2012年1月4日水曜日

「東街道十三次探訪ラリー」の紹介人物

1月4日

昨年11月12&13日に開催した「東街道十三次探訪ラリー」で採り上げた13人のプロフィールを紹介する。ラリーの拠点となった13ヶ所に設置した看板の原稿である。
夫々の人たちは、各時代にこの地区に影響を残されたが、共通しているのは、みなよく勉強され周りの人たちにそれを教導されているということだ。
教導などということは中々できない業だが、勉強だけなら誰でもできる。今年は、より以上に勉強の年にしたいものだ。

増吽僧正(ぞううん そうじょう)
室町時代の僧侶。貞治5年(1366)に讃岐国大川郡与田村に生まれ、幼時から神童の誉が高かった。
与田寺で研鑽を重ね法印の位を得た後、高野山に上って真言の秘奥を極めた。その後、僧正の位に進んだが、後年その地位や名誉を捨て諸国の寺院の復興に尽力した。由加の蓮台寺、八浜の金剛寺、日比の観音院などを復興しては弟子に任せ、最後に山田の無動院の復興に尽くしていたが、遂に死期を予期して入定したといわれ、その入定の石棺が無動院に残されている。東児地方に於ける真言宗寺院が輪番で毎年一回開く聴聞などもこの増吽の創始にかかるものである。

高心(こうしん)
南朝の武将。高心は南北朝の時期の南朝の武将。
楠木正儀(マサナリ)に仕えたが、直島に隠棲した後西湖寺に転居、風月を友として余生を楽しむ傍ら、近在の人々を教化しこの地で没したとされる。墓は砂岩製で高さ2.4m、珍しい形式の笠塔婆として注目される。又、高心の没年の至徳は北朝の年号である。これについては諸説あるが、南北朝末期北朝の世になり南朝の人間であることを隠したためであるとか、主君の楠木正儀が北朝に帰順したことがあるためとも言われている。高心の墓は、昭和34年(1959)3月、岡山県指定重要文化財に指定された。

石川 善右衛門(いしかわ ぜんえもん)
慶長12年(1607)~寛文年(1669)。岡山藩の郡奉行・普請奉行。
父は慶長8年(1603)備前で池田利隆に召し出されて仕えたが、その後国替えで因州鳥取へ移る。備前国で生まれた善右衛門は、寛永9年(1632)再び備前岡山に帰る。寛永19年(1642)に児島郡の郡奉行になり、幕府に差し出す絵図の作成に携わる。その後普請奉行となり、明暦2年(1656)在来の池を拡張して木見の森池を造る他、長尾の天王池等、郡内の多くの溜池を築造、改修した。山田の牛石池、二子池を造り、寛文4年(1664)には大池の拡張工事を行う。文化3年(1806)瑜伽大権現の境内に頌徳碑が建つ。
 
野﨑 武左衛門(のざき ぶざえもん)
寛政1年(1789)~元治1年(1864)。倉敷市児島味野の人。塩田・新田開発者。塩田王と呼ばれる。
文政9年(1826)頃、塩田開発を決意、文政11年(1828)味野村と赤崎村に約48haの元野﨑浜を完成。続いて日比地区に11ha余の亀浜塩田を完成。その後、東児島の海浜に着目、天保12年(1841)73ha余の東野﨑浜を完成した。嘉永4年(1851)には、藩命による703ha余の福田新田開発に成功、福田新田5ケ村大庄屋役を拝命した。武左衛門の塩田経営で特筆すべきは、当作歩方制を採用し、全塩田を直営化して経営の効率を上げ、安定した塩田・耕地経営を行ったことである。元治元年(1864)死去に際して遺した「申置」7ヵ条は、家産管理と運営、地域との共生等について公利優先・衆議尊重等の指針を示した。

西井 多吉(にしい たきち)
文化12年(1815)~明治32年(1899)。倉敷市の人。児島、野﨑家家僕。
15歳から児島郡味野村の塩田王野﨑武左衛門・武吉郎の二代に67年間にわたって仕え、福田新田の開発や塩田の開発、塩田経営や小作地管理に手腕をふるい、野﨑家を西日本随一の塩田地主・耕地地主に飛躍させた。明治26年(1893)その功により緑綬褒章が下賜された。

荻野 独園(おぎの どくおん)
文政2年(1819)~明治28年(1895)。玉野市下山坂出身。
幕末~明治時代の臨済宗の高僧・京都相国寺住職。文政9年(1826)8歳にして児島郡郡村の叔父掌善寺鎮州の弟子となり、13歳の時、出家。元規と称した。天保7年(1836)18歳のとき儒学を学ぶ。同12年(1841)臨済禅を学び、安政3年(1856)心華院住職、明治2年(1869)相国寺住職に就任。明治5年(1872)、教部省が置かれ神仏合併大教院設置の折、教導職に就任。さらに大教院長、又臨済・曽洞・黄檗3宗の総管長に任じられた。明治23年(1890)72歳の時『近世禅林僧宝伝』を上梓。明治27年(1894)退いて京都東山銀閣寺に自適。昭和54年(1979)、出身地の玉野市上山坂に顕彰碑が建立された。

伊藤 立斎(いとう りっさい)
文政5年(1822)~明治18年(1855)。倉敷市玉島勇崎出身。
医者となって名声をあげた。明治初年、児島郡山田村有志の要請を受け、家を長男に譲って同村に移住、歓迎された。医業の傍ら、地元子弟に四書五経或いは習字などを教えた。明治6年(1873)、山田小学校の雇助教に任ぜられたが、翌年5月職を辞し、以後もっぱら医業に従った。「医は仁術なり」との姿勢で、村人の尊崇を受けた。墓石銘が白石宝殿場にある。

三宅 三郎(みやけ さぶろう)
天保13年(1842)~明治19年(1886)。玉野市山田出身。岡山藩の勤王家。
安政4年(1857)から山田村名主代勤となり、文久3年(1863)まで勤めた。この間、醬油醸造や穀物商、塩田経営を行った。その一方、尊皇の志が厚く、岡山藩の尊攘派指導者牧野権六郎らと交わり、慶応3年(1867)には、牧野とともに上京して大政奉還を実現する活動に協力して働いた。11月に帰藩、休養していたとき、村民による東野﨑塩田益米の増額要求が起こり、野﨑家と地元の仲介役を引き受けたりしたが、その後、岡山県の警察関係の官吏に採用され山田村を去った。墓石銘が白石宝殿場にある。                             

東 作平(ひがし さくへい)
弘化4(1847)~昭和4年(1929)。玉野市後閑の人。
東氏9代作平は、16歳で大薮・後閑の名主となり、明治維新とともに戸長となった。明治10年(1867)には鉾立・山田・胸上・波知等14ケ村の戸長を勤める。教育熱心で明治7年後閑小学校を創立、同12~20年、名誉校長として子弟の訓導に当たる。町村制施行後、郡会議員・村会議員等を勤め、又所得税調査委員・徴兵参事官・済世顧問等、政治に携わること50年、この間至誠を以て貫いた。号を西湖と称し、書画を嗜み、謡曲に堪能だった。又、若くして剣を学び、その技は近郷に聞こえていた。鳥打峠の出崎入口の所に、開鑿記念として大正5年(1916)に作平氏が建てた石標がある。

岡 武三郎(おか たけさぶろう)
安政5年(1858)~明治37年(1904)。岡山市出身。教育者。
読書を好み温知学校(岡山県師範学校の前身)を卒業して、明治8年(1875)、山田村の四十九番小学校に赴任、同13年(1880)無動院山に校舎が新築され養才小学校と改称された。同34年(1901)には同尋常小学校の校長に就任。翌年、校舎が現在の山田小学校に移転されたが、明治37年(1904)現職のまま46歳で病死した。教師在任中、山田、胸上に青年夜学会を設け、20余年毎宵出掛けた。明治45年(1912)教え子たちは、元の小学校のあった無動院山に石碑を建て、その遺徳を偲んだ。

春藤 武平(しゅんどう ぶへい)
明治17年(1884)~昭和43年(1968)。玉野市八浜出身。塩業家。
明治32年(1899)、東児高等小学校卒業後15歳で東野﨑支店に入り、製塩技術の改良に取り組む。大正7年(1918)、34歳のとき野﨑台湾塩行で天日製塩法を実地研究。昭和元年(1926)東野﨑浜に枝条架濃縮設備を設置、改良。昭和9年(1934)には独特の枝条架式濃縮装置を考案、これを入浜式塩田の周囲に構築した。昭和19年(1944)、枝条架と斜層貫流を結合した流下式試験塩田を鉾立村番田に設け、企業化に成功。昭和33年(1958)には全国の塩田が流下式に転換、過酷な重労働の軽減と生産力の飛躍を達成した。昭和23~41年、内海塩業㈱取締役社長に就任。昭和40年勲五等双光旭日章を受賞。

北畠 謙三(きたばたけ けんぞう)
明治19年(1886)~昭和43年(1968)。玉野市山田の人。
幼にして漢学を学び、一生を通じ漢詩を愛読し自らもよく作詩を楽しんだ。明治40年(1907)、岡山師範学校を卒業、大正4年(1915)から山田小学校長に赴任。日夜勤務を続け、村をあげての教育に専念した。その後、村民より推されて村長の椅子に就く。在職11年の間、村財政の確立、交通運輸の改良、教育の充実に力を注いだ。著書に『岡山県古建築図録』、『山田村誌』、『東児社寺物語』、『玉野史跡社寺案内』等がある。太田地蔵堂北側に謙三氏が揮毫の動植物の霊を祀る有情供養塚がある。

野嶋 島叟(のじま とうそう)
明治21年(1889)~昭和49年(1974)。山田の人。書家・俳人。書道の号を島叟、俳号を島人と号す。
岡山中学校を卒業後、明治42年(1909)上海の東亜同文書院に学ぶ。卒業後、満州鉄道に勤務。佐藤助骨の影響で俳句を志し、大正13年(1924)渡辺水巴に入門。書は小学校時代から村田海石に学び、同文書院時代は初唐の書家・欧陽詢、北宋の書家・米芾らの書を学ぶ。拓本の収集に努め、六朝の造像記や摩崖碑によって開眼、多くの中国の文人と交流、清朝の遺臣・書家・鄭孝胥の健筆に刺激され書作に励み、独自の書風を作った。句集に『羽族』、『霧雨』などがある。

※本資料は、2010年山田まちづくり講座が作った資料「山田・東児地区ゆかりの歴史人物」を元に、たまの東街道イベント「東街道十三次探訪ラリー」の看板用として、編集したものである。

写真は、各人物に纏わる拠点の石標や建物である。

2012年1月3日火曜日

当作歩方制の本質

1月3日

今日は初始動で、瀬戸大橋CCの新年杯に出かけた。
パートナーの一人は、HC3の超ベテランで、彼にスイングの極意を聞いてみた。
彼によると、インパクトの瞬間に手の位置がアドレスした時の状態に戻るのだという。それに対して、サッキーの場合は、体が開いてしまっている(先に回ってしまっている)から、そこで球に当てようとすると、どうしても体が球から離れてトップしてしまう傾向にあるのだという。相当に練習しないと直らないのだろうが、今年も100を切るのに苦労するのかなー、、、

さて、今日も武左衛門の話の続きだが、今日は彼の残した優れた経営手法である「当作歩方制」についてだ。初めて聞いたときには、聞きなれない言葉で何のことかサッパリ分からなかったが、平たく言うと、自作農的小作請負制度とでもいうことであろう。頑張れば頑張っただけ収益が得られ、塩田の持ち主である武左衛門にもそれ相応の収益が来るという上手い考えの制度である。

当作歩方制の本質

野﨑丹斐太郎所有ニカカル入浜塩田経営ノ組織ハ、普通自作ノ如ク所有者ニ於テ直接製塩事業ノ衝ニ当ルコトナク、別ニ製塩事業ニ関シテハ浜店ト称スル特殊ノ機関ヲ設ケ、事業ノ管理・事業用品ノ供給及各浜ノ収支計算ヲ所管セシメ製塩作業ニハ当作人ヲシテ之ニ当タラシメ、毎塩戸当作人ヨリ小作料ヲ徴シ、製塩上必要ノ材料ハ浜店ヨリ供給シ、各浜毎ニ毎年度収支ノ決算ヲ行ヒ、其損益ハ当作人之ヲ負担シ、浜店勘定ノ収支決算ノ結果ヲ野﨑本店ノ計算ニ移シ、尚各塩戸ノ純損益ハ一定ノ歩合ニヨリ地主及当作人之ヲ分担スルノ組織ナリ
(右のように指摘した経営組織が「当作歩方制」であり、野﨑家自体はその当作歩方制の本質を次のように評価していた。)
本経営ノ本質ハ単ニ製塩免許ヲ地主ノ有スルコトヲ以テ自作ナリト断スル能ハサルト同時ニ、定額ノ小作料ヲ納ムルノ所以ヲ以テ直ニ小作制ナリト判定スル能ハス、能ク其ノ経営ノ沿革及実態ヲ考査スルニ、正ニ自作ト小作ヲ折衷シタル特種ノ形態ニシテ両者ノ長ヲ採リ短ヲ去リ能ク之ヲ調和シタル制度ナリト謂フベシ、即チ農家経済上ニ所謂分益農ニ類セルモノニシテ分益共作制度ト謂フベキカ

(※)「塩業に関する諸取調」(明治31年)、「野﨑式塩業之大要」(明治末年)

今では、企業側と労働者側は互いにWIN-WINの関係というのは当たり前のことであるが、当時としては画期的なことだったのであろう。何事も時代の先端を切ってやることは、成功の秘訣なのかも。


東野﨑浜に連なる遺構の説明とそのポイントを示したマップを紹介する。
かつての浜子たちは、これら遺構を使いながら塩の製造にかかっていたのだ。

2012年1月2日月曜日

東野﨑浜の構造

1月2日

今年は、静かで穏やかな正月を迎えた。

昨年、未曾有の大震災と原発事故で、東北地方は大変な目に遭ったが、日本人の生き方・考え方を根本から変えるような出来事だった。
便利・豊かさ・効率、そこまではまだよかったが、それを超えて、欲得・身勝手・無責任、そういったものが日本中を覆っていたように思う。
地震そのものは、自然災害だから仕方ないとしても、その後の原発事故とその対応は、人災としか言いようのないことが続いた。
このような事故が現実に起こるということを予想していた人はどれだけ居たのか?
恐らく居るには居たんだと思うが、そのような正しいこと(恐ろしいこと)をいう人は体制から遠ざけられたのだろう。だから、そのような人の声は、一般の人の耳に入ることはなかった。
「原発は安全である」という神話を、日本の大多数の人は信じさせられていた。そして、多くの人が利権に群がり、天下り組織を作り、保身のための事勿れ主義が世の中を狂わせた。今も尚、その腐れた体制が幅を利かせている。早く真にあるべき姿にしなければならない。

真実を知ること、真実を伝えること、それは最も大事なことだと思う。
そして、そのための努力をすることは、尊いことである。

さて、サッキータイムでは、「自啓不止」をモットーに、自分自身の生き方・活動のありようや成り行き、学んできたこと・これから学ぼうとすることなどを紹介している。学びは、自分自身のものになるまで咀嚼してこそ人に納得してもらえる言葉になる。今年も、できるだけそのような心がけで、人にも自分にも納得できる言葉を探して行きたい。


今日は、太田先生に学んだ東野﨑浜の構造(『大日本塩業全書』より)について紹介する。

(1) 1軒前の規模:東野﨑分38軒前の場合は1軒前1町9反歩、胸上・西田井地分は2町6反歩と大きい。

(2) 堤防の構造:二重の石提により堅固である。

(3) 塩田地盤の構造:塩田地盤の下層は潮流によって埋堆した土砂、中層は塩田開発当時に埋立てた河川の底土と海底土砂の混同したもの、上層は海底の細砂五分を混合した微青黒色の細砂2寸5分の厚みのもので、粘土弱く毛細管引力に富んでいる。

(4) 撒砂(鹹砂):撒砂は、児島郡番田地方の海底の細砂(入替土と方言でいう)を採集し、船積みにて撒砂貯蔵場に運搬し、後1年経過したもの6分と、備前吉井川の細砂(西大寺砂又は河砂と方言でいう)4分を混合して使用する。鹹水の良否は、入替土が河砂より多ければ鹹水の比重が高まる傾向が認められる。また鹹水濾出は入替土と河砂との混合歩合によって遅速が認められる。すなわち、入替土が多ければ濾出のとき沼井中にて粘って泥状となり遅く、河砂多ければこれに反して濾出が速やかである。撒砂散布量は水分の多少によって差異があるが、晩春より夏季は撒布多量、冬季は少なく、初春及び秋季はその中間で一反当たり容量5石5斗(重量にして170貫目)である。替砂は1年1回これを行う(6月中旬に入替土4石5斗、河砂3石を混合してまく)。塩田撒砂(塩田作業)は雨天多き時は替持作業、晴天続く時は三持ち作業を行う。

(5) 沼井(台)の構造:台の松板をもって囲みたる面に接近して地盤を掘り、これに深さ1尺5寸、長さ2尺3寸、幅1尺4寸の楕円形の槽(容量4斗5升)を埋め込み、沼井の前面に力木(直径2寸、長3尺2寸)の松木を置き、その周囲を粘土をもって叩き上げ、台の底部の小穴より鹹水の流入するようになっている。塩田1軒前の1か年平均鹹水採収量は6,240石をみている。また年間の採鹹日数は160日、準備引浜は145日をみている。

(6) 煎熬釜及び使用燃料:煎熬釜は従来石釜を使用していたが、明治10年(1877)前後ころより一部鉄釜の導入を試みたが、竃の構造は別に変化なく、また燃料も松葉・松割木より石炭利用に移行(安政年間に)したが、竃の構造に変化は生じていない。一年間の平均煎熬日数は250日、平均収塩量は2,400石をみている。石釜より鉄釜への移行によって、釜の新調費は大いに減少し、また1軒前当り年間300円(一軒前塩生産2,000石について10万斤の石炭代)の石炭節約が可能になった(※1)。なお鉄釜は味野村鍛冶職・山本与吉が製造した。
安政年間に導入した石炭は肥前産の粉炭(瓢桐又は大加勢と呼称)7分と長門産の塊炭(長陽と呼称)3分を混合して使用した。

(※1)「塩業に関する諸取調」(明治31年9月)


平成8年4月、ナイカイ塩業㈱の主催で、東野﨑浜塩田跡地の一部に鎮守の森づくり植樹祭が行われた。浜山と名付けられた小高い丘に多くの人が植樹を楽しんだ。植樹が終った後、山田小学校児童による浜子唄のライブ合唱を聞いた。

昨年から、広大な東野﨑浜塩田跡地に太陽光発電の基地作りを行う話があるようだ。原子力という人の管理能力を超えるエネルギー源ではなく、太陽光という自然(再生可能)エネルギーを使うという発電方式は、これからの人間の生活に絶対的に必要になるものだろう。
再生可能エネルギーの推進は、サッキー自身の今年のテーマにしてもいいと思う。

2012年1月1日日曜日

野﨑武左衛門の遺訓七か条

2012年1月1日

新しい年を迎え、心も新たに今年1年どう過ごしてゆくか考えてみる。
今年もやることの多い年になりそうだが、一つ一つ片付けるだけである。
ただ、夫々のタイミング(納期)というものがあるので、時期を失しないよう心がけてやるのが大事なこと。

今年初めは、塩づくりの里・山田の冊子とマップ作りの手伝いである。
そこで、年初めの今日は、東野﨑浜塩田を開墾した野﨑武左衛門の遺訓七か条を紹介する。これは、昨年、太田健一先生の記念講演で頂いた資料である。
内容は、野﨑武左衛門が目指した経営の根幹を示すものである。

質素倹約を旨とする中にも、公のためには出来るだけのことをやるべしという教えである。中でも凄いと思ったのは、新たなプロジェクトを企画するときは、社員(メンバー)の意見をよく聴き、良く議論するようにと諭していることである。ゆめゆめ最初から社長(トップ)の意見を言うべきではないと言っているのだ。
最初にトップの計画を出してしまうと、部下は何も言えなくなり、もし間違いがあったときには取り返しのつかないことになるということなのだろう。正に的を射た見解である。
オリンパスの損失隠し問題や大王製紙御曹司の不祥事など、この教えを守っていれば絶対に起こることのない事件である。


松寿院野﨑翁遺訓

一.身代は一種の産のみ託せおくべからず。
吾家の如きは塩田・田地・永納の三種に分かつべし。かく分ち置くときは天災・凶作・変乱等にあふとも、三種の中執れか安穏に保つことを得べき理なり。平常の生計は身代の三分の一と心得たらんには危なきことなかるべし

一.新なる事業を企て財利を得んとする計画はなすべからず。ただ固有の身代を減らすさじと心懸くれば自然増殖するものぞ

一.無益と思ふわざには、つとめて金銭を費やさざるやう心懸くべし、公共の利益あることにはいささかも吝(オシ)むべからず

一.家屋を建築せんとする時は、先ず他日に取毀ち易く、売却するにも便利ならんことをかねて考へおくべし。又後々修繕するに費え少なきやうに心を用ふべし

一.身代少しにても不如意とならば、世間に隠しだてをせずして速に仕法を立つべし。その仕法はまづ家屋を縮むべし。縮めかたは、第一に表座敷、次に中座敷といふ如く大にして必用ならざる建物より漸々に毀ちて売却すべし。それにても仕法立ち難くば、家業の妨けなき限りの諸道具を売却すべし。人の目にも立ち、己の心も改まらん程にせば、などか身代の立直らぬことのあるべき。かくなしてもなほ見込みたたざらんには永納に及ぼし、最後に下田より中田と次第に売却すべし。良田は己が身命と思ひて手をつくべからず

一.一家の主人たるものは好き嫌ひのなきやうに慎むべし。好き嫌いひは偏頗を生する本ぞかし。多くの人を召使ふ身は別けて心得べきことなり

一.新規なる事がらにあひたる時、又はこみ入りしことにて思案にあまれる時は、一家親類をはじめ、召使ひの重立ちたる者にまで能く相談して、広く衆論を聞き、さてこれを決断すべし。己の所存を先きには陳ぶべからず。

右の条々は子々孫々に伝へて常に大切に之を守り、家名を堕とさざるやう心懸くべきもの也。

    遺しおく教まもらば生(ウミ)の子の
          ちよに八千代に家は栄えん

           元治元年甲子八月
                 野﨑武左衛門

                       (『備前児島野﨑家の研究』より)


この遺訓もこれから作る冊子の中に収めてもいいかもしれない。

ところで、創業183年を迎えるナイカイ塩業㈱は、この教えを固く守ってきているのだろうか。
調べてみると、時代の流れとともに、今は塩田(製塩業)のみを継続している。
永納(大名への金銭貸し)は明治維新でなくし、田地は先の大戦終戦後の農地改革でなくしてしまった。武左衛門が残した遺産三つのうち一つしか残らなかったのである。
しかし、同社の経営理念を見ると
一.人材の育成に努め不滅の企業体質をつくる
一.優れた技術と品質で日本のナイカイになる
一.常に原価意識を持ちその低減に努める
一.一体感を持ち活力ある明るい職場をつくる
一.企業活動を通して社会に貢献する
となっており、初代社長である野﨑武左衛門の遺訓が脈々と生きていると見た。

この写真は、創業者野﨑武左衛門の肖像画である。
後閑から山田に抜ける峠・鳥打峠近くの山から望む広大な東野﨑浜塩田跡地と、その向うにナイカイ塩業㈱の工場群が見える。

2011年12月31日土曜日

東野﨑塩田の碑文

12月31日

愈々2011年最後の日、年末恒例の紅白歌合戦が始まっている。
今日は、今年の芸フェス「たまの東街道」での記念講演で、太田先生から頂いた史料「東野﨑浜塩田の碑文」を紹介しよう。
碑は、玉野市山田にある塩竃神社の境内に建っているが、漢文のため殆んど解読困難なものである。ここには、野﨑武左衛門に始まり、子の常太郎、孫の武吉郎(2代目当主)までの系譜について紹介したものである。
根気よく読まないと中々読みにくいものだが、大事な点は最後の行に集約されているようである。つまり、先達の財を守る困難を克服しようと思えば、創業時の困難を思い起こせということか。

以下にその全文を掲載する。
一部PCにない漢字があって、?マークを入れているが、敬の字の下に弓の字を合わせたもので、ユタメと読ませるそうだ。武左衛門の孫で、成長して武吉郎といい、2代目の当主となる人だ。この方は、明治政府の貴族院議員となり、地域だけでなく国にも尽くされた。児島に迨暇堂と言う大きな邸を作ったことでも有名な人である。今年5月、我が狂言講座の公演を行ったのがこの迨暇堂である。

尚、この碑文の読み方は、山田まちづくり講座の佐藤さんが作られたものである。

東野﨑塩田の碑

(水上清『塩と碑文』より抜萃、別記註を(  )挿入し、註・振り仮名を一部加筆した。)

子与氏(学者の名)曰く、諸侯の宝三は土地・人民・政事なり。然るに政事は人民の為に設けられ、人民は土地に由って生ず。則ち土地は人民・政事の本なり。是の故に国家の利は土地より大なるは莫し。而して兵力を以て之を取るを劫奪(コウダツ)(脅し取るの意)と為し、勢威を以て之を得るを兼并(ケンペイ)(一つに併わすこと)と為し、人を害するに過ぎずして己のみを利す。人と共に利して而して害無きは其れ唯墾闢(コンビャク)(開墾)か。備前の野﨑翁は此に見る有り。資産を擲(ナゲウ)ち心力を労し、畢生(一生)墾闢に従事し、新地を得たるもの勝(アケ)て数ふ可からず。而して東野﨑塩田を最大と為す。地は本(モト)児島郡沼・山田・東田井地・梶岡・上下山阪(坂)・胸上八邨(村)海浜、潟鹵(セキロ)(塩気を含む潟、海瀬)に係る。翁は其の墾(ヒラ)くべきを相し、天保元年六月之を藩主池田侯に請ひ允可(インカ)(許可)を得たり。九年正月始めて工を起し、地を分けて南北両区と為す。南区に就いては逶迤(イイ)(つらなる・つづく形)として土隄(堤)を築くこと長さ弐千参百拾壱(二千三百十一)間、外は石埭(セキタイ)(石にて河水を堰る「いせき」のこと)に副いて以て激浪を捍(フセ)ぎ、内は則ち隆きは削り、汚らわしきは塡(ウズ)め、溝を鑿(ウガ)って田を画し、田には皆軟砂を播き、盧舎(ロシャ)(こや)、器械悉く具(ソナワ)る。実に十二季三月なり。田を得ること柒(七)拾参(十三)町玖(九)反陸(六)畝柒(七)歩其の地を名づけて東野﨑邨(ムラ)と曰(イ)う。官は為に里正(名主のごとき者)を置き之を監せしむ。文久二季五月北区に工を起し、南区の如く三季五月竣(オワリ)を告ぐ。堤千百参拾(三十)間余、田十玖(十九)町捌(八)反玖(九)歩にして其の地を分けて胸上・西田井地両邨に属せしむ。而して人総て南北区を称して東野﨑浜と曰う。蓋し(まさしく)西に野﨑浜有ればなり。両区の塩竈肆拾伍(四十五)舎雇丁五千、指して塩を得ること年凡(オヨ)そ拾万石大いに国家を益し而して己の利も亦貲(ハカ)られず(分からない位多くある)。是より先、翁は野﨑浜等の塩田を闢(ヒラ)き、後又福田邨を墾(ヒラ)く。稲田一時并収(ヘイシュウ)し、其の入富巨萬(万)を致す。而して子孫業を継ぎ益(マスマス)降盛にして、鬱然(ものごとの盛んなること)として山陽道の一大富豪と為れり。史選の所謂素封(ソホウ)(財産があること・大金持)千戸の諸侯と等しき者然るに非ずや。古は土地、皆国君の有する所而して下民偶々新田を墾くも亦佃戸(デンコ)(小作人の意)と為るを免れず。今や王制一新し、民皆地券を賜わる。則ち翁の開きし所の土地は皆其の宝と為り、役使する所の人民、固(モト)より其の宝なり。而して国会の開近きに在り、資産有る者国政を議するを得れば則ち政事も亦将に其の宝と為す、三宝皆既に己に帰し儼然として一諸侯たる豈(どうして)啻(タダ)に昔時素封の比ならんや。翁諱(イミナ)(称号)は弣(ユヅカ)、称して武左衛門、野﨑氏は郡の味野邨の人、晩(オソ)く大里正(大庄屋に同じ)と為り五口(五人扶持)の糧を賜わり、称姓佩刀(ハイトウ)を許され、墾闢の功を賞せらる。其の世系行実は墓碣(ボケツ)に詳(ツマビ)らかなり。子は彇(ユハズ)と曰い、常太郎と称す。克(ヨ)く父の蠱(コ)を幹(ヨク)す(事をよくする意)。不幸にして夭折す。孫を?(ユタメ)と曰い、武吉郎と称し士族に列す。則ち今の主なり。頴敏(エイビン)(さとくかしこくの意)勤倹にして父祖に愧(ハ)じず。明治壬午(ジンゴ)(明治十五年)秋海大いに溢壊(イッカイ)し、両区の堤防・塩田悉く没す。君拮据(キッキョ)(骨折り働く)修補し歳尾(年末)に至って復旧す。癸未(キビ)(明治十六年)の夏、塩を東京博覧会に致し二等賞牌及び金若干を受く。属して曰う、碑を建て不朽の祖功を旌(アラワ)さんと欲すと、遠く図及び状を寄せ余に文を請う。余少時翁を訪う。翁岸然(角だった形)魁梧(カイゴ)(丈高くたくましいこと)深沈にして大度あり。余の為め当時の勤苦を語って曰く、初め土石を風濤乱立の間に投じ以て堤防を築くに随うて成り、随うて頽(クズ)れ、資竭(ツク)し、力弊(ヤブ)れ中止せんと欲すもの数次にして終に能く之を成せり。嗚呼其の崛強(クッキョウ)耐忍なるは古の豪傑の攻城野戦に百敗に屈せず、以て封侯(大名に領地を与え支配者となること)の業を開きし者と何ぞ異らん。之れ子孫たる者、其れ朝夕拳拳(忠勤なるの意)祖功を追念せざる可けんや、乃(スナワ)ち銘を作って曰く。
創業の難は既に往き守成の難方(マサ)に来る。守成の難に処せんと欲すれば唯創業の難を念ぜよ。
明治十七年甲申九月  東京大学教授従五位三島毅撰(詩文を作ること)
     正三位池田茂政篆額(碑上部の篆文の題字)  従五位長炗書
                                  東京吉川黄雲刻字

東野﨑浜に塩水を供給し、作った塩を運ぶための水路ともなっていた汐入川に架かる跳ね橋、その向うの林に塩竃神社がある。
境内の入口付近に、東野﨑塩田の碑がある。碑のアップである。

2011年12月30日金曜日

「たまの東街道2011」活動結果

12月30日

今年もいよいよ残すところ、後2日となった。
ここ数日、芸術フェスタの総括を続けているが、今日は、山田地区で開催した「たまの東街道2011」について、概要を報告する。

先ずは、11月12(土)&13日(日)の2日に亘って開催した「東街道十三次探訪ラリー」から。

イベントⅠ 「東街道十三次探訪ラリー」実施要項

1.趣 旨
 山田・東児地区には、地区にゆかりのある歴史上の人物が多数輩出しています。
昨年の「玉野みなと芸術フェスタ2010」(以下「芸フェス」という。)では、専売局味野収納所山田出張所(現東地域デイサロン「しおさい」)の広間で開催した「歴史を語る夕べ」において、山田まちづくり講座生が長年研究してきたこれら人物にまつわるお話を「山田・東児地区ゆかりの歴史人物」というテーマで紹介していただきました。
 山田・東児地区には、遺跡や遺構或いは石碑といったような形でこの人物たちの痕跡の証を見ることが出来ますが、これらは地域住民にも殆んど知られていないように見受けられます。
 芸フェスでは、折角の貴重な地域の財産を何とか多くの人たちに紹介すべきではないかと考えました。そこで、これら歴史上の人物たちの痕跡を現地に探り、彼らの働きを思い巡らすことにより、地区への愛着を深め地区のまちづくりに資することを願い、歴史人物探訪ラリーを開催することとしました。
 紹介した人物たちの数が丁度13人であったことから、より多くの方々に参加を促すことができるよう「東街道十三次探訪ラリー」と命名し、たまの東街道のイベントの一つとして計画しました。

2.開催要領
(1) 開催日時:2011年11月12日(土)~13日(日)
(2) 探訪スポット:玉野市後閑~山田~上山坂の13箇所
  (実際には、1ヶ所危険の予想される箇所があって、12箇所のみを紹介した。)
(3) スタンプラリー:上記スポットにスタンプを置き、規定の台紙にスタンプを押して回る。6箇所以上のスタンプがあれば記念品を渡す。
(4) 休憩スポット:カフェやまだ、塩竃神社を休憩拠点として、お茶のサービスを行います。

3.東街道十三次探訪スポット(山田・東児地区ゆかりの歴史人物)
(1) 増吽増正(ゾウウンソウジョウ):真言を極めた高僧。諸国の寺院の復興に尽力・・・山田・無動院ご入定石棺
(2) 高  心:楠木正儀(マサナリ)に仕えた南朝の武将。西湖寺で没した・・・後閑・高心の墓
(3) 石川 善右衛門:岡山藩の群奉行・普請奉行、多くの溜池を築造・・・山田・牛石池or二子池(牛石池、二子池とも特にお年寄りなどにやや危険が予想されたため、石川善右衛門の紹介はマップには掲載しなかった。)
(4) 野﨑 武左衛門:塩田王・東野﨑浜塩田開発。ナイカイ塩業㈱創業者・・・山田・塩竃神社
(5) 西井 多吉:野﨑家家僕、五猿と号す。塩田開発・経営に手腕・・・山田・塩入川護岸施設
(6) 荻野 独園(ドクオン):下山坂出身、明治時代の臨済宗高僧。東山銀閣寺に自適・・・上山坂・顕彰碑
(7) 伊藤 立斎:医者。明治初年山田に移住、医業の傍ら子弟を教授・・・白石・宝殿場墓石銘
(8) 三宅 三郎:山田の人。岡山藩の勤皇家、大政奉還に協力。・・・白石・宝殿場墓石
(9) 東  作平:後閑の人。教育熱心で後閑小学校を創立。村会議員・・・鳥打峠・開鑿(サク)石標
(10) 岡 武三郎:教育者。無道院に建った養才小(山田小の前身)の校長・・・無動院境内石碑
(11) 春藤 武平:八浜出身。流下式塩田開発。ナイカイ塩業㈱社長・・・胸上・本社構内銅像
(12) 北畠 謙三:山田の人。山田小学校長、山田村長。「山田村誌」を著作・・・山田・有情供養塚
(13) 埜嶋 島叟(トウソウ):山田の書家・俳人。・・・梶岡・常楽院の床の間掛け軸及び墓

マップの表に、石川善右衛門を除く12人の業績を紹介した。
石川善右衛門が築いた二子池は、途中雑草に隠れた溝で足を踏み外す恐れがあり、危険と判断してマップから除いた。
梶岡にある常楽院(児島八十八ヶ所第七番)の書院に野島島叟の書が掛けられている。
12箇所のスタンプ全てを押し、大喜びする中学生
仲よしご夫妻も完全制覇され、記念にパチッ!
休憩所となった塩竃神社では、抹茶が振舞われ、七五三お宮参りの参拝客も。塩竃神社でお茶のサービスをしてくれた萩野さんには、13日午後に開催したシンポジウムで総合司会をやっていただいた。同じく休憩所となったカフェ山田では、コーヒー(@100円、ケーキセットは@300円)のサービスがあった。写真は、カフェやまだのサービスを取り仕切った柴田さん(左)とその仲間たちカフェ山田で寛ぐ参加者と十三次を説明する大西さん(帽子の人)
続いて、11月13日(日)に行ったシンポジウムについて。

イベントⅡ 
シンポジウム「塩づくりの里・山田」

(1) 開催日時:2011年11月13日(日)14:00~17:30
(2) 開催場所:味野専売局山田出張所(しおさい)広間
(3)プログラム
 玉野市東部(山田・東児地区)は、江戸時代以降、塩の産出が玉野市において最も盛んであり、全盛期(1900年代前期)には、街に塩田労働者の人々が住み、様々な産業が栄え、活気に満ちていました。繁栄は製塩技術の革新と共に衰退し、当時の痕跡は少なくなってきています。
 山田地区では、2007年から山田まちづくり講座生を中心に、塩づくりの里における最も象徴的な遺構である旧大蔵省の「味野専売局山田出張所」と「文書庫」の保存活動に取り組まれました。今年7月、長年の努力が実を結び、これら二つの遺構が国の登録有形文化財に指定されることになりました。
 今回のシンポジウムは、備前塩業に造詣の深い太田健一氏(竜王会館理事)を講師に迎え、登録指定を記念するイベントとして開催するものであります。野﨑武左衛門が開いた塩田と活気に満ちていた当時の街を想像しながら、「塩づくりの里・山田」の歴史をお楽しみ下さい。

■開会挨拶       (14:00~14:05)
 玉野みなと芸術フェスタ2011実行委員会委員長  斉藤 章夫

■第1部 「新作狂言 誕生秘話ヒストリア」 (14:05~14:35)
(出 演)秘話紹介:玉野狂言講座事務局 斉藤 章夫
      狂言実演:玉野狂言講座生/塩崎テツミ、成山 佳子、小坂 運子
(概 要) 2009年11月1日、地区住民主体の狂言講座生が初演を行った新作狂言「野﨑武左衛門」の誕生から現在に至る経緯を、NHKの歴史番組風のタッチで紹介し、合せて新作狂言の最初の場面を実演いたします。短い時間ですが、狂言の楽しさを味わっていただければと思います。

■第2部 記念講演(国の登録有形文化財指定)(14:45~16:00)
演 題 「塩づくりの里・山田と野﨑武左衛門」
講 師 太田 健一氏(竜王会館理事)
(概 要) 塩田王と呼ばれた野﨑武左衛門が如何にして東野﨑浜を築いたのか、そこでどのような経営を行い「塩づくりの里・山田」を繁栄に導いたのか、当時の資料等を元に説明していただきます。
(講師プロフィール) 1936年岡山県生。1958年岡山大学教育学部卒業。関西高等学校・岡山東商業高等学校教諭などを経て、1989年広島県立広島女子大学助教授、1994年山陽学園大学教授、2006年山陽学園大学特任教授を歴任し、 2009年退職。現在、財団法人竜王会館理事、学校法人山陽学園監事、日本塩業研究会代表を務める。主著『日本地主制成立過程の研究』、『備前児島野﨑家の研究』(共著)、『岡山県の百年』(共著)、『次田大三郎日記』(共著)、『山田方谷のメッセージ』、『小西増太郎・トルストイ・野﨑武吉郎—交情の軌跡—』

( 休 憩 )

■第3部 浜子唄ライブ           (17:00~17:30)
出 演 ( 歌 )山田小学校児童
     (伴奏)玉野市三味線同好会(山田)
(浜子唄とは) 入浜式塩田での作業は、炎天下での厳しい重労働でした。そのような過酷な作業の中で働いていた人たちが歌っていた労働歌が「浜子唄」です。
(浜子唄の歌詞)
1.浜子浜子とよ けなしてくれな 浜子大名で 扶持(フチ)がつく
2.浜子さんとはよ 承知でほれた 夜釜(ヨガマ)たきとは 知らなんだ
3.十と二銭のよ 寄せ子でも 主に敷島(シキシマ) すわせたい
4.色は黒うてもよ 浜子は武士じゃ 一日九合の 扶持を取る
5.いんで床張(ドブサレ)よ  野﨑の浜子 明日は釜立て 浜起し

(総合司会) 萩野 倫子

招待していた訳ではないが、黒田玉野市長が聴講に来られたので、急遽ご挨拶を頂いた。
第1部の狂言秘話紹介で、新作狂言「野﨑武左衛門」を実演していただいた三人衆第2部の記念講演「塩づくりの里・山田と野﨑武左衛門」で貴重なお話を頂いた太田健一先生
第3部開始前の休憩時間に、子どもたちに亥の子まつりを体験してもらった。第3部では、薄暗い専売局中庭に設置した幻想的な篝火の中、山田小学校児童による「浜子唄ライブ」を行い、「たまの東街道2011」を締めくくった。

こうしてみると、今年もずいぶ多くの方々にお世話になったものである。
企画を担い事前準備をする人々、その準備にボランティアで参加してくれる人々、当日の出番のために発表の準備や稽古をする人々、発表の効果を高めるために舞台設置や小道具・照明などを手配する人々、お弁当やお茶を手配してくれる人々、必要な資金をご協賛として寄付してくださる人々、多くの方々に知らせるために新聞やTVで広報活動をしてくれる人々、本当に色々な方々のご協力で成り立つイベントなのである。感謝してもし尽くせないと心から思う。
皆様のご支援、ご協力をこのBLOGを借りて、厚くお礼申し上げます。
ありがとうございました。来年も又、宜しくお願いします。

2011年12月29日木曜日

【南北楽観主義-せとうち-】反省会

12月29日

先ほど、南北楽観主義を支えてくれた方たちの声を紹介したが、締めくくりに9月19日に行った、作家たちとの反省会メモを紹介する。一部先ほどの声とダブる部分もあるが、来年に向けて貴重なメモなので、紹介しておきたい。

【南北楽観主義‐せとうち‐】を終えて~反省会メモ(報告)
                          (文責:芸フェス実行委員長/斉藤)

1. 開催日時:2011年9月19日(月)19:00~21:00

2. 開催場所:sottoprodotto

3. 出 席 者:山田(司会)、三宅、笹川、千葉、凡土、清水、森、斉藤
(欠席者で意見提供者:加藤、勝木、あきやま、平岡、大前)

4. 概 要:
 今回開催した宇野・高松アーティスト交流・交換展【南北楽観主義-せとうち-】は、玉野みなと芸術フェスタ実行委員会として初の試みであったが、出展いただいた作家の皆さん方や運営に関わっていただいた高松丸亀町商店街進行組合の方々のご協力で無事終了することが出来た。
そこで、今回の展覧会に出展された作家の皆さん及び運営に携わっていただいた皆さんにお集まりいただき、夫々の立場で率直な感想、良かった点、運営上の問題、今後の活動への意見などを語っていただいた。今日参加できなかった方には、既に頂いているアンケート結果などの意見を紹介した。
以下その発言要旨を、メモとして項目別に順不同で纏め報告する。

(1) 率直な感想
 ・作家としては大変満足した。
 ・会期がもう少し長い方が良かった。2週間くらいはあっても良かったと思う。
 ・高松の人がもっと観に来て欲しかった。
 ・いい経験をさせていただいた。
 ・宇野は、今までは遠い所と思っていたが、意外と近かった。1回きっかけが出来たら結構行けると思う。
 ・今回、瀬戸大橋で高松に行ったが、割引料金時間帯等に利用すれば、金銭的にも時間的にもストレスが少ないと感じた。
 ・岡山の作家は凄いと思った。
 ・一つ一つの会場は充実していたが、全体として「南北楽観主義」の企画コンセプトが伝わらなかった。
  ⇒岡山では、奈義現代美術館の副館長や作家の方々から今回の「南北楽観主義」はいい企画との声をよく耳にした。
  ⇒「南北楽観主義」という名称は馴染めない。難しい漢字の羅列でアートを標榜するグループとしては如何かと思うし、知人からもよく言われてない。続けるのであれば変更してほしい。という意見の一方、「南北楽観主義」というタイトルは素晴らしい。という意見もあり、評価が両極端である。
  ⇒「南北楽観主義」という企画タイトルについては、極端なくらいの方がいいと思い、あえて「南北」という字句を入れた漢字の名前にした。ただ、企画の名前に合った展覧会だったかどうかは疑問が残る。
  ⇒各作家が、【南北楽観主義‐せとうち-】というテーマを意識した作品を創ったのかどうか。
  ⇒テーマに対して分かりやすいコンセプトが示されるべき。
 ・販売する展示か見せる展示か、南北楽観主義としてどうありたいか、何を伝えたいかによって、展示のあり方が変わってくる筈。その辺も要項に盛り込んでおいたら視点の定まった見方ができ面白かった。
 ・今回のsottoprodottoでの展示は、いつものお客さんだけでなくアート関係者の方が多く来てくれた。今までにない空間だったので、滞在時間も長く内容への評価も高かった。
 ・今回イベントにしっかり参加できてないのが申し訳ない。もっと「南北楽観主義」の空気感を味わいたかった。
 ・交流の幅をもっと広げられるようなシステム作りが出来ないものか。小さく纏まらず、市自体の交流に発展するものになって欲しい。
 ・交流展は継続事業ということなので、来年以降の面白さで尻すぼみするか活気付くかが決まる。今回は失敗。芸フェス自体の魅力が薄い。次回は「南北」という言葉をもっと多角的に捉えた提案が必要。
 ・バウハウスは、搬入口を大きくする必要がある。空間が勿体ない。
 ・初めてのことで戸惑ったこともあったようだが、総合プロデューサーの必要を感じさせられた。
(2) 良かった点
 ・作家同士の交流が出来、宇野と高松の距離が近づいた。
 ・多くの人たちとコミュニケーションが出来た。新しい作家、宇野の人と交流できた。
 ・良い作家との出会いは、自分を刺激します。
 ・台風によるトラブルにも気持ちよく対応していただいた。
 ・宇野側の細やかなサポートが嬉しかった。搬入、搬出の応援が大変助かった。
 ・芸術を通じた地域貢献が出来る可能性が見えた。
 ・宇野は、海が近いのが気持いい。
 ・食事補助券もありがたかった。
 ・辻褄について墨(ぼくてき)で書かせるコーナーは、辻褄について考える時間が出来面白かった。
 ・車座談義では、お互いの活動状況を聞くことが出来た。
 ・これまで玉野の作家だけの展覧会(一時期岡山県内を含む)が続いたが、今回県外作家との交流が出来たことは、南は高知、北は鳥取など、より広い範囲の南北交流のきっかけになって良かった。
 ・岡山の作家や芸フェス実行委の皆様と出会うことが出来嬉しく思う。
 ・宇野という場所も少し垣間見ることができたし、又普段に行きたい場所になった。
 ・サンコアに展示したあきやまさんについて、彼の本領が発揮できてなかったのではないかと心配されたサンコアのオーナーの計らいで、来年3月あきやまさんの個展をサンコアで開くこととなった。
 ・カフェZのオーナーも観に来られて、評判が良かった。
 ・アーティストが協働して一つの空間を作る心意気を知ることが出来て嬉しかった。
(3) 運営上の問題
 ・WEBによる情報発信が不十分で、公式HPを作る必要を感じた。
  ⇒展覧会場風景の掲載、イベントの告知。最も大切なポイントであり専門的にやる人が必要です。
  ⇒芸フェスの公式HPがあれば、開会式延期の通知もよりスムーズに広報できたと思う。(BLOGでの広報はあったが。)
  ⇒台風による影響は仕方ないことだったが、開会式延期の決定と通告が遅過ぎた。今回、自然災害の影響を考慮していなかったが、今後は、考慮に入れておくべきである。
・広報をどこまで積極的に行うか。今回は不十分だったと思う。
  ⇒新聞、地域新聞、テレビ、ラジオ、情報誌、美術手帳、美術館、画廊関係など、直接出向くぐらいでないと簡単に載せてくれない。
  ⇒一般の人にとってなぞに満ちたアートの世界に一歩足を踏み入れてもらうには、メディアを上手く活用して情報や素性をオープンにするべき。プレスリリース
  ⇒山陽新聞玉野圏版の記事は駅東のみで、サンコア、バウハウス、ソトプロの記事がなかった。
  ⇒各作家が知っているメディアの人脈などを紹介し合えたらいいと思う。
 ・チラシが、アートという感覚ではなく、観光案内なのかというイメージがあった。
  ⇒+DMがあった方が効果的だったのではないか。
  ⇒サンコアさんには固定客が居られるので、「サンコア独自のDMがあれば来客ももっと多かったし、販売にも繋がった。」と言われていた。
  ⇒ギャラリーの場所が分かりにくかった。詳細マップ(駐車場併記)があった方が良かった。
  ⇒高松だけのチラシがあってよかったと思う。
  ⇒高松では、実行委員会のチラシを1,000部頂き商店街のラックに入れておいたが、余り取られていなかった。美術館などにも送り、アート関係者にも見ていただいた。
  ⇒宇野側では、岡山のギャラリー、玉野市の公民館などに置き、実行委員会関係者に配布した。
 ・宇野側のスタッフが不足して、作家自身が会場当番をせざるを得ない状況だった。
  ⇒今の玉野のスタッフ数では規模が大き過ぎた。3箇所の会場に十分な対応をするには、スタッフの絶対数が不足しており、玉野側のスタッフ組織を充実させる必要がある。
  ⇒高松側については、高松に任せっきりだったが、事前の確認や展示を含め、一つ一つの会場の管理をもっと丁寧に見るべきだった。
  ⇒もっと早い段階で分かっていれば、高松側のスタッフを活用できたかも。
  ⇒今回は同時開催としたが、時期をずらすとか隔年単位で会場を変えるとかも考えたらどうか。
 ・各会場の会期の初めと終わりを揃えるべきだった。
  ⇒アートマルシェの開催に合わせるということが決まった段階で既に2ヶ所の会場(バウハウス&サンコア)では先約があった。アートマルシェの開始時期に合わせる必要性(理由)は何だったのか。
  ⇒sottoprodottoは丸亀町のギャラリーなので、商店街としては、人の流れを作るということから、一体的な開催とせざるを得なかった。又、広がりを持たせることも必要で、常に集客も求められる。
 ・作家へのフィーについては、当初お互いが夫々に負担しあうことで合意したのだが、出展作家に対して本当にそれでよかったのかどうか。
  ⇒作家に謝礼が出るような展覧会システムを構築して頂きたい。作家はもっとプロ意識を持つべき。
  ⇒企画書をキチンと書き評価を受けたら、予算は商店街振興組合から出して頂けるが、予算書の提出時期の問題もある。今回は1月26日に宇野側から最初の提案・打合せを行い、高松側から好反応を頂いたが、第2回打合せが4月8日となり、時期的に遅かった。
  ⇒準備は早い方が良い。今後継続するとすれば、新たな実行委員会を立ち上げるのも検討すべき。
 ・作家への対応、受け入れ態勢
  ⇒高松では、宇野側の作家に対してご迷惑を掛けて申し訳なかった。
  ⇒自然災害によるフェリーの休止や瀬戸大橋の通行止め等、想定内で考えて欲しい。宿泊スペースの確保、風呂、布団、トイレ、ホームステイスタイル等も。
 ・イベントへの参加が得られる工夫が必要。
  ⇒文化協会、教育委員会等他の団体やグループとの連携。
  ⇒スタンプラリーや宇野の街を歩いてもらうような工夫。
  ⇒街がアート展開催を知らない人が多いと感じた。
  ⇒街全体を巻き込む位でないと街は応援も協賛もしてくれない。
 ・各会場の作家さんの経歴、ポートフォリオ、価格リストが初日に出来ていなかった。
 ・アンケート用紙も最初から準備しておくべきだった。
(4) 今後の活動に向けて
 ・楽しく観るための工夫として、初めのオープニングパーティと最終日のアートクルーズ、車座談義、クロージングパーティだけだったが、途中にもワークショップ等のイベントがあった方が良かったと思う。
  ⇒地域や子どもたちを巻き込んだワークショップ、滞在制作なども検討したい。
  ⇒子どもも参加できるような展覧会。ワークショップ、1日先生など。
 ・玉野と高松が混ざり合うといった形のイベントにしたい。
  ⇒例えば、フェリーで何かをやるとか、多くの人が楽しめるもの。
  ⇒作家も主催者も街の人も満足できるようなもの。
  ⇒フェリー内にも何らかの仕掛け(ライブなど)があると楽しいかなぁと。
 ・続けることが大事と思う。今回の交流展の継続を望む。岡山と香川の「食」の交流も楽しみたい。
 ・毎年ではなくても南北楽観主義を定期的に続けていって欲しい。又、岡山と香川だけでなく、毎年近県を一つずつ増やしていっても面白いかと。
 ・会場も、sottoprodottoだけでなく、市美ほかの施設も紹介することが出来る。
 ・今後も全国各地のアーティストを招待して、玉野とアートをリンクしていけばいいと思う。
 ・2012のテーマ「同世代に生きる」
  ⇒アートデート、宇野でアートピクニック、宇野でアートジェネレーションなど。
  ⇒バーチャルではない心のアートコミュニケーション
 ・宇野港周辺を歩き回ったけど、結構楽しかったから、宇野の良さを引き立てるプロジェクト!ののチャン記念館ともリンクしたらいいと思う。東江戸川3丁目!
 ・公開制作。アーティストインレジデンス。
                                          以上

四国への玄関口・宇野港のフェリー桟橋から乗船する参加者たち

高松の繁華街・丸亀町界隈の夜景
sottoprodottoで行われた反省会に参加した作家たち