2012年2月17日金曜日

「玉野みなと芸術フェスタ2012企画検討会」(第2回)

2月8日

今回から、新たなメンバーとして小坂さんに参加いただくこととなった。
これまでも、狂言の宇野公演を行ったときの司会などでご活躍いただいた方だが、アイディア豊かな方なので、企画段階から参加いただけると、芸フェスの内容がよりレベルアップすることだろう。
議論の概要を以下に報告する。

1.報告事項
(1) ずくりワークショップ
 a. 趣旨:新しい文化を地域に根付かせている方々をお招きし、夫々の先達の経験を手本としてこの地域内に共有すること。さらにその方々及び参加者同士の横断的交流を図ること。
 b. 手段・目標:講演会ではなくワークショップを行うことで、カルチャークリエイティブな事例を知りそこでの問題に向き合い、繰り返し体験することで柔軟な思考を手に入れこの地域に反映すること。
 c. 開催:2カ月おきに年6回、第1回を3/2(金)18:30~21:00、仏生山温泉/岡昇平氏(1,500円)。
2回目以降も、魅力的な先達を招聘予定。

(2) 北川フラム氏打合せ
 a. 日程:2/2(木)、市と北川氏の会議に森&清水が参加。
 b. 打合せ概要:
 (a) 主たる打合せ内容は、瀬戸内国際芸術祭2013に対する玉野市の体制について。
 (b) 北川氏の狙い:作品展示より、地域がどう変わるか、どう交流できるかに重きを置くこと。
 (c) 芸フェスの取組説明と反応:北川氏は、芸フェスの話より狂言の話に食いついてきた。国際芸術祭にとっては地元作家の展覧会より狂言の方が効果的か。

(3) 近く開催予定のイベント紹介
 a. 野﨑家のお雛様展:1/31~4/1於野﨑家旧宅(500円)
 b. 野﨑家コレクション:2/24~4/8於岡山県立美術館(無料)
 c. 香川県文化芸術新人賞受賞作家展:2/18~3/4於香川県立ミュージアム(無料)
 d. 講演会「不幸になるものの考え方」:3/3(土)13:30~於玉野産業会館3F(講師/土屋賢二)(無料)
 e. 第3回瀬戸内海フォーラム:3/3(土)13:00~15:00(講師/国交省港湾局長・山縣宣彦氏、瀬戸芸総合ディレクター・北川フラム氏)、事前の参加申込必要(無料)。

(4) 芸フェス2011参加者概数(資料配付)
 a. イベント参加者数:1,040、スタッフ数:828人、合計:1,868人

2.助成申請&年間スケジュール
(1) AAF応募:
 a. 応募概要:主催「玉野しおさい狂言会(旧狂言講座)」、企画名「塩の里の狂言風土記」で応募。
共催/芸フェス実行委&田賀屋狂言会、後援/スマイルネット玉情協ほか。
 b. 開催場所:
   会場1/牛窓を第1候補として「塩」をキーワードとした狂言公演を開催。
   会場2/山田専売局庁舎にて狂言ワークショップを実施で計画の方向。
 c. 日程:AAF開催期間6/16~10/14の間で開催。第1候補9/29~30とする。
 d. 検討事項:候補となる場所での実現性について、3月頃までにリサーチを行う。

(2) 福武教育文化振興財団(資料配付):
 a. 応募概要:地域文化創造部門として、アート/アーティスト交流プログラム「南北楽観主義-せとうち-」をテーマに、南北合同作品展、シンポジウム、瀬戸内文化の調査、瀬戸内楽観クルーズを実施し、南北相互の交流の活発化と活動のレベルアップを期待することとして応募。
 b. 開催時期&内容に対する意見:
 (a) 開催時期:原案11月上旬に対するコメントは下記。
 ・ 問題点:「岡山芸術回廊」(※)の会期が11/3~12/2であり、南北楽観主義を11/上に開催するのは困難。又、10月以前はAAFがあり、これも難しい。
 (※)「岡山芸術回廊」・・・県主催の芸術イベントで主会場は後楽園。サテライト会場として玉野地区で開催。玉野地区会場の計画をうのずくり実行委員会が行い、窓口を山田が担当している。
 ・ 解決策:年明け開催で計画する。⇒宇野展1/12~20、高松展1/26~2/3で調整する。
 (b) アーティスト・イン・レジデンス:
 ・ 上記芸術回廊の一環として、アーティスト・イン・レジデンス(ドイツ作家の滞在制作)が10/中~12/3の期間で計画されている。⇒制作場所として文化会館会議室を候補の一つとしたい意向。
 ・ 上記開催の詳細については、今後要調整。
 (c) 瀬戸内楽観クルーズ:
 ・ アートを対象としたクルーズでは、乗船客を見込めないのではないか。昨年のクルーズは、進水式と言う目玉があって乗船客を確保できたと思う。⇒昨年実施の「たまの西海道」を検討する。
 ・ 高松に向かうクルーズは、昨年実施したフェリーを使ったアートツアー方式がいいのではないか。
  ⇒クルーズ又はアートツアーの実施内容について再検討する。
 (d) その他のイベント
 ・ 子どもを対象にしたもの、参加して面白いと感じられるものなどを検討したい。
 ・ 次回、議論のテーマとする。

(3) 年間スケジュール:(資料配付)
 a. 年間スケジュール:狂言公演9月末、南北楽観主義1月中~2月初め。
 b. イベントカレンダー:観光協会のマリンフェスティバル・イン・たまの2012に、締切り2/10までに情報提供。
  ⇒上記スケジュール案で通知する。

3.今後の予定
 2/19(日)14:00~ 映画会「ひかりのおと」(文化会館1F)
 2/22(水)13:30~ 中活運営会議(商工会館4F)
 2/26(日)14:00~ 狂言講座(文化会館3F)
 3/ 2(金)18:00~ うのずくりワークショップ(文化会館1F)
 3/ 3(土)13:00~ 第3回瀬戸内フォーラム(山形宣彦氏、北川フラム氏)(マリンホテル2F)
 3/ 3(土)13:30~ 土屋賢二氏講演会「不幸になるものの考え方」(産業会館3F)
 3/11(日)14:00~ 狂言講座(文化会館3F)
 3/14(水)18:30~ 第3回企画検討会(文化会館2F)

以下、既に始まった或いはこれから始まるイベントチラシを紹介する。

2012年2月16日木曜日

ずくりワークショップの開催(ご案内)

2月16日

うのずくり実行委員会では、今年3月から1年間に亘り、隔月に 6回連続の「ずくりワークショップ」を開催する運びとなった。
このワークショップは、岡山、香川、大阪、東京等で様々な「作り」活動を 実践されている方々をお招きして、その方々の経験やノウハウを学び、 情報を共有し、コミュニケーションを深めることにより、多面的で柔軟な 思考を手に入れ、これまで見えなかった問題に気付き、新たな町づくり に資することを目的としている。
第1回は、高松仏生山温泉(http://busshozan.com/ )いる岡昇平さんを講師に招いている。
第2回目は、東京仕事百貨(http://shigoto100.com/ )中村健太さんに来ていただくことになっている。
第3回目以降も、その道の達人に来ていただけるよう、交渉中である。

何れも、カルチャークリエイティブな「作り」を実践されている方々である。 必ず楽しいワークショップとなり、今後の宇野の町づくりに有益な体験 となることだろう。特に日頃、町づくりを実践している或いは興味をお持ちの方々には、 是非とも参加されることをお勧めする。

開催日程は、下記の通り。
1.日 時:3月2日(金)18:30~21:00(第2回は5/12(土) の予定)
2.場 所:玉野市文化会館1Fホール
3.定 員:30名(先着順)
4.参加費:(前売券)1,500円、(当日券)2,000円
  (お得な6回通し券)7,000円
5.申込先:うのずくり実行委員長/森さん TEL:0863-31-1388
  Eメール:unozukuri@gmail.com
  URL:www.unozukuri.com

詳しくは、下記広報チラシを参照されたい。

ここでちょっと、仏生山温泉について紹介したい。
このワークショップを計画するために、1月19日、うのずくり実行委員長の森さんを中心に5名のメンバーが仏生山温泉を訪ねた。
この温泉は、内湯と露天風呂(ヒノキ、ヒバ)があり、すべての浴槽が源泉かけ流しである。泉質は、ナトリウム炭酸水素塩・塩化物泉(療養泉)であり、旧温泉名での泉質は美人の湯といわれている重曹泉である。つるつるとした感触が肌に心地いい。入浴料は600円と安いし、浸かりに行って良かったと思える温泉だ。
この温泉は、岡さんの親父さんが10年程前に個人で掘り始め、見事掘り当てられたそうだ。
東京の設計事務所みかんぐみに勤務していた岡さんは、地元・高松に戻り、この温泉を設計し、今は番台に立ちながら、仏生山まちぐるみ旅館を作るプロジェクトの代表として頑張っておられる。
仏生山には、法然寺という大きな寺院がある。昨年大きな五重塔も建ち、凄い立派な寺だった。

2012年2月15日水曜日

「玉野みなと芸術フェスタ2012」企画検討会(第1回)

1月11日

今年10年目を迎える芸術フェスタの企画検討会がこの日に行われた。
今回から狂言講座の成山さんなど新しいメンバーが入り、10名の参加者があった。この日は、新年ということもあり「玉野みなと芸術フェスタ2012」の基本方針について議論した。特に応募しようとしている助成金の申請が1月末と言うこともあって、その内容について多くの時間を割いた。
一つはアサヒ・アート・フェスティバルであり、もう一つは福武教育文化振興財団である。
以下、その議論の概要を、やや遅ればせながらこのBLOGでも報告する。

1.アサヒ・アート・フェスティバル(以下AAF)応募:
a. AAF募集要項(抜粋)
 11回目を迎える「AAF2012」では、このフェスティバルを一緒に作りあげていく企画を募集している。
AAF は、各地のアートプロジェクトの発展をサポートし、加速させるような「触媒」、又AAF自体もその成長や発見を通して変化する「運動体」を目指す。AAF2012でも、参加プロジェクト間にネットワークを構築し、情報共有やアイディアやノウハウの交換、交流の場を作り出す。全国各地で新たなアートプロジェクトを企画している市民グループやアートNPOの応募を期待している。

(a) 対象となる企画(アートプロジェクト)
・ 地域資源(自然環境/建物・町並み/歴史など)を再発見し、その魅力を引き出すとともに、新たな価値を創造し付与するもの。
・ 参加者間のコミュニケーションを促すなど、創造のプロセスを重視し、社会におけるアートの存在を革新するもの。
・ 独創的で先駆的なプロジェクトで、音楽/美術/演劇/ダンス/映像などのジャンルを問わず、新しい表現や手法、参加のあり方を創り出すもの。及び従来の芸術ジャンルを横断し、超えようとするもの。
・ 各地のアートプロジェクトと積極的に交流することで、自らのプロジェクトをさらに豊かにし、世界的な視野をもってアジアを含むAAFネットワークをともに創り上げていこうとするもの 。

(b) 応募資格:市民グループ、アートNPO又はこれに準ずる任意団体
・ 営利を目的としない芸術文化活動を行っている組織であれば、法人格の有無は問わない。
・ 何らかのアート活動を目的に組織される実行委員会や、芸術文化を含め地域で活動している市民グループなど
・ 複数の団体が連携して、一つの企画をご応募いただくこともできる。
 ※ この公募は、たんなる助成金プログラムではない。
 ※ AAFの推進する市民グループ、アートNPOなどの全国ネットワークに主体的に参加してくれる企画を歓迎する。

b. 応募内容案:
(a) 企画案概要
・ 基本コンセプト:コミュニティ活動との連携が重要であることから、山田地区で始まった「塩」の新作狂言に焦点を絞る。
・ 企画の目的、趣旨:「塩」をキーワードに各都市で狂言の公演を行い、新たなコミュニティの構築の過程を追求、価値創出の可能性を探る。各地域で得られる経験や新たな価値を地元に還元する。
・ 基本スケジュール:AAF活動期間の6~10月を基本に計画する。
・ 確認事項:昨年まで開催してきた「たまの東街道」のイベントは、原則として今年は実施しない。

(b) 意見
・ 主催・共催:「玉野狂言講座」を主催、「芸術フェスタ実行委」を共催として応募してはどうか。
・ 主催者:「・・・講座」という名称は団体名としてはどうか?「・・・狂言会」というような名称が望ましい。
⇒ 名称案:「玉野しおさい狂言会」はどうか?⇒提案として採用する。
⇒ 採用理由:「しおさい」は、専売局庁舎の現名称にもなっており、狂言講座発祥の山田地区を連想させる。「しお」が入っているので「塩」を扱う団体名として相応しい。市外&県外にも情報発信することを意識するなら「玉野」は外せない。
⇒ 名称決定:「玉野狂言講座」に最終決定してもらうべく、この会議では提案とする。
 ※ その後、1月22日に開催した狂言講座で、この名称「玉野しおさい狂言会」が承認された。
・ 狂言の台本:「野﨑武左衛門」や「玉野の歴史物」に拘らず、今後は「塩」や「浜子」等、塩田・製塩・労働者などに纏わる創作狂言を、新たに加えてゆくようにする。
・ 応募書類作成・提出:提出された企画案を元に、田賀屋狂言会とも相談して作成し、期限の1月末までに提出する。

2. 南北楽観主義-せとうち-」
a. 基本方針:宇野地区でのアート活動として、昨年に続き「南北楽観主義」を開催する。

b. 開催の意義に対する意見:
(a) 南北関係の経緯と反省:
・ 一昨年の瀬戸内国際芸術祭(以下「瀬戸芸」)では、岡山と香川両県の断絶が甚だしかった。
・ 昨年、芸フェス初の企画として、宇野-高松の交流アート展「南北楽観主義-せとうち-」を開催、反省すべき点もあったが、全体としては比較的評価も高かったし、成功を収めた。
・ 昨年、県北の勝山地区で今後の南北楽観主義を意識して出展したが、勝山では地区のまちおこしが主たる目的であり、南北の交流を意識していないように思われる。
⇒ 今年も、-せとうち-を中心とした宇野-高松で開催すべきである。
・ 今年から、玉野市も「瀬戸芸」実行委員会に加わって一員になっている。
⇒ 高松との交流を行うなら、瀬戸芸を意識すべきである。

(b) せとうちを挟む両地区の関わり:
・ 「瀬戸芸」があることが大きな要因であり、「瀬戸芸」と何らかの形で連携を図るようにすべき。
・ 歩調を合わせるのはいいが、「瀬戸芸」ありきでいいのか。独自の活動としてもいいのではないか。
・ 昨年「南北楽観主義」開催の結果、あきやましんご氏がサンコアで2月に展覧会を開催するようになったのは一つの成果。

(c)今年のテーマ/開催内容
・ 具体案:展覧会/屋内又は屋外、ガイドマップ作成/アート展の告知、シンポジウム開催/交流重視等の意見が出たが、決定には至らなかった。
・今後の検討:1/27(金)18:00~、高松の千葉さん宅で高松メンバー(高松市美学芸員にも参加要請中)との交流検討会を行う。⇒参加希望者はナビゲーターに申し出る。

(d)福武財団への助成申請
・ 「南北楽観主義」を主としたテーマで申請する。提出期限1月末

3. 活動方針&年間スケジュール:
a. 活動方針:提案された基本方針案(下記)に沿って具体計画を立案する。
b. 年間スケジュール:AAF助成を頂いた前提のスケジュールであるが、基本的には提出案に従って進める。

芸フェス2012開催基本方針
<基本方針>
1.企画の内容をより充実したものとするために、今年度のイベントは、「南北楽観主義」展、新作狂言の公演、タマノクルーズの3つに絞って開催する。
2.「南北楽観主義」展は、より広範な地域との交流展を企画する。
3.新作狂言の公演は、アサヒ・アート・フェスティバルの企画コンセプト及びスケジュールに従った展開を行う。
4.タマノクルーズは、昨年に続き、西部方面へのクルーズを企画する。
5.助成金申請は、できるだけ多くの可能性を探る。
<イベント開催方針>
1.人が呼べる、人が来て楽しめる内容及びスケジュールとする。
2.メディアを最大限活用する。
3.WEB発信を行う。
4.街全体を巻き込む工夫を行う。
5.子どもたちの参加も促す。そのためにワークショップなどを企画する。

2012年1月4日水曜日

「東街道十三次探訪ラリー」の紹介人物

1月4日

昨年11月12&13日に開催した「東街道十三次探訪ラリー」で採り上げた13人のプロフィールを紹介する。ラリーの拠点となった13ヶ所に設置した看板の原稿である。
夫々の人たちは、各時代にこの地区に影響を残されたが、共通しているのは、みなよく勉強され周りの人たちにそれを教導されているということだ。
教導などということは中々できない業だが、勉強だけなら誰でもできる。今年は、より以上に勉強の年にしたいものだ。

増吽僧正(ぞううん そうじょう)
室町時代の僧侶。貞治5年(1366)に讃岐国大川郡与田村に生まれ、幼時から神童の誉が高かった。
与田寺で研鑽を重ね法印の位を得た後、高野山に上って真言の秘奥を極めた。その後、僧正の位に進んだが、後年その地位や名誉を捨て諸国の寺院の復興に尽力した。由加の蓮台寺、八浜の金剛寺、日比の観音院などを復興しては弟子に任せ、最後に山田の無動院の復興に尽くしていたが、遂に死期を予期して入定したといわれ、その入定の石棺が無動院に残されている。東児地方に於ける真言宗寺院が輪番で毎年一回開く聴聞などもこの増吽の創始にかかるものである。

高心(こうしん)
南朝の武将。高心は南北朝の時期の南朝の武将。
楠木正儀(マサナリ)に仕えたが、直島に隠棲した後西湖寺に転居、風月を友として余生を楽しむ傍ら、近在の人々を教化しこの地で没したとされる。墓は砂岩製で高さ2.4m、珍しい形式の笠塔婆として注目される。又、高心の没年の至徳は北朝の年号である。これについては諸説あるが、南北朝末期北朝の世になり南朝の人間であることを隠したためであるとか、主君の楠木正儀が北朝に帰順したことがあるためとも言われている。高心の墓は、昭和34年(1959)3月、岡山県指定重要文化財に指定された。

石川 善右衛門(いしかわ ぜんえもん)
慶長12年(1607)~寛文年(1669)。岡山藩の郡奉行・普請奉行。
父は慶長8年(1603)備前で池田利隆に召し出されて仕えたが、その後国替えで因州鳥取へ移る。備前国で生まれた善右衛門は、寛永9年(1632)再び備前岡山に帰る。寛永19年(1642)に児島郡の郡奉行になり、幕府に差し出す絵図の作成に携わる。その後普請奉行となり、明暦2年(1656)在来の池を拡張して木見の森池を造る他、長尾の天王池等、郡内の多くの溜池を築造、改修した。山田の牛石池、二子池を造り、寛文4年(1664)には大池の拡張工事を行う。文化3年(1806)瑜伽大権現の境内に頌徳碑が建つ。
 
野﨑 武左衛門(のざき ぶざえもん)
寛政1年(1789)~元治1年(1864)。倉敷市児島味野の人。塩田・新田開発者。塩田王と呼ばれる。
文政9年(1826)頃、塩田開発を決意、文政11年(1828)味野村と赤崎村に約48haの元野﨑浜を完成。続いて日比地区に11ha余の亀浜塩田を完成。その後、東児島の海浜に着目、天保12年(1841)73ha余の東野﨑浜を完成した。嘉永4年(1851)には、藩命による703ha余の福田新田開発に成功、福田新田5ケ村大庄屋役を拝命した。武左衛門の塩田経営で特筆すべきは、当作歩方制を採用し、全塩田を直営化して経営の効率を上げ、安定した塩田・耕地経営を行ったことである。元治元年(1864)死去に際して遺した「申置」7ヵ条は、家産管理と運営、地域との共生等について公利優先・衆議尊重等の指針を示した。

西井 多吉(にしい たきち)
文化12年(1815)~明治32年(1899)。倉敷市の人。児島、野﨑家家僕。
15歳から児島郡味野村の塩田王野﨑武左衛門・武吉郎の二代に67年間にわたって仕え、福田新田の開発や塩田の開発、塩田経営や小作地管理に手腕をふるい、野﨑家を西日本随一の塩田地主・耕地地主に飛躍させた。明治26年(1893)その功により緑綬褒章が下賜された。

荻野 独園(おぎの どくおん)
文政2年(1819)~明治28年(1895)。玉野市下山坂出身。
幕末~明治時代の臨済宗の高僧・京都相国寺住職。文政9年(1826)8歳にして児島郡郡村の叔父掌善寺鎮州の弟子となり、13歳の時、出家。元規と称した。天保7年(1836)18歳のとき儒学を学ぶ。同12年(1841)臨済禅を学び、安政3年(1856)心華院住職、明治2年(1869)相国寺住職に就任。明治5年(1872)、教部省が置かれ神仏合併大教院設置の折、教導職に就任。さらに大教院長、又臨済・曽洞・黄檗3宗の総管長に任じられた。明治23年(1890)72歳の時『近世禅林僧宝伝』を上梓。明治27年(1894)退いて京都東山銀閣寺に自適。昭和54年(1979)、出身地の玉野市上山坂に顕彰碑が建立された。

伊藤 立斎(いとう りっさい)
文政5年(1822)~明治18年(1855)。倉敷市玉島勇崎出身。
医者となって名声をあげた。明治初年、児島郡山田村有志の要請を受け、家を長男に譲って同村に移住、歓迎された。医業の傍ら、地元子弟に四書五経或いは習字などを教えた。明治6年(1873)、山田小学校の雇助教に任ぜられたが、翌年5月職を辞し、以後もっぱら医業に従った。「医は仁術なり」との姿勢で、村人の尊崇を受けた。墓石銘が白石宝殿場にある。

三宅 三郎(みやけ さぶろう)
天保13年(1842)~明治19年(1886)。玉野市山田出身。岡山藩の勤王家。
安政4年(1857)から山田村名主代勤となり、文久3年(1863)まで勤めた。この間、醬油醸造や穀物商、塩田経営を行った。その一方、尊皇の志が厚く、岡山藩の尊攘派指導者牧野権六郎らと交わり、慶応3年(1867)には、牧野とともに上京して大政奉還を実現する活動に協力して働いた。11月に帰藩、休養していたとき、村民による東野﨑塩田益米の増額要求が起こり、野﨑家と地元の仲介役を引き受けたりしたが、その後、岡山県の警察関係の官吏に採用され山田村を去った。墓石銘が白石宝殿場にある。                             

東 作平(ひがし さくへい)
弘化4(1847)~昭和4年(1929)。玉野市後閑の人。
東氏9代作平は、16歳で大薮・後閑の名主となり、明治維新とともに戸長となった。明治10年(1867)には鉾立・山田・胸上・波知等14ケ村の戸長を勤める。教育熱心で明治7年後閑小学校を創立、同12~20年、名誉校長として子弟の訓導に当たる。町村制施行後、郡会議員・村会議員等を勤め、又所得税調査委員・徴兵参事官・済世顧問等、政治に携わること50年、この間至誠を以て貫いた。号を西湖と称し、書画を嗜み、謡曲に堪能だった。又、若くして剣を学び、その技は近郷に聞こえていた。鳥打峠の出崎入口の所に、開鑿記念として大正5年(1916)に作平氏が建てた石標がある。

岡 武三郎(おか たけさぶろう)
安政5年(1858)~明治37年(1904)。岡山市出身。教育者。
読書を好み温知学校(岡山県師範学校の前身)を卒業して、明治8年(1875)、山田村の四十九番小学校に赴任、同13年(1880)無動院山に校舎が新築され養才小学校と改称された。同34年(1901)には同尋常小学校の校長に就任。翌年、校舎が現在の山田小学校に移転されたが、明治37年(1904)現職のまま46歳で病死した。教師在任中、山田、胸上に青年夜学会を設け、20余年毎宵出掛けた。明治45年(1912)教え子たちは、元の小学校のあった無動院山に石碑を建て、その遺徳を偲んだ。

春藤 武平(しゅんどう ぶへい)
明治17年(1884)~昭和43年(1968)。玉野市八浜出身。塩業家。
明治32年(1899)、東児高等小学校卒業後15歳で東野﨑支店に入り、製塩技術の改良に取り組む。大正7年(1918)、34歳のとき野﨑台湾塩行で天日製塩法を実地研究。昭和元年(1926)東野﨑浜に枝条架濃縮設備を設置、改良。昭和9年(1934)には独特の枝条架式濃縮装置を考案、これを入浜式塩田の周囲に構築した。昭和19年(1944)、枝条架と斜層貫流を結合した流下式試験塩田を鉾立村番田に設け、企業化に成功。昭和33年(1958)には全国の塩田が流下式に転換、過酷な重労働の軽減と生産力の飛躍を達成した。昭和23~41年、内海塩業㈱取締役社長に就任。昭和40年勲五等双光旭日章を受賞。

北畠 謙三(きたばたけ けんぞう)
明治19年(1886)~昭和43年(1968)。玉野市山田の人。
幼にして漢学を学び、一生を通じ漢詩を愛読し自らもよく作詩を楽しんだ。明治40年(1907)、岡山師範学校を卒業、大正4年(1915)から山田小学校長に赴任。日夜勤務を続け、村をあげての教育に専念した。その後、村民より推されて村長の椅子に就く。在職11年の間、村財政の確立、交通運輸の改良、教育の充実に力を注いだ。著書に『岡山県古建築図録』、『山田村誌』、『東児社寺物語』、『玉野史跡社寺案内』等がある。太田地蔵堂北側に謙三氏が揮毫の動植物の霊を祀る有情供養塚がある。

野嶋 島叟(のじま とうそう)
明治21年(1889)~昭和49年(1974)。山田の人。書家・俳人。書道の号を島叟、俳号を島人と号す。
岡山中学校を卒業後、明治42年(1909)上海の東亜同文書院に学ぶ。卒業後、満州鉄道に勤務。佐藤助骨の影響で俳句を志し、大正13年(1924)渡辺水巴に入門。書は小学校時代から村田海石に学び、同文書院時代は初唐の書家・欧陽詢、北宋の書家・米芾らの書を学ぶ。拓本の収集に努め、六朝の造像記や摩崖碑によって開眼、多くの中国の文人と交流、清朝の遺臣・書家・鄭孝胥の健筆に刺激され書作に励み、独自の書風を作った。句集に『羽族』、『霧雨』などがある。

※本資料は、2010年山田まちづくり講座が作った資料「山田・東児地区ゆかりの歴史人物」を元に、たまの東街道イベント「東街道十三次探訪ラリー」の看板用として、編集したものである。

写真は、各人物に纏わる拠点の石標や建物である。

2012年1月3日火曜日

当作歩方制の本質

1月3日

今日は初始動で、瀬戸大橋CCの新年杯に出かけた。
パートナーの一人は、HC3の超ベテランで、彼にスイングの極意を聞いてみた。
彼によると、インパクトの瞬間に手の位置がアドレスした時の状態に戻るのだという。それに対して、サッキーの場合は、体が開いてしまっている(先に回ってしまっている)から、そこで球に当てようとすると、どうしても体が球から離れてトップしてしまう傾向にあるのだという。相当に練習しないと直らないのだろうが、今年も100を切るのに苦労するのかなー、、、

さて、今日も武左衛門の話の続きだが、今日は彼の残した優れた経営手法である「当作歩方制」についてだ。初めて聞いたときには、聞きなれない言葉で何のことかサッパリ分からなかったが、平たく言うと、自作農的小作請負制度とでもいうことであろう。頑張れば頑張っただけ収益が得られ、塩田の持ち主である武左衛門にもそれ相応の収益が来るという上手い考えの制度である。

当作歩方制の本質

野﨑丹斐太郎所有ニカカル入浜塩田経営ノ組織ハ、普通自作ノ如ク所有者ニ於テ直接製塩事業ノ衝ニ当ルコトナク、別ニ製塩事業ニ関シテハ浜店ト称スル特殊ノ機関ヲ設ケ、事業ノ管理・事業用品ノ供給及各浜ノ収支計算ヲ所管セシメ製塩作業ニハ当作人ヲシテ之ニ当タラシメ、毎塩戸当作人ヨリ小作料ヲ徴シ、製塩上必要ノ材料ハ浜店ヨリ供給シ、各浜毎ニ毎年度収支ノ決算ヲ行ヒ、其損益ハ当作人之ヲ負担シ、浜店勘定ノ収支決算ノ結果ヲ野﨑本店ノ計算ニ移シ、尚各塩戸ノ純損益ハ一定ノ歩合ニヨリ地主及当作人之ヲ分担スルノ組織ナリ
(右のように指摘した経営組織が「当作歩方制」であり、野﨑家自体はその当作歩方制の本質を次のように評価していた。)
本経営ノ本質ハ単ニ製塩免許ヲ地主ノ有スルコトヲ以テ自作ナリト断スル能ハサルト同時ニ、定額ノ小作料ヲ納ムルノ所以ヲ以テ直ニ小作制ナリト判定スル能ハス、能ク其ノ経営ノ沿革及実態ヲ考査スルニ、正ニ自作ト小作ヲ折衷シタル特種ノ形態ニシテ両者ノ長ヲ採リ短ヲ去リ能ク之ヲ調和シタル制度ナリト謂フベシ、即チ農家経済上ニ所謂分益農ニ類セルモノニシテ分益共作制度ト謂フベキカ

(※)「塩業に関する諸取調」(明治31年)、「野﨑式塩業之大要」(明治末年)

今では、企業側と労働者側は互いにWIN-WINの関係というのは当たり前のことであるが、当時としては画期的なことだったのであろう。何事も時代の先端を切ってやることは、成功の秘訣なのかも。


東野﨑浜に連なる遺構の説明とそのポイントを示したマップを紹介する。
かつての浜子たちは、これら遺構を使いながら塩の製造にかかっていたのだ。

2012年1月2日月曜日

東野﨑浜の構造

1月2日

今年は、静かで穏やかな正月を迎えた。

昨年、未曾有の大震災と原発事故で、東北地方は大変な目に遭ったが、日本人の生き方・考え方を根本から変えるような出来事だった。
便利・豊かさ・効率、そこまではまだよかったが、それを超えて、欲得・身勝手・無責任、そういったものが日本中を覆っていたように思う。
地震そのものは、自然災害だから仕方ないとしても、その後の原発事故とその対応は、人災としか言いようのないことが続いた。
このような事故が現実に起こるということを予想していた人はどれだけ居たのか?
恐らく居るには居たんだと思うが、そのような正しいこと(恐ろしいこと)をいう人は体制から遠ざけられたのだろう。だから、そのような人の声は、一般の人の耳に入ることはなかった。
「原発は安全である」という神話を、日本の大多数の人は信じさせられていた。そして、多くの人が利権に群がり、天下り組織を作り、保身のための事勿れ主義が世の中を狂わせた。今も尚、その腐れた体制が幅を利かせている。早く真にあるべき姿にしなければならない。

真実を知ること、真実を伝えること、それは最も大事なことだと思う。
そして、そのための努力をすることは、尊いことである。

さて、サッキータイムでは、「自啓不止」をモットーに、自分自身の生き方・活動のありようや成り行き、学んできたこと・これから学ぼうとすることなどを紹介している。学びは、自分自身のものになるまで咀嚼してこそ人に納得してもらえる言葉になる。今年も、できるだけそのような心がけで、人にも自分にも納得できる言葉を探して行きたい。


今日は、太田先生に学んだ東野﨑浜の構造(『大日本塩業全書』より)について紹介する。

(1) 1軒前の規模:東野﨑分38軒前の場合は1軒前1町9反歩、胸上・西田井地分は2町6反歩と大きい。

(2) 堤防の構造:二重の石提により堅固である。

(3) 塩田地盤の構造:塩田地盤の下層は潮流によって埋堆した土砂、中層は塩田開発当時に埋立てた河川の底土と海底土砂の混同したもの、上層は海底の細砂五分を混合した微青黒色の細砂2寸5分の厚みのもので、粘土弱く毛細管引力に富んでいる。

(4) 撒砂(鹹砂):撒砂は、児島郡番田地方の海底の細砂(入替土と方言でいう)を採集し、船積みにて撒砂貯蔵場に運搬し、後1年経過したもの6分と、備前吉井川の細砂(西大寺砂又は河砂と方言でいう)4分を混合して使用する。鹹水の良否は、入替土が河砂より多ければ鹹水の比重が高まる傾向が認められる。また鹹水濾出は入替土と河砂との混合歩合によって遅速が認められる。すなわち、入替土が多ければ濾出のとき沼井中にて粘って泥状となり遅く、河砂多ければこれに反して濾出が速やかである。撒砂散布量は水分の多少によって差異があるが、晩春より夏季は撒布多量、冬季は少なく、初春及び秋季はその中間で一反当たり容量5石5斗(重量にして170貫目)である。替砂は1年1回これを行う(6月中旬に入替土4石5斗、河砂3石を混合してまく)。塩田撒砂(塩田作業)は雨天多き時は替持作業、晴天続く時は三持ち作業を行う。

(5) 沼井(台)の構造:台の松板をもって囲みたる面に接近して地盤を掘り、これに深さ1尺5寸、長さ2尺3寸、幅1尺4寸の楕円形の槽(容量4斗5升)を埋め込み、沼井の前面に力木(直径2寸、長3尺2寸)の松木を置き、その周囲を粘土をもって叩き上げ、台の底部の小穴より鹹水の流入するようになっている。塩田1軒前の1か年平均鹹水採収量は6,240石をみている。また年間の採鹹日数は160日、準備引浜は145日をみている。

(6) 煎熬釜及び使用燃料:煎熬釜は従来石釜を使用していたが、明治10年(1877)前後ころより一部鉄釜の導入を試みたが、竃の構造は別に変化なく、また燃料も松葉・松割木より石炭利用に移行(安政年間に)したが、竃の構造に変化は生じていない。一年間の平均煎熬日数は250日、平均収塩量は2,400石をみている。石釜より鉄釜への移行によって、釜の新調費は大いに減少し、また1軒前当り年間300円(一軒前塩生産2,000石について10万斤の石炭代)の石炭節約が可能になった(※1)。なお鉄釜は味野村鍛冶職・山本与吉が製造した。
安政年間に導入した石炭は肥前産の粉炭(瓢桐又は大加勢と呼称)7分と長門産の塊炭(長陽と呼称)3分を混合して使用した。

(※1)「塩業に関する諸取調」(明治31年9月)


平成8年4月、ナイカイ塩業㈱の主催で、東野﨑浜塩田跡地の一部に鎮守の森づくり植樹祭が行われた。浜山と名付けられた小高い丘に多くの人が植樹を楽しんだ。植樹が終った後、山田小学校児童による浜子唄のライブ合唱を聞いた。

昨年から、広大な東野﨑浜塩田跡地に太陽光発電の基地作りを行う話があるようだ。原子力という人の管理能力を超えるエネルギー源ではなく、太陽光という自然(再生可能)エネルギーを使うという発電方式は、これからの人間の生活に絶対的に必要になるものだろう。
再生可能エネルギーの推進は、サッキー自身の今年のテーマにしてもいいと思う。

2012年1月1日日曜日

野﨑武左衛門の遺訓七か条

2012年1月1日

新しい年を迎え、心も新たに今年1年どう過ごしてゆくか考えてみる。
今年もやることの多い年になりそうだが、一つ一つ片付けるだけである。
ただ、夫々のタイミング(納期)というものがあるので、時期を失しないよう心がけてやるのが大事なこと。

今年初めは、塩づくりの里・山田の冊子とマップ作りの手伝いである。
そこで、年初めの今日は、東野﨑浜塩田を開墾した野﨑武左衛門の遺訓七か条を紹介する。これは、昨年、太田健一先生の記念講演で頂いた資料である。
内容は、野﨑武左衛門が目指した経営の根幹を示すものである。

質素倹約を旨とする中にも、公のためには出来るだけのことをやるべしという教えである。中でも凄いと思ったのは、新たなプロジェクトを企画するときは、社員(メンバー)の意見をよく聴き、良く議論するようにと諭していることである。ゆめゆめ最初から社長(トップ)の意見を言うべきではないと言っているのだ。
最初にトップの計画を出してしまうと、部下は何も言えなくなり、もし間違いがあったときには取り返しのつかないことになるということなのだろう。正に的を射た見解である。
オリンパスの損失隠し問題や大王製紙御曹司の不祥事など、この教えを守っていれば絶対に起こることのない事件である。


松寿院野﨑翁遺訓

一.身代は一種の産のみ託せおくべからず。
吾家の如きは塩田・田地・永納の三種に分かつべし。かく分ち置くときは天災・凶作・変乱等にあふとも、三種の中執れか安穏に保つことを得べき理なり。平常の生計は身代の三分の一と心得たらんには危なきことなかるべし

一.新なる事業を企て財利を得んとする計画はなすべからず。ただ固有の身代を減らすさじと心懸くれば自然増殖するものぞ

一.無益と思ふわざには、つとめて金銭を費やさざるやう心懸くべし、公共の利益あることにはいささかも吝(オシ)むべからず

一.家屋を建築せんとする時は、先ず他日に取毀ち易く、売却するにも便利ならんことをかねて考へおくべし。又後々修繕するに費え少なきやうに心を用ふべし

一.身代少しにても不如意とならば、世間に隠しだてをせずして速に仕法を立つべし。その仕法はまづ家屋を縮むべし。縮めかたは、第一に表座敷、次に中座敷といふ如く大にして必用ならざる建物より漸々に毀ちて売却すべし。それにても仕法立ち難くば、家業の妨けなき限りの諸道具を売却すべし。人の目にも立ち、己の心も改まらん程にせば、などか身代の立直らぬことのあるべき。かくなしてもなほ見込みたたざらんには永納に及ぼし、最後に下田より中田と次第に売却すべし。良田は己が身命と思ひて手をつくべからず

一.一家の主人たるものは好き嫌ひのなきやうに慎むべし。好き嫌いひは偏頗を生する本ぞかし。多くの人を召使ふ身は別けて心得べきことなり

一.新規なる事がらにあひたる時、又はこみ入りしことにて思案にあまれる時は、一家親類をはじめ、召使ひの重立ちたる者にまで能く相談して、広く衆論を聞き、さてこれを決断すべし。己の所存を先きには陳ぶべからず。

右の条々は子々孫々に伝へて常に大切に之を守り、家名を堕とさざるやう心懸くべきもの也。

    遺しおく教まもらば生(ウミ)の子の
          ちよに八千代に家は栄えん

           元治元年甲子八月
                 野﨑武左衛門

                       (『備前児島野﨑家の研究』より)


この遺訓もこれから作る冊子の中に収めてもいいかもしれない。

ところで、創業183年を迎えるナイカイ塩業㈱は、この教えを固く守ってきているのだろうか。
調べてみると、時代の流れとともに、今は塩田(製塩業)のみを継続している。
永納(大名への金銭貸し)は明治維新でなくし、田地は先の大戦終戦後の農地改革でなくしてしまった。武左衛門が残した遺産三つのうち一つしか残らなかったのである。
しかし、同社の経営理念を見ると
一.人材の育成に努め不滅の企業体質をつくる
一.優れた技術と品質で日本のナイカイになる
一.常に原価意識を持ちその低減に努める
一.一体感を持ち活力ある明るい職場をつくる
一.企業活動を通して社会に貢献する
となっており、初代社長である野﨑武左衛門の遺訓が脈々と生きていると見た。

この写真は、創業者野﨑武左衛門の肖像画である。
後閑から山田に抜ける峠・鳥打峠近くの山から望む広大な東野﨑浜塩田跡地と、その向うにナイカイ塩業㈱の工場群が見える。