2010年11月19日金曜日

サッキータイム ~タマノクルーズ2010・アンケート結果~

11月7日(日)

11月7日(日)に実施した「タマノクルーズ2010」は、曇り空の中、41名の乗船客、5名のスタッフの46名を乗せ、予定どおり9時30分に県営宇野港第7桟橋を出港。観光ボランティアガイド・大前さんの軽快な案内で、第1寄港地の大藪港に向かった。
9時50分大藪港に着岸。急峻な観音山登山道を登ると、小高い頂上は児島霊場第七十一番札所の標石がある観音山だ。そこからみかん園までは直ぐ目の前。眺望を楽しむより、みかん園でのみかん狩りに興じるお客さん。甘さと酸っぱさの混じった美味しい大藪みかん。定刻に大藪港を出港した遊覧船「からこと丸」は、ゆったりと海から観るたまのを満喫。異常な位の大潮でいつもの岸壁では上陸できず、大型船用岸壁から上陸。12時に「しおさい」に着くと、味野専売支局迎賓館でお昼を頂く。カフェやまだでコーヒーを飲み、塩竈神社でお抹茶のサービスを受ける。その後、ナイカイ塩業の工場見学をして、山田港を出港。「今年はさらに東の鉾島まで足を伸ばしましょう。」と言うと乗船客は大拍手。瀬戸内の島々を案内しながら定刻どおり無事宇野港に帰港。全行程に満足された乗船客皆さんのスタッフへの労いの拍手は、このイベントを企画・運営した実行委の満足の瞬間でもあった。
お願いしたアンケートは、23枚が回収(回収率59%)された。アンケートの集計結果は、以下に示すとおり、全てにおいて満足されており、主催者として非常にうれしく感じた。

A.乗船客の住まい
全回答者の87%が「山田以外の玉野市民」で、次が岡山市民、山田・東児地区住民の順だった。今後、できるだけ市外の人へのPRを充実させる必要がある。

B.イベントを知った媒体
「人に聞いて」が約半数で、次に「広報たまの」,「チラシ」,「新聞記事」の順であった。「人に聞いて」つまりクチコミの重要性が最大でありきめ細かなPRが必要ではあるが、市の広報誌への掲載も今後とも必ず継続する必要がある。

C.良かったイベント
「みかん狩り」、「船内での案内」、「ナイカイ塩業工場見学」の3つに対して圧倒的な満足感を示され、続いて塩竃神社のお手前体験に約半数の方が満足と答えられた。「昼食」に対しては、約4分の1の方が満足と答えられたが、もう少し考えて欲しいとの声もあった。「味野専売支局迎賓館」、「カフェやまだ」については、大きな評価は頂いてないが、積極的なPRが少なかったからかもしれない。「アートスタンプラリー」、「わが町歴史探訪展」についても、より効果的な説明がないと良さを発見できないのではないかと考えられる。

D.クルーズ資料は役に立ったか
「大いに」が70%、「少し」が22%、計92%の方が観光と学びのために役に立ったとの評価だった。観光ボランティアスタッフの大前さんからも絶賛頂いた。

E.全体的な感じ
「大変満足した」が65%、「やや満足した」が30%、合計95%が「満足」され、今回のクルーズも大成功だったと言っていいのではないだろうか。

F.今後の希望
70%の方が「来年も希望する」との回答であり、玉野市の名物クルーズとして出来るだけ継続出来るようにしたい。

G.来年実施する場合の内容
4年連続で山田・東児方面への東海道が続いたせいか、コース見直しの希望が13名(57%)もあった。日比・渋川方面の西海道を観たいとの希望であろう。要検討事項である。時期的には、10月~11月と秋の行楽季節が選ばれていた。

H.乗船者の年齢、職業及び性別
年齢は、50歳台~70歳台で78%を占めていた。40歳台以下は17%で内20歳台以下は4%と、若い親子連れが非常に少なかった。学びと遊びをコンセプトにしたクルーズとして、もっと若い方たちにアピールできる方策なりイベントなりを検討する必要がある。職業は、主婦が圧倒的で、続いて会社員、無職の順であった。性別では70%が女性であった。

写真は上から、船尾でクルーズに興じる子供(実はサッキーの孫たち)、観音山から見るみかん園、山田港に上陸歩いて味野専売支局迎賓館に向かう乗船客、昼食後カフェ山田で寛ぐお客さん、ナイカイ塩業の工場見学、東街道でのイベントを終え宇野港への帰路に向かう。無事宇野港へ到着記念写真をパチッ!

2010年11月15日月曜日

サッキータイム ~山田・東児地区ゆかりの歴史人物~

11月6日(土)

たまの東街道2010の初日、「山田・東児の歴史を語る夕べ」というトークイベントを行った。観客は少なかったが、山田まちづくり講座生が長年の研究成果の一つとして、楽しいトークをしてくれた。そのとき配布された資料を以下に紹介する。かなり長いが、興味ある方は最後までどうぞ。

増吽僧正(ぞううん そうじょう)
室町時代の僧侶
貞治5年(1366)に讃岐国大川郡与田村(現香川県東かがわ市)に生まれ、幼時から神童の誉が高かった。与田寺の増恵について仏門に入り、同寺で研鑽を重ねついに法印の位を得た。その後、高野山に上って修業を積み、学問を重ね真言の秘奥を極めたので、後小松天皇はその高名を聞かれ、増吽を宮中に召されて加持を受けられるまでになり、都に於いてもその名が知られるに至った。その後、増吽は諸国、諸山を巡って真言の真髄を極め、僧正の位に進んだが、後年その地位や名誉を捨ててしまい、諸国の寺院の復興に力を尽くした。県下では各地にその足跡を残し、あまたの寺の再興に尽力している。由加の蓮台寺、八浜の金剛寺、日比の観音院などにその伝説が残っている。こうした寺々を復興しては弟子に任せ、最後に山田の無動院の復興に尽くしていたが、遂に天命を知り、死期を予期して入定したといわれ、その入定の石棺が無動院に残されている。増吽は絵画や彫刻にも優れ、英田郡長福寺の「十二天像十二幅」、玉野地方に多く伝えられる「弘法大師画像」、与田寺蔵の「真言八祖像」「八幡神像」などは特に有名である。増吽は宝徳元年(1449)5月5日、84歳の高齢で遠く四国の空を望んだ無動院山で入定したのであるが、与田寺では当時弘法大師の再来といわれた増吽は、生国讃岐で享徳元年(1452)昇天したと伝えている。八浜金剛寺の再建が59歳の時であり、直弟子増賢を再興主としているし、当地方の寺々に現在も僧名に増の字のつく人の多いのも、いかにこの増吽の偉かったかが偲ばれる。東児地方に於ける真言宗寺院が輪番で毎年一回開く聴聞などもこの増吽の創始にかかるものであり、寺々の仏画を一堂にかかげ、各寺院の僧侶が集まって法会を開き、檀家の人々も一日休んで先祖の供養をし、説教を聞いた名残である。(玉野市史続編)
高心(こうしん)
南朝の武将
高心は南北朝の時期の南朝の武将である。楠木正儀(マサナリ)(正行(マサツラ)の弟)に仕えたが、直島に隠棲した後に西湖寺に転居し、風月を友として余生を楽しむ傍ら、近在の人々を教化しこの地で没したとされている。墓は砂岩製で高さ2.4㍍、南北朝末期と思われる珍しい形式の笠塔婆として注目されている。
又、高心の没年の至徳は北朝の年号である。これについては諸説あるが、南北朝末期北朝の世になり南朝の人間であることを隠したためであるとか、主君の楠木正儀が北朝に帰順したことがあるためであるとも言われている。
高心の墓は、昭和34年(1959)3月27日、岡山県指定重要文化財に指定された。(玉野市教育委員会)
石川 善右衛門(いしかわ ぜんえもん)
慶長12~寛文9(1607~1669・12・1)
岡山藩士
岡山藩の郡奉行・普請奉行。名は成一。祖父久左衛門、父八兵衛とも尾張国(現愛知県)の出身で、父は慶長8年(1603)備前で池田利隆に召し出されて仕え、知行150国を頂戴したが、その後の国替えで因州鳥取へ移った。
備前国で生まれた善右衛門は、父の死により跡目を継ぎ、寛永9年(’32)国替えによって備前岡山に帰った。翌年から寛永18年(’41)のうち4年間、検(け)見(み)を担当した。寛永19年(’42)暮れに児島郡の郡奉行になり、慶安1年(’48)まで務め、幕府に差し出す絵図の作成に携わった。承応1年(’52)から翌年には江戸で藩の仕事を務めた。承応3年(’54)大洪水の災害の復旧のため児島郡の郡奉行の手助けに配属された。同年児島郡の郡奉行になり、寛文5年(’65)まで務めた。その後、100石の加増となり、足軽15人御預けの普請奉行を仰せ付けられた。明暦2年(’56)在来の池を拡張して木見の森池を造ったほか、郡奉行在職中に福南山下の福林池、長尾の天王池など、郡内の多くの溜池を旱魃(かんばつ)と水害に備えて築造、改修した。
又、明暦1年(’55)には朝鮮通信使の接待に出向いた下津井で、待機中の人夫を使って港の整備を行った。文化3年(1806)瑜伽(ゆが)大権現の境内に頌徳碑が建てられ、明治43年(1910)従四位を追贈された。(岡山県歴史人物事典) 山田の牛石池が万治2年(1659)・二子池が寛文2年(1662)にできた。寛文4年(1664)には大池の拡張工事が行われた。
 
野﨑 武左衛門(のざき ぶざえもん)
寛政1~元治1(1789・8・1~1864・8・29)
倉敷市児島味野の人
塩田・新田開発者。塩田王と呼ばれる。幼名元蔵。諱(いみな)は弣(ゆづか)。児島郡味野村の昆(こ)陽(や)野(の)貞右衛門の長子として生まれる。幼少から太閤記を味読(みどく)し、対岸の讃岐(現香川県)まで師を求めて書を学び青年に成った時には「身の丈六尺に近く、人品骨柄人に超えた」(「松樹繁栄記」)という。
文化4年(1807)18歳のころ、持高7石8斗余の農業経営に基づく家政打開のため、足袋の製造・販売に着手し、4、5年にして工場制手工業主に発展し、その販路は、東は大坂、西は防長(現山口県)まで広く瀬戸内一帯に及んだ。しかし、文政9年(’26)ごろ、遠隔地商業にからまる売掛金回収に行き詰まり、何らかの方向転換を迫られたため、義伯父に当たる児島郡天城村(現倉敷市藤戸町天城)の大庄屋格中島富次郎の意見を入れ、塩田開発を決意して藩庁に請願した。
文政10年(’27)藩庁の許可を得て開発に着手し、文政11年(’28)味野村に32.2ha余(16塩戸)、文政12年(’29)赤崎村に15.5ha余(8塩戸)、合わせて約48ha、24軒前の野﨑浜(元野﨑浜)を完成させた。この時から昆陽野姓を野﨑姓に改名した。続いて天保1年(’30)児島郡日比・向日比・利生(おどう)(いずれも現玉野市)に亀浜塩田の開発を試み、翌年11ha余(5塩戸)を完成させた。
天保2年(’31)武左衛門は塩・石炭問屋営業の許可を得て味野会所を設置し、塩業経営に着手するとともに、東児島の海浜に着目して東野﨑浜開発を計画し、地元の胸上村(現玉野市胸上)との交渉を妥結させた。東野﨑浜は天保9年(’38)着工し、天保12年(’41)73ha余(38塩戸)の完成を見、武左衛門は塩・石炭問屋営業の免許を得て東野﨑会所を設置した。一連の塩田開発の成功によって、弘化4年(’47)藩庁から苗字帯刀御免・5人扶持を頂戴した。
嘉永1年(’48)には藩命によって福田新田築立方が児島郡柳田村(現倉敷市児島柳田)庄屋汲五平から武左衛門に変更された。嘉永2年(’49)開発に着手し、嘉永4年(’51)703ha余の福田新田開発を成功させ、引受額61ha余の土地を取得し、嘉永6年(’53)福田新田5ケ村大庄屋役を拝命した。この年、邑久郡久々井浜(7.9ha余・4塩戸)の塩田開発も行い、又文久3年(’63)には東野﨑北浜19.7ha(8塩戸)を完成させた。
武左衛門の塩田・新田開発の偉業に加えて最も精彩を放ったものに、当作(とうさく)歩方(ぶかた)制の採用がある。武左衛門は当時、瀬戸内塩田で一般的に採用されていた浜問屋付小作制度を排し、全塩田を直営化し、全塩田の歩方を掌握してこれを関係者に付与して経営の効率を上げるという独特の経営方式を創案して導入した。安定した塩田・耕地経営を背景に、嘉永5年(’52)表書院の普請を完成させ、岡山藩主池田慶(よし)政(まさ)・茂(もち)政(まさ)をはじめ伊木若狭・池田出羽・池田伊賀の3家老もしばしば来邸し宿泊した。文久3年(’63)には幕末政争で困窮する藩の借り上げに対して1万両を上納した。
塩業経営が軌道に乗った天保末年(1840年代初)ごろから、茶道(速水流)、華道、絵画、和歌など風流を楽しみ、京都からは速水宗匠がしばしば来邸した。元治1年(’64)死去に際してのこした「申置」7ヵ条(松寿院野﨑翁遺訓)は家産管理と運営、地域との共生などについて公利優先・衆議尊重などの指針を後世に示した。(岡山県歴史人物事典)
西井 多吉 (にしい たきち)
文化12~明治32(1815・6・4~1899・5・9)
倉敷市の人
児島、野﨑家家僕。五猿と号す(通称さるこじい)。浅口郡勇崎村(現倉敷市玉島勇崎)に生まれる。
15歳から児島郡味野村(現倉敷市児島味野)の塩田王野﨑武左衛門・武吉郎の二代に67年間にわたって仕え、福田新田の開発や塩田の開発、塩田経営や小作地管理に手腕をふるい、野﨑家を西日本随一の塩田地主・耕地地主に飛躍させた。明治26年(1893)その功により緑綬褒章が下賜された。
野﨑家には、原撫(ぶ)松(しょう)が描いた五猿翁の肖像画が残っている。野﨑家墓地に葬られ、三島毅(中洲)の銘した墓碑が建つ。また郷里(現倉敷市玉島柏島西の谷)に遺髪碑がある。(岡山県歴史人物事典)

荻野 独園(おぎの どくおん)
文政2~明治28(1819・6~1895・8・10)
玉野市下山坂出身
幕末~明治時代の臨済宗の高僧・京都相国寺住職。幼名勝五郎。字は独園。退耕と号す。児島郡下山坂村向(現玉野市)の豪農荻野杢左衛門の二男に生まれる。文政9年(1826)8歳にして児島郡郡村(現岡山市郡)の叔父掌善寺鎮州の弟子となり、13歳の時、出家。元規と称した。
天保7年(’36)18歳のとき豊後(現大分県)に赴き、帆足万里の塾に入門して儒学を学ぶ。5年を経た天保12年(’41)相国寺承演大拙につき臨済禅を学び、承演の道統を継いで名を承珠と改め、安政3年(’56)伏見宮邦家親王の命により心華院住職、明治2年(’69)相国寺住職に就任。
明治5年(’72)4月、教部省が置かれ神仏合併大教院が設置されるに当たって、教導職に任じられ、明治6年(’73)大教院長、また臨済・曽洞・黄檗(おうばく)3宗の総管長に任じられた。明治17年(’84)には各宗派と京都に共済会を設置して、貧しい子弟の教育にも携わった。
明治22年(’89)宮内省の内命により、伊藤若冲筆動植採絵30幅を献納し、金1万円を下賜される。明治23年(’90)72歳の時、『近世禅林僧宝伝』を上梓(じょうし)。明治27年(’94)退いて京都東山銀閣寺に自適。翌28年(’95)8月10日病のため寂す。
著書に『近世禅林』3巻がある。また没後弟子たちによって『退耕語録』3巻が刊行され、又、富岡鉄斎らにより豊光寺に退耕塔が建立される。昭和54年(1979)には、出身地の玉野市下山坂に顕彰碑が建立された。(岡山県歴史人物事典) 


伊藤 立斎(いとう りっさい)
1822~1855・12・21(文政5~明治18)
倉敷市玉島勇崎出身
医者。浅口郡勇崎村(現倉敷市)に生まれる。本性は山本氏。医者となって名声をあげた。後伊藤に改姓。
明治初年、児島郡山田村(現玉野市)有志の要請を受け、家を長男に譲って同村に移住し、歓迎された。医業の傍ら、地元子弟に四書五経或いは習字などを教えた。
明治6年(1873)12月、山田小学校の雇助教に任ぜられたが、翌年5月職を辞し、以後もっぱら医業に従った。「医は仁術なり」との姿勢で、村人の尊崇を受けた。(岡山県歴史人物事典) 墓石銘が白石宝殿場にある。

三宅 三郎(みやけ さぶろう)
天保13~明治19 (1842・1・3~1886・6・13)
玉野市山田出身 
岡山藩の勤王家。児島郡山田村名主三宅甚五右衛門高茂の長男に生まれる。幼名益左衛門高敬、のち三郎孝徳と称す。父の病気により安政4年(1857)から山田村名主代勤となり、文久3年(’63)まで勤めた。この間、三芳屋のち児島屋の屋号を用いて醬油醸造や穀物商、さらには塩田経営を行った。
その一方、尊皇の志が厚く、児島高徳の子孫と称し、岡山藩の尊攘派指導者牧野権六郎や江見陽之進(鋭馬)らと交わり、慶応2年(’66)10月には京都に滞在して、諸藩の志士や公家衆と交流し、情報収集に当たっている。翌年2月には藩から2人扶持小姓格を命ぜられ、10月には牧野とともに上京して大政奉還を実現する活動に協力して働いた(『牧野権六郎先生伝』)。
11月に帰藩した三郎は、在村して休養していたが、村民による東野﨑塩田益米(塩田築造以来毎年地元に支払われている補償米)の増額要求が起こり、塩田所有者の野﨑家と地元の仲介役を引き受ける一方、自ら名主役への復帰運動を進めたが明治3年(’70)に村議者に任命されるにとどまった。
その後は家業もうまくゆかず、明治8年(’75)には岡山県の警察関係の官吏に採用され山田村を去った。(岡山県歴史人物事典)墓石銘が白石宝殿場にある。                             

東 作平(ひがし さくへい)
弘化4~昭和4(1847~1929)
玉野市後閑の人
弘化4年(1847)後閑に生まれた。代々作兵衛、作平と称した名主の家柄で、常山城主戸川友林の後裔と称していたが、戸川の後裔の証拠は見当たらない。おそらく東国から来た後閑氏の一族で、後閑氏が土着開発されたのが後閑部落であろう。東氏系図では後閑来住者からこの作平までが9代でこの間7代目だけが名主役を勤めずとある。この9代作平は、16歳で大薮・後閑の名主となり、明治維新とともに戸長となったが、明治10年(1867)には鉾立・山田・胸上・波知などの14ケ村の戸長を勤めている。
教育には殊に熱心で、明治7年近村に先んじて後閑小学校を創立し、同12年より20年まで名誉校長として子弟の訓導に当たった。町村制施行後は郡会議員・村会議員などを勤め、又所得税調査委員・徴兵参事官・済世顧問などの名誉職にあり、政治に携わること実に50年、この間至誠を以て貫いた。作平人となり謹直で侵すべからざる威厳を具え、しかも身を修めること厳で、人に接しては温和であった。
号を西湖と称し、書画を嗜み、謡曲に堪能であった。又、若くして剣を学び、その技は近郷に聞こえていた。昭和4年(1929)83歳で没した。(玉野市史続編) 鳥打峠の出崎入口の所に、開鑿記念として大正5年(1916)に作平氏が建てた石標がある。

岡 武三郎(おか たけさぶろう)
安政5~明治37(1858・11・16・~1904・10・15)
岡山市出身
教育者。岡山藩士岡幸十郎の二男として生まれ、親戚の岡甚次郎の養子となる。読書を好み、温(おん)知(ち)学校(岡山県師範学校の前身)を卒業して、明治8年(1875)12月、児島郡山田村(現玉野市)の第三十三中学区四十九番小学校に赴任、明治13年(’80)村内無動院山に校舎が新築され養才小学校と改称した。
明治16年(’83)には県の命で、岡山県師範学校で教育学・徒手体操などを学んで帰任、明治34年(1901)には同尋常小学校の校長に就任した。翌年、校舎が現在の山田小学校に移転されたが、明治37年(’04)10月、現職のまま46歳で病死した。教師在任中、武三郎は、昼間は小学校で教える一方で山田、胸上に青年夜学会を設け、20余年、毎宵出掛けて行ったという。
明治45年(’12)教え子たちは、元の小学校のあった無動院山に石碑を建て、その遺徳を偲んだ。(岡山県歴史人物事典)
春藤 武平(しゅんどう ぶへい)
明治17~昭和43(1884・10・25~1968・3・11)
玉野市八浜出身
塩業家。児島郡八浜村(現玉野市)で善治の二男に生まれる。東児高等小学校卒業後の明治32年(1899)、15歳で野﨑家の経営する東野﨑支店に入り、製塩技術の改良に取り組む。
大正7年(1918)、34歳のとき台湾に赴き、野﨑台湾塩行で天日製塩法について実地研究。昭和1年(’26)東野﨑浜に枝条架(しじょうか)濃縮設備を設置して改良に当たった。枝条架は、既にドイツ、フランスでみられ、日本でも塩専売制実施直後、島根・山形・千葉県でも設置されたが、その成績が不振であるため廃止されていたものであった。昭和6年(’31)下津井港で底曳網(そこびきあみ)に蓬(よもぎ)を懸(か)けているのを目撃して枝条架装置改良の発想を得、素材を蓬から棕櫚(しゅろ)、粗朶(そだ)、竹枝と換え、遂に竹枝を櫓(ろ)状に編んで、動力による海水滴下を試みて成功した。昭和9年(’34)には鹿児島県から大量の竹枝を購入して独特の枝条架式濃縮装置を考案し、これを入浜式塩田の周囲に構築した。同年9月の室戸台風で約半分が倒壊したが、直ちに改良を加えて頑丈(がんじょう)なものに組み換えた。
昭和19年(’44)、枝条架式と斜層貫流式を結合した流下式試験塩田を児島郡鉾(ほこ)立(たて)村番田(現玉野市)に設け、実験を繰り返して企業化に成功し、以後東野﨑塩田、元野﨑塩田に実施していった。昭和27年(’52)日本専売公社は春藤式製塩法の優秀性を認め、全国の塩業者に流下式製塩法への転換を奨励した。昭和33年(’58)には全国の塩田が流下式への転換を達成し、過酷な重労働の軽減と生産力の飛躍をもたらした。昭和23~41年(’48~’66)内海塩業㈱取締役社長に就任した。昭和32年(’57)黄綬褒章、昭和40年(’65)勲五等双光旭日章を受賞。(岡山県歴史人物事典)


北畠 謙三(きたばたけ けんぞう)
明治19~昭和43(1886~1968)
玉野市山田の人
明治19年(1886)、岡山藩士であり儒学の教授であった速水家に生まれた。幼にして漢学を教えられたので、一生を通じ漢詩を愛読するとともに、自らもよく作詩を楽しんだ。
明治40年(1907)、岡山師範学校を優秀な成績で卒業し、児島郡甲浦小学校、小串小学校などの各校長を歴任して、大正4年(1915)から養家の郷里山田小学校長として赴任した。家は校門と相向う近さであり、日夜勤務を続け、青年の夜学、父母の教育まで手を伸ばし、村をあげての教育に専念した。ことに謹言誠実、品行方正の氏は、絶えず村人の師表として自らも任じ、村民また仰ぎ慕っていた。
校長として在職すること15年、村民より推されて村長の椅子に就いた。永い教育者として、大人相手の村政には相当の苦労もあったが、村民の信望は厚く、在職11年の間、村財政の確立、交通運輸の改良、教育の充実には特に力を注いだ。
氏は、青年時代から旅行を唯一の楽しみとし、しかも古建築に興味を持っていたので、各地の寺社などを詳細に見て廻って県下のそれと対比した。そのうち古建築にとりつかれ、その研究に没頭、県下の古建築をすべて見て廻り、『岡山県古建築図録』を著した。当時、古建築については県下に氏の右に出る者は居なかった。又、郷土史にも興味をもち、山田小学校長在職中の昭和3年(1928)『山田村誌』を著した外、『東児社寺物語』、『玉野史跡社寺案内』などの著書があり、ことに建築、彫刻についての造詣の深さがよく書き残されている。
玉野市文化財保護委員会が設置されると、その委員に選ばれ、文化財保護に尽くし、よく市内外を見て廻っていたが、足守文庫調査の途中倒れ、以来自宅で静養していた。玉野市史編さん委員会委員にも選ばれ、最初は出席したが、爾後文書で意見を述べていた。
氏は酒を嗜み、旅行の記念にはその地の「さかづき」を買い求めて帰り、日本全国はもとより、朝鮮、満州のものまでも集め、人が来るとその「さかづき」で振舞って旅行の話を聞かせていた。昭和43年(1968)没した。(玉野市史続編) 太田地蔵堂北側に謙三氏が揮毫の動植物の霊を祀る有情(うじょう)供養塚がある。

野嶋 島叟(のじま とうそう)
1889・9・22~1974・10・4(明治21~昭和49) 
玉野市山田の人
書家・俳人。本名経太。書道の号を島叟、俳号を島人(とうじん)と号した。児島郡東野﨑村で生まれる。
岡山中学校を卒業後、明治42年(1909)県費留学生として上海の東亜同文書院に学ぶ。卒業後、満州鉄道に勤務。佐藤助骨の影響で俳句を志し、大正13年(’24)渡辺水巴に入門。昭和1年(’26)一時帰国して西日本を俳句行脚し、昭和7年(’32)再び渡満した。
書は小学校時代から村田海石に学び、同文書院時代は初唐の書家・欧陽詢(おうようじゅん)、北宋の書家・米芾(べいふつ)らの書を学んだ。拓本の収集に努め、六朝(りくちょう)の造像記や摩(ま)崖(がい)碑(ひ)によって開眼、多くの中国の文人と交流し、清朝の遺臣・書家・鄭孝胥(ていこうしょ)の健筆に刺激され書作に励み、独自の書風をつくった。
第二次大戦後は玉野市へ引き揚げ、無心(むしん)無垢(むく)、飄々(ひょうひょう)とした余生を過ごした。句集に『羽族』、『霧雨』などがある。(岡山県歴史人物事典)