2011年4月30日土曜日

自啓ノート(15) ~高齢者の健康管理~

4月30日

今や、全く話題になることのない「後期高齢者医療制度」について紹介し、医療費負担の高額化という観点から高齢者の健康管理の重要性について考えてみたい。

平成20年4月1日に施行されたこの制度、初っ端から「年金から天引きするとはどゆうことや!」とか「年寄りゃはよ死ねということか!」等と、凄い罵声が渦巻いていた。又、「後期高齢者」という言葉自体にも抵抗があったようで、当時福田総理は急遽「長寿」とか言い始めてお茶を濁していた。
サッキーなら、65歳以上「低高齢者」、75歳以上「高高齢者」くらしにしていたかな?低学年/高学年、低年齢/高年齢、低所得/高所得など普通に使われていて、抵抗も少なかったかも。何れにしても、75歳以上の方がかなりな高高齢者であることに変わりはない。

この制度は、元々医療制度改革の一環として「健康保険法等の一部を改正する法律」(平成18年6月公布)により従来の「老人保健法」を「高齢者の医療の確保に関する法律」とし、その内容を全面改正する中で後期高齢者医療制度を規定したものだ。高齢者医療については、長い間「老人保健法」による老人医療制度として実施されてきた。老人医療制度は、国・都道府県・市町村の負担金及び健康保険等の拠出金によって運営されていた。しかし、急速な高齢化の進展により、その財政負担が重くなってきた。それまで、被保険者の年齢や窓口負担の引上げ等を行うなど制度改正でしのいできていたが、どんどん増え続ける高齢者医療費の負担に耐えられなくなった。そこで設けられたのが、「後期高齢者医療制度」だった。
従来と最も大きく異なる点は、「老人保健法」による老人医療制度が他の健康保険等の被保険者資格を持ったまま老人医療の適用を受けていたのに対し、「後期高齢者医療制度」は独立した医療保険制度になった点だ。2枚あった被保険者証が1枚になった。被保険者資格や窓口負担は、従来の老人医療制度のままである。
この制度の運営は、財源として患者負担分を除き、公費5割、現役世代からの支援4割、高齢者自己負担1割となっている。この1割分について各人の所得に応じた額を、年金から天引きする形になった。政府のPRが不十分で、ここを責められたのだ。後期高齢者に対する医療給付と療養給付は、従来の保険で支給されるものと同じなのだ。保険料の算定は、均等頭割50%&所得比例50%で、全国平均約6,200円/月となっている。
1300万人いる後期高齢者はこれから益々増え、逆に若年者は急速に減少してくる。従って、現役世代が負担している4割の支援金は、個人の保険料自体増やされるが、そのまま4割の支援は維持出来なくなってくる。つまり将来的には、高齢者自身の保険料負担を増やさざるを得なくなってくるのだ。今でも厳しい高齢者の負担が今後益々増えてしまうことになる。勿論若い世代の負担も増え、今以上に厳しくなる。

高騰する保険料負担を減らすためには、皆が健康で病気に罹らないことだ。その対策として打ち出されたのが、40歳以上の人に課せられることとなった特定検診(所謂メタボ健診)である。これが又どうなんだとの論調もあった。保険給付がこれまでより増えるとの意見も一部にあるようだ。
思うに「皆が健康で病気に罹らなくなれば医療費は抑制されるであろう」と言いたいが果して・・・・。

2年前に後期高齢者廃止をマニフェストに掲げた民主党政権は、昨年末後期高齢者廃止法案を提出したらしいが、どうも中身は殆んど変わりないもののようだ。民主党も、75歳以上の高高齢者の医療費負担が重く、年令で区分した考えを反映すべきことにやっと気付いたらしい。

年金でかつかつの生活を強いられる高齢者にとって、保険料増額の負担は重い。できるだけそうならないためには、できるだけ病気にならないことだ。
後期~~何れ誰もが辿る道、いついつまでも自立できる健康な高高齢者を目指さなくっちゃ!

2011年4月26日火曜日

祈り ~スーちゃんのメッセージ~

4月26日

21日に乳がんで亡くなった田中好子さん(キャンディーズのスーちゃん)の告別式が、25日多くの参列者のもとしめやかに執り行われたことが、TV各局で放映されていた。

55歳の働き盛りで亡くなったのだから、その死を惜しむ人が大勢いるのは当然ではあるが、それにしても告別式で本人の肉声テープが流されたのは前代未聞のことだと思うし、絞り出すようなその声とその内容には涙せざるを得なかった。
死の数週間前の最後の力を振り絞り、(それまで既に十分にやっておられたとは思うが)生前果し得なかった社会貢献、震災被災者への復興支援に、死後も夏目雅子が果たしたような形で復活したいと言う、その覚悟を多くの人たちに伝えたのである。

スーちゃんのメッセージ
(2011年3月25日告別式でのスーちゃんの肉声メッセージ全文)

こんにちは。田中好子です。
今日は3月29日。東日本大震災から2週間たちました。被災された皆さまのことを思うと、心が破裂するように痛み、ただただ亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。
私も一生懸命、病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。でもその時は必ず天国で、被災された方のお役に立ちたいと思います。それが私の務めと思っています。
今日お集まりいただいている皆様にお礼を伝えたくて、このテープを託します。キャンディーズでデビューして以来、本当に長い間お世話になりました。幸せな、幸せな人生でした。心の底から感謝しています。
特にランさん、ミキさん、ありがとう。二人が大好きでした。
映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。もっともっと女優を続けたかった。
お礼の言葉をいつまでもいつまでも皆様に伝えたいのですが、息苦しくなってきました。
いつの日か、妹(義妹)の夏目雅子のように、支えてくださった皆様に、社会に、少しでも恩返しができるように復活したいと思っています。
かずさん(夫の小達一雄さん)、よろしくね。その日までさようなら。



キャンディーズが全盛期の頃(昭和51,2年頃)、サッキー自身は既に30台半ばに差し掛かっていて、キャンディーズをTVで見ることはあっても、カラオケで歌うことはなかった。当時、30台の男が歌っていたのは、演歌かフォークソングが主流だった。女性アイドルの歌を歌うのは、女性だけだったように思う。ところが、大学同窓の新入社員歓迎会で、入社したての男性社員(22、3歳)がキャンディーズの「春一番」を歌ったのには、正直ビックリした。その後、サッキー自身も彼女等の歌を歌うことに、それほど違和感を感じなくなったように思う。

サッキーも知らなかったことだが、弟や義妹(夏目雅子)を若くして亡くしたことから基金活動や厚生省関係の社会貢献をされていたという。又、今朝のTVでは、実話に基づく交通事故(飲酒運転)撲滅のためのキャンペーン映画「0(ゼロ)からの風」で、迫真の演技を見せていたことを紹介していた。

昨年夏の8月6日、宇野港(Uno Port Art Films宇野港芸術映画座上映シリーズ)で上演された「黒い雨」では、主役の原爆被災者の娘役を見事に演じきっていた。この映画で彼女は、日本アカデ ミー賞大賞・ブルーリボン主演女優賞を受賞、演技派女優に育っていたのだ。

誠に惜しい女優・スーちゃんを余りにも早く亡くしてしまったが、彼女は必ずや復活することだろう。心からご冥福を祈るばかりだ。 合掌

2011年4月23日土曜日

サッキータイム ~「南北楽観主義~せとうち~」~

4月23日

今年9年目を迎える玉野みなと芸術フェスタ2011では、高松と宇野のアート/アーティストによる交流・交換展「南北楽観主義~せとうち~」を開催することになった。
「宇野港でないと出来ない、或いは宇野港だからこそできるアート展を開催したい。」と言うア-ティストの希望を議論するうち、「宇高交流アート展」を開催したらどうかと言うことから、標題に示すテーマのアート展を開催することとなった。
テーマ名の発案者は、駅東創庫で平面・立体アートを手掛けているShigeru氏である。そのコンセプトを文章化したのは、同じく駅東創庫で活躍している美術家清水直人氏である。以下その内容を紹介する。

企画概要
宇野側の作家は高松で作品を展示し、高松側の作家は宇野で作品を展示する、せとうちを挟む南北アーティストによる交流プログラム。

交流・交換展「南北楽観主義~せとうち~」企画コンセプト
この企画は、作家個人のネットワークに加え、アート団体や企業などの協力を得て、異なる南北の土地で活動する作家の交流・交換展を開催することで、各団体の交流を活発化するとともに、芸術活動の理解や意識を深めることを目的としている。この活動を通して、異なる土地で活動を行う作家・団体等のネットワークを築き、情報の交換、個々の活動の活発化、他ジャンルとの連携、プロジェクト化、又今後活動を起こしたい人々に情報を提供するなど、芸術・芸能の活動基盤の強化と促進を図ることとする。

「南北楽観主義」とは
ここでいう「南北」とは、一つには宇野と高松の地理的な意味を示しており、もう一つには、対峙するものを指している。つまり、地域、歴史、経済、風土、それに伴う文化、国など、多種多様な要素を対照しつつ、対称的に物事を捉える機会や視点を意味する。
インフラ整備や天候・地理的な要因により、中四国地方は、東西に対してのアクセスや交流に比べ、南北方向に対しては、交流が難しい現状にある。これを身近な南北問題と捉え、かつてはなかった文化的な「縦(南北)の道」を築くことで、新たな文化の広がりや活動の可能性、顕在化が進むのではないかと考えた。
「楽観主義」とは、元々は哲学用語として生まれたもので、原義は一般的に使用されているニュアンスとは異なる。しかし、ここでは一般的に使用されているニュアンスとして使用している。つまり、「気楽に」と言ったイメージで使っているのだが、さらに「上昇志向」の意味を持っており、未来をよりよいものにするという姿勢や思想を指している。
又、「楽観主義」とは、鑑賞者に対してのメッセージでもある。一般的にアートは、マジョリティの日常生活とは乖離することもあり、場所・心理的な要因に加え、作家の持つコンセプトやテーマ自体が難解ということで、時として拒絶される場合もある。しかし、今回の楽観主義には、純粋に観て・感じて・楽しむことを前提とした、「楽観主義鑑賞」で楽しんでいただけたらという願いをも含んでいる。

今日は、高松から、sottoprodotto と言う高松側事務局のSさんと丸亀町アートプロジェクト事務局のTさんの二人が玉野に来られ、会場となる駅東創庫で、日程や開催要領などについて打合せを行った。駅東創庫では、丁度開催4周年の「駅東日和」と言う展覧会をやっておりその展示作品を見学後、商店街にあるギャラリーサンコア、文化会館BAUHAUS、アート工房るんるん島などを見学してもらった。二人は、宇野港周辺のアートな雰囲気にとても感心され、「高松とは全く違った感じだが、温かな雰囲気だった。」と楽しい気分で帰られた。
開催日も9月3日(土)~11日(日)と決まった。「南北楽観主義」きっとうまく行くに違いない。

写真は、上2枚が駅東倉庫のGallery MINATO の説明をするShigeru氏&清水氏と話を聞くS&Tさん。3枚目は商店街通りを行く4人、4枚目はギャラリーサンコアの店内である。丁度藍染の展覧会を開催中だった。

2011年4月22日金曜日

自啓ノート(14) ~YS活動~

4月22日

♪春は名のみの 風の寒さや    
 谷の鶯 歌は思えど    
 時にあらずと 声も立てず      
 時にあらずと 声も立てず♪       

♪氷融け去り 葦は角ぐむ
 さては時ぞと 思うあやにく
 今日も昨日も 雪の空
 今日も昨日も 雪の空♪

(吉丸一昌作詞 中田 章作曲)

「早春賦」という、春を待つ歌である。
「童謡の風景」という新聞記事にこの歌の解説があった。苦学して国文学者になった作詞家の吉丸一昌は、この歌に旅立つ若者達への「人生の春を待つ応援歌」の思いを込めたのだ。と書いてあった。
サッキーがこの歌を初めて聴いたのは、2度目の高校受験を前に、当時慶応大学を出たばかりで「トロイカ」や「雪山賛歌」等で売り出し中だったコーラスグループ「ダークダックス」のレコード(ソノシート)からだった。
サッキーは、家が貧乏だったせいもあって、中学卒業後折角高校(済々黌)にも合格したのだが直ぐには高校に行かず、神奈川県横須賀市久里浜にある陸上自衛隊通信学校生徒隊、所謂「少年自衛隊通信生徒」に15歳で入隊した。訓練と勉強に明け暮れる生活の中、「自分はこのままでいいんだろうか」との人生に対する疑問を感じ、上の学校を目指したいとの気持がふつふつと沸いて来た。17歳になった頃のことだ。巷には橋幸夫の「潮来笠」が大ヒットしていた。
入隊2年後の昭和36年正月、思い切って少年自衛隊を辞め、夢に見た大学進学に挑戦すべく、サッキーは2度目の高校受験(今度は熊本高校)を目指した。50年前の早春の頃だった。3年間の楽しい高校生活の後、運良く目指す大学に入ることができた。「早春賦」春待つこの歌は、サッキーにとって人生の春を彩るエポックの歌だったのかも知れない。

さて今日の自啓ノートは、病院勤務をしていた3年前、その年の経営方針を各職場の末端まで浸透してもらいたいとの思いから、夫々の職場で自らの問題を取り上げて解決しようと、1月から試験的に始めた「YS活動」のことについて紹介する。
パイロットチームとして、●●課と△△グループにお願いしたが、そもそも「YS活動」って何か。病院を「みんなの力で良く(Y)する(S)ための、自立した小集団による自主的な課題解決のための活動」と言うのがYS活動の本質である。夫々のグループの力でもって、この病院がもっと良くなればとの思いである。

生産台数世界一を達成したトヨタ自動車では、1968年にQCサークル活動を始めた。トヨタの初期の名車「クラウン」が大ブレークした頃だった。当時、日本の製品は世界市場から「安かろう、悪かろう」と不評を買っていた時代だった。大量生産で安定した品質を保つため、アメリカのデミング博士という先生がSQC(統計的品質管理)と言う手法を持って来て、多くの企業に広めた。品質向上に格好の手法だったが、当初はQC専門のスタッフだけの管理だった。しかし、スタッフがどんなにいい管理をしても現場で作業する人が中々本気にならず、不良品の発生を防ぐことは出来なかった。ついには、スタッフと現場の間に溝が出来るようになった。
そんな中、東京大学の石川馨教授は「何とか現場で働く人たちが興味を持って品質管理を勉強する方法はないものか」と思案して、思いついたのが季刊誌『現場とQC』の発行であり、職長をリーダーとして作業員を含めた自主的な小グループによる「QCサークル活動」である。全国の企業がこの活動に取り組み始め、日本の産業界は、他の多くの要因もあったと思うが、世界に冠たる企業集団に成長してきた。
現在、QCサークルも行き着く所まで来た感があり、方向転換している企業も数多くある。会社によっては、BPS(Best Practice Sharing=最善方法の共有化)と言う考え方の活動をやっている所もある。
病院には、まだまだ色んな問題が横たわっている。接遇・コミュニケーション・業務手順・環境美化等々、決して一人で解決できるものではない。みんなの力を結集して、ベクトルを合わせ、病院を良くしようという意欲が求められている。YS活動は、きっとその解決の力になるものと信じている。
YSでこの病院を良くしよう!そして最後に、You,Smile!

その後、数回の発表会を開いたが、各チームとも自分たちの手で出る成果に手応えを感じ、明るい笑顔で頑張っていた。

2011年4月20日水曜日

サッキータイム ~うのずくり実行委員会~

4月20日

宇野築港商店街を楽しく賑やかな街にすることを目的に、若手クリエーターを全国或いは世界から呼び込もうとする「移住プロジェクト」がスタートした。
そのプロジェクトの実行部隊が「うのずくり実行委員会」である。

若手クリエーターを呼び込むためのプロジェクト発足の話を初めてしたのは、昨年12月1日、築港商店街にある食堂「大阪屋」でのことだった。
当日開かれたアート部会&築港商店街部会の合同会議が終った後、プロジェクトの発案者森岡氏と実行委員長になったガラス作家の森さん、それにサッキー(アート部会長)の3人は、近くの人気食堂大阪屋に行き、一緒に夕食を取った。そこでの森岡氏の話は、非常に魅力的なものであった。森さんも、その中心的役割を担うことに魅力を感じたらしく、実行委員長になってもいいという意欲を示してくれた。
サッキーは、森岡氏に提案書を纏めて、1月のアート部会で発表してくれるようお願いした。

その後、この提案が市の認めるところとなり、中心市街地活性化協議会でも目玉事業の一つに加えられることとなった。というより、玉野市の提案は、今回の移住プロジェクト事業抜きでは認定さえも疑問視される状況になってきたと聞いた。話半分にしても、経産局でも今回プロジェクトを注目していることの証しではないだろうか。

それまでアート部会から抜け出そうかと思っていた人が踏み止まったり、その後新たに加わってくる人も居て、部会そのものも賑やかになってきた。
又、実行委員の一人である大前氏の叔父さんに当たるO氏が、売り物件となっていた鉄板屋じゅじゅを買い取り、今回プロジェクトの第1号店舗に提供することを申し出られたのである。誠に奇特な方というべきか、本当に頭の下がる思いの出来事であった。

これから、この物件を改築して、森さんに入居してもらい、本格的な活動を開始してもらうこととなる。入居の時期は6月になる予定だが、うのずくり実行委員会の活躍を大いに期待したい。超えるべき難問や解決すべき課題は山のようにあると思うが、一つずつ着実にこなしてゆかねばならないと思う。

3月のアート部会で、実行委員会の規約が下記の通り採択された。
因みに、「うのずくり」は、「うのづくり」とするのが本来の日本語として正しいのは、読者にはお気付きのことと思う。命名者の森岡氏によると、ここでの「ず」は「住」を指し、「くり」は「クリエイティブ」を指す。つまり、「うのずくり」は、宇野における若手クリエイティブ移住プロジェクトを意味しているのだ。

うのずくり実行委員会 規約
(名称)
第1条 この委員会は、うのずくり実行委員会(以下「本委員会」という。)と称する。
(目的)
第2条 本委員会は、宇野築港商店街を活力ある商店街として振興するために、若手クリエイティブカップルを中心とした移住者を広く受け入れるとともに、受け入れ後のまちづくりに関する事項を協議し、運営に当たることを目的として活動する。
(事業)
第3条 本委員会は、上記目的を達成するために必要な事業(以下「本事業」という。)を行う。
(役員)
第4条 本委員会は、本事業を行うために、専従職員たる委員長1名、非専従の副委員長2名、委員若干名及び監事1名をもって組織する。
2 委員長は、本委員会の目的実現のために自ら志願し専任することのできる委員の中から、本委員会の互選により選任する。
3 副委員長及び監事は、委員長が指名する。
4 委員は、本委員会の目的に賛同する地域住民、上部支援組織たるNPO法人の正会員、及び移住者から選任する。
(役員の任務)
第5条 委員長は、会務を処理し、会議を招集し、会議の議長となる。
2 委員長は、玉野市中心市街地活性化協議会運営会議の該当部会及び上部支援組織たるNPO法人に、定期的に本委員会の活動状況を報告する。
3 委員長は、年に1回以上、上部支援組織たるNPO法人に会計及び会計監査報告を行う。
4 副委員長は、委員長を補佐し、委員長に事故あるときはその職務を代理する。委員長職を代理する間は、副委員長は原則として専従職員となる。
5 委員は、本委員会の運営方針に基づき、本事業の企画、運営に当たる。
6 監事は、本委員会の活動及び会計の適性について監査する。
(会議)
第6条 委員長は、次の各号の一に該当する場合に、本委員会を召集・開催する。
 (1) 委員長が必要と認めたとき。
 (2) 委員総数の3分の1以上から、会議の目的を記載した書面をもって、召集の請求があったとき。
 (3) 監事から請求があったとき。
(顧問及びオブザーバー)
第7条 本委員会は、本事業遂行に必要な専門的知見を取得するために、顧問及びオブザーバーを置くことが出来る。顧問及びオブザーバーは、委員長が委嘱する。
(会計)
第8条 本委員会の運営に必要な経費は、上部支援組織からの支援金、行政機関等からの補助金又は交付金、各種財団等からの助成金、及びイベント収益金等をもって充てる。
2 会計年度は、4月1日に始まり、翌年3月31日に終わる。
(事務局)
第9条 本委員会の事務局は、玉野商工会議所(玉野市築港1-1-3)に置き、事務を処理する。
(その他)
第10条 この規約に定めるもののほか、必要な事項は委員長が別に定める。
(附則)
第11条 この規約は、平成23年4月5日から施行する。

現在、実行委員長には森さん、副委員長には森岡さんと大前さんが任命され、委員としてサッキーを含めた数人が入会している。今後、どんどん会員が増えて行き、宇野築港地区が再生されることを願う。

岡山には多くの港があるが、何れも漁港か物流港かであり、神戸や横浜のようにロマンチックで粋な港という雰囲気は全くない。是非、大人が夜を楽しめる、ロマンチックでおしゃれな港まち・宇野を、仲間とともに創って行きたいと思う。
芸術フェスタが目指した「アートハーバー宇野」の実現も、このプロジェクトの成功に掛かっているのだろう。

写真は、売りに出されていた鉄板屋じゅじゅの前景と店内の様子である。尚、右隣は、有名なギャラリー「サンコア」である。じゅじゅのファサードがどのように生まれ変わるのか、そして中身がどう変わってゆくのか、さらに町がどう発展してゆくのか、今から楽しみである。

委員の一人高原氏は、下記URL(彼のBLOG)にWHITE OUTというコンセプト提案をされている。この提案、詩的で面白い。ロマンチックな雰囲気アリアリである。
「アートハーバー宇野」もいいが、「ホワイトポート宇野」も中々である。
http://sholly.blog.ocn.ne.jp/akaaokiiro/2011/04/post_a692.html

2011年4月14日木曜日

サッキータイム ~玉野みなと芸術フェスタについて~

4月14日

このBLOGでは、玉野みなと芸術フェスタのことについて、いつも詳しく書いているので今更の感じもあるが、今年も新年度を迎えたことだし、今日は芸術フェスタのこれまでの経緯や今後の計画案などについて改めて紹介したい。

1.活動の目的
玉野みなと芸術フェスタは、地域の歴史や文化とアートを融合し地域の個性と魅力を引き出すことにより、地域住民とのCommunication(交流と共感)、Common(文化の共有)、Comfortable(寛ぎと楽しみ)を得ること(3Com.の実現)を目的に活動してきた。
この活動は、過去8年間、宇野・築港地区(宇野港域)と山田・東児地区(東街道域)で行ってきたが、今年は、玉野における芸術文化活動の面的拡がりを目指し、日比・渋川地区(西街道域)での活動を加え、「アートシティ玉野」の実現に向けてその端緒を開くこととしている。
活動の具体化のために、アート作品又はアーティストの芸術的視点からの提案を積極的に取り入れ、歴史や文化をベースにした現代的な芸術活動を進める。芸術フェスタは、このような進め方に基づく活動を継続することによって、地域住民が自分たちの地域に対する新しい価値の発見、観光資源の発掘、住民同志や観光客との交流等が生まれ、地域活性化に繋げることを目指す。
経済的側面からではなく、文化的側面から地域にパワーを生み出すことを基本理念として活動する。

2.これまでの活動概要
2003年(平成15年)に、環境芸術彫刻家/八木マリヨ氏の指導でスタートした芸術フェスタは、2006年迄の4年間、宇野港を魅力的な芸術港として全国に情報発信すべく、宇野港界隈で開催してきた。
2007年からナビゲータとして参加した美術家/清水直人氏の、地域の歴史・文化に根差したアート展開を行うべきとの指導の下、塩作りの里・山田地区に残る地の歌「浜子唄」のライブ演奏、築100年を迎えた味野専売支局山田出張所遺構のリノベーション等、2年間は山田地区(東街道域)のみでの活動を行った。
東街道域では、地域住民の方々とともに、地区に残る塩田の遺構、由緒ある神社・仏閣、芸術的な獅子舞の紹介など地域の文化資産の掘り起こしに貢献してきた。これらの歴史ポイントを散策ルートとして紹介すると、その魅力が観光コースの一つともなって観光協会の産観美ツアーなどにも取り入れられた。
又、東街道域は、それまで玉野市民の目が余り届いてこなかったということから、地域の方の要望により、宇野港から山田港を結ぶ「学びと遊び」をテーマにしたクルーズを企画することになった。この企画については、地域の方々や企業を始めとした関係の人たちに大変お世話になり、感謝に堪えないところである。
今年5月、迨暇堂で公演することとなっている新作狂言「野﨑武左衛門」は、東街道域での歴史・文化を研究する中で、当地区の傑出した人物である野﨑武左衛門の業績を、狂言という日本の伝統的芸能表現で残してゆこうと、2009年に狂言講座を立上げスタートしたものである。さらに、狂言講座では、玉野市の様々な歴史・文化を伝えるための手段の一つとして、この狂言を今後とも継続してゆきたいと考えている。
2009年、宇野港竣工100年の節目の年となったことから宇野港界隈での活動を再開、第1期を宇野港域、第2期を東街道域で開催、夫々で地区の歴史・文化に根差したアート活動を展開した。昨年は、直島を中心とした瀬戸内の島々で国際芸術祭が開催されたこともあり、宇野港域でのアート展開を継続することとした。宇野港域では、現在進められている玉野市中心市街地活性化協議会活動にも呼応して、今後とも継続することとしている。

写真は、2003年度に開催したフェスタにおける、八木マリヨ氏の指導による「縄柱モニュメント」建立のファイナルセレモニーの風景である。縄柱は、高さ10m、直径1.3mの巨大なものだ。1万枚の木綿のTシャツで作った縄柱のファイアーアートは、荘厳なもので今も記憶の中に鮮明に残っている。


3.今年度の具体的な活動内容
東街道域では、地域の歴史・文化を楽しく学べるイベント「たまの東街道2011」として、歴史探訪ラリー、浜子径散策ルート作り、玉野に因んだ新作狂言第2弾の公演等を開催する計画を立てている。
宇野港域では、長期的なアート展開としてのまちなかアート展「軒先計画」を継続するとともに、玉野ならではのアートイベントとして、高松アーティストとの交流・交換展「南北楽観主義~せとうち~」を開催する。
西街道域では、地区住民を中心にしたまちづくり講座を立ち上げ、地域の歴史や文化遺産を調査して歴史散策マップを作ることとする。又、「タマノクルーズ西海道」を開催し、西部地区の魅力を広く共有したい。
「アートシティ玉野」の実現にはまだまだ遠い道のりではあるが、活動の基本は、地域の歴史や文化と融合し地域の個性と魅力を引き出すことであり、地域住民とともに歩む姿勢を今後とも貫いてゆきたいと考えている。

4.期待する効果・成果
東街道域での活動は、今年5年目を迎えるが、最大の拠点である旧味野専売支局山田出張所の登録有形文化財への指定申請書が今年正式に提出される予定であり、歴史探訪ラリー、浜子径散策ルート作り等を実施することにより、地区の歴史・文化をさらに深く学び、地区への愛着を深めることが期待される。
現在、玉野市で議論されている中心市街地活性化協議会の話題の中心は、宇野港域への回遊人口の増加であり宇野港界隈の賑わい創出である。その一つとして、アートを軸とした活性化も種々議論されている。「軒先計画」の継続や玉野ならではのアートイベント「南北楽観主義~せとうち~」が、宇野港域での3Com.の実現に貢献し、この地区におけるコミュニティの輪の拡がりが期待される。特に南北楽観主義の開催は、作家同士のコミュニケーションや連携による、新たな芸術表現が生まれることが期待される。
西街道域での活動開始は、玉野市全域をアートなまちにという、芸術フェスタ活動の最終的な目標である「アートシティ玉野」の構想実現に欠くことのできないプロセスであり、その足掛かりとなることが期待される。
総括的には、地域の歴史・文化と融合したアートを展開することにより、新たな文化的価値を地域に付加し創造する力となり、地域住民が自分たちの地域に対する新しい価値の発見、観光資源の発掘、住民同志や観光客との交流等が生まれ、地域活性化に繋がることが期待される。

5.活動資金及び活動組織
この活動は、当初(2003年度)、宇野港再開発事業の一環として、国からの補助事業としてスタートした。翌年(2004年度)も、県及び市からの補助事業として開催された。しかし、2005年度以降、行政からの支援が皆無となり、活動の継続自体も危ぶまれたが、財団等からの助成を受けるとともに、市内の各種団体・法人及び個人からの心温まるご協賛を得ることによって、これまで8年間連綿と継続することができた。
予算規模は、当初2年間は500万円規模だったが、自主財源となった3年目以降は、150~200万円規模で運営してきている。芸術フェスタでは、多くの方々にアートの楽しさを満喫してもらえるよう、比較的多彩なイベントを開催しているが、活動の大部分はボランティアで運営されている。
そのような状況から、本活動の継続には、理解ある多くの団体、法人及び個人の皆様方に、今後とも継続的なご支援をお願いしなければならないと考えているところである。
活動のための組織は、市内各種団体及び有志の方々からなる実行委員会を設け、少なくとも年に1回の実行委員会を開催して、皆様から貴重なご意見を拝聴しご意向を確認させていただいている。具体的な計画遂行については、企画部会、広報部会、財務部会等の実務部隊による機動的な活動で運営している。

6.次年度以降の計画
東街道域については、地域に残る文化・歴史遺産を活かした活動を継続的に進めたいと考えている。
活動の原点・宇野港域については、海を隔てた高松や県北のアーティストなどを加え、より広域の連携によるアート活動を進めたいと考えている。
又、今年から取組みを始める西街道域の活動については、玉野市西部の古い潮待ちの港・日比地区において、終戦の前年に失われた「船歌まつり」という楽しい祭があったと聞いている。芸術フェスタ2012では、できれば日比・渋川まちづくり講座生とともに、その再興を目指したいと考えている。絶滅したと考えられる「船歌」の曲を探し、可能な限り復活を試みたいと願っている。
アートシティ玉野への道については、地域住民との連携によって芽生えたネットワークを活かし、玉野の歴史・文化と融合したアート活動を根付かせ、玉野市東部・中央・西部の各地区まちづくり団体等の独自活動と連携する形で進めたいと考えている。調達できる資金も多くは望めないことから、各地区イベントは、持ちまわり制で行うような進め方も検討する必要があると考えている。

2011年4月11日月曜日

自啓ノート(13) ~「八つの気」~

4月11日

「八つの気」とは、「元気」、「陽気」、「覇気」、「本気」、「勇気」、「根気」、「人気」、「侠気」のことを言うが、仕事を前向きに進めて行くための基本を示したものである。これら八つの気も、山下さんから学んだものである。以下、夫々について簡単に解説する。

・元気 : 身体も心も病気になっては力が発揮できない。健康一番、いつも元気に行こう。元気がなくなったとき、あなたならどうする?睡眠?食事?一つ提案だが、何か元気の出る自分なりの言葉を作ってみたらどうだろう。(例:死ぬほど頑張ってごらん、決して死なないから。愛は勝つ。朝の来ない夜はない。)
今、東北地方では、未曾有の地震・津波・原発事故・風評被害という四重苦に悩まされている。極めて難しい状況だが、是非元気を出して頑張ってください。
・陽気 : 辛い仕事も愉快にやれば、回りの人も必ずついてくる。厳しい仕事も楽しく出来る工夫をしよう。先ずは明るい顔の作り方を、毎朝鏡の前で練習してみる。この形が一番いいと思う笑顔でお客さんに接してみよう。きっとお客さんに褒められるし、自分が段々陽気になって行くのが実感できる。
・覇気 : 少々の逆境にも「くじけず頑張ろう」の気持ちが大切。どんなときも「なにくそ、負けるものか!」の気概(負けん気)をもった者が、最後には勝ち残れる。
・本気 : プロであるからには何事も真剣に取り組みたいもの。「赤字の状況を何とか脱却したい。」経営に当たる人なら、誰もが社員の幸せのためにそう願うであろう。「病に苦しむ人を何とかしてあげたい。」医療を志す人ならば、誰もが等しくそう思うに違いない。不況の時の構造改革も本気で取り組むことが、一日も早い明るい未来を切り開く道となる。
・勇気 : 時には反対する人、力の強い上司を説得することも必要である。自分のやりたいこと、会社としてこうあって欲しいと思うこと。思うだけでなく、口に出して伝えること、紙に書いて提案すること、そして実行すること、そんな勇気も改善・改革のためには必要なことだ。
・根気 : 一度や二度の失敗は当たり前、諦めず最後まで粘りぬく気持ちを持とう。人は得てして1回失敗しただけで諦めて、次のステップに進めないことが多いもの。エジソンは、「天才は1%のひらめきと99%の努力」と言ったそうだが、「発明王」と言う彼の栄光も根気なくしてはなし得なかった。
・人気 : 仕事は、多くの人のチームワークで成し遂げられる。「この人となら」と言う、人を惹きつける人間的魅力は大事な要素だ。独りよがりではなく、納得性のある判断が出来るようになると、自然と魅力も人気も出てくるようになる。そのためには、やはり不断の努力が欠かせない。
・侠気 : 困った人のために、一肌脱ごうとする気持ちがあれば何事もうまく行くもの。医者が、明日をも知れぬ患者のために、身命を賭してでも頑張り抜くことが出来るのは、侠気があるからこそ。

新年度も是非、「八つの気」(元・陽・覇・本・勇・根・人・侠)でもって、改善・改革に取り組み、自身(自社)の目標達成に繋げて欲しいものと思う。チームのために、チームと共に、元気で本気に根気よく、勇気と覇気と侠気でもって、笑顔で陽気にやり抜こう。自社の人気を高めるために!

2011年4月10日日曜日

自啓ノート(12) ~「自啓不止」~

4月10日

自啓ノートは、一昨年12月以来、実に16ヶ月ぶりの連載復活である。今日は、その中でも本命中の本命の言葉で、サッキーの座右の銘とでも言うべき「自啓不止」について概説したい。

「自啓不止」 一般の人にはなじみの薄い言葉かもしれない。

この言葉は、三井造船の社長・会長を経て、JR東日本の初代会長をされた故山下勇氏の造語である。
・読み方=じけいふし。みずからひらきてやまず(自ら啓きて止まず)。
・意 味=自己啓発し続けることが真の人生。つまり、生涯自ら進んで勉強を続けることが人生の大事であるということ。

三井造船玉野事業所の構内に「自啓不息」と書かれた石碑がある。ところが、JR東日本新津車両製作所内の石碑には「自啓不止」と書かれている。何れも、山下氏自筆の書を碑に刻み込んだもので、意味は同じものである。
中国の最も古い(約2,500年前)書物「易経」に、「天行健 君子以自彊不息」〔天行は健なり 君子もって自彊(ジキョウ)して息(ヤ)まず〕という一文がある。平たく訳すと、「天体の運行は自然で健全である。徳のある人(=君子)は自ら勉強を重ね、向上努力を怠ることはない。」という意味だ。

氏はこの「自彊不息」を分かりやすくするために、三井造船では「自啓不息」と書かれたと想像される。「彊」は「強」の古い漢字で、意味的には「強い」ではなく、「努める」(=努力)とか「勉める」(=勉強)として使われている。従って、自彊とは「自己啓発」のことを指す。
現代の日本人には、「自彊」では意味が分かりにくく、自己啓発を略した「自啓」の方がより素直に分かるだろうと配慮されたのではないかと思われる。
「息」は、呼吸の息だが、これには「止む」とか「止める」とかの意味がある。「休息」、「終息」、無病「息災」(=災いをなくして安寧な状態)などで使われている。でも今の若い人には、「息む」と書くよりも「止む」と書いた方が、より直接的で分かりやすい。
平成6年6月に建てられた新津車両製作所の石碑には、若い人たちのために、さらに平易な「自啓不止」と書かれたのである。

「言うは安く行うは難し」の典型的な言葉だが、諦めず最後まで勉めたいものである。サッキーも死ぬまで勉強を続けること、或いは死ぬまで勉強のできることが願いである。

上の写真は、平成4年7月に、JR東日本新津車両製作所の初代所長となった衣笠さん、製作所建設のキーマンだった生産管理課長の林さん、設計担当の後藤さんをお迎えして三井造船玉野事業所見学の案内をした折り、ディーゼル組立工場際にある「自啓不息」石碑の前で撮った写真。右端がサッキーである。
下の写真は、新津車両製作所事務本館前にある「自啓不止」の石碑である。因みに、この石碑にある山下勇の揮毫は、山下勇氏本人がこの石碑の建つ少し前に亡くなられた(平成6年5月没)ためお願いすることが出来ず、自啓不息の石碑にある揮毫から写し取られたものである。ということは、知る人ぞ知る情報である。



2011年4月4日月曜日

サッキータイム ~宇野築港商店街を賑やかに~

4月4日

今年に入って、岡山県玉野市の中心市街地活性化のために、「観光型×参道型 新宇野築港商店街創造計画」という、宇野地区に若手クリエータを呼び込むプロジェクトがスタートした。計画を立案したのは、直島の向島でゲストハウス「向島集会所」を経営する元広告会社マン/M氏である。
以下、その概要を箇条書き的に紹介する。

◎目的:活力ある移住者主体による宇野築港地域の再活性化

◎手法:若年層クリエイティブカップル移住者を世界中から超積極的に獲得

◎実行計画案:「観光型×参道型 新宇野築港商店街創造計画」
◇移住者受入れ計画:「若手クリエイティブカップル移住プロジェクト」(人づくりプロジェクト)
◇移住者受入れ後の街づくり計画:「low DAYプロジェクト」(街づくりプロジェクト)

◎観光型×参道型 新宇野築港商店街創造計画:
【目標】 将来的には「商店街に自力をつけ、独自の観光客を生み出すこと」を目標とするが、先ずは地理的メリットを活かし、「直島、豊島への参道型商店街としての地位を確立すること」を目標とする。そのために活力補充&内部消費拡大となるターゲット層の商店街への移住定住を促進。

【戦略】 観光客を滞在させるインセンティブとなるアイディアと戦略
◇一次戦略:周遊型観光対応=参道型商店街⇒直島、豊島周遊観光客に宇野での滞在メリットを紹介、せとうち諸島観光地への参道として、宿泊客、土産物購買客、飲食客を確保
◇二次戦略:滞在型観光対応=観光地型商店街⇒直島、豊島を目指すハイアート観光客だけでなく、大衆的な文化、芸術、工芸、映画、娯楽などを楽しめる場として、商店街、港、メルカなどを含んだローアート観光戦略

◎クリエイティブカップル移住プロジェクト
【概要】 30台半ばくらいまでのクリエイティブカップルを宇野築港商店街付近に移住させる計画
【目標】 2年間で5組10人、7年半で50組100人
【活動母体】 専従の実行委員長1名を頭とする移住者実行委員会
【支援団体】 「NPO法人 うのまちづくり(仮称)」による支援。NPO法人への募金、会費、補助金等。市内の商店などのHP制作&運営による広告広報、観光振興、文化促進事業
【融資機構】 住居改修費用の無利子融資制度、期間限定の家賃補助制度
【誘致インセンティブ】 移住してきた自分の手で、まちづくりをすることが出来る。
【移住先物件】 築港商店街の空き店舗、定期借家契約、想定家賃2~3万、大家メリット、融資制度、協力
【期待効果】 住民のネガティブ意識の打破、街づくりに興味が強い若年層の確保、街の消費の牽引役、まちづくりへの積極的な関与、low DAYプロジェクトの推進⇒地区住民の意識変革

◎low DAYプロジェクト
【概要】 high art(高級芸術)な直島に行く前後に、宇野港周辺でlow art(大衆芸術)、low culture(大衆文化)を楽しむ1日乃至半日を体感してもらう。
【目標】 年間10万人(内宿泊客1万人)、直島観光客6万人、自前観光客4万人
【活動母体】【支援団体】 上記と同じ
【融資機構】 大衆芸術文化娯楽施設起業補助制度
【内容】 直島のoff timeを宇野のon timeに、「夜が(大衆文化的に)面白いまち、宇野」へ⇒日本型大衆文化、大衆芸術、娯楽、ショー文化のメッカ・宇野づくり

◎HPをベースとした自己メディアで情報発信&伝達
◇観光客を取り込むための情報流通&伝達
◇クリエイティブ移住者を取り込むための活動情報の流通&伝達
◇一般移住者を取り込むための既存情報の流通&伝達

成功するか掛け声倒れに終るか。先ずは、第1号入居者の住居が魅力的なものになるかどうか。その情報をどうやって発信するのか。その二つに掛かっているのだろう。
実行委員長に押されたMさんのやる気は確かである。
問題は、移住者とそれを受け入れる住居又は店舗の持ち主(地元の大家)に、どうやってメリットを実感してもらうことが出来るのか。その手助けをするのは、サッキーを含む周囲のアシスタントたちだ。