2009年11月28日土曜日

サッキータイム 「八狼会」ミニ集会

11月27日(金)

昭和43年に三井造船に入社した同期生が8人集まり、毎月遊びのこと・仕事のこと・旅行のことなど、殆んどはどうでもいいことをグダグダ駄弁っていた仲間である。
何時の頃から集まったのか、何故8人だけだったのか、覚えている者は(恐らく)誰も居ない。
最初に集まったのは、8人ではなく数人だったのかもしれない。職場もバラバラ、出身学校もバラバラ、趣味やクラブ活動もバラバラ、どうしてこの8人なのか?そのうちグループの名前をつけようということになり、「八狼会」とした。何も出来ないおとなしい「八羊会」の方がいいのではとの意見もあったが・・・、一応格好つけた形か?結成後10年近く、毎月喫茶店に集まってはウダウダ駄弁っていた。鳥取ドライブでの大スコール遭遇、奥津渓での全く不漁の渓流釣り、山田の料亭での忘年会等、面白い遊びの思い出話には事欠かないグループだ。
そのうち、夫々に役が付き他の事業所に転勤になったりで、忙しくなり出してから集まりにくくなり、毎月の例会も沙汰止みになっていった。
10年ほど前、サッキーが営業をやるようになって、その内の一人M.茂巳君を訪ねた折り、「久し振りに集まって飲もうか。」という話になり、泊り込みで飲んだのが、ここ最新の集まりだった。

この日、千葉に居るM氏が玉野に来るというので、集まれる者だけ集まった。3人だけだったので、客人として千葉の事業所長をしていて現在玉野で勤務中のT氏を招待し、4人遅くまで楽しく飲んだ。

八狼会メンバー各人のプロフィール概要を紹介する。本人に断ってないので、姓と出身校は頭文字とする。
K.徹男君:Y国大造船。入社したときは船殻設計、数年後に修繕課に異動。玉野の建造部長や由良工場長などを歴任、モデックでも活躍。最近、中国から帰ったばかりとのこと。でかい体でぶっきらぼうだし一見怖い印象だが、根は極めて真面目。最も狼らしい奴かもしれない。
K.博之君:Y国大造船。入社時は艤装工作部居装課(居住区艤装)、課長になるまでずっと艤装の現場勤めだったが、千葉に転勤。その後、造船を離れ玉野の運搬機工場長から宇野工業の専務に転籍。現在、佐世保重工業の取締役として、造船現場の指導に当たっている。根っからの真面目人間で、どちらかというと羊の部類か。ゴルフがうまい。
S.章夫君:K大造船。入社時艤装工作部甲装課(甲板区艤装)に配属。6年後に生産技術課に異動後は、船殻各課、海外技術協力、建造スタッフ室、教育・安全などを経験。最後の大仕事JRプロジェクトにこれらの経験が大いに活かされた。その後、岡山支社、SBC取締役を最後に現役を退く。度胸のよさと優しさの混じった、えも言われぬおかしげな真面目人間。狼になったり羊になったり。今は芸術フェスタを初めとしたボランティア活動で大忙しの毎日。これひょっとしてサッキー?
T.征之君:-大機械。修繕部機関課。もっそりしてて、よく人となりがつかめないうちに会社を辞めた。四国の実家に帰っているそうだが、現在音信不通である。
M.征夫君:-大電気。修繕部電気課。造船会社では専門職とも言うべき電気の技術を活かし、環境事業部に異動していた。会社を辞めた後、英語力を活かして翻訳業に取り組もうとしていた矢先、病魔に襲われ60も来ないうちに鬼籍に入ってしまった。どっしりした無口な男で、家族の絆も強かった。
M.敦尚君:O大造船。検査部(現品質保証部)。基本的に船殻畑で、大分鉄構部に異動後も、難しい造船ブロックなどの製造に当たっていた。その後、三井造船鉄構工事㈱の社長を経て、今は大分で悠々自適の毎日のようだ。彼は最初からのメンバーではないが、T.君が辞めた後加入、八狼をキープしてくれることになった。非常に気さくでさっぱりした男である。
M.茂巳君:D大経済。彼だけは三井造船入社ではなく、兄が社長のS産業という運輸部門の協力会社に入社。どういう関係でこのメンバーに入ったのか、よく覚えていない。若い頃彼は、青年会議所のメンバーとして活躍していて、今もそのOB会に参加しているとのこと。人懐っこいオープンな男で、今はK工業㈱という土建業の社長として、直島を主戦場に頑張っている。
M.俊行君:T大法学。熊本高校でサッキーと同組だった男で、仙台の大学を出て三井造船に入社。玉野での奇遇な再会だった。総務勤労畑を歩み、八狼会の出世頭でMESの取締役まで昇った。寡黙な男だが、目の付け所はシャンとしている。
M.剛一君:O大溶接。加工機の溶接技師として、数々の溶接&鋼材の問題解決をしてきた学究肌の男だ。若くして宇野工業に転籍したが、機械工場長として再びMESに入社。その後、取締役に昇り、昭和飛行機の社長を最後に、現在悠々自適の生活。八狼会一の紳士であると同時に宴会男でもある。
T.征司君:T大船舶。千葉造船工作部。彼は八狼会のメンバーではないが、千葉在住のM氏と27日の集まりに同席するのに丁度いいと考え、急遽招待することとした。6年前、千葉事業所長を経て三友不動産㈱の社長となり、現在顧問として玉野の活性化検討委員長として頑張っている。彼がこの会に入れば10人目のメンバーとなる。欠員となっている一人を充足することが出来るのだが、果して・・・。

来年4月頃に、本格的な八狼会を玉野か大分で開催することを決め、楽しい充実した6時間を終えた。

2009年11月27日金曜日

サッキータイム ~高辺山から~

11月26日

11/22日のフィールドワークが雨だったことから、再度高辺山に登り瀬戸内海と宇野港の景色を眺めることにした。この日は、朝から快晴で絶好のハイキング日和だった。
山の高さは約61m。この山には競輪場のある日の出側から登るようになっており、宇野港側からのアクセスは、車も徒歩もない。頂上までの散策には、20分もあれば出来る小さな丘のような山であり、宇野港を眺めるには絶好のポイントである。
現在、宇野港を中心とする中心市街地活性化の検討会が行われているが、自然美を活かした港というのであれば、是非この高辺山を生かしたいものだ。
宇野港から2キロほど北の田井には、県内でも極めて観光客の多い有名な深山公園がある。宇野港に高辺山自然公園を作れば、これまた超有名な公園になること間違いないと思うのは、サッキーだけだろうか?

サッキータイム ~八浜で~

11月23日(月)

八浜は、今でこそ中心市街地から離れた辺鄙な場所となっているが、山田の塩田同様玉野市では古くから港町として栄えていて、銀行や商店、造り酒屋や醤油の醸造元などが軒を連ねていた。
八浜に山田快進堂(山田次郎社長)という、創立120年(明治22年(1889年)創業)の本屋さんがある。山田次郎さんを訪ねたこの日が丁度創業記念日だったそうで、朝からご先祖の墓参りに行っていてたった今帰ったところとのこと。
約束の11時までにちょっと時間があったので、近くの山田醤油醸造元を訪ねた。山田次郎さんともつながりはあるらしい。後継者が居なくて昨年12月に、完全に廃業したとのことで、工場見学もさせてはいただけなかった。軽トラのロゴを見ると、文久3年(1863年)創業と書いてある。評判のいい醤油だったようだが、事業を継ぐ人がなければ残念ながら廃業せざるを得まい。同行した清水君もしきりに惜しがっていた。
その後、藤原元太郎邸を訪ねた。地区の名士で、国会議員にもなった人だ。明治42年に宇野港が出来たものの、連絡船としての機能だけで商港としては全く機能していなかった。当時県議会議長だった藤原は、宇野港にもっと積極的な開発計画を持つべきとの意見書を議会に提出、宇野港の発展につながって行った。玉野市は、平成14年に藤原元太郎邸の保存事業を行い、記念館を作った。中の展示物に、前島密や大隈重信などからの手紙も展示されている。
山田次郎さんからは、9月に開催した「宇野港100年歴史展」に展示した書物や書類をお返しに行った。色々話していると、又新たな資料があるよと言って貸してくれた。明治41年製の児島郡地図、明治42年7月発行の山陽新報などである。山田氏宅にはまだまだ古い貴重な資料がありそうだ。

2009年11月26日木曜日

サッキータイム 「宇野・築港まちづくり講座」~宇野八景~

11月22日(日)

㈱林ケミックの林会長は、若いときから登山に親しみ、日本百名山を踏破されたのは5年以上前のことだろうか。玉野ミネルバ山の会の前会長で、「玉野の山歩き」という本も書かれている。
今回、榧先生に教えていただいた「宇野八景」の中に「天狗山残雪」という風景が含まれていたことから、是非その山をフィールドワークで訪ねたいと思い、玉野の山に詳しい林氏に先導役をお願いしたのである。
この日、生憎の雨模様となりフィールドワークには残念な天候となったが、八景が望めると思われる高辺山に登ることとした。実は、林氏の話では、天狗山は草が生茂り頂上へのアクセスが不可能とのことだった所為もあった。
八景の一つに「築港阜の暮煙」とあるのが高辺山のことであろう。宇野港の眺めが素晴らしいことが書かれている。玉野には、「山田八景」という山田地区のいい景色を紹介した名勝地があるが、ここもアクセス不可能な所が幾つかあるらしい。
林氏の話に、新玉野八景を作ったらどうかというのがあったが、中々面白い提案である。これには、玉野全山を踏破しないと決められない。何かうまい決め方はないものか。
写真は、上から林氏の講義、高辺山に登り山頂から宇野港を望んで写した風景。(雨のため景色が霞んで写っている。) 3枚目は登山者の記念写真。
4枚目の写真は、文化センター2階にある玉野の歴史展示室に展示されていた額「玉野市の主な文化財」マップである。林氏は、考古学の趣味も持たれていて、この展示室のリニューアルにも参加されたそうだ。

サッキータイム 「宇野・築港まちづくり講座」~製造業の起こり・三井造船と玉野市~

11月8日(日)

三井造船の総務部/仲田部長にお願いして、玉野市における製造業の起こりと玉野市における位置づけについて講義してもらった。
三井造船は、大正6年11月14日に、三井物産造船部として宇野地区に操業を開始した。オーストリアの皇太子が暗殺されたサラエボ事件に始まる第一次世界大戦による船舶需要の旺盛さに、時の船舶部長/川村貞次郎が提唱して建設されたものだ。
玉地区での工場建設が待ちきれず、同年12月には、第1船/海正丸が宇野の仮工場で進水した。その後、幾多の変遷を遂げ、日本有数の造船所としての地位を固め、企業城下町・玉野市の城主となって久しい。
その間、石油危機などによる構造的な大不況に見舞われ、大リストラを数度にわたり敢行、今56BCの記録的ヒットにより3年分の受注を抱え、デフレ経済の状況にも拘らず高操業の只中にある。しかし、今年の受注は、防衛庁の護衛艦1隻のみ、商船受注は皆無ということらしい。造船の好不況は、世間とずれて来るのは、受注~引渡しの期間が長いことによる。いつものことである。
瀬戸大橋線開通後、玉野市ではスペイン村構想などを行なってきたが、その資本の多くの部分も三井造船が担ってきた。やってなくてよかったというのは、正直な気持ちであろう。
彼は言う。「造船のまち・玉野」ではなく、「○○と造船のまち・玉野」となって欲しいのだと。○○に何が入るか?私は、「文化」「アート」というような言葉が入ることを望んでいる。

サッキータイム ~アートの今・岡山2009~

11月6日(金)

この日、別件で岡山に行った序に、芸フェスと同時期に天神山文化プラザで開催されていた“The Present of Art,Okayama2009”を観に行った。この展覧会に我が清水直人氏が出展していたからだ。岡山で活躍中の7人の現代アーティストが展示していた。
清水氏の作品は、虚像空間であるコンピュータの中のリアリティの構築が、実像空間である現実におけるリアリティを真に超えることが可能なのか。或いは取って代わることが出来るのか。ということを問うた作品なのか。肉体という器があって初めて、精神という人間の本性を表出することが出来るのではないかということを問うたモノなのであろう。
人間世界のコミュニティを大事にするには、サイバースペースやアスキーコードだけでは表現しきれない、現実の人とのコミュニケーションが必要不可欠な要素なのだろう。アートは今、人間の本質とは何かを問うている。

2009年11月25日水曜日

サッキータイム 「たまの東街道2009」~反省会~

11月3日 反省懇親会

3日間の「たまの東街道2009」が、多くの方たちの協力と努力によって成功裏に終了したことで、この日の反省会は、参加した19人皆の顔が喜びに満ちていた。
山田の力は、この方々の総力によるものだ。玉野の文化の発祥地は、玉野市最大の塩田を経営した野﨑武左衛門が力を入れた山田の地である。その誇りをアートの力で継続してもらいたい。新たな山田の文化「狂言」の継続も。

サッキータイム 「タマノクルーズ2009」

11月3日(火)

宇野港から芸術フェスタ開催中の山田港を結ぶタマノクルーズは今年3回目。総勢48名を乗せた遊覧船「からこと丸」は、予定より5分早く9時15分に出港。海から見る玉野の風景に、乗船客は改めて新しい発見があったようだ。山田の散策ルートでは、地区の名所旧跡紹介にボランティアガイドをかってくれる方が居て、水守神社の素晴らしい彫刻の説明に見入っておられた。
約1時間半の散策でお腹を空かした皆さん、心を込めて作った昼食弁当に大満足。
午後は、白石地区の獅子舞演舞。鍛え抜かれた獅子舞の技に驚嘆の拍手が鳴り止まない。獅子の正面に対した子は、我が孫の佑磨(3歳10ヶ月)。離れているときは元気な様子だったが、頭をかぶりつかれたときは半べそだった。今年は風邪もなく、元気に育つことだろう。
その後、ナイカイ塩業の工場見学。当日は、勤労感謝の日で工場は休業だったが、丁寧な説明に塩の作り方が良く分かったようだ。見学が終わった後、お土産の塩を頂いて帰路に向かった。最後に上陸した宇野港第7桟橋で記念写真をパチリ!皆さん全員が大満足の1日だった。

2009年11月18日水曜日

サッキータイム 「たまの東街道2009」~散策ルート~

11月2日(月) 散策ルート作品展

山田地区文化ルートのコースは、三宅邸(大元屋)⇒水守神社⇒デウス地蔵⇒上山田公会堂⇒明田倉庫の順路で、夫々にスタンプラリーのスタンプが6個置かれている。全てのスタンプを押すと、獅子舞の絵が現れてくる、版画式のスタンプである。
各拠点に、芸フェス参加のアーティストが作品展示をしてくれた。

山田まちづくり講座生は、三宅邸の納屋に「まちづくり歴史展」を展示された。七年間に集められた写真や古い書物、自分達でまとめられた山田の歴史写真と年表、又今年は、狂言で使われた古い衣装も展示されていた。


◆三宅邸の玄関や座敷には、ガラス作家/森美樹さんの「大元屋、三宅邸によせて」と題するガラス作品が展示された。
作品説明;ガラスの色(発色)は、自然物に近い。ガラスの粒の大きさにより、透明から不透明までの表情を持つガラスは、まるでガラスを介して世界を見ているようだ。自然の溢れる山田、趣ある大元屋・三宅邸とガラス。そういった様々な景色をゆっくりお楽しみください。

◆水守神社の境内に、染色作家/北野静樹氏の「時の欠片」が展示された。
作品説明;水守神社に向かう参道に椿の花を模した染色・繊維造形作品を散らしています。一つ一つの欠片が織り成す空間で悠久の時の流れを感じていただければと思います。

◆明田倉庫には二人の作家が展示された。一つが、造形作家/続木一男氏の「四季の情景」。鉄工所の社長である続木氏は、昨年から鉄材を使った盆栽作品を創られている。
作品説明;四季折々の情景を様々な貴や植物の美しさを金属を用いて表現します。金属という硬い素材に熱を加え曲げ、叩き、溶接をしていく中で、自然物特有の有機的なフォルムを生み出しています。

◆あと一つが、美術家/佐藤史仁の「境界線」である。彼は、立体も平面も上手にこなす現代美術家であり、芸フェスへの参加は今年3年目である。
作品説明;地球上に共存している全ての生命体の一種に過ぎない人間、その我々の中にあるなわばり意識に対しての問題意識を作品として顕在化しました。

サッキータイム 「たまの東街道2009」~うたごえサロン~

11月2日(月) うたごえサロン

フェスタ2日目の夜、しおさい広間で桧山武雄氏のアコーディオンに乗せて、懐かしのうたごえ喫茶ならぬうたごえサロンを開いた。参加者約40人が、「赤とんぼ」、「里の秋」などの童謡から、「りんごの歌」、「千の風になって」等の歌謡曲まで全21曲を熱唱した。
休憩時間には、コーヒーとケーキが振舞われ、2時間はアッと言う間に過ぎた。参加された皆さんも大満足して帰られた。

桧山武雄氏は、昭和43年に岡山アコーディオンクラブを立ち上げた方で、岡山県内では最高のアコーディオン奏者であり、シンフォニーホールでの「2000人と歌おうと」かNHK「ひだまりカフェ・うたごえ広場」などにも出演されている。
この日は、天気が良ければしおさいの中庭でやる予定だったが、生憎の強風で寒い夜となったため、急遽広間の中でのサロンとなった。屋外には、山田の方たちが作った竹灯篭を灯し、レストラン「じゃかっせ」から借りてきた白いテーブルと白い椅子を搬入、喫茶店の雰囲気を出した。

2009年11月14日土曜日

サッキータイム 「たまの東街道2009」~狂言を楽しむ夕べ~

11月1日(日) 最後のリハーサル

開会式が終わった後、白石地区にある新築の三宅邸を開放しているというので訪問した。見事な邸宅であり、調度品も素晴らしい。茶室にはにじり口から入るようになっている。
おいしい抹茶を馳走になり、外へ出ると雨がポツポツ降り出してきた。


午前中、これは夜までもつかなと思った天気が、いざこれから狂言会場の準備にかかろうかという段に、何とも皮肉な形で予報どおりとなってきた。
さてどうする?午後2時、決断の時だ。会場の土間は、既に雨でぬかるみ状態になりつつあった。
「よし、山田小学校の体育館でやることにする」との号令で、30人ほど居た連合と地元消防団のボランティアグループに、パイプ椅子(約200脚)、体育館で行う火入式用の道具、座布団などを小学校に移送することを指示した。小学校では、例の音楽会用に配置されていた楽器の片付け、観客席の配置、着替え室の設置、受付机の配置、PCと音響の配線に、約50名のメンバーが一斉に作業を開始した。

準備が出来た体育館の舞台で、最後のリハーサル。しおさいの特設舞台より狭く、やや戸惑いながらのリハーサルだったが、既に充分な練習を積んだ出演者には大きな影響はなかった。

写真は、浜子三人衆が、末社神に野﨑武左衛門の功績を、奉書を読んで報告する場面である。

本番直前

正装した浜子三人衆の緊張した姿。左から今井さん、丸田さん、佐藤さん。
下の写真は、会場に集まった観衆。裃を着た人は、本番前の儀式として行う火入式の火入れ奉行に選ばれた16人。

本番

いよいよ本番スタート。
上の写真は、派手な衣装の浜子たちが、塩田作業をしている場面。左から谷岡さん、藤田さん、塩崎さん。黒紋付の方は、囃子方(笛)の八木原さん。
中の写真は、作業後の夜、酒盛りの席で浜子唄を舞う浜子4(成山さん)と謡う浜子たち。
下の写真は、最後全員が目出度く大笑いする場面。前列中央の裃姿が、浜子頭を演じたサッキー。
部分的なミスはあったが、全体としては、満足すべき舞台だったと思う。
半年間の戦いも無事終了した。観客の評価も、ありがたいお言葉が殆んどだった。

サッキータイム ~「たまの東街道2009」スタート~

11月1日(日) 開会式&180年称揚ライブ

開会式は、いつもの通り滞りなく行なわれた。
今回は、直後のアトラクションとして、武左衛門が塩田事業を開始して180年になることから、それを称えた「180年称揚ライブ」を開催した。

初めに山田小児童及び三味線クラブによる「浜子唄ライブ」だ。
3年前山田でのイベント開始のきっかけとなった、塩田作業者(浜子)が歌っていた地の唄である。
今年は校長の松本順子先生にも出演していただいた。
指導者の松下さんによると、今年この唄をピアノ曲にも編曲し、全ての児童にこの唄を教えるとのこと。地元の歴史がそのような形で行き続けてゆくことができることは、素晴らしいことと思う。

その後、地元書家・植田瑞園(瑞代)さんによる「180年称揚の大書」が、舞台の上で作られた。
若い頃から書に親しみ、安田女子大日本文学科書道専修を卒業、これまで数々の賞を手にし、岡山県書道連盟理事を務め、現在自宅で書道教室を開設されているという。山田には、このような若い才能も住まわれている。
夕方に公演される狂言を意識した、「幽玄」「舞」の大書も素晴らしく、できることなら実行委員会の財産として是非譲り受けたいものだ。

その後、浜子唄を歌った児童も参加して「亥の子祭り」を行なった。
以前、旧暦10月の亥の日、五穀豊穣と家内安全を祈って村の子供たちが、刈入れを終えた村人達の各家の前で、何本かの綱で結んだ石を引張り地面を搗いていた。道路がアスファルト化されて以来廃れていた亥の子祭りが、3年前からの山田での芸術フェスタで復活したのだ。
今年は、フェスタ期間中の11月2日がその日に当たり、子供も大人も亥の子唄を歌いながら、楽しく汗をかいていた。

サッキータイム ~「たまの東街道2009」の準備・その2~

10月30日(金) 野﨑駕籠搬入

この日、フェスタの後援を頂いている連合岡山の中核団体・三井造船労組から2Tトラックを借用し、三井造船㈱玉野事業所(こ此の会社からも後援頂いている)から4m長さのアルミ製足場板を借用した。足場板は、狂言披露の野外特設舞台の観客席用として拝借したものである。
その後、このトラックと足場板を活用して、芸フェスのナビゲータ・清水直人氏が2007年に製作した野﨑駕籠を、駅東創庫から山田しおさいまで運んだ。
写真の人物は、山田で荷解きをしようとしている清水氏である。トラックの荷台に載っているのは、野﨑駕籠とランプ板に利用したアルミ足場2枚である。
10月31日(土) かたらいサロン カフェやまだ

昨年命名した「カフェやまだ」でのゆったりした時間をイメージする冠として、新たに「かたらいサロン」という名称を付け、カフェやまだの入口に張り出した。看板書きは全て、サッキーが一手に引き受けているが、おいしそうなコーヒーの絵は成山さんに描いていただいた。薄墨色のカフェの看板も、中々風情がある。とても素人の作とは思えない。(自画自賛?)

この日、朝9時に集合、準備作業の手順や内容・役割分担を皆で確認後、夫々に作業を開始した。
竹灯篭に入れるろうそく作りやスタンプラリーのスタンプ配置の準備をするスタッフ。写真に写る準備スタッフは、5人とも創作狂言の出演者でもある。左から成山さん、谷岡さん、野間さん、坂本さん、今井さん。
カフェやまだの裏側では、竹灯篭の竹筒を作るまちづくり講座のメンバー。左から松下さん、丸田さん、高畠さん。

午後4時から始まるリハーサルを前に、舞台の掃き掃除をする広坂さん。田賀屋狂言会の事務局長である。
3時過ぎ頃には田賀屋先生も現れ、リハーサル前に狂言のかたらいを談笑した。