11月8日(日)
三井造船の総務部/仲田部長にお願いして、玉野市における製造業の起こりと玉野市における位置づけについて講義してもらった。
三井造船は、大正6年11月14日に、三井物産造船部として宇野地区に操業を開始した。オーストリアの皇太子が暗殺されたサラエボ事件に始まる第一次世界大戦による船舶需要の旺盛さに、時の船舶部長/川村貞次郎が提唱して建設されたものだ。
玉地区での工場建設が待ちきれず、同年12月には、第1船/海正丸が宇野の仮工場で進水した。その後、幾多の変遷を遂げ、日本有数の造船所としての地位を固め、企業城下町・玉野市の城主となって久しい。
その間、石油危機などによる構造的な大不況に見舞われ、大リストラを数度にわたり敢行、今56BCの記録的ヒットにより3年分の受注を抱え、デフレ経済の状況にも拘らず高操業の只中にある。しかし、今年の受注は、防衛庁の護衛艦1隻のみ、商船受注は皆無ということらしい。造船の好不況は、世間とずれて来るのは、受注~引渡しの期間が長いことによる。いつものことである。
瀬戸大橋線開通後、玉野市ではスペイン村構想などを行なってきたが、その資本の多くの部分も三井造船が担ってきた。やってなくてよかったというのは、正直な気持ちであろう。
彼は言う。「造船のまち・玉野」ではなく、「○○と造船のまち・玉野」となって欲しいのだと。○○に何が入るか?私は、「文化」「アート」というような言葉が入ることを望んでいる。
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