2009年7月23日木曜日

サッキータイム ~送別~

7月17日(金)

3年2ヶ月と10日に亘った六輪病院での勤務を終えた。長いようでアッという間の3年間だった。
岡山から新幹線に乗っての毎週の通勤だったが、岡山でも名古屋でもやるべきことがあるから、通勤も苦になることはなかった。病院の体制もこの3年で相当変わったようには思うが、収益構造という面からはまだまだやるべきことが残っている。新たな体制でやり抜いていただきたいと切に願う。
最後の日、近くの焼肉店で私のために送別会を開いていただいた。40人以上は来ていただいたように思う。大変ありがたいことだ。有志の方から鉢植えの花や寄せ書きの色紙、図書券とかビール券などを餞別として頂いた。誠に感謝に堪えない。
この病院とは、サッキー自身浅からぬ縁があるし、今後も又訪れることが何度かあると思う。病院スタッフの皆さんには、元気一杯明るく優しく患者さんのケアをしていただき、末永く地域に貢献できる病院作りに邁進していただきたい。
長い間お世話になった病院と病院スタッフに、改めてお礼申し上げたい。皆さん、本当にありがとう!

2009年7月15日水曜日

自啓ノート(7) ~プロとプロ意識~

2007年9月14日

長い長い残暑がやっと終わり、涼しい日が続くようになり、ホッとしている。
暑い夏に溜まった疲れが出始める頃だ。かく言うサッキーも若干の変調を来たしたように感じたので、少し長めに寝たらよくなった。疲れを取り体調を正常に維持するのは、やはり睡眠が一番だな。
9月17日(月)、「敬老の日」がある。連休となって喜ぶ人も多いかも知れない。
敬老の日は、兵庫県野間谷村の村長が昭和22年に提唱した「としよりの日」が始まりだそうだ。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、農閑期で気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、敬老会を開いた。これが昭和25年からは兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がって行った。その後、昭和39年に「老人の日」と改称され、昭和41年に国民の祝日「敬老の日」となった。平成13年のハッピーマンデー制度の適用によって、同15年からは9月第3月曜日となった。老人福祉法では、「国民の間に広く老人の福祉についての関心と理解を深めるとともに、老人に対し自らの生活の向上に努める意欲を促すため、老人の日及び老人週間を設ける」として、9月15日を「老人の日」、同日から21日までの1週間を「老人週間」と定めている。

さて今日は、「プロとプロ意識」ということについて考えてみたい。
そもそも「プロ(プロフェッショナル)」とは何だろうか?一言で言えば「その技で飯を食っていけること」と言うことだろう。一流のプロとなれば、沢山のお金を積んでも雇いたくなるもの。今年、入札金と契約金を合わせて1億㌦以上もの大金でボストンレッドソックスに行った松坂投手等は、言ってみればプロ中のプロということが出来る。人並み優れた才能にも恵まれてはいるだろうが、人の数十倍もの鍛錬と努力を続けていることと思う。彼のような人は、プロ意識というものを持たなくても、一流のプロと認められ続けることが自分自身のアイデンティティであり勲章だろうから、努力を続けるのは当たり前のことなのだ。
そう考えると、「プロ意識」という言葉は、プロでない人がプロを目指そうとして努力するときの言葉なのだと思う。凡人である私たちには、一流のプロのような才能には恵まれていない。でも、相応の努力をすることによって、一流とまではいかなくとも、それなりのプロになることは出来るように思う。そこに「プロ意識」というものが生まれ、自分を高めたいという気持ちを持つようになるのではないだろうか。
どんな患者さんからも「あの人にお願いしたい」とお呼びのかかるような看護師、どうせ手術が必要ならあの先生に執刀してもらいたいと言ってもらえる、そんな外科医。そのような立場に立ち且つ認められるスタッフ、それが病院という業界でのプロではないかと思う。
見ている方も多いかと思うが、NHKの火曜午後10時、「プロフェッショナル」という番組がある。私も時間があれば必ず見るようにしているが、色んなプロがいるもんだと驚かされることがある。そこに出演された方のプロフェッショナルに対する考えを幾つか紹介する。
パティシエ/杉野英実氏「永遠の未完成でいたいと思っている。だから、今日よりも明日、明日よりも又その次の日がもっと美味しいお菓子が出来るように、諦めないで自分を高めて行きたい。それがプロですかね。」
小児心臓外科医/佐野俊二氏「誇りと責任です。誇りを持たないといけない。誇りだけで責任が取れない人はだめです。それをしようと思えば、やっぱり努力しないといけない。」
商品企画部長/佐藤章氏「やっぱり愛情がある人だと思います。テクニカルなプロじゃあだめなんですよね。だから人の気持ちの中に入っていける、その中に入っていける事が出来る人ってやっぱりプロ。」
時々、自分で「私はプロ」と口に出す人がいるが、他の人に認められてこそ初めて「プロ」と言えるのではないだろうか。そのためには、やはり「プロ意識」を持って真剣に努力することが大事かなと思う。

2009年7月13日月曜日

サッキータイム ~宇野・築港まちづくり講座(4)~

7月12日(日)「玉野市電の歩み」

宇野・築港まちづくり講座の第4回は、玉野市の宇野駅~藤井~三井造船~奥玉の全長4.7キロをトコトコと走っていた玉野市電の歩みについて、玉野市電保存会の垣内会長に講師となって話をしていただいた。
市電に付いていた行き先表示板や駅の手書き時刻表、コンソールのレバーを動かす鉤、車掌が首からぶら下げていた巾着型の料金入れ等、実物を見せながら、分かりやすく説明してくれた。
スクラップの運命にあった760号市電が、垣内さんら保存会の方々、又それを支えてくれた多くの協賛者の方々のお陰で、永久に残ることとなった。かって多くの造船労働者や学生、市民たちの足となってくれていた玉野市電、意義ある歴史の証人である。
垣内会長は、市電の調査は玉野市の歴史そのものに通じると言われていた。
講座の帰りに奥玉に展示されている市電を写真に撮ってきた。

市電の歴史の概要は、次の通り。
戦時中に建設が始まり工事が中断されていた三井造船の引込み線を活用する形で、国鉄宇野駅から児島半島を一周する鉄道が計画された。戦後備南電鉄が設立され、その第一期工事として宇野~玉(後の三井造船所前)間が建設され、1953年4月に開通。その後、資金難で建設は進まず、1955年10月に玉橋(後の玉駅)まで延長。1960年8月には玉遊園地前まで延長。これで営業キロは最長の4.7キロになった。その後経費節減のため、1964年に電車から気動車に動力変更、電車は琴電に売却された。気動車になっても「電鉄」のままで、市民もずっと「市電」と呼んでいた。その後、経営は一向に改善せず、ついに1972年3月末に廃止された。市電廃止後、軌道跡は自転車道として整備された。今でも殆どの線路跡が残っており、当時の面影を見ることができる。
琴電760号は、1951年に日立製作所笠戸工場で製造された車両で、元々は山形県の蔵王高速電鉄が発注した車両である。全長15.8メートルという中型車だが、雪国の山を走るという仕様から、日立オリジナル設計のMMC超多段式自動加速制御器を搭載。モーター出力94kWという高性能の電車である。だが、朝鮮戦争勃発によるインフレで資金難となり、建設が中断され車両もキャンセルとなった。その後、備南電鉄が買い取ることになり、 備南電鉄モハ100形として活躍することとなった。
しかし、コストダウンのために気動車に変更され、この電車は1965年、琴電に嫁入りすることとなった。その際、番号も103⇒760に改番された。新車導入により、2006年引退することとなった760号電車を再び玉野に引き取ったのは、垣内会長らこの電車に人一倍郷愁を感じる保存会の人たちの力だった。

2009年7月8日水曜日

自啓ノート(6) ~ 「かきくけこ」な生き方 ~

2007年7月13日(金)

梅雨の後半に入って大雨が続き、大家族のお母さんには洗濯物の乾燥に困ってと思う。 そうでなくても、押入れの中のカバンや衣服、冬物の布団などもカビが生えたり、ジメジメしたりで困ってしまう。サッキーの故郷・熊本では、大雨による災害で弱った人がたくさん出ている。
でも、雨不足で取水制限の出されていた四国の水瓶「早明浦ダム」では一時的に制限が解除されたとのこと、雨の恩恵を受けている所も確かにある。田植えの終わった田圃には、水を満々と蓄えてこそ美味しいお米の収穫に繋がる。鬱陶しい雨も、なくてはならない恵みである。

さて今日は、「かきくけこ」人生哲学とでも言おうか、「かきくけこ」な生き方について述べてみたい。この言葉をサッキーが初めて聞いたのは、60歳を超えて、年金受給者説明会のときではなかったかなと思う。現役として働いていたときには、仕事だけに没頭して「かきくけこ」な生き方についてじっくり考える余裕はなかった。でも今思うと、これは会社生活の中でもある程度は実践していたことかも知れないなと思うような生き方である。では、「かきくけこ」夫々について、サッキーの経験なども交えながら述べることとする。
「か」(=感動):サッキーは、人の生きる唯一最大の目的は、「感動」を味わうことだと思っている。次は「仕事」を通じて自分の夢を実現することだが、仕事も実は感動の一つなのだ。日々の生活の中では、庭先に植えた夏野菜の収穫、旅先で思いがけず会った旧知の友、やっと覚えたクロールで25mが泳げたとき。感動があるから生きることが楽しいし、生き続けることが出来るんだと思う。
サッキーは、大学入試の合格発表を父母らと一緒に真夜中のテレビ放送で聞いた。中学を出て直ぐには高校に行かず、2年後17歳の時、大学に行きたいとの一心でやり直した人生初期の志し。自分の番号を聞いた瞬間、思わず家族みんなが万歳の祝福をくれた。この時の喜びは、今も心に残っている。その後も人生の節目節目で味わった多くの感激や感動。辛いときを乗り越え、生き続けられるのは、いつか又きっと味わえる、そんな感動の瞬間が来ることを信じるからなのだと思う。
「き」(=興味):世の中の仕組、業界の常識、多くの人が夫々の規範の中で生きている。製造業から医療業界に入ると、知らないことのいかに多いことかと改めて思い知らされる。知らないことに食らいついて興味を示す。そうでないと、いつまで経っても覚えきれるものではない。興味を持つからこそ初めて知ることに「なるほど」と頷ける。今正にそのように感じている。
「く」(=工夫):世の中の発展は、人の工夫・発明のおかげと思う。多くの人達が夫々の世界で改善工夫を繰り返してきて今の生活がある。最近は、ちょっと暑けりゃエアコン、直ぐ近くの買い物にもマイカー、電化製品の殆どがリモコンスイッチと、便利で快適な生活だ。少しは、工夫したエコ生活も考えたらいいのにと思いながら、便利さに流されている。
「け」(=健康):何はともあれ「健康第一」。確かに不健康だと、思うような生活は出来ない。健康だから仕事もボランティア活動も出来る。健康だから食事もお酒も美味しい。でも今、世の中には健康を蝕む要因がいくつもある。中国産の汚染食材、味の辛いコンビニ惣菜、お昼はいつもカップ麺、休みはテレビと昼寝のぐうたら生活、タバコの吸い過ぎ、お酒の飲み過ぎ等・・・。楽しく正しい食卓で病の元を断ち、人生100まで天寿をまっとう。そんな積りの生活は如何だろう。
「こ」(=恋心):恋は人の心をうきうきさせる。恋する人のためならば、どんな困難も乗り越えることができる。唯、恋は自由だが、相手の好まない性的好奇心を表に出すことはご法度だ。今は、それをセクハラと言って法律で禁じている。お互いが思いやりを持ち尊重しあえる恋、ドキドキしあえる感動の恋がいい。 高齢者には、ぼけ防止の妙薬になる・・・かナ?

2009年7月6日月曜日

サッキータイム ~直島訪問~

7月6日(月)

今年7年目を迎える「玉野みなと芸術フェスタ2009」は、今年から3ヶ年継続助成を(財)福武教育文化振興財団殿から受けることとなった。2007~08の2年間、岡山県下でも最大規模の製塩の歴史を持つ山田地区で活動してきた芸術フェスタは、2009~10年の2年間、再び宇野・築港地区に戻り、この地区の歴史・文化を辿りながら新たなアート活動を展開しようとしている。又、3年目の2011年には、西部の日比・渋川地区での活動を計画し、玉野市全域をカバーする活動を進めたいと考え、それらを踏まえた形の3ヶ年計画書を福武財団殿へ提出、認められたものである。
時同じくして直島では、来年に向けて「瀬戸内国際芸術祭2010」という大イベントが計画されており、できることなら我々としても何らかの連携ができないものかと直島を訪問、笠原氏と面談することとなった。
玉野からは、サッキーのほかアーティスト4名(清水、北野、佐藤、森)が、11時のフェリーに乗って直島に向かった。久しぶりに訪れた直島は、スタンダード展の開催ですっかりアートの島に変貌していた。
来年開催の国際芸術祭に向けた建設も急ピッチで進んでいた。初めて入ったパーク棟には、鉄のブロックをつなぎ合わせて作った、鉄仮面かロボットのような作品があった。海辺には草間弥生の作品も。
直島のスケールは、凄いという外ない。芸フェスも意気込みだけは凄いと思うが・・・



サッキータイム ~宇野港ものがたり/全シャッター開放プラン~

7月5日(日)

ここ玉野市築港商店街の宇野港銀座は、昭和40~50年代にかけて賑わいを見せていた商店街であるが、今は写真にあるとおり日曜日の夕方というのに人っ子一人透らず、殆どの店がシャッターを閉じたままである。この光景は、ここだけに止まらず全国至る所に見られるものである。
写真では、軒先にずらっと提灯を吊り下げてあるのが見えるが、これは7月19日(日)に行われる「海の日築港夜市」の準備で、数日前からぶら下げられたものである。
今年、玉野みなと芸術フェスタ2009では、これら商店街のシャッターを全部開放してみようというイベントを計画している。かっての宇野港銀座の賑わい景観を、イベント期間だけでも再現できないだろうかとの思いである。ひょっとしてそのイベントを契機に、この街を何とかしようという若者が出てこないとも限らない。そんな甘い夢みたいなことを想いながら、新たな「宇野港ものがたり」を綴って行けたらと思う。

芸術フェスタのナビゲータをしている清水直人氏は、このイベントの意義を次のような文章にまとめておられる。
「地域住民の方は、この商店街に対してどのような印象を持たれているのか?」
「昔は賑わっていた。」というコメントは、よく聞く言葉である。では、現在の状況を見て、地域の方々はこの築港商店街に関心を持っておられるのか。又、商店街に対して、「もっと空き店舗が埋まって欲しい」、「このような店が入ってくれればいいが」などというご希望をお持ちなのか。
さて、芸術の一分野である「美術」は、感情や意志などの見えないものを視覚的に顕在化するものである。日常触れることのないものと対面することにより、人の心に何らかの変化を生み出す。それが芸術であり、アートの持つ力と考える。
ただ、商店街に賑わいを創出するためにアート色一本で展開しようとしても、アートファン以外の方たちとの間に壁や溝を築く可能性がある。この壁や溝を取り払うために、多くの人が関心・共有できる基盤を作ることがどうしても必要となる。
日常見ることのできない風景や光景が、その基盤になりうると考えている。この築港商店街でどのようにしてそれを作り出すか。その解の一つが美術家・佐藤氏の提案された、商店街に違和感を生み出したいという「全シャッター解放」プランである。
シャッターは、物質面と精神面の二つによって閉ざされている。
物質的にはシャッターは、開いていようが閉じていようが、シャッターであることに変わりはない。現在、多くのシャッターは閉ざされている。シャッターが閉じているのは、そこに閉ざしていたいという人間の意志が隠されているのである。
それが、一日・二日ではなく、何ヶ月・何年ともなると、個人的な意志だけでなく、社会的な問題までもがそのシャッターにのしかかってくる。1軒、2軒とシャッターが降りていくときは、問題意識を持っているが、次第にそれが日常に埋没してしまい、シャッターの閉じた店舗の前は、時として一時駐車場化されてしまうのである。
そんな現状において、もしも商店街の全てのシャッターが開くことになれば、単に物質的に変化するだけでなく、その背景の様々な人たちのエネルギーが動くということを意味する。その非日常性は、それを目にする地域の方が最もよく理解できる筈だ。
全てのシャッターが開くという大きな変化に対して、どれだけのインパクトを鑑賞者に与えることができるのか。それが、築港商店街への関心がどれだけあるのかを示すバロメータにもなると思う。この動きに目を留めた方は、今後の築港商店街への展開にきっと興味を示すであろう。以前の賑わいを取り戻したいと言う、大きなうねりを生み出すきっかけにならないとは決して断言できないと信じる。





2009年7月3日金曜日

自啓ノート(5) ~魅力ある職場~

7月3日

岡山に「シンフォニーホール」という、劇場と音楽堂を兼ねたような円柱形のホールがある。先日の日曜日(2007年6月10日)、イングリッド・フジ子・ヘミング&リトアニア室内管弦楽団の演奏会があり、聴きに行った。初めて聴いたフジ子・へミングのピアノに痺れた。鳴りやまぬ大拍手の中、アンコールの3曲目に彼女が弾いた“ラ・カンパネラ”は凄い曲だ。後で聞くと、初のCD「奇跡のカンパネラ」で大ブレークしたその曲だった。
日本人ピアニスト大月投網子とスウェーデン建築家J・J・ヘミングを両親にベルリンで生まれた彼女、6才から母の教えでピアノを始め、小学生の頃から天才少女と騒がれていたとか。東京音楽学校(現・東京芸大)在学中から数多くの賞を受賞、30才でドイツ留学、ベルリン国立音楽学校を優秀な成績で卒業してからはヨーロッパに在住、演奏家としてのキャリアを積む。順調な活動が続いていたが、風邪が原因で両耳が全く聞こえなくなるという不幸に見舞われた。1995年、母の死を機に帰国、「平凡なピアノ教師のままでは終わりたくない。もう一度人生を取り戻したい」と、1998年、母校芸大の上野奏楽堂で再起。1999年2月、NHKのドキュメント番組「フジ子~あるピアニストの軌跡~」が大反響を巻き起こした。同年8月、デビューCD「奇蹟のカンパネラ」は、54万枚を売り上げ、日本ゴールドディスク大賞 クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。その後演奏活動を本格化、今もフジ子へミング・ブームが続いているのだ。
演奏会の入場券13,500円も安いと思わせる力強さと感動があった。でも、私の前の座席で、小学生の子ら3人を連れた若い夫婦にとっては、どうだったんだろう?
5人分67,500円かー!

魅力というのは、ほんとに人を感動させる。
今、職場を離れたいという職員が続き、喘ぎもがいている。何故?何故何人もの人が離れたいと思うのか? 創業以来、初めて改善、改革に手を染めたばかりというのに・・・
離れたいと思う人の多くは、この組織に魅力が無い、或いは少ない、と感じているのだろうか。私は、「前は確かに魅力が無かった。でも、今は素晴らしい組織だよ。」と、皆で言い合える、そんな職場に1日も早くなって欲しいと願っている。
世間では、今年(2年前のこと)、多くの企業が黒字決算を果たした。中には、顧客を無視した身勝手な行動で身売りの憂き目にある会社もあるが、儲かっている会社の大多数は、顧客満足度(CS)向上を謳っている。CSが評価され、製品が売れ、利益が上がり、社員に還元する。だから、社員は会社を辞めず、品質・CSとも益々上がる。いい方向の循環だ。
この職場もかくありたいと思う。去年から今年にかけて、企業理念を作り、組織を確立し、就業規則を改正、勤務体制も整備した。形はそれなりに整ってきた。でも、形を構成する個々人の意識レベルはどうか。一つ一つの核が強固で高いレベルにあれば、組織は強固で揺るぎないものとなり、職場の魅力も確実に上がってくるに違いない。
モチベーションを高めるためのインセンティブ(意識を変える誘引となるもの=報酬等)は、勿論大きな要素だ。権限委譲も解決策の一つ。それともう一つは教育の充実。今年は、これらのことに心を砕き、みんなと一緒に和を持った魅力ある職場を作って行きたい、心からそう思っている。今、この職場を離れてしまっては、きっと後悔する。残って皆と戦えばよかったと・・・。
感動は、努力の後についてくる。今諦めるのは、いかにも勿体ない。

2年前に考えていた魅力ある職場作りの精神は、その後の定着率の改善や職員の態度から間違いではなかった、と感じている今日この頃である。