2011年12月31日土曜日

東野﨑塩田の碑文

12月31日

愈々2011年最後の日、年末恒例の紅白歌合戦が始まっている。
今日は、今年の芸フェス「たまの東街道」での記念講演で、太田先生から頂いた史料「東野﨑浜塩田の碑文」を紹介しよう。
碑は、玉野市山田にある塩竃神社の境内に建っているが、漢文のため殆んど解読困難なものである。ここには、野﨑武左衛門に始まり、子の常太郎、孫の武吉郎(2代目当主)までの系譜について紹介したものである。
根気よく読まないと中々読みにくいものだが、大事な点は最後の行に集約されているようである。つまり、先達の財を守る困難を克服しようと思えば、創業時の困難を思い起こせということか。

以下にその全文を掲載する。
一部PCにない漢字があって、?マークを入れているが、敬の字の下に弓の字を合わせたもので、ユタメと読ませるそうだ。武左衛門の孫で、成長して武吉郎といい、2代目の当主となる人だ。この方は、明治政府の貴族院議員となり、地域だけでなく国にも尽くされた。児島に迨暇堂と言う大きな邸を作ったことでも有名な人である。今年5月、我が狂言講座の公演を行ったのがこの迨暇堂である。

尚、この碑文の読み方は、山田まちづくり講座の佐藤さんが作られたものである。

東野﨑塩田の碑

(水上清『塩と碑文』より抜萃、別記註を(  )挿入し、註・振り仮名を一部加筆した。)

子与氏(学者の名)曰く、諸侯の宝三は土地・人民・政事なり。然るに政事は人民の為に設けられ、人民は土地に由って生ず。則ち土地は人民・政事の本なり。是の故に国家の利は土地より大なるは莫し。而して兵力を以て之を取るを劫奪(コウダツ)(脅し取るの意)と為し、勢威を以て之を得るを兼并(ケンペイ)(一つに併わすこと)と為し、人を害するに過ぎずして己のみを利す。人と共に利して而して害無きは其れ唯墾闢(コンビャク)(開墾)か。備前の野﨑翁は此に見る有り。資産を擲(ナゲウ)ち心力を労し、畢生(一生)墾闢に従事し、新地を得たるもの勝(アケ)て数ふ可からず。而して東野﨑塩田を最大と為す。地は本(モト)児島郡沼・山田・東田井地・梶岡・上下山阪(坂)・胸上八邨(村)海浜、潟鹵(セキロ)(塩気を含む潟、海瀬)に係る。翁は其の墾(ヒラ)くべきを相し、天保元年六月之を藩主池田侯に請ひ允可(インカ)(許可)を得たり。九年正月始めて工を起し、地を分けて南北両区と為す。南区に就いては逶迤(イイ)(つらなる・つづく形)として土隄(堤)を築くこと長さ弐千参百拾壱(二千三百十一)間、外は石埭(セキタイ)(石にて河水を堰る「いせき」のこと)に副いて以て激浪を捍(フセ)ぎ、内は則ち隆きは削り、汚らわしきは塡(ウズ)め、溝を鑿(ウガ)って田を画し、田には皆軟砂を播き、盧舎(ロシャ)(こや)、器械悉く具(ソナワ)る。実に十二季三月なり。田を得ること柒(七)拾参(十三)町玖(九)反陸(六)畝柒(七)歩其の地を名づけて東野﨑邨(ムラ)と曰(イ)う。官は為に里正(名主のごとき者)を置き之を監せしむ。文久二季五月北区に工を起し、南区の如く三季五月竣(オワリ)を告ぐ。堤千百参拾(三十)間余、田十玖(十九)町捌(八)反玖(九)歩にして其の地を分けて胸上・西田井地両邨に属せしむ。而して人総て南北区を称して東野﨑浜と曰う。蓋し(まさしく)西に野﨑浜有ればなり。両区の塩竈肆拾伍(四十五)舎雇丁五千、指して塩を得ること年凡(オヨ)そ拾万石大いに国家を益し而して己の利も亦貲(ハカ)られず(分からない位多くある)。是より先、翁は野﨑浜等の塩田を闢(ヒラ)き、後又福田邨を墾(ヒラ)く。稲田一時并収(ヘイシュウ)し、其の入富巨萬(万)を致す。而して子孫業を継ぎ益(マスマス)降盛にして、鬱然(ものごとの盛んなること)として山陽道の一大富豪と為れり。史選の所謂素封(ソホウ)(財産があること・大金持)千戸の諸侯と等しき者然るに非ずや。古は土地、皆国君の有する所而して下民偶々新田を墾くも亦佃戸(デンコ)(小作人の意)と為るを免れず。今や王制一新し、民皆地券を賜わる。則ち翁の開きし所の土地は皆其の宝と為り、役使する所の人民、固(モト)より其の宝なり。而して国会の開近きに在り、資産有る者国政を議するを得れば則ち政事も亦将に其の宝と為す、三宝皆既に己に帰し儼然として一諸侯たる豈(どうして)啻(タダ)に昔時素封の比ならんや。翁諱(イミナ)(称号)は弣(ユヅカ)、称して武左衛門、野﨑氏は郡の味野邨の人、晩(オソ)く大里正(大庄屋に同じ)と為り五口(五人扶持)の糧を賜わり、称姓佩刀(ハイトウ)を許され、墾闢の功を賞せらる。其の世系行実は墓碣(ボケツ)に詳(ツマビ)らかなり。子は彇(ユハズ)と曰い、常太郎と称す。克(ヨ)く父の蠱(コ)を幹(ヨク)す(事をよくする意)。不幸にして夭折す。孫を?(ユタメ)と曰い、武吉郎と称し士族に列す。則ち今の主なり。頴敏(エイビン)(さとくかしこくの意)勤倹にして父祖に愧(ハ)じず。明治壬午(ジンゴ)(明治十五年)秋海大いに溢壊(イッカイ)し、両区の堤防・塩田悉く没す。君拮据(キッキョ)(骨折り働く)修補し歳尾(年末)に至って復旧す。癸未(キビ)(明治十六年)の夏、塩を東京博覧会に致し二等賞牌及び金若干を受く。属して曰う、碑を建て不朽の祖功を旌(アラワ)さんと欲すと、遠く図及び状を寄せ余に文を請う。余少時翁を訪う。翁岸然(角だった形)魁梧(カイゴ)(丈高くたくましいこと)深沈にして大度あり。余の為め当時の勤苦を語って曰く、初め土石を風濤乱立の間に投じ以て堤防を築くに随うて成り、随うて頽(クズ)れ、資竭(ツク)し、力弊(ヤブ)れ中止せんと欲すもの数次にして終に能く之を成せり。嗚呼其の崛強(クッキョウ)耐忍なるは古の豪傑の攻城野戦に百敗に屈せず、以て封侯(大名に領地を与え支配者となること)の業を開きし者と何ぞ異らん。之れ子孫たる者、其れ朝夕拳拳(忠勤なるの意)祖功を追念せざる可けんや、乃(スナワ)ち銘を作って曰く。
創業の難は既に往き守成の難方(マサ)に来る。守成の難に処せんと欲すれば唯創業の難を念ぜよ。
明治十七年甲申九月  東京大学教授従五位三島毅撰(詩文を作ること)
     正三位池田茂政篆額(碑上部の篆文の題字)  従五位長炗書
                                  東京吉川黄雲刻字

東野﨑浜に塩水を供給し、作った塩を運ぶための水路ともなっていた汐入川に架かる跳ね橋、その向うの林に塩竃神社がある。
境内の入口付近に、東野﨑塩田の碑がある。碑のアップである。

2011年12月30日金曜日

「たまの東街道2011」活動結果

12月30日

今年もいよいよ残すところ、後2日となった。
ここ数日、芸術フェスタの総括を続けているが、今日は、山田地区で開催した「たまの東街道2011」について、概要を報告する。

先ずは、11月12(土)&13日(日)の2日に亘って開催した「東街道十三次探訪ラリー」から。

イベントⅠ 「東街道十三次探訪ラリー」実施要項

1.趣 旨
 山田・東児地区には、地区にゆかりのある歴史上の人物が多数輩出しています。
昨年の「玉野みなと芸術フェスタ2010」(以下「芸フェス」という。)では、専売局味野収納所山田出張所(現東地域デイサロン「しおさい」)の広間で開催した「歴史を語る夕べ」において、山田まちづくり講座生が長年研究してきたこれら人物にまつわるお話を「山田・東児地区ゆかりの歴史人物」というテーマで紹介していただきました。
 山田・東児地区には、遺跡や遺構或いは石碑といったような形でこの人物たちの痕跡の証を見ることが出来ますが、これらは地域住民にも殆んど知られていないように見受けられます。
 芸フェスでは、折角の貴重な地域の財産を何とか多くの人たちに紹介すべきではないかと考えました。そこで、これら歴史上の人物たちの痕跡を現地に探り、彼らの働きを思い巡らすことにより、地区への愛着を深め地区のまちづくりに資することを願い、歴史人物探訪ラリーを開催することとしました。
 紹介した人物たちの数が丁度13人であったことから、より多くの方々に参加を促すことができるよう「東街道十三次探訪ラリー」と命名し、たまの東街道のイベントの一つとして計画しました。

2.開催要領
(1) 開催日時:2011年11月12日(土)~13日(日)
(2) 探訪スポット:玉野市後閑~山田~上山坂の13箇所
  (実際には、1ヶ所危険の予想される箇所があって、12箇所のみを紹介した。)
(3) スタンプラリー:上記スポットにスタンプを置き、規定の台紙にスタンプを押して回る。6箇所以上のスタンプがあれば記念品を渡す。
(4) 休憩スポット:カフェやまだ、塩竃神社を休憩拠点として、お茶のサービスを行います。

3.東街道十三次探訪スポット(山田・東児地区ゆかりの歴史人物)
(1) 増吽増正(ゾウウンソウジョウ):真言を極めた高僧。諸国の寺院の復興に尽力・・・山田・無動院ご入定石棺
(2) 高  心:楠木正儀(マサナリ)に仕えた南朝の武将。西湖寺で没した・・・後閑・高心の墓
(3) 石川 善右衛門:岡山藩の群奉行・普請奉行、多くの溜池を築造・・・山田・牛石池or二子池(牛石池、二子池とも特にお年寄りなどにやや危険が予想されたため、石川善右衛門の紹介はマップには掲載しなかった。)
(4) 野﨑 武左衛門:塩田王・東野﨑浜塩田開発。ナイカイ塩業㈱創業者・・・山田・塩竃神社
(5) 西井 多吉:野﨑家家僕、五猿と号す。塩田開発・経営に手腕・・・山田・塩入川護岸施設
(6) 荻野 独園(ドクオン):下山坂出身、明治時代の臨済宗高僧。東山銀閣寺に自適・・・上山坂・顕彰碑
(7) 伊藤 立斎:医者。明治初年山田に移住、医業の傍ら子弟を教授・・・白石・宝殿場墓石銘
(8) 三宅 三郎:山田の人。岡山藩の勤皇家、大政奉還に協力。・・・白石・宝殿場墓石
(9) 東  作平:後閑の人。教育熱心で後閑小学校を創立。村会議員・・・鳥打峠・開鑿(サク)石標
(10) 岡 武三郎:教育者。無道院に建った養才小(山田小の前身)の校長・・・無動院境内石碑
(11) 春藤 武平:八浜出身。流下式塩田開発。ナイカイ塩業㈱社長・・・胸上・本社構内銅像
(12) 北畠 謙三:山田の人。山田小学校長、山田村長。「山田村誌」を著作・・・山田・有情供養塚
(13) 埜嶋 島叟(トウソウ):山田の書家・俳人。・・・梶岡・常楽院の床の間掛け軸及び墓

マップの表に、石川善右衛門を除く12人の業績を紹介した。
石川善右衛門が築いた二子池は、途中雑草に隠れた溝で足を踏み外す恐れがあり、危険と判断してマップから除いた。
梶岡にある常楽院(児島八十八ヶ所第七番)の書院に野島島叟の書が掛けられている。
12箇所のスタンプ全てを押し、大喜びする中学生
仲よしご夫妻も完全制覇され、記念にパチッ!
休憩所となった塩竃神社では、抹茶が振舞われ、七五三お宮参りの参拝客も。塩竃神社でお茶のサービスをしてくれた萩野さんには、13日午後に開催したシンポジウムで総合司会をやっていただいた。同じく休憩所となったカフェ山田では、コーヒー(@100円、ケーキセットは@300円)のサービスがあった。写真は、カフェやまだのサービスを取り仕切った柴田さん(左)とその仲間たちカフェ山田で寛ぐ参加者と十三次を説明する大西さん(帽子の人)
続いて、11月13日(日)に行ったシンポジウムについて。

イベントⅡ 
シンポジウム「塩づくりの里・山田」

(1) 開催日時:2011年11月13日(日)14:00~17:30
(2) 開催場所:味野専売局山田出張所(しおさい)広間
(3)プログラム
 玉野市東部(山田・東児地区)は、江戸時代以降、塩の産出が玉野市において最も盛んであり、全盛期(1900年代前期)には、街に塩田労働者の人々が住み、様々な産業が栄え、活気に満ちていました。繁栄は製塩技術の革新と共に衰退し、当時の痕跡は少なくなってきています。
 山田地区では、2007年から山田まちづくり講座生を中心に、塩づくりの里における最も象徴的な遺構である旧大蔵省の「味野専売局山田出張所」と「文書庫」の保存活動に取り組まれました。今年7月、長年の努力が実を結び、これら二つの遺構が国の登録有形文化財に指定されることになりました。
 今回のシンポジウムは、備前塩業に造詣の深い太田健一氏(竜王会館理事)を講師に迎え、登録指定を記念するイベントとして開催するものであります。野﨑武左衛門が開いた塩田と活気に満ちていた当時の街を想像しながら、「塩づくりの里・山田」の歴史をお楽しみ下さい。

■開会挨拶       (14:00~14:05)
 玉野みなと芸術フェスタ2011実行委員会委員長  斉藤 章夫

■第1部 「新作狂言 誕生秘話ヒストリア」 (14:05~14:35)
(出 演)秘話紹介:玉野狂言講座事務局 斉藤 章夫
      狂言実演:玉野狂言講座生/塩崎テツミ、成山 佳子、小坂 運子
(概 要) 2009年11月1日、地区住民主体の狂言講座生が初演を行った新作狂言「野﨑武左衛門」の誕生から現在に至る経緯を、NHKの歴史番組風のタッチで紹介し、合せて新作狂言の最初の場面を実演いたします。短い時間ですが、狂言の楽しさを味わっていただければと思います。

■第2部 記念講演(国の登録有形文化財指定)(14:45~16:00)
演 題 「塩づくりの里・山田と野﨑武左衛門」
講 師 太田 健一氏(竜王会館理事)
(概 要) 塩田王と呼ばれた野﨑武左衛門が如何にして東野﨑浜を築いたのか、そこでどのような経営を行い「塩づくりの里・山田」を繁栄に導いたのか、当時の資料等を元に説明していただきます。
(講師プロフィール) 1936年岡山県生。1958年岡山大学教育学部卒業。関西高等学校・岡山東商業高等学校教諭などを経て、1989年広島県立広島女子大学助教授、1994年山陽学園大学教授、2006年山陽学園大学特任教授を歴任し、 2009年退職。現在、財団法人竜王会館理事、学校法人山陽学園監事、日本塩業研究会代表を務める。主著『日本地主制成立過程の研究』、『備前児島野﨑家の研究』(共著)、『岡山県の百年』(共著)、『次田大三郎日記』(共著)、『山田方谷のメッセージ』、『小西増太郎・トルストイ・野﨑武吉郎—交情の軌跡—』

( 休 憩 )

■第3部 浜子唄ライブ           (17:00~17:30)
出 演 ( 歌 )山田小学校児童
     (伴奏)玉野市三味線同好会(山田)
(浜子唄とは) 入浜式塩田での作業は、炎天下での厳しい重労働でした。そのような過酷な作業の中で働いていた人たちが歌っていた労働歌が「浜子唄」です。
(浜子唄の歌詞)
1.浜子浜子とよ けなしてくれな 浜子大名で 扶持(フチ)がつく
2.浜子さんとはよ 承知でほれた 夜釜(ヨガマ)たきとは 知らなんだ
3.十と二銭のよ 寄せ子でも 主に敷島(シキシマ) すわせたい
4.色は黒うてもよ 浜子は武士じゃ 一日九合の 扶持を取る
5.いんで床張(ドブサレ)よ  野﨑の浜子 明日は釜立て 浜起し

(総合司会) 萩野 倫子

招待していた訳ではないが、黒田玉野市長が聴講に来られたので、急遽ご挨拶を頂いた。
第1部の狂言秘話紹介で、新作狂言「野﨑武左衛門」を実演していただいた三人衆第2部の記念講演「塩づくりの里・山田と野﨑武左衛門」で貴重なお話を頂いた太田健一先生
第3部開始前の休憩時間に、子どもたちに亥の子まつりを体験してもらった。第3部では、薄暗い専売局中庭に設置した幻想的な篝火の中、山田小学校児童による「浜子唄ライブ」を行い、「たまの東街道2011」を締めくくった。

こうしてみると、今年もずいぶ多くの方々にお世話になったものである。
企画を担い事前準備をする人々、その準備にボランティアで参加してくれる人々、当日の出番のために発表の準備や稽古をする人々、発表の効果を高めるために舞台設置や小道具・照明などを手配する人々、お弁当やお茶を手配してくれる人々、必要な資金をご協賛として寄付してくださる人々、多くの方々に知らせるために新聞やTVで広報活動をしてくれる人々、本当に色々な方々のご協力で成り立つイベントなのである。感謝してもし尽くせないと心から思う。
皆様のご支援、ご協力をこのBLOGを借りて、厚くお礼申し上げます。
ありがとうございました。来年も又、宜しくお願いします。

2011年12月29日木曜日

【南北楽観主義-せとうち-】反省会

12月29日

先ほど、南北楽観主義を支えてくれた方たちの声を紹介したが、締めくくりに9月19日に行った、作家たちとの反省会メモを紹介する。一部先ほどの声とダブる部分もあるが、来年に向けて貴重なメモなので、紹介しておきたい。

【南北楽観主義‐せとうち‐】を終えて~反省会メモ(報告)
                          (文責:芸フェス実行委員長/斉藤)

1. 開催日時:2011年9月19日(月)19:00~21:00

2. 開催場所:sottoprodotto

3. 出 席 者:山田(司会)、三宅、笹川、千葉、凡土、清水、森、斉藤
(欠席者で意見提供者:加藤、勝木、あきやま、平岡、大前)

4. 概 要:
 今回開催した宇野・高松アーティスト交流・交換展【南北楽観主義-せとうち-】は、玉野みなと芸術フェスタ実行委員会として初の試みであったが、出展いただいた作家の皆さん方や運営に関わっていただいた高松丸亀町商店街進行組合の方々のご協力で無事終了することが出来た。
そこで、今回の展覧会に出展された作家の皆さん及び運営に携わっていただいた皆さんにお集まりいただき、夫々の立場で率直な感想、良かった点、運営上の問題、今後の活動への意見などを語っていただいた。今日参加できなかった方には、既に頂いているアンケート結果などの意見を紹介した。
以下その発言要旨を、メモとして項目別に順不同で纏め報告する。

(1) 率直な感想
 ・作家としては大変満足した。
 ・会期がもう少し長い方が良かった。2週間くらいはあっても良かったと思う。
 ・高松の人がもっと観に来て欲しかった。
 ・いい経験をさせていただいた。
 ・宇野は、今までは遠い所と思っていたが、意外と近かった。1回きっかけが出来たら結構行けると思う。
 ・今回、瀬戸大橋で高松に行ったが、割引料金時間帯等に利用すれば、金銭的にも時間的にもストレスが少ないと感じた。
 ・岡山の作家は凄いと思った。
 ・一つ一つの会場は充実していたが、全体として「南北楽観主義」の企画コンセプトが伝わらなかった。
  ⇒岡山では、奈義現代美術館の副館長や作家の方々から今回の「南北楽観主義」はいい企画との声をよく耳にした。
  ⇒「南北楽観主義」という名称は馴染めない。難しい漢字の羅列でアートを標榜するグループとしては如何かと思うし、知人からもよく言われてない。続けるのであれば変更してほしい。という意見の一方、「南北楽観主義」というタイトルは素晴らしい。という意見もあり、評価が両極端である。
  ⇒「南北楽観主義」という企画タイトルについては、極端なくらいの方がいいと思い、あえて「南北」という字句を入れた漢字の名前にした。ただ、企画の名前に合った展覧会だったかどうかは疑問が残る。
  ⇒各作家が、【南北楽観主義‐せとうち-】というテーマを意識した作品を創ったのかどうか。
  ⇒テーマに対して分かりやすいコンセプトが示されるべき。
 ・販売する展示か見せる展示か、南北楽観主義としてどうありたいか、何を伝えたいかによって、展示のあり方が変わってくる筈。その辺も要項に盛り込んでおいたら視点の定まった見方ができ面白かった。
 ・今回のsottoprodottoでの展示は、いつものお客さんだけでなくアート関係者の方が多く来てくれた。今までにない空間だったので、滞在時間も長く内容への評価も高かった。
 ・今回イベントにしっかり参加できてないのが申し訳ない。もっと「南北楽観主義」の空気感を味わいたかった。
 ・交流の幅をもっと広げられるようなシステム作りが出来ないものか。小さく纏まらず、市自体の交流に発展するものになって欲しい。
 ・交流展は継続事業ということなので、来年以降の面白さで尻すぼみするか活気付くかが決まる。今回は失敗。芸フェス自体の魅力が薄い。次回は「南北」という言葉をもっと多角的に捉えた提案が必要。
 ・バウハウスは、搬入口を大きくする必要がある。空間が勿体ない。
 ・初めてのことで戸惑ったこともあったようだが、総合プロデューサーの必要を感じさせられた。
(2) 良かった点
 ・作家同士の交流が出来、宇野と高松の距離が近づいた。
 ・多くの人たちとコミュニケーションが出来た。新しい作家、宇野の人と交流できた。
 ・良い作家との出会いは、自分を刺激します。
 ・台風によるトラブルにも気持ちよく対応していただいた。
 ・宇野側の細やかなサポートが嬉しかった。搬入、搬出の応援が大変助かった。
 ・芸術を通じた地域貢献が出来る可能性が見えた。
 ・宇野は、海が近いのが気持いい。
 ・食事補助券もありがたかった。
 ・辻褄について墨(ぼくてき)で書かせるコーナーは、辻褄について考える時間が出来面白かった。
 ・車座談義では、お互いの活動状況を聞くことが出来た。
 ・これまで玉野の作家だけの展覧会(一時期岡山県内を含む)が続いたが、今回県外作家との交流が出来たことは、南は高知、北は鳥取など、より広い範囲の南北交流のきっかけになって良かった。
 ・岡山の作家や芸フェス実行委の皆様と出会うことが出来嬉しく思う。
 ・宇野という場所も少し垣間見ることができたし、又普段に行きたい場所になった。
 ・サンコアに展示したあきやまさんについて、彼の本領が発揮できてなかったのではないかと心配されたサンコアのオーナーの計らいで、来年3月あきやまさんの個展をサンコアで開くこととなった。
 ・カフェZのオーナーも観に来られて、評判が良かった。
 ・アーティストが協働して一つの空間を作る心意気を知ることが出来て嬉しかった。
(3) 運営上の問題
 ・WEBによる情報発信が不十分で、公式HPを作る必要を感じた。
  ⇒展覧会場風景の掲載、イベントの告知。最も大切なポイントであり専門的にやる人が必要です。
  ⇒芸フェスの公式HPがあれば、開会式延期の通知もよりスムーズに広報できたと思う。(BLOGでの広報はあったが。)
  ⇒台風による影響は仕方ないことだったが、開会式延期の決定と通告が遅過ぎた。今回、自然災害の影響を考慮していなかったが、今後は、考慮に入れておくべきである。
・広報をどこまで積極的に行うか。今回は不十分だったと思う。
  ⇒新聞、地域新聞、テレビ、ラジオ、情報誌、美術手帳、美術館、画廊関係など、直接出向くぐらいでないと簡単に載せてくれない。
  ⇒一般の人にとってなぞに満ちたアートの世界に一歩足を踏み入れてもらうには、メディアを上手く活用して情報や素性をオープンにするべき。プレスリリース
  ⇒山陽新聞玉野圏版の記事は駅東のみで、サンコア、バウハウス、ソトプロの記事がなかった。
  ⇒各作家が知っているメディアの人脈などを紹介し合えたらいいと思う。
 ・チラシが、アートという感覚ではなく、観光案内なのかというイメージがあった。
  ⇒+DMがあった方が効果的だったのではないか。
  ⇒サンコアさんには固定客が居られるので、「サンコア独自のDMがあれば来客ももっと多かったし、販売にも繋がった。」と言われていた。
  ⇒ギャラリーの場所が分かりにくかった。詳細マップ(駐車場併記)があった方が良かった。
  ⇒高松だけのチラシがあってよかったと思う。
  ⇒高松では、実行委員会のチラシを1,000部頂き商店街のラックに入れておいたが、余り取られていなかった。美術館などにも送り、アート関係者にも見ていただいた。
  ⇒宇野側では、岡山のギャラリー、玉野市の公民館などに置き、実行委員会関係者に配布した。
 ・宇野側のスタッフが不足して、作家自身が会場当番をせざるを得ない状況だった。
  ⇒今の玉野のスタッフ数では規模が大き過ぎた。3箇所の会場に十分な対応をするには、スタッフの絶対数が不足しており、玉野側のスタッフ組織を充実させる必要がある。
  ⇒高松側については、高松に任せっきりだったが、事前の確認や展示を含め、一つ一つの会場の管理をもっと丁寧に見るべきだった。
  ⇒もっと早い段階で分かっていれば、高松側のスタッフを活用できたかも。
  ⇒今回は同時開催としたが、時期をずらすとか隔年単位で会場を変えるとかも考えたらどうか。
 ・各会場の会期の初めと終わりを揃えるべきだった。
  ⇒アートマルシェの開催に合わせるということが決まった段階で既に2ヶ所の会場(バウハウス&サンコア)では先約があった。アートマルシェの開始時期に合わせる必要性(理由)は何だったのか。
  ⇒sottoprodottoは丸亀町のギャラリーなので、商店街としては、人の流れを作るということから、一体的な開催とせざるを得なかった。又、広がりを持たせることも必要で、常に集客も求められる。
 ・作家へのフィーについては、当初お互いが夫々に負担しあうことで合意したのだが、出展作家に対して本当にそれでよかったのかどうか。
  ⇒作家に謝礼が出るような展覧会システムを構築して頂きたい。作家はもっとプロ意識を持つべき。
  ⇒企画書をキチンと書き評価を受けたら、予算は商店街振興組合から出して頂けるが、予算書の提出時期の問題もある。今回は1月26日に宇野側から最初の提案・打合せを行い、高松側から好反応を頂いたが、第2回打合せが4月8日となり、時期的に遅かった。
  ⇒準備は早い方が良い。今後継続するとすれば、新たな実行委員会を立ち上げるのも検討すべき。
 ・作家への対応、受け入れ態勢
  ⇒高松では、宇野側の作家に対してご迷惑を掛けて申し訳なかった。
  ⇒自然災害によるフェリーの休止や瀬戸大橋の通行止め等、想定内で考えて欲しい。宿泊スペースの確保、風呂、布団、トイレ、ホームステイスタイル等も。
 ・イベントへの参加が得られる工夫が必要。
  ⇒文化協会、教育委員会等他の団体やグループとの連携。
  ⇒スタンプラリーや宇野の街を歩いてもらうような工夫。
  ⇒街がアート展開催を知らない人が多いと感じた。
  ⇒街全体を巻き込む位でないと街は応援も協賛もしてくれない。
 ・各会場の作家さんの経歴、ポートフォリオ、価格リストが初日に出来ていなかった。
 ・アンケート用紙も最初から準備しておくべきだった。
(4) 今後の活動に向けて
 ・楽しく観るための工夫として、初めのオープニングパーティと最終日のアートクルーズ、車座談義、クロージングパーティだけだったが、途中にもワークショップ等のイベントがあった方が良かったと思う。
  ⇒地域や子どもたちを巻き込んだワークショップ、滞在制作なども検討したい。
  ⇒子どもも参加できるような展覧会。ワークショップ、1日先生など。
 ・玉野と高松が混ざり合うといった形のイベントにしたい。
  ⇒例えば、フェリーで何かをやるとか、多くの人が楽しめるもの。
  ⇒作家も主催者も街の人も満足できるようなもの。
  ⇒フェリー内にも何らかの仕掛け(ライブなど)があると楽しいかなぁと。
 ・続けることが大事と思う。今回の交流展の継続を望む。岡山と香川の「食」の交流も楽しみたい。
 ・毎年ではなくても南北楽観主義を定期的に続けていって欲しい。又、岡山と香川だけでなく、毎年近県を一つずつ増やしていっても面白いかと。
 ・会場も、sottoprodottoだけでなく、市美ほかの施設も紹介することが出来る。
 ・今後も全国各地のアーティストを招待して、玉野とアートをリンクしていけばいいと思う。
 ・2012のテーマ「同世代に生きる」
  ⇒アートデート、宇野でアートピクニック、宇野でアートジェネレーションなど。
  ⇒バーチャルではない心のアートコミュニケーション
 ・宇野港周辺を歩き回ったけど、結構楽しかったから、宇野の良さを引き立てるプロジェクト!ののチャン記念館ともリンクしたらいいと思う。東江戸川3丁目!
 ・公開制作。アーティストインレジデンス。
                                          以上

四国への玄関口・宇野港のフェリー桟橋から乗船する参加者たち

高松の繁華街・丸亀町界隈の夜景
sottoprodottoで行われた反省会に参加した作家たち

【南北楽観主義-せとうち-】を支えた人たちの声

12月29日

今年の芸フェスの特筆すべきは、何といっても9月に開催した【南北楽観主義-せとうち-】であろう。
そもそもこの芸フェス(玉野みなと芸術フェスタ)は、宇野港を芸術港として全国に情報発信したいとの思いで2003年にスタートした、宇野港界隈で開催される芸術の祭典であった。
今年9年目を迎えた芸フェスは、年の初めに、宇野だからできるもの、宇野でなければ出来ないものと言う考えから、南北楽観主義というコンセプトが生まれた。
そのコンセプトを中心として、今回のイベントを支えた、ディレクションを担当したSHIGERUさん、芸フェスのナビゲーターである清水直人さん、そしてこの展覧会に参加してくれた作家さんの声を紹介したい。来年以降開催するときの貴重な意見として、できるだけ採り上げることとしたい。

(ディレクター/SHIGERUさんの声)
【南北楽観主義-せとうち-】のディレクションを経験して

今回の展覧会のディレクションをさせていただいて、私個人としては、様々なことを経験し、多くのことを学ぶことができました。今回、私がディレクションを行う上で柱として考えたことは、参加していただいた作家の方々に存分に表現できるような環境を運営サイドがしっかり作り上げ、フォローしてゆくことでした。しかし、こちらの不手際もあって、一人の作家の方からあることでクレームが出ました。会期が終わるまでにそのクレームに素早く対処できたことは幸いでした。
結果として、反省すべき点は多々あります。確かに、結果は重要ですが、それ以上に自分の与えられた仕事に対して自分が真剣且つ真摯に仕事をしたかということの方が、より重要だと考えています。結果は時が経てば忘れてしまいます。しかし、如何に自分が努力したかというプロセスや経験は、ずっと記憶に残るものです。
この展覧会が終わった時に、心から充実感を味わうことができました。又、高松側の方々とも心を割って話が出来る位に仲良くなれました。このことは、これからの私の人生において本当に大きな財産となりましたし、大変ありがたいことと深く感謝いたしております。
今後、「南北楽観主義」を次につなげることが、今回ディレクションをさせていただいた私の責任なのではないかと思っております。
最後に、この「南北楽観主義-せとうち-」に様々な形でご協力していただいた多くの方々に、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

(ナビゲーター/清水直人氏の声)
【南北楽観主義-せとうち-】開催の意義と今後の課題

宇野・高松アーティスト交流企画展【南北楽観主義-せとうち-】は、これまでの玉野市での芸術文化活動の方向性に新たな一石を投じたと言っても過言ではない。それは、「南」を視野に入れた展開であったという点によるものである。
岡山県の文化的中心地は、県庁所在地たる岡山市であることは論を待たない。美術館、博物館などの文化施設を始め、ギャラリースペースの数も圧倒的で、岡山市以外の地域での文化的活動についても、主な情報発信地を岡山市に定めてきた。芸術文化活動を進めるための環境は言うに及ばず、幅広い層に対して最も効率よく情報を発信できるのが岡山市であるということからである。
今回の【南北楽観主義展-せとうち-】は、視野的には岡山市も含んではいるが、主として「南」つまり「高松」を視野に含んで展開した。岡山市を中心とする場合、玉野市は県南端であり遠方となってしまう。しかし、「せとうち」を中心地として考えたとき、玉野市宇野の立地は、逆に「中心」となる。岡山県と香川県を一つの「せとうち」として考えたとき、本州と四国を結ぶ本州側の交通の拠点は、宇野と児島の2カ所である。中でも直島への玄関口にもなっている宇野は、「せとうち」において最も重要な拠点となる。
つまり、宇野は、「南を視野に入れる」のではなく、「南を視野に入れなければならない」と考えるべきなのである。これは、玉野市宇野の立地や現状に課せられた重要な役割であり、この活動は岡山県全体に関わりが広がってくるということができる。
「玉野みなと芸術フェスタ」主催の下に開催された今回の【南北楽観主義展-せとうち-】は、岡山・香川両県の作家の交流展に加え、両地域の会場を巡るアートクルーズ、「せとうちを隔てた夫々の地域」というテーマで議論した車座談義など、両地域のまちづくり活動やアート活動の現状を市民団体で互いに理解し合う初めての機会となった。
これらの活動を通じて、これまで交流のなかった宇野~高松間に文化的情報拠点の確認、芸術・芸能活動のネットワークの形成などに対して基盤構築が行われ、互いの今後の活動に重要なエポックとなったことは間違いない。今回の【南北楽観主義-せとうち-】は、高松側のNPO団体や人々と交流する機会を作り、新たな文化的コミュニティを形成し、「せとうち」という巨視的且つ包括的な視点を共有し、共同で活動を行っていく可能性を高める絶好の機会となった。
これまで「せとうち」の海によって分断されてきた文化的活動を、今回イベントを契機に「せとうち」と言う地域(海域)で結びつけることができたのである。さらに今後、これを継続・発展させることが、玉野みなと芸術フェスタに課せられた大きな命題であり、宇野の発展を支えるキーワードになりうるものと考える。

(玉野市文化会館BAUHAUSに展示された作家/勝木繁昌氏の声)
【南北楽観主義】に参加しての反省点

新しい作家、宇野の人と交流ができたこと。芸術を通じた、地域貢献が出来る可能性が見えたこと。良い作家との出会いは、自分を刺激します。海が近いのが、気持ちがよい。
宇野側の細やかなサポートが嬉しかったです。
搬入、搬出の応援が大変助かりました。食事券もありがたかった。

1. 展覧会の始め、終わりの日時等日程合わせ。
2. メディアへのアピール不足。新聞、地域新聞、テレビ、ラジオ、情報誌、美術手帖、美術館、画廊関係など。直接出向くぐらいでないと、簡単に載せてもくれません。
3. ホームページの充実。展覧会の会場風景など載せたり、イベントの告知。今後、一番大切なポイントです。専門にやる人が必要です。
4. 作家の受け入れる体勢。想定内で考えてほしい。宿泊できるスペースの確保。お風呂、布団、トイレ。ホームスティスタイルでも、よかったのでは。
5. 高松側と宇野側で同じぐらいの対応ができていない事は問題です。まず、会場は対応できていません。
6. 展覧会は、最低2週間はあった方がよいと思います。いっそ、レジデンスにして公開制作してはどうでしょうか?
7. 今後も、バウハウスがメイン会場になるならば、搬入口を大きくする必要があると思います。空間がもったいないです。
8.スタンプラリーや宇野の街を歩いてもらう様な工夫がなかった。街がまだ、アート展開催を知らない人が多いと思いました。街全体を巻き込むぐらいでないと、街は応援も協賛もしてくれないと思う。
9.運営は大変だと思いますが、作家に謝礼が出るような展覧会システムを構築して頂きたいです。 (作家ももっと、プロ意識を持つべきだと思います。)

2012の企画 
宇野でアートデート 宇野でアートピクニック 宇野でアートジェネレーションみたいなテーマがよいと思います。テーマ 「同世代」に生きる。
バーチャルではない、心のアートコミュケーションが求められています。
Twitter、Facebook を始めとしたデジタル上のソーシャルネットワークが拡大する時代が到来し、その反動としてリアルな人間関係やコミュニケーションが希薄になりつつあることが気になっております。

レンタサイクルで宇野をアート探険させながら、お店に買物したり、食べたりして、アートを観賞したりして楽しむ。スタンプ全部押せたら、カンバッチ贈呈、メバルストラップ進呈など。
子供も参加できるような、展覧会が宇野には必要です。子供が参加すると親も参加します。ワークショップも組み込ませるできます。外国では、小中学校で1日先生になったりします。

今回、宇野港周辺を彼女とぐるぐると歩き回ったけど、けっこう楽しかったから・・・。宇野の良さを引き立てるプロジェクト!

ののちゃんの記念館ともリンクしたらいいと思います。東江戸川3丁目です。(笑)

ズバリ、公開制作、アーティストインレジデンスです。

高松sottoprodottoに展示された作家/加藤直樹氏の声)
【南北楽観主義】の反省点

・「芸術フェスタ」としての魅力づけ
今回の交流展は継続事業ということですので、来年以降の面白さで活気づくか尻すぼみかがはっきりするんじゃないでしょうか。率直に言うと、今回は失敗だと思います。その根幹は芸術フェスタ自体の魅力が薄いからです。勝木さんとのメールのやり取りで「同ジャンルのVS展」はどうかという意見をいただきました。一つの例ではありますが、同世代又は異世代の価値観自体をぶつけあうような企画は、とても刺激的で作家自身にとってもストレスのかかる状態に身を置くことで、さらにいいものが生み出せるんじゃないでしょうか。「南北」という言葉をもっと多角的に捉えた提案が次回には必要だと感じました。 

・広報の手段
自分の個展をやるときにはできるだけギャラリーにプレスリリースをお願いします。してくれない場合は自分で作ります。そして雑誌(全国誌・地方紙)、新聞、テレビ、ラジオ、ギャラリー情報系webにばらまきます。僕のようなマニアックなものを作っている場合、DMを見ただけでは押しが弱いようで、会場に足を運ぶのを躊躇されることが多いです。そのどっちつかずな状態を前に進めるのが各種メディアだと思っています。一般の人にとって謎に満ちたアートの世界に一歩足を踏み入れてもらおうとするには、メディアをうまく活用して情報や素性をオープンにするべきだと思います。

・作品を見せる?販売する?
各会場ごとに作品を売っているものの、魅せる要素と販売する要素がごちゃまぜでそのどちらもの足を引っ張った展示になってしまったんじゃないかと思います。駅東創庫の凡土さん、千葉さんの展示はうまかったですね。南北楽観主義としてどうありたいか、何を伝えたいかで作品や展示の構成が変わってくる筈です。その辺りも要綱に盛り込んでもらえたら、クルーズしてても視点の定まった見方ができて面白いんじゃないでしょうか。因みにソトプロでは、3人が「せとうち」をテーマに新作を作りました(詳細は清水くんと森さんにまる投げしますが)。僕たちが感じたせとうちは有機的でとても儚いものだったように思います。幾度も重ねた話し合いで、各作家の主観を問いただすような議論ができたのはとても有意義で、自分の作品を客観的に見つめ直せました。その時にも「売ってもいいし、売らなくてもいい」という話だったので、その辺りのバランスが難しかったです。

・ハード、ソフト両面での交流を
ここでいうハードとは、「芸術フェスタ実行委員会」と各ギャラリー、それを取り巻く環境、ソフトとは、作家や関係者を指しています。今回は、荒天で搬入も何とか、初日イベントは全てキャンセルという稀な事態でしたが、それだけに様々分かったことがありました(搬入と初日のことに関してのあれこれは清水くん森さん、笹川さんにまる投げします)。交流展とは、結局人と人をいかに結び付けていくかだと思います。高松の作家さんが関わった宇野側の人はおそらく数人、宇野の作家さんが関わった高松側の人もおそらく数人じゃないでしょうか。関わった数人によって町の印象すら変わってしまうというのはおかしな話です。その交流の幅をもっと広げられるようなシステム作りはできないものでしょうか。小さくまとまらず、市自体の交流に発展するものになればと思います。

長くなりましたが、以上です。
あくまで個人的な意見ですので、拾えるところをピックアップしてもらえたらと思います。

僕もみんなと「膝を交えて」話がしたかったです。
またの機会にお会いしましょう。

(サンコアに展示された作家/あきやましんご氏の声)
アンケートへの回答

■今回のイベントに参加して、良かった点、嬉しいと思った点は何ですか?
 ⇒岡山の作家さんや玉野みなと芸術フェスタ実行委員会の皆様、関係者の皆様と出会うことができ、大変うれしく思っています。宇野という場所も少し垣間見れて,また普段に行きたい場所になりました。サンコアの大前さんに出会えることもでき、ありがとうございました。
■今回のイベントに参加して、改善すべき点、要望したい点を教えてください。
 ⇒一番感じたのは、期間がもう少し長かった方が良かったのかと思います。
■来年の「芸術フェスタ2012」には、どんな企画があったらいいと思われますか?
 ⇒毎年ではなくてもこの南北楽観主義を定期的に続けていってほしいと思います。又、岡山と香川だけではなく、毎年近県を1つずつ増やしいていっても面白いかと。
■その他、今後の「イベント」及び「芸術フェスタ」に対する、あなたのご意見を自由にお書き下さい。
 ⇒今回のイベントにしっかり参加できていないのが、大変申し訳なく思っています。もっと、「南北楽観主義」の空気感を味わいたかったです。


本当に有難い声を数多く頂きました。他にもたくさんの声を頂いていますが、紙面の都合で割愛させて頂きます。皆さんありがとうございました。来年も宜しくお願いします。

展示作品のキャプションを作るSHIGERUさん(左)と清水さん(右)

駅東創庫のGallery MINATO に搬入作業をする作家たち(手前が凡土さんで右端が千葉さん、因みに中奥は駅東創庫代表の高嶋幸市さん、左端はSHIGERUさんこと山田茂さん)

玉野市文化会館BAUHAUSに搬入作業をする作家たち

sottoprodotto に展示された加藤直樹作品の鑑賞者と説明する加藤さん(手前)

アートクルーズで宇野港に上陸した参加者たち(旗を持って先導するのはサッキー、左端は駅東創庫で活動する作家/佐藤史仁さん)

2011年12月28日水曜日

【南北楽観主義‐せとうち‐】開催結果

12月28日

芸術フェスタ2011の総括第3弾として、宇野と高松共同で開催した【南北楽観主義-せとうち-】の結果報告を行う。

宇野・高松アーティスト交流企画展【南北楽観主義-せとうち-】は、玉野みなと芸術フェスタ2011のアートイベントとして、9月3日(土)~11日(日)の9日間に亘って開催された。

1.活動の経緯概要
(1) 企画コンセプト:今年1月に出された企画アイディアを実現すべく、2~3月にかけて高松との打合せを行ない、企画概要(※ 1)及び企画コンセプト(※2)を確認決定した。
(2) 実施要項:2月に最初の要項案を提出し、高松側との数度の打合せを行い、修正を繰り返した後、7月に最終的な要綱を決定した。
(3) 日時と場所の決定:5月初め、高松側の出展者が4名となり宇野の3会場で展示したいことと開催時期を9月3日のART MARCHE に合わせ行いたい旨の連絡を受け、その方向で実施することを決定した。
(4) 共催依頼:上記決定により、宇野側の会場として、駅東創庫、サンコア、バウハウスの3ヶ所となったことから、各会場のオーナーに共催のお願いをし、快くお引受けいただいた。
(5) 広報:8月7日にフライヤーができ、配布広報を行った。新聞記事の掲載も広報に一役買った。
(6) 開会:9月3日(土)に台風12号が襲い、やむなく4日(日)に開会することとなった。各会場には、テーマ名及び作品説明のキャプション、実行委員会としての挨拶文を貼り出した。
(7) 閉会:9月11日(日)、予定通りアートクルーズ、アーティストトーク、車座談義を行った後、閉会した。

(※1)企画概要・・・宇野側の作家は高松で作品を展示し、高松側の作家は宇野で作品を展示する、せとうちを挟む南北アーティストによる交流プログラム。

(※2)企画コンセプト・・・この企画は、作家個人のネットワークに加え、アート団体や企業などの協力を得て、異なる南北の土地で活動する作家の交流・交換展を開催することで、各団体の交流を活発化するとともに、芸術活動の理解や意識を深めることを目的とする。

2.出展作家紹介と出展数:
(1) 千葉尚美、凡土:駅東創庫に「私波止場で泣いてます」を展示(出展数/千葉=9点、凡土=31点)
(2) 勝木繁昌:文化会館に「芸術生活によるつじつま-trap-」を展示(出展数/勝木=57点)
(3) あきやましんご:サンコアに「光のめぐり」を展示(出展数/あきやま=23点)
(4) 清水直人、森美樹、加藤直樹:sottoprodottoに「美しい または 美しい」を展示(出展数/清水=1点、森=6点、加藤=10点)

3.参加者数実績報告:
(1) 会場ごとの入場者数
 駅東創庫:千葉尚実・凡 土「私波止場で泣いてます」114人、
 玉野市文化会館:勝木繁昌「芸術生活によるつじつま-trap-」146人、
 ギャラリーSans quoi:あきやましんご「光のめぐり」100人、
 sottoprodotto:清水直人・森美樹・加藤直樹「美しい または 美しい」78人、
 合計393人、期間中のイベント参加者全部数は140人。合計533人だった。
(2) 期間中のイベント実績
 開会式&アーティストトーク-1:9/4(日)11:00~11:30、バウハウス、勝木繁昌、16人
 オープニングパーティ:9/4(日)18:00~20:00、 sottoprodotto、20人
 アートクルーズ:9/11(日)9:00~17:00、高松&宇野両会場の作品&トーク鑑賞、7人
 アーティストトーク-2:9/11(日)11:00~12:00、sottoprodotto、清水、森&加藤、25人
 アーティストトーク-3:9/11(日)15:30~16:00、サンコア、あきやましんご、18人
 アーティストトーク-4:9/11(日)16:30~17:00、駅東創庫、千葉尚美&凡土+勝木、18人
 車座談義:9/11(日)17:30~19:00、駅東創庫、伊永和弘、21人
 クロ-ジングパーティ:9/11(日)19:00~21:00、駅東創庫、打上パーティ、15人
 合計140人

4.反省点と今後の対応:
(1) 全般的にはいい企画だった。特に作家同士の交流ができ、宇高の距離が近づいた。
(2) 運営上として、WEBによる情報発信、広報、スタッフ数等の問題があった。
(3) 開会前日から当日にかけて台風に襲われたが、その対応については必ずしも万全ではなかった。
(4) イベントへの参加が得られる工夫や楽しく観るための工夫が必要と感じた。
(5) 継続することが大事であり、次年度以降も何らかの方法で続けて開催することを検討する。

開会式&アーティストトーク(勝木繁昌)於玉野市文化会館バウハウス
作品(勝木繁昌作)と鑑賞者
アーティストトーク(清水直人氏)
作品(清水直人作)
アーティストトーク(加藤直樹氏&森美樹氏)
作品(加藤直樹作)
作品(森美樹作)
アーティストトーク(あきやましんご氏)
作品(あきやましんご作)
アーティストトーク(千葉尚美&凡土氏)
作品(千葉尚美作)
作品(凡土作)
車座談義於駅東創庫ギャラリー
クロージングパーティ於駅東創庫

2011年12月27日火曜日

「玉野で狂言を楽しむ」宇野公演の開催結果

12月27日

芸術フェスタ2011活動結果総括の第2弾として、今年3年目を迎えた狂言講座の活動について総括する。
先ずは、宇野公演の観客から頂いたアンケート結果を報告する。

玉野みなと芸術フェスタ2011最後のイベント「たまので狂言を楽しむ」は、11月26日(土)、玉野市文化会館で開催された。約60人の観客は、身近に観ることの出来る狂言の面白さと楽しさに大笑いされていた。
3年目を迎えた玉野の狂言公演であるが、今年から新作狂言だけでなく古典にも挑戦し、狂言の奥の深さを体験することとした。古典を観た観客の反応も、やはり古典の良さを感じておられるようであった。
狂言公演の目的は、塩田王・野﨑武左衛門の功績、玉野市に残る製塩文化や歴史遺産を、武左衛門も愛した「狂言」という日本古来の伝統芸能で市民に伝えることであり、地域に根ざした狂言が玉野市の新たな文化として定着することであった。

本アンケートの狙いは、公演を観ていただいた観客の皆さんにその評価を仰ぐとともに、上記目的に賛同できるものかどうか、又狂言講座への参加希望についても確認し、狂言に対する興味の深さを調査することである。
結果的には、古典狂言にも大いに興味を抱いていただき、古典のレパートリーをもっと増やしてほしいという要望が強く、我々が目指した方向が肯定された形となった。又、玉野の歴史や文化を狂言で残してゆくことに対する賛同者も相当にあることが分かった。しかし、講座への自らの参加については、今回、消極的な方が大部分であった。

今後の方針については、本アンケートの結果も参考にしながら、企画検討会及び実行委員会の中での充分な議論並びに講座生の意向などを踏まえて策定してゆくこととしたい。以下、設問ごとに各回答結果を考察する。

A. 住まい(どの地域から来られたのかを確認)
 会場が文化会館ということから、宇野・築港地区からの観客がどれだけ居られるかを尋ねたが、玉野市全域から来られていることが分かった。今回は、市外からの観客は全く無かった。入場無料としたことから、誘いを掛けるとか広報が不十分になったのかもしれない。

B. 観覧回数(これまで何回観られたのかを確認)
 2回目が最大で43%、次に初めてが38%であり、複数回観られた方は62%だった。複数観覧者の大多数は、玉野狂言のリピーターであろうと思われるので、その方たちに今後ともリピーターであり続けていただけるような努力が欠かせないことと考える。

C. 公演を観ての感想(全般的な印象を確認)
 分かりやすく親しめたが54%、大変面白く大いに笑えたが45%を占め、両者を合わせて99%もの多数が、狂言を面白く親しみやすいものに感じていただいた。逆に、期待したほど楽しくない方は0だった。これは、狂言を今後もずっと続けて欲しいと言う、鑑賞者の意思の現れであろうと考える。

D. 小名狂言「口真似」をどう感じたか
 古典のレパートリーを増やして欲しいが68%、古典は面白いが49%を占めたことは、古典狂言の面白いことが認識されたものである。僅かだが、古典だけの公演を観たいとの声もあった。
狂言の底の深さを学ぶためにも講座生のレベルアップを図るためにも、今後とも古典狂言のレパートリーを増やして行くべきであろう。

E. 新作狂言「野﨑武左衛門」をどう感じたか
 玉野の歴史や伝説を伝えることは良いが57%、新作狂言も面白いが49%あった。又、武左衛門の功績が良く分かると、以前より面白かったにも多くの方が賛同されていた。これらの結果から言えることは、これからも「野﨑武左衛門」を地域の狂言として継続すべきであるし、新たな玉野の創作狂言を作ることも検討すべきと考える。

F. プロ公演の有無への意見
 プロの公演を観たいが51%あった。一方、プロの公演がなくてもよいと、講座生だけの公演でも入場料を取ってよいが同数で32%あった。やはり本物の狂言を観たいというのが本音かもしれない。
又、講座生だけだから無料にするというのは、講座生の努力や演技を過小評価したものであり、入場者数が寧ろ少なくなることにもつながると言えるのかもしれない。今後よく検討すべき課題である。"

G. 参加希望は?(狂言の会への参加の意向を確認)
 狂言は観るだけでよいが78%を占め、入りたいとは思うけどという消極的参加希望が僅か11%と、狂言の会への参加希望は、今回の調査では殆んどなかった。今後、会への参加メンバーを増やすためには、個々に当たって行くしかないと考える。

H. 意見や希望(回答結果のP.4参照)

I-1. 年齢(どのような年齢層が多いのかを確認)
 60歳代54%、70歳代27%、80歳代8%、50歳代5%の順で、40歳代以下の回答者は0だった。

I-2. 性別(入場者の男女比率を確認)
 女性65%、男性30%だった。

I-3. 連絡先(差し支えない方に記載していただいた)
 27%の方に氏名/住所の記名があった。

(意見及び希望)
1. 出演者の努力に感激している。大変上達している。
2. 玉野で狂言を楽しむ会を何度でもして下さい。
3. 関係者の方は、当初は大変ご苦労があったと思われ感謝しております。山田地区の地元でもあり、斉藤会長以下清水先生にも熱心に牽引していただき、地元やまだの人も野﨑武左衛門及び浜子唄もよく取り込まれ、玉野市の古からの塩産業の歴史も見ると共に、先輩の偉業にも敬意を表します。山田快上「しおさい」の改築の関係者として大変嬉しく,今後も玉野市の活性化の一助としてご苦労とは察しますが、お願い申し上げます。
4. 笑いの練習も良かった。昨年と同じだが、今回は楽しかった。
5. 能に比べ狂言は解りやすく親しみやすい。たのしく語りにも入り込めます。テレビでの鑑賞よりも身近に思いました。又の機会をたのしみに致します。
6. Sさん、Tさん、本日はおめでとうございました。定年以降の生きざまとして地域の活性化等に取り組んでおられお元気そうで何よりです。小生も完全リタイヤが近いですが、まだ見出せていません。本日の狂言、楽しく鑑賞させていただきました。所作、声量素晴らしかったです。
7. 段々上手になっていらっしゃいます。
8. 玉爺が出てしゃべる時と前に出ている人との声がダブって聞きとりにくいところがあった。講座生、それぞれよく練習し、声も良くとおって良かったと思います。
9. 狂言独特の歩き方、発声、どれも良く練習されていると思いました。野﨑武左衛門の業績を狂言で表現するというのも山田らしい文化だと思います。これからもますますご活躍されますよう願っています。私も玉野観光ボランティアガイドをしています。山田の町ますます好きになりました。ガイドのときに、皆様のこと是非話をしてみたいと思います。
10. 山田中学生を中心にした狂言を見たい!!
11. 大変楽しく見させていただきました。又見たいです。今後も続けて活動して下さるよう期待しています。
12. とても感動いたしました。ありがとうございました。

今年は、5月に開催した児島迨暇堂公演において、倉敷市長を始め児島の方々に狂言という形で武左衛門の功績をお伝えすることができ、非常に意義ある年だった。その後、古典狂言にも挑戦し、僅かではあるが、講座生の芸の幅を広げることができたと思う。
来年度以降の狂言の進め方については、上記アンケート結果を参考にしながら検討してゆくこととするが、古典の勉強の継続と新たな創作狂言の制作が欠かせないと思うし、講座生の確保も図る必要があると考える。

(写真説明)
会場の玉野市文化会館バウハウスで、舞台&客席配置準備中の講座生
第1部の古典狂言「口真似」の一場面
第2部新作狂言「野﨑武左衛門」の一場面、福の神を呼び出すために豆を撒いている。
終了後、スタッフとともに記念写真

2011年12月26日月曜日

タマノクルーズ2011「たまの西海道」結果報告

12月26日

11月3日以来2ヶ月近くも投稿が途絶えていたが、気が付けば間もなく今年も終わりを迎えようとしている。

その後、11月12日(土)~13日(日)には玉野みなと芸術フェスタ2011の山田地区イベントである「たまの東街道」を開催、11月26日(土)には「玉野で狂言を楽しむ」の宇野公演を実施したが、それらイベントの開催予告や結果報告もできず仕舞いで、とうとう今日に至った。
遅ればせながら、年末に当たり、それらの総括をしておきたい。

先ず今日は、タマノクルーズ2011「たまの西海道」の結果について報告する。

10月17日(月)に実施した「タマノクルーズ2011」は、曇り空の中、55名の乗船客、5名のスタッフの60名を乗せ、予定通り9時30分に県営宇野港第7桟橋を出港。観光ボランティアガイド・大前さんの軽快な案内で西海道の景観を楽しみながら渋川港に向かった。
宇野港を出ると直ぐに獺越の浜、藤井海岸、三井造船沖を通る。深井の由良染料、向日比、日比港を観た後南下、大槌島を周回。初めて観る大槌の南側にも感心しきりである。瀬戸内海もこの辺りになるとさすがに波が高い。船足を速めた「からこと丸」は、王子が岳を眺めながら渋川港に着岸、上陸。海岸のゴミ拾いをしながら玉野海洋博物館へ。玉野が誇る白砂青松の渋川海岸のゴミ拾いは、環境美化と社会参加の意識付けに役立だったことであろう。珍しい海洋生物を見学した後、近くのダイヤモンド瀬戸内マリンホテルで待望のバイキングランチ。美味しい昼食に全員大満足。次の進水見学のためやや早めの昼食を終え再乗船、三井造船へと向かう。造船所では、案内担当者2名が乗船、勇壮な進水の説明と工場の案内をしていただいた。その後、直島諸島を見学、無事宇野港に着岸することができた。乗船客皆さんのスタッフへの労いの拍手は、このクルーズに大満足された証でもあった。
お願いしたアンケートは、45枚が回収された。回収率(5人の幼児を除き)90%である。アンケートの集計結果でも、以下に示す通り大多数の人が満足されていたことが判明した。結果の概要を以下に纏める。

A. 乗船客の住まい
全回答者の56%が「日比・渋川以外の玉野市民」で、次が岡山市民31%だった。今回岡山からの参加が多かったのは、新聞報道の効果であろう。

B. イベントを知った媒体
「広報たまの」が47%と約半数で、次に「人に聞いて」33%、「チラシ」9%、「新聞記事」7%の順であった。市の広報誌への掲載及び「人に聞いて」つまりクチコミの重要性の極めて高いことが、改めて明確になった。

C. 良かったイベント
全てのイベントに満足感を示された回答となっていたが、特に「海上からの進水見学」、「船内での案内」、「バイキングランチ」の3つに対しては非常に高い満足感を示されていた。続いて、「渋川マリン水族館見学」、「三井造船工場見学」、「西部諸島の回遊」、「直島諸島の回遊」、「渋川海岸のゴミ拾い」の順であった。特に良かったイベントを見ると、「進水見学」、「工場見学」、「バイキングランチ」の順であり、非日常の体験と好奇心を呼び覚ますイベントが好まれるようである。「昼食」に対しては、もう少し時間が欲しかったと言う意見が出されていた。

D. クルーズ資料は役に立ったか
「大いに」が73%、「少し」が24%、計97%の方が観光と学びのために役に立ったとの評価だった。知的好奇心を満足させる内容と、今回写真入りとしたこともあって、評価が高くなったのであろう。

E. 全体的な感じ
「大変満足した」が62%、「やや満足した」が36%、合計98%が「満足」され、今回のクルーズも大成功だったと言っていいのではないだろうか。

F. 今後の開催希望
87%の方が「来年も希望する」との回答であり、玉野市の名物クルーズとして是非とも継続しなければならないと考える。

G. 今後の希望コース
西海道が47%、東海道が36%とやや西回りの希望が多かった。今回初参加の方には、東海道のイメージが沸かないために分からないという答も見られた。

H. 意見・要望・・・下記参照

I. 乗船者の年齢(名簿による)、職業及び性別
年齢は、60歳台以上が65%を占めていた。30歳台以下は22%で、内20歳台は0、10歳代以下9%は全て幼児だった。働き盛りの年齢層が少なかったのは、進水見学を組み込むために開催日を月曜にしたことが影響していると思われる。職業は、主婦が半数を占め、続いて、無職、自営業、会社員の順で、労働日にも比較的時間の取れやすい層が多かった。性別では73%が女性であった。

(意見・要望)
1.今後も宜しく.有難う御座いました。
2.貴重な体験をさせていただきありがとうごいました。幼児連れでの参加でしたので、同行の皆様に多少ご迷惑もあったかと思いますが、子供もとても楽しい1日だったようです。又機会がありましたら参加してみたいです。
3.玉野にいても知らないことばかりなので、とても良かったです。写真を送ってください。
4.楽しい1日でした。写真希望。
5.本当に楽しく良い体験ができました。写真希望
6.西と東を交互にすれば良いかな。
7.お世話してくださった方々ありがとうございました。昼食の時間をもう少しあったらいいなと思いました。
8.マリンホテルでもう少し時間がほしかったです。写真3枚欲しいです。
9.水族館、ランチの時間が短かったです。写真希望します。
10.進水作業、興味深かったです。
11.前も良かったけど、今回は良かったです。私も玉野生まれの玉野っ子ですが、まだまだ知らない所が多いので、色々の名所の企画を立てて多く人が参加できるようにしてください。本日は楽しいクルーズありがとうございました。スタッフの皆様ありがとうございました。
12.今日乗船された方々、名前の胸章を付けた方が良いと思います。記念写真希望
13.ホテルの食事、12:35ホテル出発と言われましたが、12:45乗船完了の指示があった方がよかったと思います。
14.生まれて初めての進水見学が出来、感動いたしました。
15.造船所に40年以上勤めていますが、海から見た進水式は初めてです。良い企画だったと思います。
写真よろしくお願いします。
16.海から玉野を案内していただけることは嬉しいことでした。詳しい島の案内資料の準備も有難いことでした。ありがとうございました。進水式を初めて見ました。海に入った時感動でした。造船所の説明も詳しく良かったです。
17.知らないことを沢山ありがとうございました。進水はすごかったです。又企画をお願いします。
18.記念写真希望
19.土・日に実施していただけると、小学生の子も連れて来れます。玉野に住んでいながら、玉野のことが全然わからなかったが、参加して色々勉強になりました。
20.工場見学は、船から降りてもっと詳しく見たかった。
21.もっと工場見学をゆっくりやってほしかったです。進水式のくす玉が見たかったです。
22.進水作業、さらにさらに近くで見学したかったです。三井造船の方のご説明もていねいで分かりやすかったです。又、このような企画に参加したいです。
23.初めての体験で楽しいひとときでした。お腹も一杯になり楽しかったです。造船工場見学、思いもよらず良かったです。
24.記念集合写真の送付方お願いします。
25.又、色んなイベントに参加したい。
26.写真お願い致します。(5名)

尚、アンケートに書かれていた「写真の希望」については、後日全員に乗船のお礼状とともに記念写真を送付した。

(写真説明)
宇野港を出港した「からこと丸2002」の船尾から航跡を見詰める子どもたち
船内からは、テクノスーパーライナー「小笠原」を間近に見ることが出来、日比にある三井金属日比製煉所も観ることが出来る。
渋川海岸では、ゴミ拾いを行い、環境美化ができたことに大満足。
渋川マリン水族館では、海の生き物たちと仲良くでき、子ども達は大喜び。
ダイヤモンド瀬戸内マリンホテルのバイキングランチは超豪華!
船台から滑り降りる56BCの勇壮な姿に乗船客は大歓声でした。
無事宇野港に帰り、皆さんで記念写真。

来年のクルーズも、再度「西海道」がいいかなと思った今回のクルーズでした。

2011年11月3日木曜日

タマノクルーズ-たまの西海道-案内資料(8)

11月3日(木)文化の日

35件まで紹介してきたクルーズ案内資料の紹介が暫く滞っていたし、次のイベント紹介も始めたいので、今日は残り10件を一括紹介することとしたい。

36.おもちゃ王国
1995年、玉野市王子が岳に在ったテーマパーク『王子ファンシーランド』の跡地を買い上げて設立された、「おもちゃの王国」即ち「世界のあらゆるおもちゃを揃えた『玩具博物館』を兼ねた遊園地」である。懐かしのおもちゃから最新のおもちゃまで世代を超えて楽しむことができ、アトラクションも数多く、子どもたちの人気が高い。 おもちゃ王国は、その後全国に展開し、軽井沢、東条湖、城島、南知多等にも設立されている。

37.瀬戸大橋カントリークラブ(18ホール/6,522ヤード/パー72)
玉野市のまちおこしを目的に、市民に親しまれるゴルフ場として平成元年3月に開場。そのため、格式ばった感じはなくフレンドリーな雰囲気で、気軽にプレーを楽しむことができる。瀬戸内海に面した県内で最南端に位置するコースであり、夏は涼しく、冬は暖かくプレーできる。
実は、サッキー自身もこのゴルフ場のメンバーであり、月一ゴルフはこのゴルフ場での月例杯参加である。中々100が切れずにフーフー言っている。

38.渋川動物公園
およそ3万坪の広大な園内は、来園者用の通路を舗装せず土道のままにするなど、開発を最小限に止め自然の野山の姿を残しており、来園者が動物に触れあいながら季節感を堪能することができる場を提供している。又、乗馬体験や犬の散歩体験等が実施されている。さらに園内では動物だけでなく、さくらんぼや梅、プルーン、柿など有機無農薬の果樹を栽培しており、来園者に販売されている。
1989年オープン。海抜150m、遊歩道の全長距離約4km。

39.王子が岳(234.4m)
渋川海岸に隣接し巨岩・奇岩が重なり
合うダイナミックな眺めに加え、山頂からは瀬戸大橋の全景、瀬戸内海の多島美、対岸の四国連山のパノラマが一望でき、人によっては日本一の景観ともいう。瀬戸内海国立公園に指定されており、「おじさん岩」「にこにこ岩」「ひつじ岩」等、変わった形の岩がたくさんある。パラグライダーのフライトポイントもありスカイスポーツも盛ん。ハイキングに最適であり、渋川港近くからの遊歩道がお勧め。頂上付近に無料駐車場が3カ所ある。(200台) 王子が岳には昔、百済姫の子どもといわれる8人の王子が住んでいた。柴坂王子、坂手王子、筈割王子、峰の王子、日の王子、錫投王子、谷の王子、瓶割王子の名が石や神社に残っており、ここを王子が岳というようになった。

40.王子窯備前焼
王子が岳の山頂で備前焼の陶芸体験ができる。陶芸作家・浜松昭夫さんの工房で、手びねりやろくろを使って形を作る。成形した作品は、登り窯で焼きあげ、後日完成した状態で送ってもらえる。 浜松さんは、全国の神社仏閣を歩き、狛犬の制作を続けていることで有名な作家である。現在は、仏像などの作品にも挑戦されており、その創作意欲は衰えることがない。
浜松さんは、芸術フェスタ2009「ウノイッチョウダイ展」において、「江戸と備前の狛犬展」を展示してくれた。

41.直島
高松市の北に約13km、玉野市の南に約3kmの位置にあり、直島を中心とした大小27島の島々で構成される。直島の南側は緑豊かな海岸となっており、瀬戸内海国立公園に指定されている。保元の乱で敗れた崇徳上皇が讃岐国へ流される際に一旦四国上陸を拒否され、3年間を直島の泊ヶ浦(積浦)で過ごしたとされる。直島という島名は、島民の純朴さ、素直さを賞賛して上皇が命名したという言い伝えがある。 島を文化的な場所にしたいという意向で町長・三宅親連と福武書店の創業者・福武哲彦との間で意見が一致、急逝した福武哲彦の跡を継いだ福武總一郎が1987年に一帯の土地を購入。福武總一郎は「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための「直島文化村構想」を発表し、1992年にホテル・美術館の「ベネッセハウス」建設などへと拡大する。 当初美術館は浮き気味で町民の関心も薄かったが、島全体を使った現代美術展、本村の無人の古民家を買い上げて保存・再生し、現代美術のインスタレーションの恒久展示場とする「家プロジェクト」などを重ねることで、徐々に活動が町内の理解を得られるようになり、直島でしか見られないプロジェクトや建築は国内外からの注目も集めるようになった。 アーティストの宮島達男は、家プロジェクト第1弾の「角屋」を創るに当たって町民125人を公募し、作品を構成する125個のディジタル・カウンターの明滅速度を一人一人にセッティングしてもらい、地域住民参加という手法を取ることで、現代アートという異質なものが保守的な土地に入って来ることに対する町民の反感、抵抗を払拭した。 平成16年(2004)には地中美術館、平成22年(2010)には瀬戸内国際芸術祭が開催され、李禹煥(リーウーファン)美術館が開館、本村にもカフェや民宿等ができるなど徐々に変化しつつある。

42.向島(0.74Km2、周囲4.7Km、標高80m)
直島港の向い側150mの海上にあり、直島諸島の中で最も直島に近い。先土器時代から弥生時代にかけての遺物が発見され、製塩遺跡や竪穴古墳もある。 現在、15人程が暮らしており、島には向島集会所というゲストハウスがある。又、世界的に有名なアーティスト/川俣正が向島にてプロジェクトを進行中である。
迎島集会所のURL http://mukaejima.m15.coreserver.jp/

43.京の上﨟島(キョウノジョロウジマ)のはなし(香川県直島町の無人島)
昔むかし、三宅の祖加茂の庄に、東郷太郎、加茂二郎、西郷太郎(諸説ある)という3人の兄弟があった。長兄の東郷太郎は、都で結婚したため妻は都におり、弟の加茂二郎は田舎で結婚して妻を田舎に置いていたが、この兄弟は同じ仕事を兄弟が交代で務めていたのである。従って、兄が田舎に下るときその妻は都に残り、弟が都にのぼるときその妻は田舎に残っていた。このため妻は、夫々の夫を慕いながらも次第に夫への疑いを深め、しかも二人ながら夫に会うことができなかった。思い余った二人の妻は、お互いの不幸を苦にして直島と田井の間の海に身を投げて死んだのである。里人は、これを哀れんで八浜の奥に光眼寺という一寺を建立し、丈六の観音像を安置してその菩提を弔い、女の形をした石をこの島の海辺に建てた。 この話が拡がり、ここを通る上り下りの船、不知火の築紫の人までこの島を京の女郎・鄙(ヒナ)の女郎と言うようになったというものである。(玉野市史続編)他にも悲恋悲話が伝わるこの島に現在は灯台が建っている。

44.五人ぞわい
宇野港の沖合の鳥島と京の上﨟島(ジョウロウジマ)の間にある岩礁が「五人ぞわい」と呼ばれている。潮が満ちて来ると海中に隠れるが、潮が引くと点々と黒い岩が顔を出す。ごく最近までは漁師も気味悪がって近づかなかったという。何故かというと次の伝説があるからである。 いつのころか時代がはっきりしないが、備後の鞆(とも-福山市-)の回船問屋に五人の盲人が訪れ、大阪行きの船便を待っていた。いずれも目こそ見えないが、服装も立派だし人柄も上品そうで、裕福そうに見えた。「座頭さん、どちらまでお出でですか」と聞いてみると、「私達は、何れも検校(ケンギョウ)の位を頂くため、都に上っているのです」という。その話を聞いていた一人の船頭が「座頭さん、私が大阪まで送りましょうか。船賃を奮発して下されば、今からでも送りますぜ。なあに、帰り船は大阪から荷物を積んでくることになっているんだ」という。五人の座頭にとっては、渡りに舟である。五人は喜んでこの船頭の船に乗りこみ早速鞆の港を出発、船は順風に帆をあげて東に向かって走り始めた。どの位走ったか、やがて日も暮れてきた。その内、風も凪いだのか船を操る櫓の音が静かに聞えてきた。船が揺れる度に水の音がした。船底に水が溜まったのであろう。その時、「座頭さん、すまんが船のアカを換えるから、この先の島に上がって待っていてくれんか」。座頭は素直に頷き、船頭の 手にひかれて島に上陸した。島に上がった5人の座頭は静かに打ち寄せる波の音を楽しんでいたが、いつまで待っても船頭の迎えは来ない。「船頭さんまだか」と声をかけてみたが、返事がない。「船頭さん、船頭さん。」と大声で呼んでいる内に潮が足元を濡らし始めた。騙されたと知った五人は声を限りに助けを求めたが、辺りにはもう船の姿はない。次第に満ちてくる水は足から腹へ、腹から胸へと高くなり、お互いに離れまいとして抱き合った五人の座頭はついに海中に没して、海の藻屑と消えたのである。 この辺りでは、雨の夜などにこの海を通ると、海の底から話し声が聞こえすすり泣く声が聞こえるといって漁師たちは近寄らないし、ときには、三つ四つ海面に黒々と現われた岩の上を火の玉がぐるぐると飛びまわることがあるという。又一説には、この五人の座頭のうち一人だけは田井の海岸に打ち上げられ、親切な村人の介抱によって生き返った。やがて、高野山に登って四人の墓を建て、その菩提を弔ったという。かつて、直島の漁師がこのそわいに潜ってみると岩の間に無数の白骨が折り重なってあったとか、気味の悪い噂もある。

45.喜兵衛島と師楽式土器製塩(香川県直島町の無人島)
近藤義郎岡山大名誉教授を中心とする調査団によって、喜兵衛島が昭和29年(1954)3月から同41年(1966)まで断続的に調査された。その結果、浜に散乱、又土器層をなすなどの大量の土器片は、昭和の初めに邑久郡牛窓町(現瀬戸内市)師楽遺跡の発掘調査で正体不明なままに命名された師楽式土器であり、製塩に使用された土器であると結論づけた。 喜兵衛島では、主に6世紀から7世紀初頭の土器製塩が調査された。師楽式土器出土地は、市内南岸の各地にあるが、ことに番田大入崎の南側、山田品の作、原、出崎海岸の船越、灰出、胡磨の浦、田井小学校付近、日の出、高辺、三井造船所構内、深井、宮田山麓などに多く発見される。

8回にわたって紹介したクルーズ案内資料は、主に下記に示す文献を参照して作成したが、写真の大部分は、今回クルーズ資料作成のためにサッキー自身が現地に赴いて撮ったものである。
今回作成したクルーズ案内資料は、クルーズ乗船者全員に紙データとして配布したが、BLOGに掲載することによって、より多くの読者諸兄の参考になれば望外の喜びである。

〈参考文献・資料〉
玉野市史 玉野市史続編 玉野の文化財 玉野市遺跡一覧表 広報たまの 玉野の山歩き
三井造船株式会社75年史 玉野ロマン夜塾資料