12月15日
「神が人間にのみ与え給うた二つの能力、それは新しいものを創り上げる能力、そして人にサービスすることの出来る能力である。」
この言葉は、三井造船の相談役をされていた頃、中曽根内閣の第2臨調(第2次臨時行政改革調査会)で第2部会(行政組織及び基本的行政制度の在り方)の部会長を務め、JR東日本の初代会長に就任した山下勇氏の言葉である。彼は、当時の国鉄の時代錯誤で旧態依然たる設備や考え方を、ものの見事に改革した国鉄改革の第一の立役者だった。
彼は、「JRにおける乗客へのサービスは、言葉や態度だけではなく、技術に裏打ちされた技術サービス産業でなければならない。」と言われ、さらに「技術の根源は、ものづくりにある」という信念から、JRの中に車両の新造部門までも造られた。
首都圏を走る京浜東北線、山手線、中央線、総武・中央快速線など大部分の電車は、新潟県にある新津車両製作所で製作されたものである。通勤地獄の緩和を考えた素晴らしい電車だ。この基地を起点に、JR東日本の技術サービス事業は着実に進歩を遂げている。
さて、タイトルに掲げた「接遇の基本-技術サービスも」にある「接遇」は、多くのお客さんに接するデパートの接客係や役所の窓口などでの対応のことを示すが、ここでは特に医療現場における患者やその家族と接する場面での接遇について考えてみよう。
病院の接遇は、医師を始めとする医療部門や事務部門の担当が、患者の肉体的・精神的な痛み・苦しみ・悩み等を真剣に分かろうという気持ちで、目の前の患者に向き合うこと。患者の持つ不安や疑問、不平不満等の声に対して、患者の身になって真剣に耳を傾けることから始まる。患者のそれらの声に対して的確なアドバイスを提供し、相互のコミュニケーションとインフォームド・コンセントにより、患者や家族の方が納得したスムーズな医療が行われるようになれば、心のこもったいい接遇が出来たことになるのだと思う。
病院は、今「淘汰の時代」に入っている。生き残り競争(サバイバル)の時代に入ったと言っても過言ではない。病院が患者を選ぶのではなく、患者或いは社会が病院を選ぶ時代になっている。
選ばれる病院となるためには、並大抵の努力では難しいといわざるを得ない。医療技術の向上はもとより、医療サービスの質の向上が評価を受ける病院になる。つまり、医療技術が信頼の第一要因ではあるが、これからは、接遇対応の質の向上が今以上に強く求められる。「心の温かさ・優しさ・いたわり・愛情」を持って接することが、選ばれる病院の大きな要素である。
接遇は、「言葉」と「態度」で表現される。
素直な気持ちでする「はい」という返事、朝一番「おはようございます」の挨拶、患者の顔を見て「いかがなさいましたか」と迎え入れる優しい声掛け、「お待たせいたしました」というお詫びの言葉、「ありがとうございます」の感謝の気持ち、「お大事に」といういたわりのことば等々、夫々の場面に応じた挨拶や言葉が、相手の気持ちを解きほぐし、この病院で診てもらってよかったと思われるようになるものだと思う。
服装、身だしなみ、器具や設備を扱う動き等にも、優しさや温かみが現われる。患者に信頼される手技と態度そして言葉づかい、全ては患者のためにと思う気持ちの表れである。
病院というもの、折角神が我々に与えてくれた「人にサービスすることの出来る能力」をフルに発揮して、“地域の人々に親しまれ信頼される病院”を目指し、心を込めた接遇に努めてもらいたいと思う。
病院も技術サービス産業の最たるものの一つでもある。患者は早く治ることを最も期待している。そうではあるが、最も流行る病院というのは、患者や家族を安心させてくれる病院ではないだろうか。
2009年12月15日火曜日
2009年12月14日月曜日
サッキータイム ~12月の出来事(その2)吉良邸討ち入り~
12月14日(月) 赤穂浪士の吉良邸討ち入り
12月14日は、忠臣蔵で有名な赤穂浪士四十七士による吉良邸討ち入りの日に当たる。
時は元禄14年(1701年)3月14日、赤穂藩藩主/浅野内匠頭は、勅使(天皇の使者)饗応の接待役を果たすべく高家/吉良上野介にその作法等を習おうとするが、なぜか(付届けの額が少なかったのかも?)意地悪く扱われた (つまり今で言うイジメに遭った訳だ) 。堪忍袋の緒が切れた内匠頭は、江戸城内松の廊下で刃傷沙汰に及び、徳川綱吉の命により即日切腹となった。一方の吉良にはお咎(トガ)めなしだった。
桜舞い散る庭先での切腹を前に詠んだ有名な辞世の句は、内匠頭の気持を率直に表している。
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」
(風に散り行く桜の花びらも名残惜しい。だけど、私自身の名残惜しさは比べようもない。散り行くわが身の悔しさをどこにぶつけたらいいんだ!)
主君の無念を晴らすべく大石内蔵助率いる四十七士は、幾多の艱難辛苦を乗り越え、翌元禄15年12月14日、吉良邸への討ち入りに見事成功、上野介の首級を旗印に江戸の町を凱旋した。
今から18年前(平成3年、1991年)、JR東日本のプロジェクト担当のため約2年間の東京赴任を始めた頃、一人泉岳寺(港区高輪)を訪ねたことがある。季節外れ(初秋)にも拘らず、四十七士の墓には、線香の煙が絶えることはなかった。
12月14日は、忠臣蔵で有名な赤穂浪士四十七士による吉良邸討ち入りの日に当たる。
時は元禄14年(1701年)3月14日、赤穂藩藩主/浅野内匠頭は、勅使(天皇の使者)饗応の接待役を果たすべく高家/吉良上野介にその作法等を習おうとするが、なぜか(付届けの額が少なかったのかも?)意地悪く扱われた (つまり今で言うイジメに遭った訳だ) 。堪忍袋の緒が切れた内匠頭は、江戸城内松の廊下で刃傷沙汰に及び、徳川綱吉の命により即日切腹となった。一方の吉良にはお咎(トガ)めなしだった。
桜舞い散る庭先での切腹を前に詠んだ有名な辞世の句は、内匠頭の気持を率直に表している。
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」
(風に散り行く桜の花びらも名残惜しい。だけど、私自身の名残惜しさは比べようもない。散り行くわが身の悔しさをどこにぶつけたらいいんだ!)
主君の無念を晴らすべく大石内蔵助率いる四十七士は、幾多の艱難辛苦を乗り越え、翌元禄15年12月14日、吉良邸への討ち入りに見事成功、上野介の首級を旗印に江戸の町を凱旋した。
今から18年前(平成3年、1991年)、JR東日本のプロジェクト担当のため約2年間の東京赴任を始めた頃、一人泉岳寺(港区高輪)を訪ねたことがある。季節外れ(初秋)にも拘らず、四十七士の墓には、線香の煙が絶えることはなかった。
サッキータイム ~まちづくり講座・第14回~
12月13日(日) 宇野・築港地区まちづくりワークショップ
今年最後の講座は、5~11月の7ヶ月間に学んだことやフィールドワークを踏まえて、「宇野・築港地区の楽しいまちづくり提案」というテーマのワークショップを行なった。
手順として、
①「地区の良い点は何か、どんな良い点があるか。」を各自付箋紙に書いてもらい、
②「良い点をさらに良くするにはどうすればいいか。」を夫々に提案し、最後に
③「それを実現するための方策は何か。」について議論した。
以下順番に議論の概要を示す。
①について(良い点は何?)
(1)宇野港は自然に恵まれ、景観が美しい。(瀬戸内の島々、高辺山、鳴滝、海岸線)
(2)歴史・文化にも恵まれている。(アートスポット、駅東創庫、連絡線遺構、芸術フェスタ、ボランティア団体、ゴルフ場、駅前オブジェ)
(3)居住環境が良い。(晴れ、暖かい、静か、広い土地)
(4)海上交通の便がいい。(フェリー、クルーズ、海上交通拠点)
(5)食べ物が美味しい。(B級レストラン、魚、ミルクパーラーのケーキ、むらまつのコロッケ)
②について(さらに良くするには?)
(1)国立公園・保安林で山の木々が放置されていて折角の景観が見えない状況である。手を入れて景観がよく見えるようにして、遊歩道を作るなどアクセスも整備する。
(2)三井造船の進水式ツアー(昼食・保険料付きで4,800円)が凄い人気で、チケットがアッと言う間に売り切れリピーターも多い。このツアーに組み込む観光地を作る。
(3)桟橋遺構の看板があるが、見栄えが悪いので、観光案内の統一的なデザイン看板にして書き換え、人が読んでくれるようにする。
③について(実現のための方策)
(1)「どういうまち作りをするのか」に対して、「まちの人が、毎日楽しく幸せになるようにすればいい。」ということで、議論が進んだ。
(2)宇野駅前に放置自転車があって困っていたが、ボランティアの地道な活動で放置自転車が皆無になった。役所が作っていた「放置自転車現金」の看板は何の役も立ってなかった。つまり、実現のために役所に頼んでも解決しない。先ず自ら動くことが大切。
(3)例えば、各家庭が自分の家の前を綺麗にし、花を競うように植える活動をして町全体を美しくすることを提唱したらどうか。「みんなニコニコ、町をきれいに」すれば来客も驚き、結果として観光客が増えてくると思う。
内側から魅力を高めることが大事という結論で締めくくった。
有意義なワークショップとなった。
この日は、今年最後の講座日だったので、ワークショップ終了後、お茶とケーキで茶話会を行なった。茶話会では、玉野のアートの拠点「駅東創庫」に対して、オーナーの方針変更のため、参加アーティストの気持ちが揺れており、その対応の話で盛り上がった。
写真は、宇野・築港地区の良い点カードの纏め図である。右上のカードは、小学低学年児童の書いたもの。
今年最後の講座は、5~11月の7ヶ月間に学んだことやフィールドワークを踏まえて、「宇野・築港地区の楽しいまちづくり提案」というテーマのワークショップを行なった。
手順として、
①「地区の良い点は何か、どんな良い点があるか。」を各自付箋紙に書いてもらい、
②「良い点をさらに良くするにはどうすればいいか。」を夫々に提案し、最後に
③「それを実現するための方策は何か。」について議論した。
以下順番に議論の概要を示す。
①について(良い点は何?)
(1)宇野港は自然に恵まれ、景観が美しい。(瀬戸内の島々、高辺山、鳴滝、海岸線)
(2)歴史・文化にも恵まれている。(アートスポット、駅東創庫、連絡線遺構、芸術フェスタ、ボランティア団体、ゴルフ場、駅前オブジェ)
(3)居住環境が良い。(晴れ、暖かい、静か、広い土地)
(4)海上交通の便がいい。(フェリー、クルーズ、海上交通拠点)
(5)食べ物が美味しい。(B級レストラン、魚、ミルクパーラーのケーキ、むらまつのコロッケ)
②について(さらに良くするには?)
(1)国立公園・保安林で山の木々が放置されていて折角の景観が見えない状況である。手を入れて景観がよく見えるようにして、遊歩道を作るなどアクセスも整備する。
(2)三井造船の進水式ツアー(昼食・保険料付きで4,800円)が凄い人気で、チケットがアッと言う間に売り切れリピーターも多い。このツアーに組み込む観光地を作る。
(3)桟橋遺構の看板があるが、見栄えが悪いので、観光案内の統一的なデザイン看板にして書き換え、人が読んでくれるようにする。
③について(実現のための方策)
(1)「どういうまち作りをするのか」に対して、「まちの人が、毎日楽しく幸せになるようにすればいい。」ということで、議論が進んだ。
(2)宇野駅前に放置自転車があって困っていたが、ボランティアの地道な活動で放置自転車が皆無になった。役所が作っていた「放置自転車現金」の看板は何の役も立ってなかった。つまり、実現のために役所に頼んでも解決しない。先ず自ら動くことが大切。
(3)例えば、各家庭が自分の家の前を綺麗にし、花を競うように植える活動をして町全体を美しくすることを提唱したらどうか。「みんなニコニコ、町をきれいに」すれば来客も驚き、結果として観光客が増えてくると思う。
内側から魅力を高めることが大事という結論で締めくくった。
有意義なワークショップとなった。
この日は、今年最後の講座日だったので、ワークショップ終了後、お茶とケーキで茶話会を行なった。茶話会では、玉野のアートの拠点「駅東創庫」に対して、オーナーの方針変更のため、参加アーティストの気持ちが揺れており、その対応の話で盛り上がった。
写真は、宇野・築港地区の良い点カードの纏め図である。右上のカードは、小学低学年児童の書いたもの。
2009年12月11日金曜日
サッキータイム ~ののちゃんの街・たまの~
12月11日(金)
朝日新聞の有名な4コマ漫画「ふじ三太郎」の後の漫画として、1991年10月から始まった「となりの山田君」が1997年にタイトルを変え「ののちゃん」になった。
作者のいしいひさいち氏は、岡山県玉野市築港の出身である。今年に入って、それまで見向きもしなかった故郷に目を向けるようになり、何とののチャンの看板を宇野港商店街の中心部に取り付けることを許可したのだ。看板設置位置はダテ薬局の壁である。かなりでかい。
現在、市では宇野港を中心とした中心市街地活性化協議会を設け色々議論しているが、その部会の一つとして「いしいひさいち部会」がある。ダテ薬局の社長/伊達元英氏が部会長である。彼は、いしい漫画の世界を、笑顔の街、開かれた港街、昭和の街といったコンセプトで、活性化に活かそうと一生懸命である。
「ゲゲゲの鬼太郎」の作者水木しげるの出身地・鳥取県境港市では、妖怪博物館まで造って水木しげるでまちおこしを図っている。今一有名でないののちゃんで果してまちおこしが可能かどうか、何も無い玉野には、やってみる価値はあるのかもしれない。芸術フェスタの活動とどうリンクを図るのか、よく考えないと・・・

朝日新聞の有名な4コマ漫画「ふじ三太郎」の後の漫画として、1991年10月から始まった「となりの山田君」が1997年にタイトルを変え「ののちゃん」になった。
作者のいしいひさいち氏は、岡山県玉野市築港の出身である。今年に入って、それまで見向きもしなかった故郷に目を向けるようになり、何とののチャンの看板を宇野港商店街の中心部に取り付けることを許可したのだ。看板設置位置はダテ薬局の壁である。かなりでかい。
現在、市では宇野港を中心とした中心市街地活性化協議会を設け色々議論しているが、その部会の一つとして「いしいひさいち部会」がある。ダテ薬局の社長/伊達元英氏が部会長である。彼は、いしい漫画の世界を、笑顔の街、開かれた港街、昭和の街といったコンセプトで、活性化に活かそうと一生懸命である。
「ゲゲゲの鬼太郎」の作者水木しげるの出身地・鳥取県境港市では、妖怪博物館まで造って水木しげるでまちおこしを図っている。今一有名でないののちゃんで果してまちおこしが可能かどうか、何も無い玉野には、やってみる価値はあるのかもしれない。芸術フェスタの活動とどうリンクを図るのか、よく考えないと・・・
2009年12月9日水曜日
サッキータイム ~野﨑邸訪問(創作狂言の迨暇堂公演について)~
12月9日(水)
倉敷では、毎年2月21日~3月7日の2週間、「倉敷雛めぐり」という優雅なまつりが、倉敷・児島・水島・玉島・真備船穂の5地区で開催されている。中でも児島の野﨑邸・迨暇堂(タイカドウ)での雛飾りは圧巻だという。未だ観たことはないが、100畳敷きの大広間の四周に展示されるとのこと。中央の空いた所で、地区の方々のボランティアによる演芸なども披露されるそうだ。因みに昨年のプログラムを見ると、筝曲演奏・日舞・銭太鼓・創作舞踊・大正琴・オカリナ演奏等が並んでいる。
今日の野﨑邸訪問の目的は、来年の雛めぐりにおいて、今年山田で披露した創作狂言「野﨑武左衛門」を演じてもらえないかとの相談について確認するためだった。野﨑邸側は、ボランティア(無償)でやってもらいたい意向のようだが、狂言実施側は、プロ狂言師の監修を受けてやっていることなので、無償ではできないとの見解。
結論としては、雛めぐりの時ではなく、それが終わった後に入場料を取る(或いは、どこか大口スポンサーに資金提供していただく)形での提案をすることとなった。
このことに対して、多くの人が抱く疑問にどう答えるか?つまり、創作狂言「野﨑武左衛門」を入場料を取って公演することの意義は何かということを明確にする必要があるのであろう。以下は、その回答案である。
今年、玉野市山田で初公演された創作狂言「野﨑武左衛門」は、東野﨑浜塩田を開墾した野﨑武左衛門の功績を称え顕彰したストーリーで、経済人・文化人としての武左衛門の優れた人物像を分かりやすく表現したものである。
武左衛門の生まれ故郷である児島には、野﨑邸という彼の遺した優れた歴史遺産があり、見学に訪れた多くの観光客がその文化財に感激して帰られる。ところが実は、その遺産を遺した武左衛門という人のこと、彼が造った入浜式塩田がどのようなもので、どのような人たちがどのような気持ちで働いていたのかを知ること若しくは想像することは、実際には中々難しい。というより、不可能に近いと思われる。
今回創った狂言は、武左衛門の造った東野﨑浜塩田で働いた浜子たちが、日々の作業の中で武左衛門の業績を知らせ、入浜式塩田作業を動きで示しており、遺産を観ただけでは知ることの出来ない当時の姿を分かりやすくイメージすることができる。
そこで、児島・玉野はおろか岡山県人としても誇るべき偉人・野﨑武左衛門を称揚した創作狂言「野﨑武左衛門」を生まれ故郷である児島味野の地/野﨑邸・迨暇堂で公演することは、歴史の必然であり極めて意義深いことである。
写真は、(上)野﨑邸を守る学芸員の方たち、(下)創作狂言公演関係者

倉敷では、毎年2月21日~3月7日の2週間、「倉敷雛めぐり」という優雅なまつりが、倉敷・児島・水島・玉島・真備船穂の5地区で開催されている。中でも児島の野﨑邸・迨暇堂(タイカドウ)での雛飾りは圧巻だという。未だ観たことはないが、100畳敷きの大広間の四周に展示されるとのこと。中央の空いた所で、地区の方々のボランティアによる演芸なども披露されるそうだ。因みに昨年のプログラムを見ると、筝曲演奏・日舞・銭太鼓・創作舞踊・大正琴・オカリナ演奏等が並んでいる。
今日の野﨑邸訪問の目的は、来年の雛めぐりにおいて、今年山田で披露した創作狂言「野﨑武左衛門」を演じてもらえないかとの相談について確認するためだった。野﨑邸側は、ボランティア(無償)でやってもらいたい意向のようだが、狂言実施側は、プロ狂言師の監修を受けてやっていることなので、無償ではできないとの見解。
結論としては、雛めぐりの時ではなく、それが終わった後に入場料を取る(或いは、どこか大口スポンサーに資金提供していただく)形での提案をすることとなった。
このことに対して、多くの人が抱く疑問にどう答えるか?つまり、創作狂言「野﨑武左衛門」を入場料を取って公演することの意義は何かということを明確にする必要があるのであろう。以下は、その回答案である。
今年、玉野市山田で初公演された創作狂言「野﨑武左衛門」は、東野﨑浜塩田を開墾した野﨑武左衛門の功績を称え顕彰したストーリーで、経済人・文化人としての武左衛門の優れた人物像を分かりやすく表現したものである。
武左衛門の生まれ故郷である児島には、野﨑邸という彼の遺した優れた歴史遺産があり、見学に訪れた多くの観光客がその文化財に感激して帰られる。ところが実は、その遺産を遺した武左衛門という人のこと、彼が造った入浜式塩田がどのようなもので、どのような人たちがどのような気持ちで働いていたのかを知ること若しくは想像することは、実際には中々難しい。というより、不可能に近いと思われる。
今回創った狂言は、武左衛門の造った東野﨑浜塩田で働いた浜子たちが、日々の作業の中で武左衛門の業績を知らせ、入浜式塩田作業を動きで示しており、遺産を観ただけでは知ることの出来ない当時の姿を分かりやすくイメージすることができる。
そこで、児島・玉野はおろか岡山県人としても誇るべき偉人・野﨑武左衛門を称揚した創作狂言「野﨑武左衛門」を生まれ故郷である児島味野の地/野﨑邸・迨暇堂で公演することは、歴史の必然であり極めて意義深いことである。
写真は、(上)野﨑邸を守る学芸員の方たち、(下)創作狂言公演関係者
2009年12月8日火曜日
サッキータイム ~12月の出来事(その1)真珠湾攻撃~
12月8日
昭和16年12月8日、日本海軍はハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍太平洋艦隊と基地を攻撃、大打撃を与えた。第2次世界大戦は、この日を契機に歴史上最大規模の戦争に突入した。
この攻撃を成功させたのは、山本五十六の発案による航空機攻撃と魚雷攻撃にあるという。山本は、短期決戦でアメリカとの講和を主張したが、この戦争は4年にも亘り、惨めな敗戦に終わった。
日本の敗戦は、結果的には民主国家になったということから、却って良かったのではないかと思う。太平洋戦争そのものについては、そう勉強したわけではないし体験したわけでもないので、コメントすることはあまりない。ただ、太平洋戦争最後の年、広島と長崎に落とされた原爆のことなどを考えたとき、戦争は多くの人を不幸のどん底に突き落とす邪悪な紛争解決手段であり、二度としてはならないものと思う。
昭和16年12月8日、日本海軍はハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍太平洋艦隊と基地を攻撃、大打撃を与えた。第2次世界大戦は、この日を契機に歴史上最大規模の戦争に突入した。
この攻撃を成功させたのは、山本五十六の発案による航空機攻撃と魚雷攻撃にあるという。山本は、短期決戦でアメリカとの講和を主張したが、この戦争は4年にも亘り、惨めな敗戦に終わった。
日本の敗戦は、結果的には民主国家になったということから、却って良かったのではないかと思う。太平洋戦争そのものについては、そう勉強したわけではないし体験したわけでもないので、コメントすることはあまりない。ただ、太平洋戦争最後の年、広島と長崎に落とされた原爆のことなどを考えたとき、戦争は多くの人を不幸のどん底に突き落とす邪悪な紛争解決手段であり、二度としてはならないものと思う。
2009年12月7日月曜日
サッキータイム ~三井造船、二つの1番船の絵葉書~
12月7日(月)
今日月曜日は、定例のMM会議(MM=三井造船記念館の略)。
MMが実際にできるのかどうか、結構費用もかかるようなので、どうなることやら・・・?でも、古い資料を整理して纏めることは大事なことであり、それだけでも素晴らしいことである。
立派な会館になればそれに越したことはないが、古い資料を常設展示する資料館だけでも意義あることなので、最低限そこまではやってもらいたいと願っている。
今年4月写真の整理から始め、11月中文書類の整理が終わり、現在絵葉書の整理に入っている。
大正6年(1917年)創業から数え今年93年を迎えるが、建造船は1800隻を越えるという。つまり、全ての船の絵葉書が残っているとすれば、1800枚の絵葉書があることになる。整理に当たっては、船名・進水日・船種・載貨重量・船主名・船級・建造所等を記録している。8人のメンバーが週1のペースでやっているが、1回で一人30枚を記録するのがやっとであり、かなりの期間がかかりそうだ。
そこでタイトルに戻るが、今日整理中の絵葉書の中に、極めて貴重な絵葉書が2枚発見された。
その一つは、宇野の仮工場で建造され大正6年12月2日に進水した、三井造船第1番船「海正丸」の絵葉書だ。3枚組で、船の絵と玉工場完成計画図、それと玉工場予定地の全景写真であり、袋を含めて完全な形で残っており、非常に貴重なものである。(写真上)
もう一つは、それから2年後の大正8年、玉の本工場ができて最初の船“EASTERN IMPORTER”の絵葉書(大正8年11月9日進水)である。この船は、当時鋼材輸出を止めていたアメリカが船舶不足に陥り、日米船鉄交換契約(鉄1トンに対し、2重量トンの船を引き渡す契約)によってアメリカに輸出された、載貨重量9,000トンという当時最大級の貨物船である。これも3枚組の絵葉書だが、1枚だけ紹介する。(写真中)
両日とも、工場披露記念式典を兼ねていたそうで、宇野線の特別臨時列車が出るほどの物凄い人出だったそうである。
最下段の写真は、机上に並べられた整理中の絵葉書たちである。

今日月曜日は、定例のMM会議(MM=三井造船記念館の略)。
MMが実際にできるのかどうか、結構費用もかかるようなので、どうなることやら・・・?でも、古い資料を整理して纏めることは大事なことであり、それだけでも素晴らしいことである。
立派な会館になればそれに越したことはないが、古い資料を常設展示する資料館だけでも意義あることなので、最低限そこまではやってもらいたいと願っている。
今年4月写真の整理から始め、11月中文書類の整理が終わり、現在絵葉書の整理に入っている。
大正6年(1917年)創業から数え今年93年を迎えるが、建造船は1800隻を越えるという。つまり、全ての船の絵葉書が残っているとすれば、1800枚の絵葉書があることになる。整理に当たっては、船名・進水日・船種・載貨重量・船主名・船級・建造所等を記録している。8人のメンバーが週1のペースでやっているが、1回で一人30枚を記録するのがやっとであり、かなりの期間がかかりそうだ。
そこでタイトルに戻るが、今日整理中の絵葉書の中に、極めて貴重な絵葉書が2枚発見された。
その一つは、宇野の仮工場で建造され大正6年12月2日に進水した、三井造船第1番船「海正丸」の絵葉書だ。3枚組で、船の絵と玉工場完成計画図、それと玉工場予定地の全景写真であり、袋を含めて完全な形で残っており、非常に貴重なものである。(写真上)
もう一つは、それから2年後の大正8年、玉の本工場ができて最初の船“EASTERN IMPORTER”の絵葉書(大正8年11月9日進水)である。この船は、当時鋼材輸出を止めていたアメリカが船舶不足に陥り、日米船鉄交換契約(鉄1トンに対し、2重量トンの船を引き渡す契約)によってアメリカに輸出された、載貨重量9,000トンという当時最大級の貨物船である。これも3枚組の絵葉書だが、1枚だけ紹介する。(写真中)
両日とも、工場披露記念式典を兼ねていたそうで、宇野線の特別臨時列車が出るほどの物凄い人出だったそうである。
最下段の写真は、机上に並べられた整理中の絵葉書たちである。
登録:
投稿 (Atom)
