2010年1月28日木曜日

サッキータイム ~「協働」の必要性~

1月28日

岡山県備前県民局では、時代の移り変わりによってこれから益々重要になってくる「協働」を推進している。ところが、その「協働」と言うものを知らない人が非常に多く、中々思うように進んでいないようなのだ。そこで、「協働」とはどんなものなのか、「協働」が何故今求められているのかなどを多くの住民の方々に知ってもらい、その方々に協働の担い手になってもらうために、説明用の「協働Q&A」という冊子を作ることにしたのだ。
現在、サッキー自身がその冊子作りのお手伝いをしているので、今日は「協働」の必要性などについて紹介しよう。

先ず、「協働」の定義について:
これは、行政と市民とがある一つの目標に向かって、企画、運営を協同で行うだけでなく、責任と役割を分担し、意見を交わしてお互いに理解し合いながら取り組み、成果を共有することである。要約すると、「あるテーマのPLAN-DO-SEEを、共同して完遂することである。」と言うことができる。
次に、「協働」の可能性について:
住民と行政では、夫々に得手不得手がある。両者が協働して夫々の得意分野を活かし力を合わせることができれば、一人では解決困難な課題に取り組みやすくなるし、解決することさえもできるようになる。多様化する住民の要望に応えるには、行政だけでやるより行政と住民が一緒にやった方がより叶えられやすくなるのだ。つまり、多様化する住民要望に応えられる可能性がより高くなるのだ。
最後に、「協働」の必要性について:
現在、人口減少が急速に進んでいる。だが、よく見ると少子高齢化の影響で生産人口と就学人口だけが劇的に減り、65歳以上の高齢者は増え続けているのだ。人口が減るのだから受ける行政サービスは相対的に増えていい筈のところが、いびつな人口構成になることから、これまでと同等の行政サービスが得られなくなる可能性が高いのだ。ましてや住民側の要求は、益々多様化しているため、一緒になって解決しようよと言わざるをえなくなるのである。
さらに定年退職したり、子育てを終えた元気なお年寄りが、これまでの経験を活かして社会のために役立つことがしたいと言う人も増えてきている。「人が喜んでくれて嬉しい。」「人や地域に役立って嬉しい。」という満足感。「自分の住む地域を何とかしたい。」「ほっとけない。」という使命感。「今まで培った知識や技能を活用したい。」「同じ考えの仲間と交流したい。」という自己実現欲求。活力あるまちづくりや地域の課題解決に、多くの市民や様々な団体が各地で生き生きと取り組んでいるのも現実の姿である。かく言うサッキー自身もその一人なのかもしれない。

「協働」は、行政側にとっても住民側にとっても、願ってもない仕事の進め方であり、より良い解決を得る手段なのである。これから益々「協働」による課題解決(業務)とその担い手が増えてくることだろう。

2010年1月27日水曜日

サッキータイム ~「まちの顔」とは~

1月25日(月)

この日午後、経産省と玉野市商工観光課主催の「中心市街地活性化の取組みに対する診断・助言事業」報告会が、産業振興公社で開かれた。市民や企業の関心が高く、100人にも上る参加者があった。
事業報告者の一人、商業開発研究所(大阪)の大東行人氏のコメントに、「玉野には、『まちの顔』がない。」という言葉があった。そこで、『まちの顔』について考えてみた。
先ず「顔」とは、言うまでもなくその人を特定し他の人と識別する、人の最も重要な部分であり前面に位置している。動物では、同じ部分を「顔」と言わず「頭」という。「顔」は、人にだけ許された言葉である。顔には、その人の歴史と経験、人生そのものが現れる。又、置かれた状況や環境によっても顔の表情は変わる。つまり、顔とは、その人の全人格の状態を他人の見える位置に表したものということができる。
顔は、個性であり、心、情報、鏡、そして人そのものである。顔は時とともに変わる。顔は環境によって、又心の持ち方によっても変わる。顔で会話できるし、顔で印象を表すこともできる。自分では自分の顔を見ることが出来ない。見る人と見られる人の関係から顔が生まれる。
そういったことを合わせ考えたとき、『まちの顔』とはどんなものを言うのか?
まちの顔は、最もポピュラーな公共交通機関(JRなど)で降り立った駅周辺に在るのが、一般的なのであろう。他の場所から来た人には、駅に降り立ったときのイメージが、そのまちの顔と思うであろう。
倉敷の場合、倉敷駅をおりて暫く歩くと美観地区があって、倉敷の顔が見えてくる。イメージどおりの街並みだ。岡山はどうだ。岡山駅をおりると桃太郎の銅像が迎えてくれ、路面電車が目抜き通りに向かって走ってゆく。いかにも岡山といった風情である。
では玉野は?先ず玉野駅という駅がない。宇野駅をおりると、何か訳の分からない海の生物が歩道を這い回っている。その前方にはだだっ広い公園があるが、人っ子一人いない。その先に、フェリー乗り場があるが、単なる乗船場である。東側には、雑草だらけの広々とした未開の空き地がある。街の雰囲気が全くない。まちの歴史・文化を示すものがなく、人の気配という表情がないのだ。大東氏が言ったのは、そんなことだったのかもしれない。
顔のないのっぺらぼうの人間って、気味が悪いばかりで、そんな人間と話しもしたくない。つまり、玉野には立ち寄りたいと思う人が殆んど居なくて当たり前なのだ。
やはり前面(宇野駅前)に、玉野のまちの歴史・文化・表情、即ち『まちの顔』を見せるようにしなくてはならない。ただ、どんな顔にするかはよく考えねばならない。玉野の歴史・文化を踏まえた、美しい顔作りをすべなのだ。
写真は上から、会場の前景、説明する大東氏、パネルディスカッションのパネラー4人、最下段は産業振興公社から宇野駅方向を撮った写真。



2010年1月18日月曜日

サッキータイム ~芸術フェスタ活動の目的~

1月18日

直島は、長い歴史と精錬とアートの島である。
1998年に家プロジェクト第1号として、本村地区で200年前の家屋を改修して作った角屋は、中にインスタレーションされた125個のデジタルカウンターの明滅速度を島民に設定してもらうことで、島民と共に作ったものとされている。このような地区に残る廃屋や廃寺等を使った作品が今では7つに増え、地区住民が観光客への作品説明と道案内を買って出ているのである。
戦国時代高原氏の城下町として栄えた本村地区では、地区住民と観光客とが、地区の歴史・文化と現代アートとの融合した新たな文化・芸術を語り、寛ぎ、ゆったりとした刻(トキ)の流れを楽しんでいる。
ここには、住民と観光客との間に、交流と共感(Communication)、文化の共有(Common)、寛ぎと楽しみ(Comfortable)がある。その媒体となっているのが、本村地区の歴史的街並みであり、それをアートと融合させた現代アート作品群であり、さらにそれら作品に魅せられた旅人の定住カフェ等である。

玉野みなと芸術フェスタは、
・Communication(交流と共感):地域住民と観光客・来訪者との語らいの場
・Common(文化の共有):市民と観光客との文化・芸術に関する共通の話題作り
・Comfortable(寛ぎと楽しみ):寛ぎと楽しみの得られる時間と空間の提供
という、3つのCom.を確立することを目的に活動を行うこととする。
その手段として、アート作品、又はアーティストの文化的側面からの提案などを積極的に取り入れ、歴史や文化をベースにした新しい芸術活動を、みなと芸術フェスタからスタートさせる。
この目的と手段に基づく活動を継続することによって、地域住民が、自分達の地域に対する新しい価値の発見、観光資源の発掘、住民同志や観光客との交流等を享受することが可能となる。経済的な側面からではなく、「文化的側面から地域にパワーを生み出すこと」を基本理念として活動することとしたい。

2003年に国の補助事業(予算500万円)として始まった玉野みなと芸術フェスタは、宇野港をロマン溢れる芸術港として全国に情報発信することを目的にスタートした。2006年3月に完成予定だった大型客船用宇野新港を見越しての港振興(PR)が、市や国の目的だった。2004年度も市と県から補助金(500万円)が出されたが、市の財政が厳しくなったことから、2005年度から0(打ち切り)となった。
それでもサッキーはさらに2年間、宇野港での芸術フェスタを市内の法人・個人の温かなご協賛を得ながら継続してきた。誠にありがたいことである。
2006年に初参加し2007年からナビゲータとなった清水氏は、「地区に残る歴史・文化とアートの融合」を芸術フェスタの基本理念として活動することを提案、その意図の下、山田でのアートと新たな宇野港での展開を行い3年を経過した。
今年8年目を迎える芸術フェスタにおいて、改めてその意味と趣旨を深く考えることとした。その結果、上記3Com.の実現がフェスタの目的となったのである。今後、これを目指して活動を続けることが、サッキーの人生目的となるのだろう。

2010年1月17日日曜日

サッキータイム ~1月の出来事(その2)~

1月17日(日)

1995年(平成7年)のこの日明け方、阪神・淡路大震災が起こった。
6,434名もの死者を出すという、阪神・淡路地区を襲った戦後最大最悪の大震災であった。当時、サッキーは新潟県でJR東日本の新津車両新造工場の第2期工事(E217系電車製造設備工事)に入ったところであった。
神戸市長田区がご自宅のプロジェクトマネージャー/Yo氏は、この日(火曜日)から三井造船玉野事業所を見学するJR東日本の社員を案内するため、前日(ハッピーマンデーの月曜日)から神戸の自宅に帰っておられた。ぐっすり寝込んでいた夜明け、かなり長い振動の揺れが襲ったそうだ。隣に寝ていた奥さんをかばいながら、揺れが収まるまでじっと堪えていたそうだ。非常に怖い揺れだったそうである。幸い家が倒壊することはなかったが、近所には傾きかけた家も相当にあったようだ。
阪神地区の交通は遮断され、当然のことながら岡山県にある三井造船の工場見学は中止。Yo氏も交通遮断のせいだけでなく家の修復とか近所の手助けとかで、この日から1ヶ月近く新潟に戻ることはできなかった。我が家の玉野でも震度4くらいの揺れがあったらしいが、何も被害はなかった。
写真上は、その年か前年に妙高高原杉の原スキー場で撮ったYo氏(右端)の勇姿。因みにその隣の若い二人は、サッキーの息子と娘である。左の二人は、構体工場の作業標準を作ったS氏と現地工事作業所長のYa氏。15年経った今も皆元気に活躍している。
写真下は、プロジェクトが始まって1年後の1992年、JR側のプロジェクト責任者K氏(後に初代制作所長)、生産管理担当のH氏(JR側プロジェクトのキーマン)等3名を迎えて工場見学をした時のもの。Yo氏は左から二人目、サッキーは右端。D/E工場前には、山下勇氏の揮毫「自啓不息」(自ら啓きて息(や)まず)の石碑が建っている。

2010年1月14日木曜日

サッキータイム ~宇野築港100年記念講演~

1月14日(木)

中国地方整備局主催の記念講演が開かれた。講演者は、白石康次郎氏と北川フラム氏の二人だ。
今年7月から直島を中心に瀬戸内国際芸術祭があり、その総合ディレクターをされる北川フラム氏が講演するというので、聴きに行った。結論から言うと、二人の話はとても楽しかったし、これからの活動にとてもためになった。

白石康次郎氏(海洋冒険家・42歳)「人生で大切なことは海の上で学んだ」
非常に爽やかな方で、話も面白い。話された中のキーワードのみ記す。
・努力と忍耐の後に楽しみが来る。
・ヨットから落ちたら死しかない。厳しい訓練はありがたい。
・情熱があれば、叶えられる。
・自然をあるがままに受け入れる。
・輸入物資の99.8%は船で運ばれる。
・港は大事であり、日本の生命線である。
・港の訪問者にはWELLCOMEの姿勢で。


北川フラム氏(アートディレクター・63歳)「瀬戸内国際芸術祭と宇野港」
2000年にスタートした越後妻有アートトリエンナーレの総合ディレクターをされ、世界的な評価を得ておられる。凄い実績から来る話に圧倒された。これもキーワードのみ。
・人と人をつなぐ思い
・地域再発見が意味を持つ。
・越後妻有プロジェクトが世界のモデルになりつつある。
・棚田が今尚大切にされる歴史:450年前一向一揆で追われた人たちの最後の砦
・場の発見とコミュニケーション:アート展示を許可するまでの経過
・空き家を生かす
・時間の形象化:廃校の活用
・海の大切さ、海の復権
・アート・民俗・生活・交流・世界の叡智、若者や子ども、縁
・島の年寄りが元気に
・大切なのは終わった後
・世界から50万人は来る。

2010年1月12日火曜日

サッキータイム ~月例杯~

1月11日(月) 成人の日

21世紀に入った2001年から、4人のメンバーで本拠地の瀬戸大橋カントリークラブ月例杯に参加している。この日は、今年初めての月例杯だったので、記念写真を撮ることにした。折角なので、簡単にメンバー紹介をしよう。4人とも三井造船玉野の造船工場出身である。

(右端)まだ現役勤務で子会社の社長をされているHa氏。彼のスィングフォームはピカ一である。しっかり練習したら、シングルも近いのではないかと思われるくらいだ。レフティなので、全般的には不利なことが多いようだが、たまにそのために助かるようなこともある。
(右から2番目)この月例杯参加の幹事役をしてくれているK氏は、設計出身で今も設計の仕事で頑張っておられる。ゴルフについては、練習&研究熱心でHDCPもシングル一つ手前とグループ最高の実力者である。当然だが、実績も一番上である。
(右から3番目)既に現役を退かれて悠々自適のHi氏は、グループ最長老であるが、姿・形は極めて若々しい。健康診断結果を比べたら、恐らく最も若いのではないかと思われる。ドライバーの飛距離も素晴らしい。グリーン周りでの転がしの名人で、チップインをよくやられる。この日も2回あった。
(左端)サッキーは、メンバーで一番へたくそである。ここ数年全く練習してないのだから、当たり前かもしれない。HDCPも長年低迷したままである。今年は少し練習をして、余り迷惑をかけないようにしたいものだ。夫々のフォームも写真に撮ったが、やはりサッキーのフォームは頂けないような気がする。

このメンバーで何時までゴルフができるか分からないが、少なくともあと10年は続けたいと思う。この日の反省会で、K氏から10年間の記録データを頂いたが、サッキーには全く進歩がなかった。
今後10年間、HDCPを年に1つずつ上げることにチャレンジしよう。
アドレスを決めて、柔らかくグリップして、脇を締めて、肩を回して、右足を踏ん張って、ボールをよく見て、力を入れずに振り抜いて、スムーズに体を回転させてフィニッシュする。僅か数秒の動きだが、全てがうまく行くことは非常に難しい。確率を上げるには、練習しかない。

2010年1月10日日曜日

サッキータイム ~狂言ワークショップ~

1月8(金)~9日(土)

2日間、田賀屋狂言会主催による狂言ワークショップが天神山プラザで開かれ、昨年に続いて参加した。今年は「附子」という作品を題材に狂言のさわりについて教えていただいた。
基本の姿勢、歩き方、発声法、笑い方、泣き方、酒の注ぎ方、砂糖の舐め方、謡など、基本から附子の代表的な部分の所作まで、楽しい2日間であった。初日は15人、2日目は10人の参加だった。初日の歩きで筋肉痛になったのか、風邪引きさんになったのか?
2日目の終わりに茶話会があったが、そこで先生と創作狂言の話を少しした。去年は、力量の問題もあったためやや固い内容にしていたが、今年はもう少し面白い台本に書き直したいと言われていた。又、面白いことになりそうだ。
写真は、島田洋海さんの注ぐ酒を受ける田賀屋夙生さん。二人は実の親子である。下の写真は、WS終了後に写した参加者全員の記念写真。

2010年1月8日金曜日

サッキータイム ~1月の出来事(その1)~

1月8日(金)

今から丁度21年前の今日(1月8日)、前日(1月7日)の昭和天皇崩御を受けて、時代が「平成」に改元された。
元号の規程は、昭和22年新憲法と新皇室典範の発布により、その法的根拠をなくしてしまったが、国民の大多数が「昭和」という元号をその儘使っていたことと昭和天皇がご高齢になったことから、昭和54年に元号法が作られたとのこと。昭和天皇は、昭和64年1月7日にお亡くなりになった。国民の大多数が喪に服し、TVも派手な番組は悉く控えていた。
そんな中、内閣府だけは、新元号をどうするのかで慌しく動いていたそうである。午後2時過ぎごろ、時の官房長官小渕恵三は、TVの中で額縁に収められた「平成」の文字を出し新元号が平成になったことを、国民に直接通告した。正にTV時代ならではの、速報であった。その小渕さんも、総理在任中の平成12年5月、63歳の若さで亡くなった。10年前のことである。
前年11月頃から昭和天皇の体調が思わしくなく、その報道のキャスターとしてNHKニュースに度々登場していたのが、その後高知県知事を務めた橋本大二郎さんである。
当時平成の他に、修文とか正化といった名前が候補に挙がったそうだ。変わって直後は何となく違和感があったが、「内平らかにして外成る」という「平成」が、今や当たり前のように呼びなれてきた。座りが良くなったということか。何時までも平和であって欲しいものだが・・・

2010年1月1日金曜日

サッキータイム ~寅年の初め~

2010年1月1日(金)

寅年の始まりだ。
十二支を音読みするとシ・チュウ・イン・ボウ・シン・シ・ゴ・ビ・シン・ユウ・ジュツ・ガイとなる(高校の国語で覚えさせられた)が、寅年は3番目なので「イン」と読む。草木が伸びる状態を表しているらしい。それが何でトラなのかはよく分からない。
ここで、去年は宇野港築港100年と言う記念すべき年だったし、今年は宇野線開通100年ということなので、100年前辺りからの寅年に何があったかをなぞってみる。
15年前に死んだおふくろが寅年生まれだった。108年前の寅だ。明治35年、宇野港を造るのに大きな貢献をされた第8代岡山県知事/桧垣直右氏が着任された年だ。
96年前は大正3年、第1次世界大戦が起こり、日本も参戦した。岡山では、伯備線が開通している。
84年前大正15年(=昭和元年)、大正6年に創業した三井造船がB&W社とD/Eの技術提携を結んだ。今や三井造船のD/Eは、圧倒的なシェアで世界一だが、原点は大正の終わりの年である。
72年前昭和13年、ガソリンが配給制になり諸物資が統制された。国家総動員法が公布され、世の中は戦時体制に突入した。2年前には二・二六事件があったし、前年には日中戦争が始まったのだ。
60年前昭和25年、朝鮮戦争が始まり、警察予備隊(今の自衛隊)が発足した。玉野では競輪が始まり、宇高連絡船「鷲羽丸」が夜行列車を初めて運んだ。サッキーが熊本の黒髪小学校に入学した年でもある。
48年前昭和37年、東京の人口が初めて1,000万人を超えた。岡山では第17回国体が開催された。聖子ちゃんが生まれたのもこの年だ。
36年前昭和49年、フィリピンルバング島から最後の日本兵/小野田少尉が救出された。玉野では、宇野港第3突堤が完成した。松井秀樹がこの年の生まれだ。
24年前昭和61年、アメリカではスペースシャトル・チャレンジャーが空中爆発、ソ連ではチェルノブイリ原発事故が起こった。日本では造船不況により各社が大リストラを敢行した。男女雇用機会均等法が施行されたのもこの年だ。
12年前平成10年、金大中が大統領になり、サミットにロシアが初参加した。日本では小渕内閣が誕生、長野オリンピックが開催され、明石海峡大橋が開通した。玉野では看護専門学校が開校したし、直島本村で家プロジェクトが始まった。
夫々の年に色んなことが起こっている。良い年もあれば、恵まれなかった年もある。

芸術フェスタは今年8回目となるが、直島では瀬戸内国際芸術祭があるし、岡山では国民文化祭がある。玉野みなと芸術フェスタ2010も意味あるフェスタにしたいものである。
兎も角今年は、草木が伸びる年のようなので、これまで育った芸フェスのコンセプトを確かなものにする年ということにしよう。

写真は、駅東創庫代表の高嶋幸市氏が、岡山市の玉井宮東照宮のために発砲スチロールで作った虎の像である。