2010年12月30日木曜日

サッキータイム ~指定管理者制度-その1~

12月30日

指定管理者制度について、ウィキペディアでは次のように説明している。若干長いが引用する。
指定管理者制度とは、それまで地方公共団体やその外郭団体に限定していた公の施設の管理・運営を、株式会社などの営利企業・財団法人・NPO法人・市民グループなど法人その他の団体に包括的に代行させることができる(行政処分であり委託ではない)制度である。
「公の施設」にはいわゆるハコモノの施設だけでなく、道路、水道や公園等も含まれるとされている。地方自治法の一部改正で2003年6月13日公布、同年9月2日に施行された。小泉内閣発足後の日本において急速に進行した「公営組織の法人化・民営化」の一環とみなすことができる。
各地方公共団体が定める条例に従って、プロポーザル方式や総合評価方式などで指定管理者(以下:管理者)候補の団体を選定し、施設を所有する地方公共団体の議会の決議を経ることで、最終的に選ばれた管理者に対し、管理運営を委任することができる。
管理者は民間の手法を用いて、弾力性や柔軟性のある施設の運営を行なうことが可能となり、その施設の利用に際して料金を徴収している場合は、得られた収入を地方公共団体との協定の範囲内で管理者の収入とすることができる(地方自治法244条の2 8項)。

一般的には以下の意義があるとされる。
* 利用時間の延長など施設運営面でのサービス向上による利用者の利便性の向上。
* 管理運営経費の削減による、施設を所有する地方公共団体の負担の軽減。

一般に指摘されている問題点には以下のものがある。
* 特に地方では、後述の職員人事より以前に管理者選定の段階から既に「出来レース」となっている場合が極めて多く、「適切な管理者が見当たらない。」という理由だけで、自治体幹部職員の天下り先となっている外郭団体などに管理委託を継続して委ねる事例が見られる。
* 制度導入の真の狙いが運営費用と職員数の削減にあることから、行政改革の面だけが過剰に着目される。
* 管理者の「弾力性や柔軟性のある施設運営」の名のもとに、公共施設として不適切かつ問題のある例が以下のような事例として多く見られている。
* 「弾力性や柔軟性のある施設運営」という建前がありながら、実際には地方公共団体担当者の理解不足や条例・施行規則等に阻まれることで、民間の実力が十分に発揮できない。
* 地方公共団体が出資者となる第三セクターなどが指定管理者となり、指定管理料以外の費用を地方公共団体側が負担していることがある。この場合、財政支出の項目が二種以上にわたるため、実際に当該施設の運営に対して、地方公共団体がどのくらい経費を負担しているのかが極めて分かりにくい。
* 指定期間の満了後も同じ団体が管理者として継続して指定を受けられる保証は無く、選考に漏れるなどによって管理者が変更した場合は、殆どの職員が入れ替わってしまうことも考えられる。又、指定期間が3~5年程度と短期間であれば正規職員を雇用して配置することが困難となるなど、人材育成は極めて難しくなり、職員自身にも公共施設職員としての自覚や専門性が身につかない。
* 指定期間の短さは、人材育成と同時に設備投資や運営面での長期的計画も阻んでいる。特に教育・娯楽関連の施設では経費節減のために「場当たり的な運営」しか出来なくなることで集客力が減少し、それに伴う収益の減少によって必要経費も充分捻出できなくなり、結果として更に客足が遠のくといった悪循環に陥る可能性が高い。
* 医療・教育・文化など、本来なら行政が直接その公的責任を負わなければならない施設までもが制度の対象となっている。

指定管理者制度は、施設の管理運営全般を管理者に委ねるため、「公の施設が民営化される。」という見方をされることが多い。しかし、税金で設置された施設が一管理者によって私物化されるのを防ぐという観点からも、下記の項目などを地方公共団体の条例や協定書および仕様書などに盛り込んでいくことが必要となる。
* 定期的な収支報告会・運営協力会議などを設ける。
* 利用者であり本来の所有者でもある市民のチェック制度をきちんと機能させる。
* 管理者自身がサービス向上と改善のための情報収集を行う。
* 管理を指定した地方公共団体及び第三者機関による監査。
* 管理を指定した地方公共団体職員の頻繁なる訪問(業務によっては常駐)による指導。
* 社会保険・労働保険の加入、加入すべき職員についての手続きすべてを指定管理者が漏らさず行うこと。
* 地方公共団体からの派遣も含めた、一定率以上の正規職員が占める割合の担保

又、移行の際に自治体や旧管理者の正規職員が採用されず契約職員だけが残り、雇用だけでなく施設運営そのものに悪影響を及ぼす事例も多数存在する。移行期には、公務員として制度導入以前から勤務していた職員と制度導入以降に管理者が独自に採用した職員とが混在することになる。さらに制度導入と同時に委託元の地方公共団体との人事交流が事実上なくなるため、当該職員らに対する給与・勤務体系だけでなく人事異動も含めた身分の扱いなどが問題となる。
現在、地方公共団体の所有する施設のうち、下記の施設を中心に制度の導入が図られている。指定管理者の指定は、地域の公益法人やNPOなどが多いが、民間のビルメンテナンス会社などの指定もある。
ただし、施設の運営に関して設置者が地方公共団体であることなどを求める法律(「個別法」という)がある施設や特定の者のみがサービスを享受する学校給食センターなどはこの制度から除外されたり、複数ある同種施設の業務の一部のみを「管理者が行う業務」として委任することがある。

指定管理者制度が適用される施設には次のようなものがある。
・スポーツ関連 プール、体育館、市民球場、テニスコート等、玉野ではレクレセンター、北ヨット艇庫、総合運動公園など
・公園関連 一般の公園、霊園、植物園、動物園、水族館等、玉野では都市公園129箇所、深山センターハウス
・文化関連 図書館、郷土資料館、博物館、美術館、ホール等、玉野ではバウハウス、八浜町町並み保存拠点施設
・医療関係 公立病院、(リハビリテーションなどの)特定機能病院等、玉野ではこころの里
・福祉関連 高齢者施設、障害者施設、保育所、児童館、保養所、福祉作業所等、玉野ではしらさ工房、荘内デイサービスセンター、サンライフ玉野、和楽園など
・生活関連 下水道、斎場、駐車場、駐輪場等、玉野では、市立地区集会所、市立児童館、市営駐車場(5箇所)、宇野駅前駐輪場、渋川観光駐車場など
・教育関連 林間学校、生涯学習センター等、玉野にはなし

さて、玉野市文化会館BAUHAUSは、平成21年度からわがSNTJKが指定管理を引き受けることとなっり、今年2年目の終盤に差し掛かったところである。
ところが今年は赤字経営になりそうなのである。困ったことだ。
今日はここまで。

2010年12月23日木曜日

サッキータイム ~再び豊島へ~

12月23日(木)天皇誕生日

瀬戸内国際芸術祭終了直前の10月27日、豊島を訪れ多くの作家たちの作品を鑑賞した。だが、10月17日にオープンしたばかりだった豊島美術館は、整理券を求めないと入れないほどの人の多さで、このとき2時間待ちということで諦めて帰ったのだ。
パスポートの有効期間が今年一杯ということで、今日は天気も良かったので、再び豊島を訪れこの美術館を観に行くこととした。
家浦港から無料のシャトルバスに乗って約13分、超満員の乗客の大部分が美術館前で降りる。道路から見えるのは、前にも見たドーム型のコンクリートの屋根。まるで昔映画で見たUFOのようなイメージの建物である。一体このドームの中にどんな美術が展示されているのか?ワクワクしながら入口に向かう。さすがに今日は人が多いとはいえ、待たされることはなかった。
チケットセンターで受付を済ませ、山を取り巻くようにしつらえた歩道を一周するとアートスペースの入口だ。注意を聞き靴を脱ぎ一歩足を踏み入れると、中は何もない明るい空洞だ。広さ40m×60m、高さ4.5mの空間には柱が1本もない。コンクリート・シェル構造である。コンクリートの厚みは25cm。中での話し声は反響して幾重にも聞える。床は、撥水加工を施してあるのか物凄く水をはじき、緩やかな坂を水玉がコロコロと転がっている。天井2ヶ所に大きな開口があり、光や風が降り注いでいる。雨の日は勿論雨が入る。自然と一体となった、構造の建物そのものが美術品だ。
随分お金を掛けた作品だが、唐櫃の棚田にマッチした作品として、この地に造ったのだと思う。昔映画で見たUFOが降り立った場所は、もっと森の近くだったような気がするが、棚田も悪くはない。
アートスペースの横には、同じドーム型のカフェ&図書コーナーがあり、中で休息することも出来る。

写真は、アートスペースへの回廊、回廊から林を通して見える唐櫃港、アートスペース全景、道路から見たカフェスペースとアートスペース、道路の反対側を覗くと棚田と海が見える。

豊島は、若い頃キャンプに行ったり、魚釣りに行ったり、国民宿舎で大宴会をしたりした島であり、産廃で全国的にも有名になった島だ。又、この島で美味しいイチゴを栽培する住人がるんるん島のとんぼ玉教室の生徒になった方がいたことでも親近感を抱いていたが、このようなアートの島になろうとは夢にも思わなかった。これからも益々面白い島になることだろう。

2010年12月22日水曜日

サッキータイム ~児島で 狂言を楽しむ!~ことができるか?

12月22日(水)

倉敷市児島は、塩田王・野﨑武左衛門が生まれた地であり、そこには彼の遺した大きな邸・野﨑家旧宅がある。野﨑邸の近くに別邸・迨暇堂がある。迨暇堂は、野﨑家3代・武吉郎が貴族院議員を務めたとき、中央の客人を迎えるゲストハウスとして建てたものだとか。主屋は入母屋造の式台玄関を構え、百畳敷の大広間を有する壮大なものである。普段は非公開だが、倉敷の雛祭りのとき(毎年2月下旬~3月上旬)には、大きな段飾りが展示され一般公開される。
去年は、東野崎浜の近くにある山田小学校体育館で、創作狂言「野﨑武左衛門」を演じた。今年は、宇野中学校武道場で、新作狂言「野﨑武左衛門」を公演した。そして、来年、愈々野﨑武左衛門の生まれ故郷で公演しようではないかという話が持ち上がった。
実現するには、先ずは野﨑家の賛同が不可欠である。是非ともご理解願いたいと思う。あと問題は、色んな方の協力取付けと資金集めである。ナイカイ塩業さんや、倉敷市、児島商工会議所さんなど、多くの方のご協力が欠かせない。

サッキーの提案は、以下に示すようなものである。如何であろうか?

1. 新作狂言「野﨑武左衛門」の迨暇堂公演の意義
 今年、玉野市で公演された新作狂言「野﨑武左衛門」のあらすじは、塩田王・野﨑武左衛門の功績を称え顕彰したもので、経済人・文化人としての武左衛門の優れた人物像を分かりやすく表現しています。
 武左衛門の生まれ故郷である児島には、彼の遺した素晴らしい建築遺産・野﨑家旧宅があり、見学に訪れた多くの方がその素晴らしさと文化財に感激して帰られます。しかしながら、遺産を遺した武左衛門という人のこと、彼が築造した入浜式塩田がどのようなもので、どのような人たちがどのような気持ちで働いていたのかを知ること若しくは想像することは、実際には中々難しいことです。
 今回の新作狂言では、武左衛門の造った東野﨑浜で働いた浜子たちが日々の作業の中で彼の業績を語り、入浜式塩田での代表的な作業を所作の一つとして取り入れ、遺産を観ただけでは知ることの出来ない当時の姿を、狂言という日本古来の伝統芸能を通じて分かりやすくイメージすることができます。
そこで、児島や玉野だけに止まらず岡山県人として誇るべき偉人・野﨑武左衛門を称揚した新作狂言「野﨑武左衛門」を、生まれ故郷である児島味野の由緒ある野﨑家旧宅の別邸・迨暇堂で公演することは、製塩の歴史と塩田王・野﨑武左衛門の人となりをより深く知る上からも極めて意義深いことと考えます。

2. 公演の目的
(1) 一般の人があまり知らない郷土の偉人の業績を、武左衛門も親しんだ「狂言」という日本古来の面白い表現様式で知ってもらうことにより、郷土への愛着と誇りを育みます。
(2) 普段観ることのない日本古来の伝統芸能を、「野﨑武左衛門」という親しみやすい物語を鑑賞し、生でじっくり味わうことにより、日本文化の底の深さと日本という国の良さを肌で感じる機会を持ちます。
(3) 公演実施を通じて、塩田王・野﨑武左衛門を生んだ倉敷市児島地区と新作狂言「野﨑武左衛門」を生んだ玉野市との連携を深める機会とします。

3. 公演の概要(案)
(1) 主 催:児島で狂言を楽しむ実行委員会(仮称)
(2) 共 催:玉野みなと芸術フェスタ実行委員会、財団法人 竜王会館(野﨑家旧宅)、田賀屋狂言会
(3) 後 援:倉敷市教育委員会、ナイカイ塩業㈱、児島商工会議所
(4) 開催日時:2011年5月22日(日)14:00~15:30
(5) 開催場所:倉敷市児島味野・迨暇堂
(6) テーマ名:(案)「児島で狂言を楽しむ!」
(7) 演目&出演者:
 ①入浜式塩田及び新作狂言について(PPTによる解説)
 ②新作狂言「野﨑武左衛門」:(出演)玉野狂言講座生、(特別出演)田賀屋夙生、後見(広坂武昌)
(8) 入場料:無料(必要経費は、広告費などで賄うことで計画するが要検討)

4. 公演実現のために解決すべき諸問題
(1) 必要経費:○○万円(内訳:謝金○万円、広告宣伝費○万円、消耗品&雑費○万円)
(2) 収入確保:パンフ&プログラムへの広告収入又は協賛金○○万円
(3) 広告掲載社の確保:児島商工会議所を通じて広告いただける会社を紹介していただく。
(4) 出演者確保:2010出演者が全員そのまま残ればいいが、そうならない場合、新たな出演者を確保して基礎から練習しなければならず、公演時期は5月以降が望ましい。
(5) 広 報:倉敷市の広報誌、山陽新聞、テレビ、ラジオ、パンフ等

5. 参 考(新作狂言「野﨑武左衛門」活動の経緯)
 玉野市山田・東児地区には、塩田王・野﨑武左衛門が181年前に始めた入浜式塩田以来の長い製塩の歴史が脈々と息づき、今もこの地区最大の産業として生産が継続されています。地区に残るこれら製塩の文化や歴史遺産を後世に引き継ぐために、狂言と言う日本古来の芸能表現を使うことによって、当地区の新たな文化創造を図り、地区の地域おこしひいては玉野市の新しい文化活動の核となることを目指しました。
 又、野﨑武左衛門は、当時の岡山を代表するほどの文化人・経済人であり(茶人で、絵画・書等の目利きをし、蔵書も多くインテリであっただけでなく、財政的に池田藩にも貢献)、中でも謡いや狂言においては自らも嗜み、その催しを幅広く招聘していました。そのような実績を知るにつけ、その文化的事跡を地元の誇りとして末永く顕彰するための活動としてこの新作狂言の実現を図りたいとの思いがありました。更に一昨年の調査で、日本の伝統芸能である狂言には、酒、砂糖、酢、昆布等の生活用品に関わる演目はあったのですが、必需品である「塩」をテーマにしたものがないことも分かりました。
 そこで2009年、野﨑武左衛門の生い立ちから製塩事業成功に至る事跡、浜子唄に歌われた浜子たちの生活等を改めて調査研究し、それらの内容に基づいた塩に関する新作狂言を作り、地元住民に出演してもらうことにより、今後末永く残る山田・東児地区の新たな文化遺産とすることを目指しました。
2009年11月1~3日に開催された玉野みなと芸術フェスタ2009の第2期イベント「たまの東街道2009」のメーンイベントとして、11月1日に開催した「狂言を楽しむ夕べ」で創作狂言「野﨑武左衛門」を初公演、大きな反響と評価を得ることとなりました。
 2010年5月、新旧メンバー9名の玉野狂言講座生は、宇野地区での公演を目指して田賀屋夙生氏の指導の下、月2回のペースで練習を開始しました。今年の山田・東児地区イベント「たまの東街道2010」においては、11月14日、「わが町歴史探訪ライブ」として浜子唄ライブと新作狂言の発表を東野﨑会館で開催しました。又、11月28日、宇野中学校武道場で開催した「たまので 狂言を楽しむ!」の公演では、約180名の観客に楽しい笑いを提供し、大好評を博することとなりました。
 迨暇堂での狂言「野﨑武左衛門」公演については、昨年暮に2010年雛人形展でのイベントの一つとして話が持ち上がりましたが、実現には至りませんでした。新作狂言の題材とした野﨑武左衛門は児島出身の方であり、迨暇堂は野﨑家の文化資産でもあることから、ここでその公演を実現することが出来れば大変有りがたいことですし、今年こそその方向で話を進められたらと考えているところです。

写真は、昨年7月迨暇堂を見せていただいた時の写真である。

2010年12月21日火曜日

サッキータイム ~玉野海洋博物館~

12月18日(土)

孫たちと玉野市渋川にある玉野海洋博物館(渋川マリン水族館)に行った。
水族館の規模としてはやや小ぶりなイメージだが、魚の種類も多くよく管理されている。
玉野市に博物館や資料館、美術館と呼べる物が全くないと、確かこのBLOGでも書いたことがあると思うが、どうしてどうしてこの海洋博物館だけはシャンとしている。

1953年(S28)に開館した博物館で水族館と陳列館からなる。水族館は、大小34個の水槽に瀬戸内海の種を中心とした日本各地の海洋生物を約180種2000点を飼育展示しているそうな。
水族館では,瀬戸内海に春を告げる魚イカナゴや,ままかり(標準和名サッパ)など,瀬戸内海を代表する魚を展示しており,これらの魚種の展示は全国でも珍しいとか。
屋外には、ウミガメ・オタリア(アシカの仲間)・マゼランペンギンといった海獣類や舶用機器等の実物を展示している。

孫たちも初めて見る水族館の魚たちに夢中になっていた。
名前も知らない綺麗な魚たち、大きな水槽で悠々と泳ぐ大きな魚、愛らしいタツノオトシゴとかクリオネ、大きなウミガメにヨチヨチ歩きのペンギン、迫力満点の鯨の標本。どれも子どもたちだけでなく、大人も楽しめる空間だった。
http://www.city.tamano.okayama.jp/syoukoukankou/kaihaku/index.htm



2010年12月1日水曜日

サッキータイム ~たまので 狂言を楽しむ!~

11月28日(日)

玉野みなと芸術フェスタ2010最後のイベント「たまので 狂言を楽しむ!」は、11月28日(日)、宇野中学校体育館武道場で開催された。約200人の観客は、玉野では滅多に観ることの出来ない狂言の面白さと楽しさに大満足されていた。
新作狂言「野﨑武左衛門」は、昨年の創作狂言「野﨑武左衛門」を部分改定したものだが、内容的により面白くなるよう工夫を凝らしたものとなっていた。又、狂言受講生のレベルも昨年より向上し、所作や掛け合いの面白さに客席の反応もよく、出演者自身も手応えを感じていたようであった。

写真は上から、野﨑武左衛門と彼が開墾した入浜式塩田の説明、新作狂言「野﨑武左衛門」の各場面。
以下、公演に関するアンケート結果のまとめである。次回公演に貴重な意見が出されている。

今回公演の目的は、塩田王・野﨑武左衛門の功績を称え、玉野市に残る製塩文化や歴史遺産を後世に引き継ぐことであった。その手段として選んだのが、武左衛門も愛した「狂言」という日本古来の伝統芸能であり、地域に根ざした狂言がやがては玉野市の新たな文化として定着することをも目指そうとするものであった。
そこで、公演を観ていただいた観客の皆さんにその評価を仰ぐとともに、上記目的に賛同いただけるものかどうか、又狂言講座への参加希望をも確認し、狂言に対する興味の深さを調査すべく、アンケートを取ることとした。
結果を総括すると、狂言が非常に楽しい芸能であることを分かってもらうことができ、玉野市の新たな文化として根付かせることを希望する方が相当おられることが分かった。又、今後継続するに当たっての有意義な提言も幾つかあった。
今後の方針については、本アンケートの結果も参考にしながら、企画検討会及び実行委員会の中での充分な議論並びに講座生の意向なども踏まえて、納得の行く形の結論を導き出したい。以下、設問ごとに各回答結果を考察する。

A. 住まい(どの地域から来られたのかを確認)
開催場所が宇野地区であったこともあってか、山田・東児地区以外からの観客が87%を占めていた。山田・東児地区からは9%で、全体の96%が玉野市在住の方だった。市外からは、岡山、倉敷、早島などから数名来られていた。

B. 交通手段(会場まで何を使ってこられたのかを確認)
マイカーが圧倒的で、75%の方がマイカーであった。相乗りで来られた方もあると思われるので、およそ200×0.75÷1.5=100台くらいのマイカー(観客総数の半数)が集まったのではないかと思われる。
今回、会場が宇野中学校で校庭への駐車もできたため、観客からの不満の声がなかったのはありがたかった。人が大勢集まるイベントでは、駐車場の確保が欠かせないことを留意しなければならない。

C. 開催を知った媒体(PR方法として効果のあるものは何かを確認)
「人に聞いて」というのが63%、口コミによるPRが最大の武器であった。又、「その他」23%も内容的には「人に聞いて」であり、両者を合わせると86%が口コミであった。狂言講座生を中心とした口コミによるPRが最大の効果あることが再確認できた。又、広報たまの、チラシによる広報も不可欠の媒体である。新聞記事、TV放送を見ての来場者は僅かだったが、価値を高めるために今後とも欠かせない媒体である。

D. 新作狂言「野﨑武左衛門」楽しめたか(どの程度かを確認)
「大いに」86人(67%)と「少し」34人(27%)を合わせ120人(94%)の方が楽しんでくれた。「どちらとも言えない」0人、「大して」0人、「全く」0人であり、殆んど全ての方が新作狂言「野﨑武左衛門」を楽しい狂言であると、肯定的に感じてくれたと判断できる。今後、玉野市の文化として育て上げる値打ちのあるものと考えていいのではないだろうか。

E. 鬼山伏狂言「清水」を楽しめたか
「大いに」が92人(72%)と新作より多かったのは、プロの狂言はさすがと言う評価であろう。「少し」17人(13%)と「どちらとも言えない」2人(2%)があって、一見新作より低い評価のように見えるが、これはプロだから楽しめて当然という意見の表明なのかもしれない。
今後継続する場合、プロの狂言を含めるかどうかというのも議論の対象とすべきである。

F. 玉野に狂言を根付かせることに賛同できるか
「大いに」が89人(70%)、「少し」が19人(15%)、計106人(85%)の方が、玉野に狂言を根付かせることに賛同された。「どちらとも言えない」が12人(9%)を占めたが、否定派は0人であった。つまり、殆んど全ての方が根付かせて良いと判断されており、無視できない意見の表明と言わなければならない。

G. 参加希望は?(狂言の会への参加の意向を確認)
「大いに」が12人(9%)居られ興味を持たれた方がかなりあったが、実際に参加に結びつくかどうかは、個々に当たってみないと何とも言えない。「できるだけ」が38人(30%)あったが、これらの方が実際の参加に結びつくことはかなり難しいと思われる。「どちらとも言えない」以下の方65人(51%)は、不参加の意思表示と考えてよい。

H. 回答者の属性
(1) 年齢(どのような年齢層が多いのかを確認)
60歳台52%、70歳台22%、80歳以上7%と、60歳以上高齢者が81%を占めた。続いて50歳台9%、40歳台3%、30歳台2%、10歳台以下2%、20歳台1%の順となっていた。イベントの内容から高齢者が多いのは当然だろうが、小中学生等の子供たちにも伝統芸能の良さと地域の歴史を知るためにも、もっと観てもらうための努力が必要である。
イベント直前に狂言の特別学習があった、築港小や山田小学校への紹介なども積極的にやるべきだったか。

(2) 職業(どんな仕事をされている方が多いのかを確認)
主婦が非常に多く40%、続いて無職20%、会社員13%、自営業8%、その他6%、公務員4%、学生・生徒3%の順であった。
集客には主婦層及び定年後のお年寄り層をがっちり確保することが重要な要素ではあるが、前項とも合わせ考え、若手特に学生・生徒等への働きかけも強化する必要がある。

(3) 性別(入場者の男女比率を確認)
女性が61%、男性が36%で、例年通り女性客の方が多かったが、その差は昨年よりは少なかった。

(4) 連絡先(差し支えない方に記載していただいた)
正直な気持ちを表していただくために、基本的に無記名アンケートとしているが、24人の方(19%)が、お名前だけ、お名前と電話或いは住所も書いてくれた。ただ、参加希望欄に「大いに」と書かれたのに連絡先を書かれていない方の場合、本人への直接確認のしようがなく残念であった。

I. 意見と希望(回答者の自由意見)

・初めて見させて頂きました。中々面白かったです。
・とても面白かったです。私は初めてでした。
・玉野で狂言を楽しめてとても良かったです。狂言は初めての経験でした。皆さんとても上手でしたよ!
・玉野の狂言よろしくお願いします。
・塩の出来方の説明が長すぎました。足が痛かった。何十年ぶり、とても楽しかったです。次回も楽しみにしています。
・皆様良くお稽古され解りやすく楽しい舞台でした。古典はさすがに!!楽しく、ありがとうございました。
・出演者の皆さん、これを直接間接に支援する皆さんの努力の跡が顕著であり、感心させられました。今後も継続されることを祈念いたします。観る立場で今後も参加したい。
・久し振りの狂言でした。楽しく鑑賞させて頂きました。
・講座生の方々がとてもお上手なのでびっくりしました。マイクもないのに腹から声が出て大きな声にびっくりしました。上等な笑いでとても楽しかった。
・初めての狂言でしたが楽しませていただきました。皆さんよくせりふを覚えて練習をよく重ねられたことと思われます。武左衛門さんのことを(玉野市の文化など)勉強したいと思います。
・楽しい催しをありがとうございました。
・かっては謡の会もあり色々な人が参加していたようですが、現在はカラオケばかりでなんとも言えませんが、是非日本古典芸能を続けて欲しいものです。出演者皆様のお上手(一層の練習の賜物)に感じ入りました。
・山田地区で公演されていた時、夜だったので観に行けませんでしたが、昼の公演だと都合が良いです。奈義町で歌舞伎を根付かせています。毎年11/23に上演されているようです。玉野に狂言を根付かせることは可能だと思います。大人だけでなく、子供も参加できればいいですね。
・関係者のご尽力に敬意を表し、今後とも大変であるが一層のご研鑽を積まれ、玉野市の文化向上と市勢の発展に邁進することを期待とご依頼を申し上げます。
・大いに楽しませていただきました。ありがとうございました。
・山田・東児地区子供達の狂言 子供狂言を作って欲しい。
・今まで狂言は自分に縁のないものと思っていましたが、少々身近に感じることが出来ました。今後も頑張って下さい。
・楽しかったひとときでした。
・今回も(3回目)又、楽しませてもらいました。ありがとう。今後とも頑張って下さい。
・狂言とはどんなものかと来ました。楽しく見せていただきました。
・玉野で狂言を普及することは大変いいことだと思います。
・見るだけ
・昨年より改良進歩していたのに驚きました。
・たまにTVで見ても直ぐにチャンネルを変える程度であった狂言というものに初めて接する機会を頂きありがとうございました。参加のメンバー方の練習のご苦労、それを指導された田賀屋先生のご苦労もあったと思いますが、私にとって良い体験をさせて頂くと共に大いに笑わせて頂きました。
・初めて狂言を見て聞いてみて、少し楽しむことが出来ました。狂言は言葉遣いや仕草が大変だと思い、私も少し勉強したいと思います。
・伝統ある狂言を眼の前でみることができ素晴らしかったです。多くの人の活躍でいい舞台に感激しました。練習の積み重ねでお一人お一人がとても上手でプロの方のようです。折角の舞台にもっともっと沢山の方が来られたらよかったのに・・・、特に宇野中学校の学生の方全員みて日本の狂言を知って欲しいと思いました。今後もご活躍ください。
・努力されての演出に感激しました。古典の良さを再認識する感じです。皆さんのこの日に敬意を表します。
・子供と参加したが、鬼が出てくるところは子どもにも分かって面白かったです。
・狂言の会も巧かったですが、やはりプロの狂言師は迫力が違います。狂言は初めて見ましたが面白かったです。狂言の会の人も頑張って欲しいと思います。
・狂言を見たのははじめてだったけど、とてもおもしろかったです!ばあちゃん、とっても上手だったよ!!
・狂言に親しむ機会をありがとうございました。古典芸能を子供の頃から生で親しむ機会も大切と思われます。玉野でこの活動を根付かせ、子供に参加の機会もできれば良いと思いますが・・・
・楽しく見せていただきました。
・みることが少ない狂言を鑑賞できてよかったです。講座生の皆さんも頑張っておられ、素晴らしいと思います。ありがとうございました。
・初めて見させて頂き、狂言というものが少しわかったように思います。これから見る目が違うかもしれません。(テレビなどで見てもあまり興味がなかったのですが、言い回し、動作、声の出し方など・・・)
・見たり聞いたりするものなので、なじんで楽しめるのはむつかしい 。
・入場料が高い。
・初めて拝見しましたが、とても楽しかった。
・とても感動しました。出演者の方の素晴らしい狂言で、玉野で見れることがとてもありがたいことでございます。
・舞台のすぐ前で鑑賞できたので仕草がよく見え、足の動きなどもよく見え、声もとても大きくとても良かったです。さすが先生はすばらしく素敵でした。

2010年11月19日金曜日

サッキータイム ~タマノクルーズ2010・アンケート結果~

11月7日(日)

11月7日(日)に実施した「タマノクルーズ2010」は、曇り空の中、41名の乗船客、5名のスタッフの46名を乗せ、予定どおり9時30分に県営宇野港第7桟橋を出港。観光ボランティアガイド・大前さんの軽快な案内で、第1寄港地の大藪港に向かった。
9時50分大藪港に着岸。急峻な観音山登山道を登ると、小高い頂上は児島霊場第七十一番札所の標石がある観音山だ。そこからみかん園までは直ぐ目の前。眺望を楽しむより、みかん園でのみかん狩りに興じるお客さん。甘さと酸っぱさの混じった美味しい大藪みかん。定刻に大藪港を出港した遊覧船「からこと丸」は、ゆったりと海から観るたまのを満喫。異常な位の大潮でいつもの岸壁では上陸できず、大型船用岸壁から上陸。12時に「しおさい」に着くと、味野専売支局迎賓館でお昼を頂く。カフェやまだでコーヒーを飲み、塩竈神社でお抹茶のサービスを受ける。その後、ナイカイ塩業の工場見学をして、山田港を出港。「今年はさらに東の鉾島まで足を伸ばしましょう。」と言うと乗船客は大拍手。瀬戸内の島々を案内しながら定刻どおり無事宇野港に帰港。全行程に満足された乗船客皆さんのスタッフへの労いの拍手は、このイベントを企画・運営した実行委の満足の瞬間でもあった。
お願いしたアンケートは、23枚が回収(回収率59%)された。アンケートの集計結果は、以下に示すとおり、全てにおいて満足されており、主催者として非常にうれしく感じた。

A.乗船客の住まい
全回答者の87%が「山田以外の玉野市民」で、次が岡山市民、山田・東児地区住民の順だった。今後、できるだけ市外の人へのPRを充実させる必要がある。

B.イベントを知った媒体
「人に聞いて」が約半数で、次に「広報たまの」,「チラシ」,「新聞記事」の順であった。「人に聞いて」つまりクチコミの重要性が最大でありきめ細かなPRが必要ではあるが、市の広報誌への掲載も今後とも必ず継続する必要がある。

C.良かったイベント
「みかん狩り」、「船内での案内」、「ナイカイ塩業工場見学」の3つに対して圧倒的な満足感を示され、続いて塩竃神社のお手前体験に約半数の方が満足と答えられた。「昼食」に対しては、約4分の1の方が満足と答えられたが、もう少し考えて欲しいとの声もあった。「味野専売支局迎賓館」、「カフェやまだ」については、大きな評価は頂いてないが、積極的なPRが少なかったからかもしれない。「アートスタンプラリー」、「わが町歴史探訪展」についても、より効果的な説明がないと良さを発見できないのではないかと考えられる。

D.クルーズ資料は役に立ったか
「大いに」が70%、「少し」が22%、計92%の方が観光と学びのために役に立ったとの評価だった。観光ボランティアスタッフの大前さんからも絶賛頂いた。

E.全体的な感じ
「大変満足した」が65%、「やや満足した」が30%、合計95%が「満足」され、今回のクルーズも大成功だったと言っていいのではないだろうか。

F.今後の希望
70%の方が「来年も希望する」との回答であり、玉野市の名物クルーズとして出来るだけ継続出来るようにしたい。

G.来年実施する場合の内容
4年連続で山田・東児方面への東海道が続いたせいか、コース見直しの希望が13名(57%)もあった。日比・渋川方面の西海道を観たいとの希望であろう。要検討事項である。時期的には、10月~11月と秋の行楽季節が選ばれていた。

H.乗船者の年齢、職業及び性別
年齢は、50歳台~70歳台で78%を占めていた。40歳台以下は17%で内20歳台以下は4%と、若い親子連れが非常に少なかった。学びと遊びをコンセプトにしたクルーズとして、もっと若い方たちにアピールできる方策なりイベントなりを検討する必要がある。職業は、主婦が圧倒的で、続いて会社員、無職の順であった。性別では70%が女性であった。

写真は上から、船尾でクルーズに興じる子供(実はサッキーの孫たち)、観音山から見るみかん園、山田港に上陸歩いて味野専売支局迎賓館に向かう乗船客、昼食後カフェ山田で寛ぐお客さん、ナイカイ塩業の工場見学、東街道でのイベントを終え宇野港への帰路に向かう。無事宇野港へ到着記念写真をパチッ!

2010年11月15日月曜日

サッキータイム ~山田・東児地区ゆかりの歴史人物~

11月6日(土)

たまの東街道2010の初日、「山田・東児の歴史を語る夕べ」というトークイベントを行った。観客は少なかったが、山田まちづくり講座生が長年の研究成果の一つとして、楽しいトークをしてくれた。そのとき配布された資料を以下に紹介する。かなり長いが、興味ある方は最後までどうぞ。

増吽僧正(ぞううん そうじょう)
室町時代の僧侶
貞治5年(1366)に讃岐国大川郡与田村(現香川県東かがわ市)に生まれ、幼時から神童の誉が高かった。与田寺の増恵について仏門に入り、同寺で研鑽を重ねついに法印の位を得た。その後、高野山に上って修業を積み、学問を重ね真言の秘奥を極めたので、後小松天皇はその高名を聞かれ、増吽を宮中に召されて加持を受けられるまでになり、都に於いてもその名が知られるに至った。その後、増吽は諸国、諸山を巡って真言の真髄を極め、僧正の位に進んだが、後年その地位や名誉を捨ててしまい、諸国の寺院の復興に力を尽くした。県下では各地にその足跡を残し、あまたの寺の再興に尽力している。由加の蓮台寺、八浜の金剛寺、日比の観音院などにその伝説が残っている。こうした寺々を復興しては弟子に任せ、最後に山田の無動院の復興に尽くしていたが、遂に天命を知り、死期を予期して入定したといわれ、その入定の石棺が無動院に残されている。増吽は絵画や彫刻にも優れ、英田郡長福寺の「十二天像十二幅」、玉野地方に多く伝えられる「弘法大師画像」、与田寺蔵の「真言八祖像」「八幡神像」などは特に有名である。増吽は宝徳元年(1449)5月5日、84歳の高齢で遠く四国の空を望んだ無動院山で入定したのであるが、与田寺では当時弘法大師の再来といわれた増吽は、生国讃岐で享徳元年(1452)昇天したと伝えている。八浜金剛寺の再建が59歳の時であり、直弟子増賢を再興主としているし、当地方の寺々に現在も僧名に増の字のつく人の多いのも、いかにこの増吽の偉かったかが偲ばれる。東児地方に於ける真言宗寺院が輪番で毎年一回開く聴聞などもこの増吽の創始にかかるものであり、寺々の仏画を一堂にかかげ、各寺院の僧侶が集まって法会を開き、檀家の人々も一日休んで先祖の供養をし、説教を聞いた名残である。(玉野市史続編)
高心(こうしん)
南朝の武将
高心は南北朝の時期の南朝の武将である。楠木正儀(マサナリ)(正行(マサツラ)の弟)に仕えたが、直島に隠棲した後に西湖寺に転居し、風月を友として余生を楽しむ傍ら、近在の人々を教化しこの地で没したとされている。墓は砂岩製で高さ2.4㍍、南北朝末期と思われる珍しい形式の笠塔婆として注目されている。
又、高心の没年の至徳は北朝の年号である。これについては諸説あるが、南北朝末期北朝の世になり南朝の人間であることを隠したためであるとか、主君の楠木正儀が北朝に帰順したことがあるためであるとも言われている。
高心の墓は、昭和34年(1959)3月27日、岡山県指定重要文化財に指定された。(玉野市教育委員会)
石川 善右衛門(いしかわ ぜんえもん)
慶長12~寛文9(1607~1669・12・1)
岡山藩士
岡山藩の郡奉行・普請奉行。名は成一。祖父久左衛門、父八兵衛とも尾張国(現愛知県)の出身で、父は慶長8年(1603)備前で池田利隆に召し出されて仕え、知行150国を頂戴したが、その後の国替えで因州鳥取へ移った。
備前国で生まれた善右衛門は、父の死により跡目を継ぎ、寛永9年(’32)国替えによって備前岡山に帰った。翌年から寛永18年(’41)のうち4年間、検(け)見(み)を担当した。寛永19年(’42)暮れに児島郡の郡奉行になり、慶安1年(’48)まで務め、幕府に差し出す絵図の作成に携わった。承応1年(’52)から翌年には江戸で藩の仕事を務めた。承応3年(’54)大洪水の災害の復旧のため児島郡の郡奉行の手助けに配属された。同年児島郡の郡奉行になり、寛文5年(’65)まで務めた。その後、100石の加増となり、足軽15人御預けの普請奉行を仰せ付けられた。明暦2年(’56)在来の池を拡張して木見の森池を造ったほか、郡奉行在職中に福南山下の福林池、長尾の天王池など、郡内の多くの溜池を旱魃(かんばつ)と水害に備えて築造、改修した。
又、明暦1年(’55)には朝鮮通信使の接待に出向いた下津井で、待機中の人夫を使って港の整備を行った。文化3年(1806)瑜伽(ゆが)大権現の境内に頌徳碑が建てられ、明治43年(1910)従四位を追贈された。(岡山県歴史人物事典) 山田の牛石池が万治2年(1659)・二子池が寛文2年(1662)にできた。寛文4年(1664)には大池の拡張工事が行われた。
 
野﨑 武左衛門(のざき ぶざえもん)
寛政1~元治1(1789・8・1~1864・8・29)
倉敷市児島味野の人
塩田・新田開発者。塩田王と呼ばれる。幼名元蔵。諱(いみな)は弣(ゆづか)。児島郡味野村の昆(こ)陽(や)野(の)貞右衛門の長子として生まれる。幼少から太閤記を味読(みどく)し、対岸の讃岐(現香川県)まで師を求めて書を学び青年に成った時には「身の丈六尺に近く、人品骨柄人に超えた」(「松樹繁栄記」)という。
文化4年(1807)18歳のころ、持高7石8斗余の農業経営に基づく家政打開のため、足袋の製造・販売に着手し、4、5年にして工場制手工業主に発展し、その販路は、東は大坂、西は防長(現山口県)まで広く瀬戸内一帯に及んだ。しかし、文政9年(’26)ごろ、遠隔地商業にからまる売掛金回収に行き詰まり、何らかの方向転換を迫られたため、義伯父に当たる児島郡天城村(現倉敷市藤戸町天城)の大庄屋格中島富次郎の意見を入れ、塩田開発を決意して藩庁に請願した。
文政10年(’27)藩庁の許可を得て開発に着手し、文政11年(’28)味野村に32.2ha余(16塩戸)、文政12年(’29)赤崎村に15.5ha余(8塩戸)、合わせて約48ha、24軒前の野﨑浜(元野﨑浜)を完成させた。この時から昆陽野姓を野﨑姓に改名した。続いて天保1年(’30)児島郡日比・向日比・利生(おどう)(いずれも現玉野市)に亀浜塩田の開発を試み、翌年11ha余(5塩戸)を完成させた。
天保2年(’31)武左衛門は塩・石炭問屋営業の許可を得て味野会所を設置し、塩業経営に着手するとともに、東児島の海浜に着目して東野﨑浜開発を計画し、地元の胸上村(現玉野市胸上)との交渉を妥結させた。東野﨑浜は天保9年(’38)着工し、天保12年(’41)73ha余(38塩戸)の完成を見、武左衛門は塩・石炭問屋営業の免許を得て東野﨑会所を設置した。一連の塩田開発の成功によって、弘化4年(’47)藩庁から苗字帯刀御免・5人扶持を頂戴した。
嘉永1年(’48)には藩命によって福田新田築立方が児島郡柳田村(現倉敷市児島柳田)庄屋汲五平から武左衛門に変更された。嘉永2年(’49)開発に着手し、嘉永4年(’51)703ha余の福田新田開発を成功させ、引受額61ha余の土地を取得し、嘉永6年(’53)福田新田5ケ村大庄屋役を拝命した。この年、邑久郡久々井浜(7.9ha余・4塩戸)の塩田開発も行い、又文久3年(’63)には東野﨑北浜19.7ha(8塩戸)を完成させた。
武左衛門の塩田・新田開発の偉業に加えて最も精彩を放ったものに、当作(とうさく)歩方(ぶかた)制の採用がある。武左衛門は当時、瀬戸内塩田で一般的に採用されていた浜問屋付小作制度を排し、全塩田を直営化し、全塩田の歩方を掌握してこれを関係者に付与して経営の効率を上げるという独特の経営方式を創案して導入した。安定した塩田・耕地経営を背景に、嘉永5年(’52)表書院の普請を完成させ、岡山藩主池田慶(よし)政(まさ)・茂(もち)政(まさ)をはじめ伊木若狭・池田出羽・池田伊賀の3家老もしばしば来邸し宿泊した。文久3年(’63)には幕末政争で困窮する藩の借り上げに対して1万両を上納した。
塩業経営が軌道に乗った天保末年(1840年代初)ごろから、茶道(速水流)、華道、絵画、和歌など風流を楽しみ、京都からは速水宗匠がしばしば来邸した。元治1年(’64)死去に際してのこした「申置」7ヵ条(松寿院野﨑翁遺訓)は家産管理と運営、地域との共生などについて公利優先・衆議尊重などの指針を後世に示した。(岡山県歴史人物事典)
西井 多吉 (にしい たきち)
文化12~明治32(1815・6・4~1899・5・9)
倉敷市の人
児島、野﨑家家僕。五猿と号す(通称さるこじい)。浅口郡勇崎村(現倉敷市玉島勇崎)に生まれる。
15歳から児島郡味野村(現倉敷市児島味野)の塩田王野﨑武左衛門・武吉郎の二代に67年間にわたって仕え、福田新田の開発や塩田の開発、塩田経営や小作地管理に手腕をふるい、野﨑家を西日本随一の塩田地主・耕地地主に飛躍させた。明治26年(1893)その功により緑綬褒章が下賜された。
野﨑家には、原撫(ぶ)松(しょう)が描いた五猿翁の肖像画が残っている。野﨑家墓地に葬られ、三島毅(中洲)の銘した墓碑が建つ。また郷里(現倉敷市玉島柏島西の谷)に遺髪碑がある。(岡山県歴史人物事典)

荻野 独園(おぎの どくおん)
文政2~明治28(1819・6~1895・8・10)
玉野市下山坂出身
幕末~明治時代の臨済宗の高僧・京都相国寺住職。幼名勝五郎。字は独園。退耕と号す。児島郡下山坂村向(現玉野市)の豪農荻野杢左衛門の二男に生まれる。文政9年(1826)8歳にして児島郡郡村(現岡山市郡)の叔父掌善寺鎮州の弟子となり、13歳の時、出家。元規と称した。
天保7年(’36)18歳のとき豊後(現大分県)に赴き、帆足万里の塾に入門して儒学を学ぶ。5年を経た天保12年(’41)相国寺承演大拙につき臨済禅を学び、承演の道統を継いで名を承珠と改め、安政3年(’56)伏見宮邦家親王の命により心華院住職、明治2年(’69)相国寺住職に就任。
明治5年(’72)4月、教部省が置かれ神仏合併大教院が設置されるに当たって、教導職に任じられ、明治6年(’73)大教院長、また臨済・曽洞・黄檗(おうばく)3宗の総管長に任じられた。明治17年(’84)には各宗派と京都に共済会を設置して、貧しい子弟の教育にも携わった。
明治22年(’89)宮内省の内命により、伊藤若冲筆動植採絵30幅を献納し、金1万円を下賜される。明治23年(’90)72歳の時、『近世禅林僧宝伝』を上梓(じょうし)。明治27年(’94)退いて京都東山銀閣寺に自適。翌28年(’95)8月10日病のため寂す。
著書に『近世禅林』3巻がある。また没後弟子たちによって『退耕語録』3巻が刊行され、又、富岡鉄斎らにより豊光寺に退耕塔が建立される。昭和54年(1979)には、出身地の玉野市下山坂に顕彰碑が建立された。(岡山県歴史人物事典) 


伊藤 立斎(いとう りっさい)
1822~1855・12・21(文政5~明治18)
倉敷市玉島勇崎出身
医者。浅口郡勇崎村(現倉敷市)に生まれる。本性は山本氏。医者となって名声をあげた。後伊藤に改姓。
明治初年、児島郡山田村(現玉野市)有志の要請を受け、家を長男に譲って同村に移住し、歓迎された。医業の傍ら、地元子弟に四書五経或いは習字などを教えた。
明治6年(1873)12月、山田小学校の雇助教に任ぜられたが、翌年5月職を辞し、以後もっぱら医業に従った。「医は仁術なり」との姿勢で、村人の尊崇を受けた。(岡山県歴史人物事典) 墓石銘が白石宝殿場にある。

三宅 三郎(みやけ さぶろう)
天保13~明治19 (1842・1・3~1886・6・13)
玉野市山田出身 
岡山藩の勤王家。児島郡山田村名主三宅甚五右衛門高茂の長男に生まれる。幼名益左衛門高敬、のち三郎孝徳と称す。父の病気により安政4年(1857)から山田村名主代勤となり、文久3年(’63)まで勤めた。この間、三芳屋のち児島屋の屋号を用いて醬油醸造や穀物商、さらには塩田経営を行った。
その一方、尊皇の志が厚く、児島高徳の子孫と称し、岡山藩の尊攘派指導者牧野権六郎や江見陽之進(鋭馬)らと交わり、慶応2年(’66)10月には京都に滞在して、諸藩の志士や公家衆と交流し、情報収集に当たっている。翌年2月には藩から2人扶持小姓格を命ぜられ、10月には牧野とともに上京して大政奉還を実現する活動に協力して働いた(『牧野権六郎先生伝』)。
11月に帰藩した三郎は、在村して休養していたが、村民による東野﨑塩田益米(塩田築造以来毎年地元に支払われている補償米)の増額要求が起こり、塩田所有者の野﨑家と地元の仲介役を引き受ける一方、自ら名主役への復帰運動を進めたが明治3年(’70)に村議者に任命されるにとどまった。
その後は家業もうまくゆかず、明治8年(’75)には岡山県の警察関係の官吏に採用され山田村を去った。(岡山県歴史人物事典)墓石銘が白石宝殿場にある。                             

東 作平(ひがし さくへい)
弘化4~昭和4(1847~1929)
玉野市後閑の人
弘化4年(1847)後閑に生まれた。代々作兵衛、作平と称した名主の家柄で、常山城主戸川友林の後裔と称していたが、戸川の後裔の証拠は見当たらない。おそらく東国から来た後閑氏の一族で、後閑氏が土着開発されたのが後閑部落であろう。東氏系図では後閑来住者からこの作平までが9代でこの間7代目だけが名主役を勤めずとある。この9代作平は、16歳で大薮・後閑の名主となり、明治維新とともに戸長となったが、明治10年(1867)には鉾立・山田・胸上・波知などの14ケ村の戸長を勤めている。
教育には殊に熱心で、明治7年近村に先んじて後閑小学校を創立し、同12年より20年まで名誉校長として子弟の訓導に当たった。町村制施行後は郡会議員・村会議員などを勤め、又所得税調査委員・徴兵参事官・済世顧問などの名誉職にあり、政治に携わること実に50年、この間至誠を以て貫いた。作平人となり謹直で侵すべからざる威厳を具え、しかも身を修めること厳で、人に接しては温和であった。
号を西湖と称し、書画を嗜み、謡曲に堪能であった。又、若くして剣を学び、その技は近郷に聞こえていた。昭和4年(1929)83歳で没した。(玉野市史続編) 鳥打峠の出崎入口の所に、開鑿記念として大正5年(1916)に作平氏が建てた石標がある。

岡 武三郎(おか たけさぶろう)
安政5~明治37(1858・11・16・~1904・10・15)
岡山市出身
教育者。岡山藩士岡幸十郎の二男として生まれ、親戚の岡甚次郎の養子となる。読書を好み、温(おん)知(ち)学校(岡山県師範学校の前身)を卒業して、明治8年(1875)12月、児島郡山田村(現玉野市)の第三十三中学区四十九番小学校に赴任、明治13年(’80)村内無動院山に校舎が新築され養才小学校と改称した。
明治16年(’83)には県の命で、岡山県師範学校で教育学・徒手体操などを学んで帰任、明治34年(1901)には同尋常小学校の校長に就任した。翌年、校舎が現在の山田小学校に移転されたが、明治37年(’04)10月、現職のまま46歳で病死した。教師在任中、武三郎は、昼間は小学校で教える一方で山田、胸上に青年夜学会を設け、20余年、毎宵出掛けて行ったという。
明治45年(’12)教え子たちは、元の小学校のあった無動院山に石碑を建て、その遺徳を偲んだ。(岡山県歴史人物事典)
春藤 武平(しゅんどう ぶへい)
明治17~昭和43(1884・10・25~1968・3・11)
玉野市八浜出身
塩業家。児島郡八浜村(現玉野市)で善治の二男に生まれる。東児高等小学校卒業後の明治32年(1899)、15歳で野﨑家の経営する東野﨑支店に入り、製塩技術の改良に取り組む。
大正7年(1918)、34歳のとき台湾に赴き、野﨑台湾塩行で天日製塩法について実地研究。昭和1年(’26)東野﨑浜に枝条架(しじょうか)濃縮設備を設置して改良に当たった。枝条架は、既にドイツ、フランスでみられ、日本でも塩専売制実施直後、島根・山形・千葉県でも設置されたが、その成績が不振であるため廃止されていたものであった。昭和6年(’31)下津井港で底曳網(そこびきあみ)に蓬(よもぎ)を懸(か)けているのを目撃して枝条架装置改良の発想を得、素材を蓬から棕櫚(しゅろ)、粗朶(そだ)、竹枝と換え、遂に竹枝を櫓(ろ)状に編んで、動力による海水滴下を試みて成功した。昭和9年(’34)には鹿児島県から大量の竹枝を購入して独特の枝条架式濃縮装置を考案し、これを入浜式塩田の周囲に構築した。同年9月の室戸台風で約半分が倒壊したが、直ちに改良を加えて頑丈(がんじょう)なものに組み換えた。
昭和19年(’44)、枝条架式と斜層貫流式を結合した流下式試験塩田を児島郡鉾(ほこ)立(たて)村番田(現玉野市)に設け、実験を繰り返して企業化に成功し、以後東野﨑塩田、元野﨑塩田に実施していった。昭和27年(’52)日本専売公社は春藤式製塩法の優秀性を認め、全国の塩業者に流下式製塩法への転換を奨励した。昭和33年(’58)には全国の塩田が流下式への転換を達成し、過酷な重労働の軽減と生産力の飛躍をもたらした。昭和23~41年(’48~’66)内海塩業㈱取締役社長に就任した。昭和32年(’57)黄綬褒章、昭和40年(’65)勲五等双光旭日章を受賞。(岡山県歴史人物事典)


北畠 謙三(きたばたけ けんぞう)
明治19~昭和43(1886~1968)
玉野市山田の人
明治19年(1886)、岡山藩士であり儒学の教授であった速水家に生まれた。幼にして漢学を教えられたので、一生を通じ漢詩を愛読するとともに、自らもよく作詩を楽しんだ。
明治40年(1907)、岡山師範学校を優秀な成績で卒業し、児島郡甲浦小学校、小串小学校などの各校長を歴任して、大正4年(1915)から養家の郷里山田小学校長として赴任した。家は校門と相向う近さであり、日夜勤務を続け、青年の夜学、父母の教育まで手を伸ばし、村をあげての教育に専念した。ことに謹言誠実、品行方正の氏は、絶えず村人の師表として自らも任じ、村民また仰ぎ慕っていた。
校長として在職すること15年、村民より推されて村長の椅子に就いた。永い教育者として、大人相手の村政には相当の苦労もあったが、村民の信望は厚く、在職11年の間、村財政の確立、交通運輸の改良、教育の充実には特に力を注いだ。
氏は、青年時代から旅行を唯一の楽しみとし、しかも古建築に興味を持っていたので、各地の寺社などを詳細に見て廻って県下のそれと対比した。そのうち古建築にとりつかれ、その研究に没頭、県下の古建築をすべて見て廻り、『岡山県古建築図録』を著した。当時、古建築については県下に氏の右に出る者は居なかった。又、郷土史にも興味をもち、山田小学校長在職中の昭和3年(1928)『山田村誌』を著した外、『東児社寺物語』、『玉野史跡社寺案内』などの著書があり、ことに建築、彫刻についての造詣の深さがよく書き残されている。
玉野市文化財保護委員会が設置されると、その委員に選ばれ、文化財保護に尽くし、よく市内外を見て廻っていたが、足守文庫調査の途中倒れ、以来自宅で静養していた。玉野市史編さん委員会委員にも選ばれ、最初は出席したが、爾後文書で意見を述べていた。
氏は酒を嗜み、旅行の記念にはその地の「さかづき」を買い求めて帰り、日本全国はもとより、朝鮮、満州のものまでも集め、人が来るとその「さかづき」で振舞って旅行の話を聞かせていた。昭和43年(1968)没した。(玉野市史続編) 太田地蔵堂北側に謙三氏が揮毫の動植物の霊を祀る有情(うじょう)供養塚がある。

野嶋 島叟(のじま とうそう)
1889・9・22~1974・10・4(明治21~昭和49) 
玉野市山田の人
書家・俳人。本名経太。書道の号を島叟、俳号を島人(とうじん)と号した。児島郡東野﨑村で生まれる。
岡山中学校を卒業後、明治42年(1909)県費留学生として上海の東亜同文書院に学ぶ。卒業後、満州鉄道に勤務。佐藤助骨の影響で俳句を志し、大正13年(’24)渡辺水巴に入門。昭和1年(’26)一時帰国して西日本を俳句行脚し、昭和7年(’32)再び渡満した。
書は小学校時代から村田海石に学び、同文書院時代は初唐の書家・欧陽詢(おうようじゅん)、北宋の書家・米芾(べいふつ)らの書を学んだ。拓本の収集に努め、六朝(りくちょう)の造像記や摩(ま)崖(がい)碑(ひ)によって開眼、多くの中国の文人と交流し、清朝の遺臣・書家・鄭孝胥(ていこうしょ)の健筆に刺激され書作に励み、独自の書風をつくった。
第二次大戦後は玉野市へ引き揚げ、無心(むしん)無垢(むく)、飄々(ひょうひょう)とした余生を過ごした。句集に『羽族』、『霧雨』などがある。(岡山県歴史人物事典)

2010年10月27日水曜日

サッキータイム ~瀬戸内国際芸術祭―豊島~

10月27日

7月19日に始まった芸術祭だったが、今年は色々やることがあって、この夏何もできないくらいの状態だった。秋になると芸術フェスタの準備で時間が取れない。10月も終わりに近づき、今日やっと時間が取れ、豊島にゆくこととした。
この島に渡るのは何十年ぶりのことか?おそらく5回目だと思う。産廃で有名になった島だが、元は農漁業で豊かな島だったんだと思う。これまで、キャンプ、磯釣り、会社の大宴会、地引網でこの島を訪れたことがあった。
最後の週ということと豊島美術館のオープンで、大賑わいだった。現代美術の面白さを大いに味わうことのできた1日だった。音の美術、水の美術、食の美術、平面の美術、光の美術、あらゆる要素が美術になりうることを見事に証明している。それにしても、今回のプロジェクトのスケールの巨大さには驚かされた。お金の力も確かにあるだろうが、人を突き動かす動員力はそれだけではない。企画力か?執念か?
写真は上から、フェリーから写した唐櫃港、大阪芸大「ノリとたゆたう」、戸高千代子「豊島の気配」、内田晴之「豊島彼岸花プロジェクト」、藤浩志「こんにちは藤島八十郎」の離れにある屋根裏部屋の展望台、トビアス・レーベルガー「あなたが愛するものは、あなたを泣かせもする」

2010年10月26日火曜日

サッキータイム ~わが町歴史探訪~

10月26日

11月6~7日に開催される「玉野みなと芸術フェスタ2010~たまの東街道」で、塩の道散策ルートに残る「東野﨑塩田の遺構」について説明した看板を設置することとしたが、その説明文と看板の一部を紹介する。ちょっと長いので、読むのに時間がかかるが、山田塩田の歴史がよくわかる内容なので、興味ある方は最後までどうぞ。尚、これら遺構を調査研究して看板に纏めてくれたのは、山田まちづくり講座の皆さん方である。

①塩専売庁舎
かつて山田周辺で産する塩を管轄していた専売庁舎(木造平屋建て約200㎡)で、明治41年(1908)の竣工とされる。竣工当時の名称は「専売局味野収納所山田出張所」。大蔵省の威厳を示すため、洋風建築の意匠となっている。
これ以外で全国に現存する明治期竣工の塩の専売庁舎は、兵庫県赤穂市の旧「大蔵省赤穂塩務局」(明治41年竣工)のみが知られ、両建物は希少価値の高い産業遺産といえる。
この建物は後、昭和16年(1941)頃から児島郡山田村役場として使用され、同28年(1953)から39年(1964)まで玉野市山田支所、現在は「老人憩いの家」や東地域ミニデイサロン「しおさい」など、地域住民の福祉施設として使用されている。窓枠、外壁の塗装、屋根瓦など建物の一部は修復したが、内部の窓口カウンターやガラス戸はそのままで、明治時代の官庁の趣を残している。(玄関の左脇、旧収入役室は、後から増築された。)
②繁盛していたころの山田街
この辺りに写真の橋が架かっていた。明治41年(1908)専売庁舎が落成し、当時の山田が活気に満ち溢れていたことは今も語り継がれている。
塩浜稼ぎの人々は、親方・上浜子・釜屋番・釜焚き・寄せ子・沼(ぬ)井(い)踏み等もおれば、間接的な大工・桶屋・鍛屋などの職人、土木人夫・叺(かます)の製造・石炭商、生活物資を扱う商人、輸送関係の船人・仲仕なども存在した大組織であった。船持ちも居れば荷主も居り、旅館・料理店・呉服店・雑貨店・理髪店・魚屋・肉屋・自転車屋等々みな繁盛し、大正6年(1917)には、川向いの角の所に第一合同銀行山田出張所(後に海運局山田出張所となる。)もでき、山田の街は賑わっていた。
③塩の積み出し港
かつてこの一帯に専売庁舎の倉庫群が建っていた。広い敷地内にはトロッコが走り、近隣の塩田から集められた塩は、ここで検査を受け、東側の山田港(汐入川)から各地へ積み出されていた。

④蛭子座と大黒座
塩の積み出し港(汐入川)の川向こうに、大正2年(1913)、現玉野市で初めての劇場「蛭子座」(写真中央の大屋根・建坪170坪、収容人員1,000人)ができ、後「大黒座」(蛭子座より東、大屋根の一部が写る)もできた。演劇・活動写真などの興行が常に行われ、八浜・鉾立・田井などの遠隔地からも観客が来た。「大黒座」は今も石材加工場として存在。

⑤文書庫
塩専売庁舎に付属して建てられ、公文書が保管された。煉瓦(れんが)造平屋建て・桟(さん)瓦葺(がわらぶ)き(約30㎡)。小屋組は木造トラスで、室内の壁は漆喰(しっくい)が施され、床は板の間で高床構造となっている。3ヶ所の窓と正面入口の扉は鉄製で、窓の内側に鉄格子、入口扉の内側は引き戸となっている。以上の構造・設備から、防火・防湿・防犯対策が窺える。なお、南東部の窓は後から作られたもののようである。
平成19年(2007)に、地元有志らの浄財で、屋根の雨漏り箇所と正面入口の鉄扉・窓の鉄扉の修繕が行われた。地域が誇る歴史的建造物として、現在、国の登録有形文化財の申請中である。

⑥東野﨑支店跡
ここより川沿いに少し入った所に東野﨑支店があった。事務所や倉庫があり、写真中央の大きな建物は、特別室の他、来客用の貴賓室的なものから倶楽部など、東野﨑の管理機能がここに集約されていた。昭和23年(1948)に現在地(胸上)へ移転。その後、建物は昭和30年(1955)頃、取り壊された。又、明治27年(1952)には、東野﨑気象観測所が東野﨑支店敷地内に設置された。

⑦開閉橋(はね橋・明神橋)
塩田と対岸の陸とを結ぶ橋である。竣工当初は木造。大正15年(1926)に、コンクリートに改造された。汐入川(落合川・六間川)が運河の役割を果たしていたため、船(上荷船)が通航する際、船から竿で中央部分を横にはねて開閉し、帆柱を通過させていた。
開閉橋は、ここの他、2番・10番・20番浜にも架かっていた。

⑧巡査駐在所跡
この辺りに、明治19年(1886)、当地区で初めて巡査駐在所が設置された。なお、当初山田村の内であった東野﨑は、明治8年(1875)東野﨑村となり、明治22年(1989)山田村に合併した。

⑨塩竈神社
天保9年(1838)の塩田開発に際し、陸前塩竈神社(現、宮城県塩竈市)から勧請された。
現在の拝殿は、昭和3年(1928)の竣工で、職人が丹精を込めて造った様子が、唐破風や彫刻の意匠から伝わってくる。境内には、幕末期の石造灯籠・鳥居・狛犬や明治17年(1884)に設置された東野﨑塩田の碑などが立ち並び、この地が塩田開発とともに歩んだ歴史を感じることができる。鐘楼跡の方形の基礎枠や塩田用の井戸枠なども境内に残されている。
稲荷神社については、10番浜から奉遷したものである。

⑩浜井戸の跡
かつて塩田で働く人々が、洗濯など(飲料水以外)に使用した井戸があった。塩竈神社の境内にある井戸枠(豊島石製)がそれである。
東野﨑地区の大部分は、白石に設けられた貯水池(四ノ御神社の北)より飲料水の供給を受けた。又、各塩戸は、そこから一番近い所にある井戸やよく湧き出る井戸を選んで汲みに行っていた。

⑪浜井戸の井戸枠

⑫東野﨑塩田の碑

⑬鐘楼跡
かつてここに塩田で働く人々に時を告げる、写真の鐘楼があった。

⑭樋門
馬蹄形の建造物が堤防石垣に付属している。かつて海水の取り入れ口であった。各塩戸それぞれにあり、親方は、潮の干満により石段を下りて栓を抜き差しして、堤内のダブ(海水を貯える海水池)に海水を貯え、必要に応じ塩田内の潮(ちょう)川(せん)へ海水を入れ、又排水をした。

⑮樋門
馬蹄形の建造物が堤防石垣に付属している。かつて海水の取り入れ口であった。

⑯樋門
対岸の堤防石垣に馬蹄形の建造物が付属している。かつて海水の取り入れ口であった。各塩戸それぞれにあり、親方は、潮の干満により石段を下りて栓を抜き差しして、堤内のダブ(海水を貯える海水池)に海水を貯え、必要に応じ塩田内の潮川へ海水を入れ、又排水をした。

⑰雁木
堤防石垣の表面に付属する花崗岩製の石階段。汐入川(六間川)で物資の運送等を行う船と塩田との連絡用(荷役足場)に使用された。東野﨑塩田跡には数多く雁木がみられ、汐入川が運河の役割を果たしていたことを物語る貴重な産業遺構といえる。

⑱鹹水槽
塩田の採鹹で得られた濃い塩水の「鹹水」を貯蔵しておく水槽。RC造(鉄筋コンクリート造)。道路の拡張や舗装、土地の開発等に伴い破損が見られる。ちなみに、昭和9年(1934)前後までは粘土製の坪(槽)であった。

⑲樋の輪
馬蹄形の形状から、樋の輪と思われる。改修によって、全体がコンクリートの擁壁(ようへき)に覆われている。現在は、遊漁船の繋船(けいせん)施設となっている。
樋の輪とは、海から塩浜への海水取入口に設置され、風波による樋の損傷を防ぎ、堤防補強の役割を果たした塩田遺構の一つ。樋門のある箇所を石積みで丸く囲んで、海水が自由に出入りできるようにした石堤をいう。

⑳三五の燈台
かつて三十五番浜といわれた対岸に、写真の和式灯台が建っていた。嘉永5年(1952)に設置された当初は、石造り常夜灯であった。明治初年頃に木造に改築され、大正14年(1925)以降は、別に電灯が堤防上に設置されていた。
現在、地表に見える部分では、遺構は確認できない。古写真や現存する元野﨑浜灯明台(児島)を基に復元を図り、電灯代わりに点灯を行うことになれば、運河としての風情が一層ひきたつであろう。

2010年10月14日木曜日

サッキータイム ~新作狂言「野﨑武左衛門」~

10月14日

昨年に続き、今年も新作狂言「野﨑武左衛門」を上演することとなり、その詳細が決まったので以下紹介する。

塩田王・野崎武佐衛門が開墾した東野﨑浜の製塩の歴史を後世に引き継ぎ山田・東児地区の新たな文化と地域おこしを図るために、昨年、創作狂言「野﨑武左衛門」の初公演を行った。狂言という日本古来の芸能表現を使って地区の産業発展の歴史を語り継ぎ、伝統芸能のよさを生でじっくり味わう機会を作ることは、製塩の歴史を学ぶだけでなく市民の文化レベル向上にも繋がるものである。狂言講座生一同は、今年も狂言師/田賀屋夙生氏を講師に迎え、新作狂言の上演に向け一生懸命稽古に励んでいる。
「玉野みなと芸術フェスタ2010~たまの東街道~」のイベントとして開催する「わが町歴史探訪ライブ」では、浜子唄ライブと新作狂言「野﨑武左衛門」の発表を行なう。又、宇野中学校武道場で開催する「狂言を楽しむ!Vol.3」では、新作狂言の他プロの狂言師による鬼山伏狂言「清水」を上演する。

わが町歴史探訪ライブ
・日時:11月14日(日)15:30~17:10(15:00開場)
・場所:野﨑会館(ナイカイ塩業㈱構内)
・ライブ演目:
 第1部:浜子唄ライブ 15:30~16:00
     出演:山田三味線クラブ、山田小学校児童
 第2部:入浜式塩田と新作狂言「野﨑武左衛門」の紹介 16:00~16:20 
 (休憩10分)
 第3部:新作狂言「野﨑武左衛門」 16:30~17:10
     出演:(狂言講座生)五老海正登、小野美智子、木村綾花、小坂運子、
         斉藤章夫、塩崎テツミ、田中宣史、成山よし子、野間嶺子、
         (後見)広坂武昌、(特別出演)田賀屋夙生
・入場無料

たまので狂言を楽しむ!Vol.3
・日時:11月28日(日)14:00~15:45(13:30開場)
・場所:玉野市立宇野中学校体育館(武道場)
・上演番組:
 第1部:新作狂言「野﨑武左衛門」 14:00~15:00(入浜式塩田紹介含む)
  あらすじ:秋の東野﨑浜、塩田作業の浜子たちが明晩野﨑様の肝入りで開催されるという狂言の噂をする。夕方になると、作業を終えた浜子たちは酒を酌み交わし、塩竈神社や野﨑様のことを誉めそやしながら狂言の出し物について相談していると、玉爺や浜子たちが集まり盛大な酒盛りになる。
  そこで、野﨑様の出世にあやかり「福の神」を呼び出そうということになるが・・・。
  出演:(狂言講座生)五老海正登、小野美智子、木村綾花、小坂運子、
      斉藤章夫、塩崎テツミ、田中宣史、成山よし子、野間嶺子、
      (後見)広坂武昌、(特別出演)田賀屋夙生
 (休憩15分)
 第2部:鬼山伏狂言「清水」15:15~15:45
  あらすじ:主人が太郎冠者に、茶会に使う水を汲みに行くよう言いつける。夜である上に度々行かされるのは叶わないと思った太郎冠者は、清水に行く途中に鬼が出ると言う。主人は、鬼が出ることなど子供騙しのことと、水汲み桶を渡して水を汲みに行くよう命じる。仕方なく水汲みに出かけるが、太郎冠者は鬼が出たと直ぐ帰ってきて、桶は放り出して来たという。不審に思った主人が桶を取り戻しに行くと、鬼が出てくるが・・・。
  出演:田賀屋夙生、島田洋海
・チケット:大人/前売1,500円(当日1,800円)
      中人(高校生~中学生)/前売1,000円(当日1,200円)
      ※小学生以下無料
・プレイガイド:社団法人玉野市観光協会TEL(0863)21-3486、
         メルカカウンターTEL(0863)33-9502、
         玉野市文化会館BAUHAUS TEL(0863)33-8118、
         岡山ぎんざや TEL(086)222-3244
・問合せ:玉野みなと芸術フェスタ2010実行委員会(斉藤) TEL090-5260-9057

2010年10月13日水曜日

サッキータイム ~「しあわせを招く旗プロジェクト」開催~

10月9日(土)

当日は朝から雨、恵みの雨だったのか?
70名の募集に対して、前日までの正式申し込みは、「来るよ」と口頭で言ってくれた方を除き30名。この日は、各地で運動会や秋祭りなどの行事があって、来たくても来れない人が結構居られたのだ。「雨だとすると、こちらに来る人がかなり出てくるのかな?」と、取らぬ狸の皮算用。
結果としては、受付で名前を書いてくれた人は40名。親子連れのため名簿に記載のない子供さん、遅れてきて受付をされなかった方、最後の掲揚だけを手伝ってくれた方、写真だけを撮りにこられた方、新聞取材の方、そしてこの日のイベントを手伝ってくれたスタッフの方々。そういった方々を総計すると、丁度70名くらいの数に登る。

旗づくり作業のスタートは、白い布に描かれた下絵に従って着色すべき所には色布を貼り、白いままの所は白布を貼る。又、緑と指示された所は緑色の布を貼るというもの。1㎡の分厚い布に、スーパーで廃棄されたズボンやブラウス生地を貼り布として、下絵の形状に合わせて裁断し貼りつけるだけの作業なのだが、これが結構時間が掛かる。でも皆工夫してアートな旗に仕上げていて、凄く真剣に取り組んでいた。皆初めての経験であったが、非常に面白い体験だった。
出来上がった旗は、両手を上げた招き猫の絵柄であった。7m×10mと旗が巨大すぎて、天井が低いバウハウスではやや分かりづらいという感じはあったが、よくみると招き猫の絵である。
市制70年を迎えた玉野に、しあわせが訪れることを心から願いたいものである。

写真は上から、旗の作り方を説明する主催者のアオイアツシくん、旗を作る市民の方達、2階の回廊から見た旗づくりの風景、できた旗を裏返して旗枠に結びつける参加者、最後は掲揚が無事終わった後の記念写真。そして、本日の新聞に掲載された旗プロジェクトの記事。


今日から(10/13,15&16)の3日間、この旗の下で「しあわせライブ」が開かれる。
こちらも是非楽しんでいただきたいと思う。
最後にアオイくんが作った旗のコンセプトを紹介する。

「しあわせを招く旗」キャプション          イラストレータ/アオイアツシ

・旗コンセプト
この旗は、多くの方々と力を合わせ、1m×1mの旗70枚を繋ぎ合わせて制作しました。
若い方、年配の方。市内の方、市外の方。それぞれ違った立場や環境の方々が『繋がる』ことによって完成することができた作品です。
この旗に関わって下さった方々、そして旗を見にきてくださった方々、人と人の何気ない繋がりが、その人の『しあわせ』へと繋がっていくことを願っています。そして今年、市制70周年を迎えた玉野市の、これからの『発展』へと繋がっていくことを願って。

・イラストコンセプト
招き猫は、日本人に長く愛され、時代や流行によってその形を変えています。旗に描かれたイラストは、『招き猫』をベースとして、招き猫に元々含まれている『願(がん)』に、イラストレータ/アオイアツシが頭に描いた下記のようなものをコンセプトとして描きました。

(招き猫の招く手)
招き猫は、右手が『お金』を、左手が『人』を招くと言われ、その招く手の位置が高ければ遠くから福を招くと言われています。
この旗のネコは、両手を上げて招いていますが、
「お手上げバンザイになる」、「背のびをする(欲張りすぎる)とろくなことがない」
と言われ、嫌う人もいるそうです。
そこをあえて『両手』にしたのは、「もっと背のびをしても、やりたいことに手を伸ばしてみる」
という思いを込めたからです。
積極的にいろいろ『やってみる!』ことが出来る玉野であるような、そんな思いを込めて。

(ネコの背伸び)
招き猫は、多くが座った形で福が来ることを待っています。『招く』という行為自体がそういうものであるとも言えますが、この『しあわせを招く旗』の招き猫は、しあわせを招きつつも自分から『つかみ取る』という意味も込めて、背のびをした状態で立たせました。
ネコは本来四つ足のため、二本足で立つことは不安定で、倒れる危険性もありますが、『ネコ』という生き物自体、そんなことおかまいなしに、好奇心旺盛なのでしょう。何度も何度もよくわからないことにチャレンジします。
失敗を恐れないネコのようにという願いを込めて、背伸びさせてみました。

(招き猫のよだれかけ)
招き猫のよだれかけは、子どもたちの健やかな育成を望む象徴とされています。
この旗のイラストでは、『風呂敷マント』にしてあります。子どもたちの強くなりたいという思いの象徴も込めました。

(白い招き猫)
白い招き猫は、開運・幸福。風水では素直・優しさ・親切を象徴しています。
又、招く手が輪になっています。
これは、人と人との良い繋がりが輪となって大きな力を生み出すことを願ったものです。

(かぎネコ)
しっぽが曲がったネコは、しあわせがしっぽの曲がったところに引っかかってくると言われ、縁起が良いとされています。