2010年2月28日日曜日

サッキータイム ~キロ企画の設立~

企業が追い求めるもの。
それはお客様からの信頼であり、収益の向上ではないだろうか。
信頼される企業には、よくお客様から声が掛かるようになり、受注に結びつく機会が増えてくる。結果的に業績も向上してくるようになる。では、信頼される企業とは、どのようにして築かれるのだろうか?信頼を勝ち取るには、どうすればいいのだろうか?
よく「企業は人なり。」と言われる。力強い人材の育成、魅力ある製品の開発、顧客最優先を意識した企業理念の構築、そのような企業体質の改善こそがキーポイントとなるだろう。
人材を育て企業の体質改善をしたいがその方法が見つからない。時間がなくてとてもそこまで手が回らない。などとお悩みの社長さんも意外と居らっしゃるのかもしれない。
「キロ企画」では、そのような人材育成や企業体質の改善・向上で困っていらっしゃる社長さんのお手伝いをし、企業の信頼確保と業績の飛躍的改善の方法について、クライアントの状況に合った形で提案・実践すること。を主たる業務とし、クライアントのお役に立てることを基本理念として設立した。

・わが社の社員は、いつも活き活きと働き、素晴らしいと思っている。
・わが社の製品は、使い勝手がいいとお客様からお褒めの言葉を頂いている。
・わが社の業績は、目標通りに進んでおり、この先も順調に進むと考えている。
・わが社の強みを、端的な言葉で表現し、お客様にもよくPRすることができる。
・わが社の弱みを、きちっと把握して、社員教育にも活かしている。

会社経営は、いつもこのようにありたいと思う。しかし、中々思うように進まないのも現実である。キロ企画では、上記の中から一つでも「わが社は当たらないなー」と思われた社長さんが、「よし、やってみよう!」と言う気持ちを持たれたとき、きっとお役に立てるかもしれないかなと思っている。
気持ち的には、「1,000倍の業績改善を図りたい」との思いで「キロ企画」と名付け、業務コンサルタントという肩書きの個人事業を立上げた。
これまで生かされてきた恩返しの積りで、地道にこつこつとやってゆきたいと思う。

2010年2月24日水曜日

サッキータイム ~懐かしの写真展~

2月24日

今日から、日比市民センター管内の「懐かしの写真展」が開かれているので、見学に行った。
集まった写真は、100点を超し、展示数も100点ほどがあった。古くは、明治・大正の頃の写真から、昭和にかけての写真が集められていた。写真の収集から複写どり、地区別・時代別仕分け、目録の作成まで大変な作業だったと思うが、よく纏められていた。
今回のイベントが地区のまちづくりに大いな力となること間違いない。日比・渋川地区まちづくり講座の結成に向けて、頼もしい限りだ。

サッキータイム ~市長面談~

2月24日(水)

玉野みなと芸術フェスタは、2003年、宇野港再開発を前に宇野港をアートな港に使用との趣旨で、玉野市の主導で始まったアートイベントである。2年間は、国や県・市の補助金事業として開催されてきたのだが、市の財政が厳しくなった3年目から補助金0という状況に追い込まれながらも、市民の皆様方にご協賛をお願いしながら真面目に朴訥に継続してきた。
その間、市も協働の一方の担い手として、当初の企画課からバトンタッチした商工観光課が窓口となって担当して来たのである。ところが、5年目の2007年から、開催場所が宇野港から山田地区に変わり、フェスタの開催趣旨も、アートによる港の振興から地域に根ざす歴史・文化とアートの融合という風に変わってきた。そのため、宇野港の振興と商工業振興を主たる業務とする商工観光課の腰が引け出してきた。つまり、地区の歴史や文化と融合したアートの展開へと進んだ、芸フェスの事業は自分たちのミッションとは違うのではないかというものである。どちらかというと、生涯学習課が担うべき内容ではないかというのが言い分である。
そこで、生涯学習課を交えて三者で話合いを持ち、検討してもらった。生涯学習課の検討結果は、芸フェスの内容は多岐に亘り自分達だけでは対応できないので、市長に直接話をして欲しいという回答だった。それを受けて行った会談が、本日の市長面談だった。
文書で申し入れた検討事項は、下記の内容である。

芸術フェスタ活動を継続し活動の目的・目標を達成するために、下記に示すような課題とその解決案を提案いたしますので、ご検討賜りたく宜しくお願いします。
①対応組織の確立とまちづくりへの対応:協働の一方の担い手としての玉野市側の現組織及び業務分掌は、本事業への対応が難しい仕組ではないかと思われます。
芸術フェスタの事業は、これまで主として商工観光課で対応されてきましたが、山田地区での活動を行った後「これは生涯学習課の範疇ではないか」との意見が、商工観光課から出されました。そこで、両課と実行委員会の三者で話合いを持つこととなり、今後の取り組みについて生涯学習課で検討していただきました。
その結果、この事業は、生涯学習課の現状の業務範囲を超えた複数のセクションが関わるべき事業であるとの認識でした。つまり、本事業の考え方や趣旨及び具体的実施内容が市政全般に関わる問題との認識であり、現状では玉野市側の対応部署がないというのが結論との意向でした。
又、玉野市総合計画「みんなで築くたまのプラン」の基本計画/分野別計画では、第3項「活気あるいきいきとしたまちづくり」、第7項「生きがいに満ちた豊かなまちづくり」、第9項「市民参加のまちづくり」などにおいて、市民参加型まちづくりについての基本的な考え方が述べられています。
一方、私どもが進めております芸術フェスタ活動もある意味まちづくり活動に通じるものがあると思っています。しかしながら、この活動を市の総合計画とどのように整合性を持たせて進めるべきか、その姿が見えにくいというのが現状ではないかと思われます。
⇒(検討をお願いしたい提案)どこかの部局に「文化振興課」若しくは「まちづくり課」(何れも仮称)というセクションを設けて、市の文化活動の振興及び文化・芸術によるまちづくりを担うような組織の設置をご検討賜りたく提案します。
尚、2月18日に開催された中心市街地活性化協議会運営委員会において、アートによる中心市街地のまちづくりを議論するために「アート部会」を設置することが決定されました。具体的な部会の進め方については、今後の検討課題となっております。
②スタッフの参加協力:活動を支えるボランティアスタッフが不足しており、現状ではアーティスト自身がスタッフを担うような場面もあって、アーティストとしての本来の創作活動時間が十分に取れない状況もあります。何らかの方法で課題解決を図りたいと考えております。
⇒(検討をお願いしたい提案)実行委員会としても当然努力しますが、担当部局の方のスタッフとしての参加についてご検討賜りたく宜しくお願いします。
③活動資金の支援:市におかれてはこれまでもコピー・印刷でのご協力、市職員の皆様からのご協賛協力などを通じてご支援頂き、大変ありがたく感謝いたしているところです。しかしながら、本事業の実施に当たっては、常に活動資金の工面に悩んでいるのが実情であります。
⇒(検討をお願いしたい提案)市の助成制度を充実するなどにより、ある程度纏まった形での継続的な助成金を予算化していただければ大変ありがたく、ご検討宜しくお願いします。

面談の結果、現在機構改革を考えているが、それまでの間は、商工観光課を受け皿の窓口とするよう申し付けるとのことであった。当然の結果とはいえ、上に立つ者は、物事の道理が分かっていると感じた。

2010年2月22日月曜日

サッキータイム ~アート部会の設置~

2月18日

この日の午後、玉野市中心市街地活性化協議会・運営委員会が開かれた。昨年4月に結成された、玉野市の中心市街地即ち宇野港周辺からメルカ・市役所付近までを含んだ宇野・築港地区の賑わいゾーンにおける活性化策を検討する協議会の、具体的運営を行うメンバーの会議である。
運営委員会の委員長は、商工会議所総務部会長の高橋さんである。
委員会の下部組織として、以下の5部会がある。
・広域交流拠点整備部会/青井部会長・・・宇野駅東に建設予定のホテル&温浴設備を検討する部会
・商店街活性化整備部会/福原部会長・・・築港商店街の賑わい再生を検討する部会
・商業施設活性化整備部会/北野部会長・・・大型店舗メルカの機能強化を検討する部会
・どてきり部会/吉本部会長・・・ノコギリガザミとかいうハサミのでかいカニのことで、昔は瀬戸内の干潟にも多く生息していたそうだ。今は殆んどいなくなって、それを養殖して玉野の名物にしたいと理科大の先生の指導を仰いで取り組んでいる部会だ。
・いしいひさいち部会/伊達部会長・・・朝日新聞に連載されている4コマ漫画「ののちゃん」の作者である。彼は玉野市築港出身で、この漫画でまちおこしをしようというもの。

玉野市の中心市街地/宇野港は、アートの島直島への通り道となっている。この地域の賑わいを考えるとき、アートな港まちづくりしか考えられない。そこで、出てきたのがアート部会の設置である。
以下、その趣意書案

1.「アート部会」設置の目的及び活動目標
 玉野市中心市街地活性化協議会の重要な柱の一つであるアートによる美しいまちづくりを、組織的・専門的に計画・推進することを目的に「アート部会」を設置する。
 アート部会では、宇野・築港地区でのアート活動やアート作品の常設展示などを積極的に行うことにより、以下に示すような中心市街地活性化の実現を目標とする。
 (1)直島と宇野とが一体となったアートゾーンを形成し、直島を訪れた観光客の多くが、必ず宇野港界隈も散策するような魅力的なアートタウンにすること。
 (2)地域住民、観光客、アーティストが相互に交流し、新たなコミュニティの輪を拡げるとともに、マネーフローも生まれるような、アートを機軸とした賑わいゾーンを構築すること。
2.「アート部会」設置の背景と必要性
 (1)まちづくり手法として・・・
 中心市街地活性化協議会の目的は、当該地域における活き活きしたまちづくり、暮らしやすい魅力的なまちづくり、さらには経済的にも成り立つ賑わいのあるまちづくりである。歴史・文化と融合したアート活動が、上記目的に合ったまちづくり手法として大きな効果を持つことが各地で実証され、新潟や直島などの活動が全国的にも注目を集めている。
 (2)玉野市でも・・・
 市主催の「中心市街地活性化の取組に対する診断・助言事業」報告会において、伸ばすべきポイントの第一に「アートのまちづくり」の重要性が報告された。特に玉野においては、美しい景観を活かしながら直島とリンクしたアートのまちづくりが最も有効と考えられる。
 (3)「アート部会」では・・・
 国際的な現代アートを目指して訪れる直島アートの観光客を、宇野港地域でおもてなしするために地域全体にアートやクリエイティブな空間を作り、訪れた人たちが界隈を散策しながら、感じたり発見したりする喜びや感動を呼び起こすことが重要である。
 その実現によって、アートな港としての存在感を主張し、直島と一体となった宇野港への興味を引き出すことが可能となる。アートの展示やイベントなどを通して、視覚や景観からも洗練された雰囲気とセンスが伝わるような中心市街地づくりが求められている。
3.「アート部会」で議論すべき内容(案)
 (1)アートに満ちた宇野港界隈のまちづくり
 (2)地域住民及び玉野市民がアートを楽しむ仕組みづくり
 (3)直島町及びベネッセアートサイト直島との連携
 (4)宇野・築港地区の歴史・文化資源の活用
 (5)直島とリンクしたアートゾーン及び宇野港周辺でのアート活動の広報

2010年2月14日日曜日

サッキータイム ~宇高航路の廃止~

2月13日

この日の山陽新聞に、標題の記事が載った。国道フェリーと四国フェリーの2社が同時に、3月26日をもって航路の廃止を決定したというニュースだ。
1910年6月12日、宇高連絡船就航以来100年目を迎えるこの年、宇高航路が終幕を迎えるのは何とも皮肉な巡り合わせといわざるを得ない。昨年の土日高速道路1,000円による大きな影響、民主党政権による高速道路無料化の動きから見て、今後の展望が開かれないとの経営判断である。既に3年間も連続大幅な赤字続きという。
大阪や東京など遠方の客が本州から高松に行くのにはJRでも高速道でも構わないと思うが、地元の客にとってはこの航路の廃止は極めて大きな影響が生じる。言ってみれば公共の足が奪われてしまったのだ。公共的に必要で経営的に成り立たないものは、地方公共団体などの行政が担うべきと思う。今回の決定は、国を始めとした行政側のそのような全体的な交通体系への動きが見えないということに業を煮やした結果なのであろう。

今回のこの決定に対する、サッキーの感想は下記の通りである。
1.企業の経済活動という視点からは?
営利活動を行う企業である以上赤字続きの経営が続けられないのは、ある意味仕方ないこと。誰にも撤退を止めることはできない。
2.公共交通機関という視点からは?
この航路だけが頼りの人の生活(人生)を突然に奪ってしまっていいのかと考えるなら、一私企業に任せることは出来ないのかもしれない。
3.必要性という視点からは?
2.に深く関係することではあるが、どうしても必要とする人は必ずいる。であるとするなら、ニーズを満足できる最低限のスペックでいいから、存続の具体的方法(税金の投入も含めて)を早急に検討すべきである。
4.観光のシンボル的存在という視点からは?
これもある意味、2と類似の視点で考えねばならないのであろう。新人流港とか24時間眠らない港とかのキャッチは使えないかもしれない。新たなキャッチが必要になる?
5.芸術フェスタとの関係という視点からは?
港がありそこに頻繁に行き交うフェリーが在るのは、絵になる風景であり是非とも存続して欲しいと願う。又、今後高松などのアーティスト仲間との交流及び関係強化を図る上でも、宇高航路の存続が強く望まれる。

写真は、何れも宇野港から見えるフェリーの光景である。この先、このようなロマンチックな写真が撮れるのは、四国汽船による直島&小豆島航路だけになる。

2010年2月11日木曜日

サッキータイム ~建国記念の日~

2月11日(木)

今日は、「建国記念の日」という国民の祝日だ。
会社勤めの頃は、休みになるということだけで単純に喜んでいたような気がするが、毎日が休みとなった定年後は、いつもと変わらぬ1日の始まりである。
去年から玉野市の歴史などについて調べ出したこともあって、改めてこの日のことについて調べてみた。
これまで知らなかったことだが、この祝日の正式名は「建国記念日」ではなく、「建国記念の日」と間に「の」が入るということだった。この日の制定までには、かなりの曲折があったようだが、なぜ間に「の」が入ったのか?いきさつは次のようなことだったらしい。

「建国記念の日」2月11日は、戦前まで「紀元節」という祝日であった。紀元節は、「日本書紀」に記載の初代天皇・神武天皇の即位を祝う祝日として1872(明治5)年に制定され、戦後の1948年(昭和23年)に廃止された。
紀元節の復活に向けた動きは、サンフランシスコ講和条約のなった1951年(昭和26年)頃から見られ、1957年(昭和32年)には自民党議員らによる議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が提出された。しかし、当時野党第一党の社会党が「建国記念日」の制定を「神武天皇即位の年月は、科学的に根拠が薄弱」「神武東征の物語りが、征略国家として支那事変、大東亜戦争に利用され、日本の進路を誤まらせた」と批判して反対、審議未了廃案となった。
その後、「建国記念日」の設置法案は、9回の提出と廃案を繰り返したが、成立には至らなかった。結局、名称に「の」を挿入した「建国記念の日」として、建国されたという事象そのものを記念する日であるとも解釈できるようにし、具体的な日付の決定は各界の有識者から組織される審議会に諮問するなどの修正を行い、社会党も妥協。1966年(昭和41年)、「建国記念の日」を定める祝日法改正案が成立した。
同改正法では、「建国記念の日は、政令で定めることとし、趣旨は建国をしのび、国を愛する心を養う。」と定めた。その後、学識経験者等からなる建国記念日審議会での、約半年の審議を経て、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年末に提出された。佐藤内閣は「建国記念の日は2月11日とする」とした「建国記念の日となる日を定める政令」を定めて公布、即日施行した。

よく考えてみると、日本の国がいつできた(建国された)のかなど、誰にも分からないしどのような考えに基づいて決めるのかによって、どうにでもなることかもしれない。いざなぎ・いざなみが日本の国土を作ったと言っても、それは神話の世界のことであるし、卑弥呼の邪馬台国にしても大和王権にしても、その成立過程は、決してはっきりしているとは思えない。
とするなら、民主化された戦後に基礎をおいた考えで新たな建国の日としても、何ら差し支えないのではないだろうか?
例えば、終戦を迎えた8月15日を新たな建国のスタート日としてもいいように思うし、新憲法が公布された11月3日を建国記念の日とするもよい。この日は文化の日と被るが・・・。8月15日は、お盆の中日であり、多くの会社で休みにしている。この日を祝日とすれば、他にもありがたがる人は多いのかもしれない。個人的には、この日を祝日とすることが望ましいと思う。

それと、この法律の趣旨として「建国をしのび、国を愛する心を養う」とされているが、後半はなるほどとよく理解できるが、前半の建国をしのぶとはどういうことか理解に苦しむ。
よく亡くなった人を懐かしんで開く会合のことを「・・・さんを偲ぶ会」などというが、建国についても苦労して国を作った人たちのことを懐かしむということなのだろうか?だとするのであれば、根拠のない2月11日を建国の日として、存在さえ有り得ないとされる神武天皇の苦労を偲ぶなんてことは、笑止の沙汰である。それよりむしろ、戦前の日本軍官僚の暴走によって、貴重な命を奪われた英霊を偲ぶ方が余程意義あることなのではないだろうか?その日に敗戦の日を充てるというのは、これまた意義深いことと思う。今からでは遅いかもしれないが、出来うる事なら変えた方がいいと思うのはサッキーだけだろうか?
実は、サッキーの長兄も昭和19年1月に応召され、訓練を終えたその年の8月、佐世保から軍艦に乗って南方に向かう途中、フィリピン沖で戦死したという。靖国神社に英霊の一人として祀られているのだ。サッキーはまだ1歳の赤子だった。

2010年2月1日月曜日

サッキータイム ~安藤忠雄講演会~

1月31日(日)

直島はアートの島。豊島産廃の処理施設を有する環境の島でもある。
1月末日、新春特別講演会として直島ベネッセアートの全ての建築物を設計した安藤忠雄氏の講演会があるというので、聴きに行った。
久し振りの直島訪問だったので、瀬戸内国際芸術祭の作品の一つとして昨年オープンした直島銭湯「I❤湯」に入って来た。この銭湯は、以前から直島アートに出展されている大竹伸朗氏の世界を、実際に入ることのできる銭湯という空間に作られたアート作品である。生活とアートが一体となった、全く新しい形の作品である。
昨年建築中に見たときは分からなかったが、外観は勿論、入湯料の500円を払って中に入ると、天井、壁、床、浴槽の底、窓の外に至るまでアートに満ちた風呂場となっていた。まだできて間もない(昨年7月オープン)ので浴槽も設備も真新しい。昔の銭湯に比べそんなに広いということはなかったが、外人さんが一人入っておられただけだったので、いい湯加減の湯船にゆっくり浸かることができた。
ベネッセミュージアムを見学した後、今年の芸術祭の大型作品の一つ「李禹煥(リーウーファン)美術館」の建設工事現場を見学した。今年6月頃にオープン予定だとか聞いたが、どう表現していいか分からない作品だ。中に収められる作品も素晴らしいものになるに違いない。
安藤氏の講演は、これからの日本に望みをつなぐにはどうすればいいのか、その答えが中々見つからない現状を憂えているものだった。その答えの一つが、循環型社会の実現ということではなかったのだろうか。彼の発言の幾つかを点描する。
1.建物を造ってそれがどういう風に発展するかを見ることが大事。これまで行政が造ってきた箱モノは、全て造ったら終わりだった。もうこのような箱モノはいらない。
2.明治時代のラフカディオ・ハーンは、「日本は素晴らしい国だ。素晴らしい家族があり、素晴らしい地域があって、少しだけ国を愛している。」
3.第2次世界大戦直後、興廃した日本を見た外人が「日本は必ず復興する。」「何故なら、子供達の目がきらきら輝いている。」と言ったそうだ。
4.今の興廃した状況の日本は、「絶対に復興しない。」「何故なら、若者の目がドロンとしている。」
5.バブル経済期以後に生まれた子どもは、過保護に育てられており、今の状況を打開できない。
6.女性の元気は、好奇心旺盛だからだ。
7.資源、食料、エネルギーの大部分を外国に依存しているのに、ムダに捨ててしまっている日本の状況は、必ず世界から見放されてしまう。どうやってこの問題を解消するべきか。
8.循環型社会への回帰が今望まれている。
9.瀬戸内海を海洋牧場として、世界に情報発信したい。今年、瀬戸内で行われる芸術祭も、その機会となる。
10.事例:淡路島の夢舞台、いわきの絵本美術館、台湾の森の霊園/水の納骨堂、直島の美術館群。

写真は、上から直島銭湯の玄関、1年前の建築風景、ベネッセハウスの通路に作られた壁面作品、李禹煥美術館の建築現場と発砲スチロールで作った完成模型。