としては、そのようなことになってしまうのは忍びないと考えている。是非とも皆さん方がTシャツに書かれた願いを、天に届けるという意味を込めた儀式を行うことに、ご理解ご協力を賜りたいと心から願っている。

上の写真は、2004/2/8(日)、まいぎりで熾した日で縄柱に点火する、八木マリヨ氏と12名の玉野市代表者。下の写真は、燃えさかる縄柱の炎に合わせて幻想的な音色を響かせる由加太鼓の演奏。この光景を観たら、厳かな火の美しさに圧倒されない者はいない。きっとそう思える時間であった。八木マリヨさんが火の芸術に拘った意味がよく分かった。
この日、昼間から小雪がちらつく寒い日だったが約800名の観客が集まり、静寂な暗闇の中赤く揺らぐ炎に、祈りを捧げる姿が数多くあった。

2009年2月4日水曜日

サッキータイム ~6年前、玉野みなと芸術フェスタの原点

2003年11月~2004年2月

この年、NPO法人設立総会直前の8月、玉野市情報処理産業協会(略称:玉情協、NPO法人スマイルネット玉情協の前身)は、市の企画部N課長からの誘いがあって、市内の全ての他の団体が辞退した面倒なこの事業に乗り出すこととなった。その実施要綱に記載したテーマの説明文が以下の文章である。
尚、スマイルネット玉情協(略してSNTJK)は、翌2004年1月、岡山県内187番目のNPO法人として認定を受けた。

次年度(2004年)からスタートする本格的芸術祭を周知PRできるプレイベントとして、市民・県民の力を結集することによって成立するテーマを企画するために、八木マリヨ氏が創始した社会芸術・縄アートリンクプロジェクトを、岡山県玉野市で市民による市民のための新しい芸術を立ち上げる。
このため、国際的に活躍されている環境芸術・彫刻家である八木マリヨ氏の指導の下、【UNO! Andiamo avanti 】というテーマのパブリックアート「縄柱マリンモニュメント」を市民・県民の力を結集して制作する。縄は、宇野港に寄航する船たちを推進するプロペラと同じスクリュー(螺旋)であり、縄柱マリンモニュメントは、海洋観光都市玉野のシンボルともなる。縄柱マリンモニュメントは、市民の力の結集で作り上げるという点から、社会性と芸術性の一体化でもある。作品のモニュメントは、最後の「ファイナルセレモニー」において、時空を超えた宇宙に回帰させることでフィナーレを迎える。
タイトルの【UNO! Andiamo avanti 】は、イタリア語で、「ひとつみんなで前進しよう みんな心あわせてひとつになって 前に進もうよ。永遠に 海に空に大地に向かって 前進!螺旋回転し続けること」をイメージしている。(Ⓒ八木マリヨ)
このイベントは、人々からのTシャツの提供、帯作り、小縄・中縄・大縄・特大縄作り等の作業を通して、多くの市民・県民の参加が可能であり、市民・県民の力の結集という目的に格好のテーマであり、多くの友情による手作りの芸術となる。Tシャツには提供する人々の願いや思いを書き込んでもらい、最後のクライマックスである「ファイナルセレモニー」において、天空の神々にその祈りを届ける。
このイベントを通して、多くの市民が玉野市を「芸術港・ロマン街」に変貌させることに思いを寄せ、「玉野みなと芸術フェスタ」及び、次年度以降に予定される「アートの祭典」開催の気運を盛り上げる。

補助金の出た2年目の2004年度は兎も角、2005年度以降、補助金0という環境の中よくぞ続けてこれたと思う。最初の4年間を宇野、後の2年間を玉野市東部の山田地区で開催してきた芸術フェスタだが、2年ぶりに宇野に戻ることとなった今年、さて何をどのように進めるか、よくよく思案しないと・・・。
この間、玉野にも駅東創庫という芸術家の拠点となる場ができ、今ではそこで活躍するアーティストが6人もこの芸術フェスタに参加してくれることとなった。ありがたいことだ。

写真は、縄アート作りの初期段階、小縄綯いと特大縄作りの様子である。小縄作りには、Tシャツ48枚をつなぎ合わせ、24mの帯を3本より合せて作る。つまり小縄1本作るのに約150枚のTシャツが必要になる。小縄3本をより合せて中縄ができる。中縄3本で大縄、大縄2本で特大縄、特大縄4本をより合わせることによって、やっと巨大縄柱が出来上がる。計算したら分かるが、縄柱を作るためには約1万枚のTシャツが必要なのだ。2ヶ月ほどの短期間に13,000枚のTシャツが集まったのは、今思うと本当に奇跡的としか言いようがない。やる気になればどんな困難と思われることも可能にすることが立証できたイベントでもあった。
3枚目の写真が完成した縄柱にアルコールをかけているところ、奥に見える赤い車は、いざというときのために消防車にも待機してもらった。4枚目がクレーンで縄柱を立てているところ、縄柱の重量は約2.4トンもあった。5枚目の写真は建立された縄柱、最後のファイナルセレモニーを待つばかりの状態だ。

2009年2月3日火曜日

サッキータイム ~パソコンが・・・~

2月1日(土)~2日(日)

普通のアプリケーション(ワード・エクセルなど)、メール、インターネットなどは問題ないのだが、スキャニングができない、CDが書き込めないという問題が生じ、はたと困った。新聞記事とかチラシなどを電子データに変換するためにスキャナは必須である。作ったデータを電子媒体に落として相手に送るために、CDの書き込みはこれまた必須の作業である。
これら二つの作業ができず、2日までにデータを送らないといけないレポートのCD書き込みが残っていて、正直慌てた。幸いなことに、私には強い見方がいたのだ。iTCというソフト会社の社長・Mさんだ。
サッキーがMES子会社・SBCに勤めていた頃からの知り合いだ。IT会社・MSRで部長をしていたM氏は、安定していた自分の地位を捨ててiTCという会社を設立した、ITベンチャー企業の社長である。設立当初からのお付き合いである。かれこれ10年くらいになろうか。
前者の問題(スキャン不可)は、何故かドライバがPCから消えていたことが原因だった。M氏の所にもそのドライバがなく復旧不可かと思ったが、幸いメーカのHPからダウンロードできたとのこと。後者(CD書き込み不可)については、色んな原因確認をしていたが、最終的にプロパティの設定が、これこそ何故か、CDの書き込みの☑マークが消えていたとのことだった。これでは書き込みが出来る訳がない。
原因調査のとき、PCメーカのDELLと電話するM氏を見ていたが、凄い光景を目にした。それは、こちらの画面をDELL社でも同時に見ることのできる協調確認をやっていたことだ。これら二つの原因を探し、修復するのに2日も掛かった。CDについては、もう一つ問題が分かった。それは、三流メーカのCDでは書き込みが出来なかったり、書き込んだと思っていても見ることが出来ないことがあるということだ。これは、一流のCDメーカの防衛策なのだろうか?特にクライアントに納入するCDとか、助成金事業の報告用CDなどには、一流メーカのCDを使うことが必要のようだ。
PCは便利なだけに、それがなくなったときに仕事が全くできなくなっている現状に空恐ろしい気分を味わった。PCはしっかり良くメンテナンスすることが必要ということを身にしみて感じた2日だった。

2009年2月2日月曜日

サッキータイム ~庭木が倒れるほどに傾いた!~

1/26(月)

1月下旬になって庭に植えてある針葉樹(名前は知らないがアメリカ産の木?)が手前に倒れかかり、今にも倒壊してしまいそうになった。駐車した車に今にも倒れかかる寸前だ。
会社を辞めた後庭師の修行を始めたというY氏に相談したところ、樹(特に上部)が大きくなり過ぎ、根が持たなくなったとのこと。何という樹か名前を忘れたが、この樹はアメリカ産で短期間に大きくなる針葉樹らしい。植えてから約2年半で2mくらいは伸びただろうか?何もしないでほったらかしにしていたことと、支えにしていた竹が朽ちたため、頭でっかちになった樹の重みに耐えなくなったらしい。
Y氏は現役の頃、サッキーと同じ職場で働いていたこともあって、直ぐに相談に乗ってくれ、翌日(1/26)には作業に掛かってくれた。上部を1.5mくらいカットし、途中の枝もしっかりカットしてくれた。葉の量は、元の3分の1くらいになったかな?支えの竹も交換、全てがスッキリした。ついでに玄関際に植えてある樹もカットしてもらい、こちらもスッキリした。「Y君、有難う!」
頭髪もカットしたらスッキリ気持ちいいけど、庭木も全く同じで軽くなった気分だ。これからも年に1度は来てもらうようお願いした。