2009年12月30日水曜日

サッキータイム ~今年1年の反省~

12月30日

丑年の今年も、あと1日で終わる。1年の過ぎるのはアッと言う間だ。
大晦日を前に、今年1年を振り返ってみよう。
1月1日に「1年の計」をこのBLOGに書いた。読み返すと、「塩に関する創作狂言を作る」と書いていた。11月1日に、創作狂言「野﨑武左衛門」を山田小学校の体育館で、400人の観客を前に上演することができた。元旦に「1年の計」として書いたことが実現できた。これは、我が人生の中でも、多分初めての事かもしれない。
2月に芸術フェスタの原点について書いた直後に、最初の指導者/八木マリヨ氏からメールが届いた。正に縄は繋がっていた。メールでは、来年初めに神戸で個展を開くと書いてあった。調べると、ギャラリー島田という所で、1/9(土)~20(水)八木マリヨ展「The Earth & earth-地球にすれば」阪神大震災15年という展覧会だそうな。こういう作家或いは立派なギャラリーは、1年前から展覧会の予定が決まっているのだ。
そういった点からすると、我が文化会館などそんな長期の予定どころかごく期近の予定さえ決まっていない。アーティストが少ないということなのか?マネージメント不在なのか?
2月には、数年前に別の機会に、新津車両製作所建設プロジェクトのことを書いた「私のプロジェクトX」をBLOGに載せた。ところが、12月上旬になって、東大経済学部経営学科の学生がこのBLOGのことで、問い合わせてきたのだ。彼は、卒論テーマとして「新津車両製作所とJR東日本の経営戦略」を採り上げたが、サッキーのBLOGを見て「教えて欲しいことがある。」とメールして来たのだ。ひょんなことから、このBLOGが役立つことがあるもんだと驚いた。若い人は、これからの日本を支える大事な宝である。彼の質問は、新津車両製作所創業に対する経営的側面と技術的側面からみた意義とか山下元会長の思いなどだった。私は、できるだけ丁寧に答えてあげた。A4×4枚びっしりとなったので、多分6000字くらいの回答だった。きっと役立ったことと思う。立派なJRマンに育つことを願うばかりだ。
3月、1月に始まったMM会議の設立準備会の3回目があって、今後の作業の進め方を討議した。4月から本格的な資料まとめが始まった。何せ三井造船93年の歴史的資料である。その量の多さはあきれるばかりである。週1回2時間ずつの作業だから捗らないこともあるが、毎回8人ずつ位の作業で9ヶ月経っても未だ終わらない。資料の整理だけであと1年くらいは掛かりそうだ。でも着実に前に進んでいることは確かである。
4月、4年間務めた自治会長を交代した。やっと肩の荷が下りホッとした。同時に、文化会館BAUHAUSの指定管理業務が始まり、肩書きだけだが「館長」という役を頂いた。4月初めに「企画展~玉野の作家達」を開催したが、その後バウハウス運営もやや啼かず飛ばずの状況だ。
5月から、新たな講座が二つ始まった。一つは「創作狂言『武左衛門』を演じ楽しむ会」で、もう一つは「宇野・築港まちづくり講座」である。どちらもサッキーが世話役を担うことになっているし、狂言では役者にもなってかなり忙しい週末となった。両講座とも第2&第4日曜日開催で、前者が午前、後者が午後となっていた。充実しまくりの状況だ。
6月から、このBLOGで自啓ノートというシリーズものを書き始めた。自啓とは、自己啓発のことで、三井造船の社長・会長を務め、後JR東日本の初代会長となった山下勇氏の教え「自啓不止」に因んで、啓発的な内容を記したものである。
7月、3年2ヶ月に亘った愛知県での病院勤務を終了した。道半ばではあったが、当初の目標は達成したし後継もしっかり者が入社して2年になったことから道を譲り、サッキー自身は玉野での芸フェスに全力投球することとなった。この選択は、時期的にグッドタイミングだった。9月の第1期イベント、11月の第2期イベントに向け、極めて多忙な日々となった。病院勤務を続けていたら、おそらく両方とも中途半端な形になったかもしれないと思う。8~10月の3ヶ月間のBLOG投稿件数は、僅か6件である。9月など皆無だ。BLOGの更新さえままならない忙しさだったということだ。
8月から、玉野市中心市街地活性化協議会のメンバーに入ることとなった。朝日新聞の4コマ漫画で知られる「いしいひさいち」部会にも入り、「ののチャン」でのまちおこしに加担している。
9~11月、今年の芸術フェスタは、久し振りの宇野港界隈での商店街アートと、山田での創作狂言「野﨑武左衛門」が市民の反響を呼んだ。先ずは大成功だったと思う。
12月、今年の芸フェスの報告書まとめと来年に向けての計画案作りである。「宇野・築港まちづくり講座」についても、来年の方向付けの大筋はできたが、各論はこれからである。
兎も角も、玉野でやるべき事柄は、ほぼ計画通りにできたのではないかと思う。
今年は病院勤めが終わり、収入的には年金だけの生活になったが、来年は芸フェス(ボランティア活動)100%ではなく、僅かでも収入の伴う業務も何かやることとしよう。芸フェス運営を援けるためにも。
それにしても今年のレコード大賞、昨年に続いてEXILEが取った。過去に2年連続ってあったかなー?

2009年12月27日日曜日

自啓ノート(11) ~「協働」について~

12月27日

行政と住民とが一緒になって、公益に資することを行うことが一般に「協働」と言われているが、今日は「協働」ということの必要性について考えてみる。

そこで、先ず「協働」とは何かについて考えてみる。
字面は、協力して働くということだが、狭義では行政と一体となって事業を行うことということができる。
現代社会の推移を将来に向けて考えたとき、超少子高齢化や環境破壊、人口減少&労働力減少に伴う外国人就労者の増加、コミュニティの崩壊など、今のシステムのままでは、持続可能な社会生活の維持がきわめて困難になってきつつある。又、一般市民(納税者)の生活様式の変化により、住民の要望もきめ細かいものになってきている。当然のことながら行政サービスそのものも複雑且つ多岐に亘ってきているのは事実である。今のシステムのままでは、それらを100%解決することは到底不可能である。お金が不足するだけではなく、人的にも対応困難となってくる。そこで、その解決手法の一つとして、「協働」という新たな考えが生まれたものである。
つまり、「協働」とは、一つの事業目標に向かって、企画、運営を協同で行うことはもちろん、責任と役割を分担し、意見を交わしてお互いに理解し合いながら取り組みを進め、成果を共有することである。
ある一つの事業を行う場合、行政サイド、住民サイド夫々に得意分野がある。これを行政だけでやるより、住民と協同してやる方がより効果的であることが数多くある。1+1=2ではなく、3にも4にもなることがかなりある。これをシナジー効果と言うが、「協働」はこのシナジー効果を狙った新しい仕組みづくりなのである。「協働」することによって、行政は助かり、住民も喜ぶというような仕組みづくりである。

では、どのような事業が「協働」向きの事業なのかを考えてみる。
・地域の実情やニーズに合わせて柔軟に取り組む必要があるもの(例:まちの活性化イベント)
・住民の参加や実践を求める必要があるもの(例:まちの美化活動、防災活動)
・専門的なノウハウが必要なもの(例:子育て支援、介護支援)
・行政に先駆けて取り組んでいるもの(例:歴史文化の掘り起こし活動)
などは、行政だけでやるより住民サイドと協力しながらやるほうが、同じお金を出してもより高い効果が得られると考えられる。
最近、身勝手で独りよがりな人が多い反面、特に高齢者を中心に自分自身の自由な時間にボランティアや社会活動に参加する人が増えている。
「人が喜んでくれて嬉しい。」「人や地域に役立って嬉しい。」という満足感。
「自分の住む地域を何とかしたい。」「ほっとけない。」いう使命感。
「今まで培った知識や技能を活用したい。」「同じ考えの仲間と交流したい。」という自己実現欲求。
活力あるまちづくりや地域の課題解決に、多くの市民や団体が各地で生き生きと取り組んでいる、という話をよく聞く。これらの人々が、今後予想される諸問題の解決手段としての「協働」の担い手となるのであろう。

2009年12月25日金曜日

サッキータイム ~孫三昧~

12/16~24

孫の佑磨(12/24に4歳の誕生日)が12/17に扁桃腺の手術をして23日に退院するというので、入院期間中の16~24日の間、弟の琢人(1歳9ヶ月)を我が家で預かることとなった。9日間ではあるが、孫とともに毎日ほぼ46時中過ごしたのは、初めてのことである。
子どもというのは、優しくしてやればなついてくるし、褒めてやれば嬉しく笑う。2歳にも満たない小さな子どもだが、キチンと理解している。芸術フェスタも終わり、比較的時間が取れた時期だったし、寒い日が続き外出も控えていたので、いわば孫三昧の9日間だった。
写真は、子ども広場にある乗り物に乗ってご満悦になり、風船と戯れて大満足の琢人。24日の昼には、退院して元気になった佑磨の誕生日祝いに参加。
夕方帰りの別れの時、「じいじ、じいじ」と追い求められたのは、可愛がって接したせいか。遺憾ながら、我が子からはこんなに追い求められたことはないような・・・

2009年12月15日火曜日

自啓ノート(10) ~接遇の基本-技術サービスも~

12月15日

「神が人間にのみ与え給うた二つの能力、それは新しいものを創り上げる能力、そして人にサービスすることの出来る能力である。」
この言葉は、三井造船の相談役をされていた頃、中曽根内閣の第2臨調(第2次臨時行政改革調査会)で第2部会(行政組織及び基本的行政制度の在り方)の部会長を務め、JR東日本の初代会長に就任した山下勇氏の言葉である。彼は、当時の国鉄の時代錯誤で旧態依然たる設備や考え方を、ものの見事に改革した国鉄改革の第一の立役者だった。
彼は、「JRにおける乗客へのサービスは、言葉や態度だけではなく、技術に裏打ちされた技術サービス産業でなければならない。」と言われ、さらに「技術の根源は、ものづくりにある」という信念から、JRの中に車両の新造部門までも造られた。
首都圏を走る京浜東北線、山手線、中央線、総武・中央快速線など大部分の電車は、新潟県にある新津車両製作所で製作されたものである。通勤地獄の緩和を考えた素晴らしい電車だ。この基地を起点に、JR東日本の技術サービス事業は着実に進歩を遂げている。

さて、タイトルに掲げた「接遇の基本-技術サービスも」にある「接遇」は、多くのお客さんに接するデパートの接客係や役所の窓口などでの対応のことを示すが、ここでは特に医療現場における患者やその家族と接する場面での接遇について考えてみよう。
病院の接遇は、医師を始めとする医療部門や事務部門の担当が、患者の肉体的・精神的な痛み・苦しみ・悩み等を真剣に分かろうという気持ちで、目の前の患者に向き合うこと。患者の持つ不安や疑問、不平不満等の声に対して、患者の身になって真剣に耳を傾けることから始まる。患者のそれらの声に対して的確なアドバイスを提供し、相互のコミュニケーションとインフォームド・コンセントにより、患者や家族の方が納得したスムーズな医療が行われるようになれば、心のこもったいい接遇が出来たことになるのだと思う。

病院は、今「淘汰の時代」に入っている。生き残り競争(サバイバル)の時代に入ったと言っても過言ではない。病院が患者を選ぶのではなく、患者或いは社会が病院を選ぶ時代になっている。
選ばれる病院となるためには、並大抵の努力では難しいといわざるを得ない。医療技術の向上はもとより、医療サービスの質の向上が評価を受ける病院になる。つまり、医療技術が信頼の第一要因ではあるが、これからは、接遇対応の質の向上が今以上に強く求められる。「心の温かさ・優しさ・いたわり・愛情」を持って接することが、選ばれる病院の大きな要素である。
接遇は、「言葉」と「態度」で表現される。
素直な気持ちでする「はい」という返事、朝一番「おはようございます」の挨拶、患者の顔を見て「いかがなさいましたか」と迎え入れる優しい声掛け、「お待たせいたしました」というお詫びの言葉、「ありがとうございます」の感謝の気持ち、「お大事に」といういたわりのことば等々、夫々の場面に応じた挨拶や言葉が、相手の気持ちを解きほぐし、この病院で診てもらってよかったと思われるようになるものだと思う。
服装、身だしなみ、器具や設備を扱う動き等にも、優しさや温かみが現われる。患者に信頼される手技と態度そして言葉づかい、全ては患者のためにと思う気持ちの表れである。
病院というもの、折角神が我々に与えてくれた「人にサービスすることの出来る能力」をフルに発揮して、“地域の人々に親しまれ信頼される病院”を目指し、心を込めた接遇に努めてもらいたいと思う。
病院も技術サービス産業の最たるものの一つでもある。患者は早く治ることを最も期待している。そうではあるが、最も流行る病院というのは、患者や家族を安心させてくれる病院ではないだろうか。

2009年12月14日月曜日

サッキータイム ~12月の出来事(その2)吉良邸討ち入り~

12月14日(月) 赤穂浪士の吉良邸討ち入り

12月14日は、忠臣蔵で有名な赤穂浪士四十七士による吉良邸討ち入りの日に当たる。
時は元禄14年(1701年)3月14日、赤穂藩藩主/浅野内匠頭は、勅使(天皇の使者)饗応の接待役を果たすべく高家/吉良上野介にその作法等を習おうとするが、なぜか(付届けの額が少なかったのかも?)意地悪く扱われた (つまり今で言うイジメに遭った訳だ) 。堪忍袋の緒が切れた内匠頭は、江戸城内松の廊下で刃傷沙汰に及び、徳川綱吉の命により即日切腹となった。一方の吉良にはお咎(トガ)めなしだった。
桜舞い散る庭先での切腹を前に詠んだ有名な辞世の句は、内匠頭の気持を率直に表している。
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」
(風に散り行く桜の花びらも名残惜しい。だけど、私自身の名残惜しさは比べようもない。散り行くわが身の悔しさをどこにぶつけたらいいんだ!)
主君の無念を晴らすべく大石内蔵助率いる四十七士は、幾多の艱難辛苦を乗り越え、翌元禄15年12月14日、吉良邸への討ち入りに見事成功、上野介の首級を旗印に江戸の町を凱旋した。
今から18年前(平成3年、1991年)、JR東日本のプロジェクト担当のため約2年間の東京赴任を始めた頃、一人泉岳寺(港区高輪)を訪ねたことがある。季節外れ(初秋)にも拘らず、四十七士の墓には、線香の煙が絶えることはなかった。

サッキータイム ~まちづくり講座・第14回~

12月13日(日) 宇野・築港地区まちづくりワークショップ

今年最後の講座は、5~11月の7ヶ月間に学んだことやフィールドワークを踏まえて、「宇野・築港地区の楽しいまちづくり提案」というテーマのワークショップを行なった。
手順として、
①「地区の良い点は何か、どんな良い点があるか。」を各自付箋紙に書いてもらい、
②「良い点をさらに良くするにはどうすればいいか。」を夫々に提案し、最後に
③「それを実現するための方策は何か。」について議論した。

以下順番に議論の概要を示す。
①について(良い点は何?)
(1)宇野港は自然に恵まれ、景観が美しい。(瀬戸内の島々、高辺山、鳴滝、海岸線)
(2)歴史・文化にも恵まれている。(アートスポット、駅東創庫、連絡線遺構、芸術フェスタ、ボランティア団体、ゴルフ場、駅前オブジェ)
(3)居住環境が良い。(晴れ、暖かい、静か、広い土地)
(4)海上交通の便がいい。(フェリー、クルーズ、海上交通拠点)
(5)食べ物が美味しい。(B級レストラン、魚、ミルクパーラーのケーキ、むらまつのコロッケ)

②について(さらに良くするには?)
(1)国立公園・保安林で山の木々が放置されていて折角の景観が見えない状況である。手を入れて景観がよく見えるようにして、遊歩道を作るなどアクセスも整備する。
(2)三井造船の進水式ツアー(昼食・保険料付きで4,800円)が凄い人気で、チケットがアッと言う間に売り切れリピーターも多い。このツアーに組み込む観光地を作る。
(3)桟橋遺構の看板があるが、見栄えが悪いので、観光案内の統一的なデザイン看板にして書き換え、人が読んでくれるようにする。

③について(実現のための方策)
(1)「どういうまち作りをするのか」に対して、「まちの人が、毎日楽しく幸せになるようにすればいい。」ということで、議論が進んだ。
(2)宇野駅前に放置自転車があって困っていたが、ボランティアの地道な活動で放置自転車が皆無になった。役所が作っていた「放置自転車現金」の看板は何の役も立ってなかった。つまり、実現のために役所に頼んでも解決しない。先ず自ら動くことが大切。
(3)例えば、各家庭が自分の家の前を綺麗にし、花を競うように植える活動をして町全体を美しくすることを提唱したらどうか。「みんなニコニコ、町をきれいに」すれば来客も驚き、結果として観光客が増えてくると思う。
内側から魅力を高めることが大事という結論で締めくくった。
有意義なワークショップとなった。
この日は、今年最後の講座日だったので、ワークショップ終了後、お茶とケーキで茶話会を行なった。茶話会では、玉野のアートの拠点「駅東創庫」に対して、オーナーの方針変更のため、参加アーティストの気持ちが揺れており、その対応の話で盛り上がった。
写真は、宇野・築港地区の良い点カードの纏め図である。右上のカードは、小学低学年児童の書いたもの。

2009年12月11日金曜日

サッキータイム ~ののちゃんの街・たまの~

12月11日(金)

朝日新聞の有名な4コマ漫画「ふじ三太郎」の後の漫画として、1991年10月から始まった「となりの山田君」が1997年にタイトルを変え「ののちゃん」になった。
作者のいしいひさいち氏は、岡山県玉野市築港の出身である。今年に入って、それまで見向きもしなかった故郷に目を向けるようになり、何とののチャンの看板を宇野港商店街の中心部に取り付けることを許可したのだ。看板設置位置はダテ薬局の壁である。かなりでかい。
現在、市では宇野港を中心とした中心市街地活性化協議会を設け色々議論しているが、その部会の一つとして「いしいひさいち部会」がある。ダテ薬局の社長/伊達元英氏が部会長である。彼は、いしい漫画の世界を、笑顔の街、開かれた港街、昭和の街といったコンセプトで、活性化に活かそうと一生懸命である。
「ゲゲゲの鬼太郎」の作者水木しげるの出身地・鳥取県境港市では、妖怪博物館まで造って水木しげるでまちおこしを図っている。今一有名でないののちゃんで果してまちおこしが可能かどうか、何も無い玉野には、やってみる価値はあるのかもしれない。芸術フェスタの活動とどうリンクを図るのか、よく考えないと・・・

2009年12月9日水曜日

サッキータイム ~野﨑邸訪問(創作狂言の迨暇堂公演について)~

12月9日(水)

倉敷では、毎年2月21日~3月7日の2週間、「倉敷雛めぐり」という優雅なまつりが、倉敷・児島・水島・玉島・真備船穂の5地区で開催されている。中でも児島の野﨑邸・迨暇堂(タイカドウ)での雛飾りは圧巻だという。未だ観たことはないが、100畳敷きの大広間の四周に展示されるとのこと。中央の空いた所で、地区の方々のボランティアによる演芸なども披露されるそうだ。因みに昨年のプログラムを見ると、筝曲演奏・日舞・銭太鼓・創作舞踊・大正琴・オカリナ演奏等が並んでいる。
今日の野﨑邸訪問の目的は、来年の雛めぐりにおいて、今年山田で披露した創作狂言「野﨑武左衛門」を演じてもらえないかとの相談について確認するためだった。野﨑邸側は、ボランティア(無償)でやってもらいたい意向のようだが、狂言実施側は、プロ狂言師の監修を受けてやっていることなので、無償ではできないとの見解。
結論としては、雛めぐりの時ではなく、それが終わった後に入場料を取る(或いは、どこか大口スポンサーに資金提供していただく)形での提案をすることとなった。
このことに対して、多くの人が抱く疑問にどう答えるか?つまり、創作狂言「野﨑武左衛門」を入場料を取って公演することの意義は何かということを明確にする必要があるのであろう。以下は、その回答案である。

今年、玉野市山田で初公演された創作狂言「野﨑武左衛門」は、東野﨑浜塩田を開墾した野﨑武左衛門の功績を称え顕彰したストーリーで、経済人・文化人としての武左衛門の優れた人物像を分かりやすく表現したものである。
武左衛門の生まれ故郷である児島には、野﨑邸という彼の遺した優れた歴史遺産があり、見学に訪れた多くの観光客がその文化財に感激して帰られる。ところが実は、その遺産を遺した武左衛門という人のこと、彼が造った入浜式塩田がどのようなもので、どのような人たちがどのような気持ちで働いていたのかを知ること若しくは想像することは、実際には中々難しい。というより、不可能に近いと思われる。
今回創った狂言は、武左衛門の造った東野﨑浜塩田で働いた浜子たちが、日々の作業の中で武左衛門の業績を知らせ、入浜式塩田作業を動きで示しており、遺産を観ただけでは知ることの出来ない当時の姿を分かりやすくイメージすることができる。
そこで、児島・玉野はおろか岡山県人としても誇るべき偉人・野﨑武左衛門を称揚した創作狂言「野﨑武左衛門」を生まれ故郷である児島味野の地/野﨑邸・迨暇堂で公演することは、歴史の必然であり極めて意義深いことである。
写真は、(上)野﨑邸を守る学芸員の方たち、(下)創作狂言公演関係者

2009年12月8日火曜日

サッキータイム ~12月の出来事(その1)真珠湾攻撃~

12月8日

昭和16年12月8日、日本海軍はハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍太平洋艦隊と基地を攻撃、大打撃を与えた。第2次世界大戦は、この日を契機に歴史上最大規模の戦争に突入した。
この攻撃を成功させたのは、山本五十六の発案による航空機攻撃と魚雷攻撃にあるという。山本は、短期決戦でアメリカとの講和を主張したが、この戦争は4年にも亘り、惨めな敗戦に終わった。
日本の敗戦は、結果的には民主国家になったということから、却って良かったのではないかと思う。太平洋戦争そのものについては、そう勉強したわけではないし体験したわけでもないので、コメントすることはあまりない。ただ、太平洋戦争最後の年、広島と長崎に落とされた原爆のことなどを考えたとき、戦争は多くの人を不幸のどん底に突き落とす邪悪な紛争解決手段であり、二度としてはならないものと思う。

2009年12月7日月曜日

サッキータイム ~三井造船、二つの1番船の絵葉書~

12月7日(月)

今日月曜日は、定例のMM会議(MM=三井造船記念館の略)。
MMが実際にできるのかどうか、結構費用もかかるようなので、どうなることやら・・・?でも、古い資料を整理して纏めることは大事なことであり、それだけでも素晴らしいことである。
立派な会館になればそれに越したことはないが、古い資料を常設展示する資料館だけでも意義あることなので、最低限そこまではやってもらいたいと願っている。
今年4月写真の整理から始め、11月中文書類の整理が終わり、現在絵葉書の整理に入っている。
大正6年(1917年)創業から数え今年93年を迎えるが、建造船は1800隻を越えるという。つまり、全ての船の絵葉書が残っているとすれば、1800枚の絵葉書があることになる。整理に当たっては、船名・進水日・船種・載貨重量・船主名・船級・建造所等を記録している。8人のメンバーが週1のペースでやっているが、1回で一人30枚を記録するのがやっとであり、かなりの期間がかかりそうだ。

そこでタイトルに戻るが、今日整理中の絵葉書の中に、極めて貴重な絵葉書が2枚発見された。
その一つは、宇野の仮工場で建造され大正6年12月2日に進水した、三井造船第1番船「海正丸」の絵葉書だ。3枚組で、船の絵と玉工場完成計画図、それと玉工場予定地の全景写真であり、袋を含めて完全な形で残っており、非常に貴重なものである。(写真上)
もう一つは、それから2年後の大正8年、玉の本工場ができて最初の船“EASTERN IMPORTER”の絵葉書(大正8年11月9日進水)である。この船は、当時鋼材輸出を止めていたアメリカが船舶不足に陥り、日米船鉄交換契約(鉄1トンに対し、2重量トンの船を引き渡す契約)によってアメリカに輸出された、載貨重量9,000トンという当時最大級の貨物船である。これも3枚組の絵葉書だが、1枚だけ紹介する。(写真中)
両日とも、工場披露記念式典を兼ねていたそうで、宇野線の特別臨時列車が出るほどの物凄い人出だったそうである。
最下段の写真は、机上に並べられた整理中の絵葉書たちである。

自啓ノート(9) ~凡事徹底~

12月7日(月)

「凡事徹底」、この言葉の生みの親は、イエローハットの創業者である鍵山秀三郎さん。彼の講演録等を見ると、確かに何でもないけど中々やれないようなことを何十年もずっと続けてきておられることが分かる。彼の講演録の一部を紹介する。
「会社を興した私は、中途入職の社員の心が荒まないような会社にしたいと思いました。そのために、会社の中を少しでも綺麗にすれば良いと考え、朝早く会社に行ってトイレの掃除、事務所や表の掃除をしました。何か他のことに代えようと思っても、やはり掃除に戻っていたんですね。会社も大きくなり、トイレも増えて四つん這いで掃除をしていた傍で、社員が小便をしたり跨いで行ったりしていました。10年くらい経ってやっと、社員が手伝ってくれるようになりました。それが段々広まって、トイレ掃除の仕方を教えて欲しいという人が出てきて、その輪が広がって全国に「掃除に学ぶ会」(参考:http://www.souji.jp/)が出来てきたんです。
『10年偉大、20年恐るべし、30年にして歴史になる。』10年で社員がやってくれるようになって、20年たった頃には定着をして、30年たってみたら、掃除の仕方を教えて欲しいと言われるようになりました。誰でも出来るささやかなことを、バカにしないでやっていくことが大事だとつくづく感じています。」

どこの会社にも、「誰にでも出来る何でもないこと」が山のようにある。
トイレの清掃は勿論、廊下ですれ違ったときの挨拶、お客さんさんに話しかけるときの言葉遣い、事務所周りの汚れや埃の掃除、書類や図面を届ける作業、それら誰もがやっている何でもないような業務や作業、それを当たり前にキチンとやりこなすこと。感じよくしかも丁寧に素早くやること、これらがまともに出来るようになることが、本当のプロの仕事であり技である。大事なこととは思わないからとか、言っても出来っこないからとか、誰も認めてくれないからとかで、直ぐに諦めたり沙汰止みにしないことが真のプロ根性なのだろう。徹底して続けることは極めて大切なことだ。
「造船の担当技師は、タンクの清掃がキチンとやれるようになったら一人前」と教わったことがある。入社1年目に担当したタンカーは、船主監督からよくやったとお褒めの言葉だった。ところが、出航後間もなく、ボルト・ナット、スパナ等がタンクの底に残っていたと、保証技師と船長から大クレームがあった。成る程先輩が言ったのはこのことだったんだと気付かされた。暗いタンクの中の清掃チェックは、平凡な作業だが、物が大きいだけに大変だった。でも、徹底して清掃することによって、あってはならない溶接忘れの発見等もあった。
「凡事徹底」・・・人様の信頼を勝ち取る鉄則ではないだろうか。

2009年12月6日日曜日

自啓ノート(8) ~ストレス解消法~

12月6日

ストレスは、仕事をしている者にとってつき物と言っていい。どんな場面どんな立場にあっても、ドキッとしたり悩んだり塞ぎ込んだり遂には耐えられなくなったりすることがある。もう数年前になるが、安倍元総理の突然の辞任、横綱朝青龍がモンゴルに逃げ帰った事件等も、極度のストレスによるものだろう。

ストレスの英語“STRESS”を頭文字としたストレス解消法を聞いたことがあるので紹介する。

S(Sports):身体を動かすスポーツで汗を流したら、心に溜まったモヤモヤ(ストレス)は、きっと吹き飛んで行く。広々としたグリーンで白球を飛ばすゴルフ、爽快そのものだ。サッキーも月1ゴルフを楽しんでいるが、逆にストレスを溜めることもある。スコアを気にしないことも大事か。野球、水泳、卓球、テニス、自転車、ジョギング、ウォーキング、山登り等、自分にあったスポーツを楽しむのがいいだろう。

T(Travel):自分の知らない場所に自分の身を移す旅行。そこに新たな発見や見知らぬ人との出会いなど、心ときめく時間を与えてくれる。旅行は、蓄積したストレスを開放するのに格好のイベントであり、楽しみでもある。遠方への豪華旅行でなくとも、安近短で十分リフレッシュできるというものだ。

R(Rest):緊張は長く持ない。疲れたら休息を取ることだ。夜はベッドに入ってぐっすり眠る。大海原や紅葉といったキレイな風景を観(視覚)、おいしいモノを食べ(味覚)、軽快な音楽を聴き(聴覚)、マッサージを受け(触覚)、キンモクセイやアロマのいい香りを嗅ぎ(臭覚)、と言ったことで、人はユッタリした気分になり、α波をしっかり発散し物覚えもよくなり、ストレスなど全く感じなくなる。

E(Eat)
:人間の最も根源的な欲求の一つ、食事。夜は晩酌を楽しむ方もいるだろう。暑い日のジョッキに注いだ冷たいビ-ル、透明なお猪口から舌に転がる冷酒、食欲をそそるワインなど、夕食の楽しみも倍化する。肴は炙ったイカがいいと歌った方もいたが、魚、肉、野菜、ご飯と、バランスと彩を考えて食事をすれば、肉体的にも精神的にも健康そのものとなること間違いない。

S(Sleep):どんな薬よりも効くのが睡眠という特効薬ではないだろうか。病棟勤務の看護師やヘルパーなど、職種によっては夜間に眠る時間が取れないことがある。アーティストなども展示会に作品が間に合わないと徹夜になることがある。サッキーも学生の頃、試験前に一夜漬けの徹夜をしたことが何度もある。疲れは溜まるし、ストレスも溜まる。「寝る子は育つ」と言うが、「寝る大人は長生きする」かも・・・?
最近よく寝た日の朝は、血圧が低いようだ。眠りは血圧にも効く?

S(Smile):ストレスが溜まると、自然に気難しい顔になってしう。逆に何か楽しいことがあれば、心も解けニヤリと笑うことも。気難しい顔で人に接していては、相手は嫌がるだろうし、自分自身も何だか寂しい気持ちになる。目尻を下げ、口は半開きでニコッと笑う。それだけでストレスから開放される。人によく思われたいのであれば、いつも笑顔(スマイル)を忘れずに!

ストレスには、物理的要因(寒冷、酷暑、騒音等)、化学的要因(酸素、薬物等)、生物的要因(炎症、感染等)、心理的要因(怒り、不安等)があるそうだ。病的なものだとお医者さんに診てもらうほかないが、一歩手前なら上のSTRESS対策で十分いけるように思う。

2009年11月28日土曜日

サッキータイム 「八狼会」ミニ集会

11月27日(金)

昭和43年に三井造船に入社した同期生が8人集まり、毎月遊びのこと・仕事のこと・旅行のことなど、殆んどはどうでもいいことをグダグダ駄弁っていた仲間である。
何時の頃から集まったのか、何故8人だけだったのか、覚えている者は(恐らく)誰も居ない。
最初に集まったのは、8人ではなく数人だったのかもしれない。職場もバラバラ、出身学校もバラバラ、趣味やクラブ活動もバラバラ、どうしてこの8人なのか?そのうちグループの名前をつけようということになり、「八狼会」とした。何も出来ないおとなしい「八羊会」の方がいいのではとの意見もあったが・・・、一応格好つけた形か?結成後10年近く、毎月喫茶店に集まってはウダウダ駄弁っていた。鳥取ドライブでの大スコール遭遇、奥津渓での全く不漁の渓流釣り、山田の料亭での忘年会等、面白い遊びの思い出話には事欠かないグループだ。
そのうち、夫々に役が付き他の事業所に転勤になったりで、忙しくなり出してから集まりにくくなり、毎月の例会も沙汰止みになっていった。
10年ほど前、サッキーが営業をやるようになって、その内の一人M.茂巳君を訪ねた折り、「久し振りに集まって飲もうか。」という話になり、泊り込みで飲んだのが、ここ最新の集まりだった。

この日、千葉に居るM氏が玉野に来るというので、集まれる者だけ集まった。3人だけだったので、客人として千葉の事業所長をしていて現在玉野で勤務中のT氏を招待し、4人遅くまで楽しく飲んだ。

八狼会メンバー各人のプロフィール概要を紹介する。本人に断ってないので、姓と出身校は頭文字とする。
K.徹男君:Y国大造船。入社したときは船殻設計、数年後に修繕課に異動。玉野の建造部長や由良工場長などを歴任、モデックでも活躍。最近、中国から帰ったばかりとのこと。でかい体でぶっきらぼうだし一見怖い印象だが、根は極めて真面目。最も狼らしい奴かもしれない。
K.博之君:Y国大造船。入社時は艤装工作部居装課(居住区艤装)、課長になるまでずっと艤装の現場勤めだったが、千葉に転勤。その後、造船を離れ玉野の運搬機工場長から宇野工業の専務に転籍。現在、佐世保重工業の取締役として、造船現場の指導に当たっている。根っからの真面目人間で、どちらかというと羊の部類か。ゴルフがうまい。
S.章夫君:K大造船。入社時艤装工作部甲装課(甲板区艤装)に配属。6年後に生産技術課に異動後は、船殻各課、海外技術協力、建造スタッフ室、教育・安全などを経験。最後の大仕事JRプロジェクトにこれらの経験が大いに活かされた。その後、岡山支社、SBC取締役を最後に現役を退く。度胸のよさと優しさの混じった、えも言われぬおかしげな真面目人間。狼になったり羊になったり。今は芸術フェスタを初めとしたボランティア活動で大忙しの毎日。これひょっとしてサッキー?
T.征之君:-大機械。修繕部機関課。もっそりしてて、よく人となりがつかめないうちに会社を辞めた。四国の実家に帰っているそうだが、現在音信不通である。
M.征夫君:-大電気。修繕部電気課。造船会社では専門職とも言うべき電気の技術を活かし、環境事業部に異動していた。会社を辞めた後、英語力を活かして翻訳業に取り組もうとしていた矢先、病魔に襲われ60も来ないうちに鬼籍に入ってしまった。どっしりした無口な男で、家族の絆も強かった。
M.敦尚君:O大造船。検査部(現品質保証部)。基本的に船殻畑で、大分鉄構部に異動後も、難しい造船ブロックなどの製造に当たっていた。その後、三井造船鉄構工事㈱の社長を経て、今は大分で悠々自適の毎日のようだ。彼は最初からのメンバーではないが、T.君が辞めた後加入、八狼をキープしてくれることになった。非常に気さくでさっぱりした男である。
M.茂巳君:D大経済。彼だけは三井造船入社ではなく、兄が社長のS産業という運輸部門の協力会社に入社。どういう関係でこのメンバーに入ったのか、よく覚えていない。若い頃彼は、青年会議所のメンバーとして活躍していて、今もそのOB会に参加しているとのこと。人懐っこいオープンな男で、今はK工業㈱という土建業の社長として、直島を主戦場に頑張っている。
M.俊行君:T大法学。熊本高校でサッキーと同組だった男で、仙台の大学を出て三井造船に入社。玉野での奇遇な再会だった。総務勤労畑を歩み、八狼会の出世頭でMESの取締役まで昇った。寡黙な男だが、目の付け所はシャンとしている。
M.剛一君:O大溶接。加工機の溶接技師として、数々の溶接&鋼材の問題解決をしてきた学究肌の男だ。若くして宇野工業に転籍したが、機械工場長として再びMESに入社。その後、取締役に昇り、昭和飛行機の社長を最後に、現在悠々自適の生活。八狼会一の紳士であると同時に宴会男でもある。
T.征司君:T大船舶。千葉造船工作部。彼は八狼会のメンバーではないが、千葉在住のM氏と27日の集まりに同席するのに丁度いいと考え、急遽招待することとした。6年前、千葉事業所長を経て三友不動産㈱の社長となり、現在顧問として玉野の活性化検討委員長として頑張っている。彼がこの会に入れば10人目のメンバーとなる。欠員となっている一人を充足することが出来るのだが、果して・・・。

来年4月頃に、本格的な八狼会を玉野か大分で開催することを決め、楽しい充実した6時間を終えた。

2009年11月27日金曜日

サッキータイム ~高辺山から~

11月26日

11/22日のフィールドワークが雨だったことから、再度高辺山に登り瀬戸内海と宇野港の景色を眺めることにした。この日は、朝から快晴で絶好のハイキング日和だった。
山の高さは約61m。この山には競輪場のある日の出側から登るようになっており、宇野港側からのアクセスは、車も徒歩もない。頂上までの散策には、20分もあれば出来る小さな丘のような山であり、宇野港を眺めるには絶好のポイントである。
現在、宇野港を中心とする中心市街地活性化の検討会が行われているが、自然美を活かした港というのであれば、是非この高辺山を生かしたいものだ。
宇野港から2キロほど北の田井には、県内でも極めて観光客の多い有名な深山公園がある。宇野港に高辺山自然公園を作れば、これまた超有名な公園になること間違いないと思うのは、サッキーだけだろうか?

サッキータイム ~八浜で~

11月23日(月)

八浜は、今でこそ中心市街地から離れた辺鄙な場所となっているが、山田の塩田同様玉野市では古くから港町として栄えていて、銀行や商店、造り酒屋や醤油の醸造元などが軒を連ねていた。
八浜に山田快進堂(山田次郎社長)という、創立120年(明治22年(1889年)創業)の本屋さんがある。山田次郎さんを訪ねたこの日が丁度創業記念日だったそうで、朝からご先祖の墓参りに行っていてたった今帰ったところとのこと。
約束の11時までにちょっと時間があったので、近くの山田醤油醸造元を訪ねた。山田次郎さんともつながりはあるらしい。後継者が居なくて昨年12月に、完全に廃業したとのことで、工場見学もさせてはいただけなかった。軽トラのロゴを見ると、文久3年(1863年)創業と書いてある。評判のいい醤油だったようだが、事業を継ぐ人がなければ残念ながら廃業せざるを得まい。同行した清水君もしきりに惜しがっていた。
その後、藤原元太郎邸を訪ねた。地区の名士で、国会議員にもなった人だ。明治42年に宇野港が出来たものの、連絡船としての機能だけで商港としては全く機能していなかった。当時県議会議長だった藤原は、宇野港にもっと積極的な開発計画を持つべきとの意見書を議会に提出、宇野港の発展につながって行った。玉野市は、平成14年に藤原元太郎邸の保存事業を行い、記念館を作った。中の展示物に、前島密や大隈重信などからの手紙も展示されている。
山田次郎さんからは、9月に開催した「宇野港100年歴史展」に展示した書物や書類をお返しに行った。色々話していると、又新たな資料があるよと言って貸してくれた。明治41年製の児島郡地図、明治42年7月発行の山陽新報などである。山田氏宅にはまだまだ古い貴重な資料がありそうだ。

2009年11月26日木曜日

サッキータイム 「宇野・築港まちづくり講座」~宇野八景~

11月22日(日)

㈱林ケミックの林会長は、若いときから登山に親しみ、日本百名山を踏破されたのは5年以上前のことだろうか。玉野ミネルバ山の会の前会長で、「玉野の山歩き」という本も書かれている。
今回、榧先生に教えていただいた「宇野八景」の中に「天狗山残雪」という風景が含まれていたことから、是非その山をフィールドワークで訪ねたいと思い、玉野の山に詳しい林氏に先導役をお願いしたのである。
この日、生憎の雨模様となりフィールドワークには残念な天候となったが、八景が望めると思われる高辺山に登ることとした。実は、林氏の話では、天狗山は草が生茂り頂上へのアクセスが不可能とのことだった所為もあった。
八景の一つに「築港阜の暮煙」とあるのが高辺山のことであろう。宇野港の眺めが素晴らしいことが書かれている。玉野には、「山田八景」という山田地区のいい景色を紹介した名勝地があるが、ここもアクセス不可能な所が幾つかあるらしい。
林氏の話に、新玉野八景を作ったらどうかというのがあったが、中々面白い提案である。これには、玉野全山を踏破しないと決められない。何かうまい決め方はないものか。
写真は、上から林氏の講義、高辺山に登り山頂から宇野港を望んで写した風景。(雨のため景色が霞んで写っている。) 3枚目は登山者の記念写真。
4枚目の写真は、文化センター2階にある玉野の歴史展示室に展示されていた額「玉野市の主な文化財」マップである。林氏は、考古学の趣味も持たれていて、この展示室のリニューアルにも参加されたそうだ。

サッキータイム 「宇野・築港まちづくり講座」~製造業の起こり・三井造船と玉野市~

11月8日(日)

三井造船の総務部/仲田部長にお願いして、玉野市における製造業の起こりと玉野市における位置づけについて講義してもらった。
三井造船は、大正6年11月14日に、三井物産造船部として宇野地区に操業を開始した。オーストリアの皇太子が暗殺されたサラエボ事件に始まる第一次世界大戦による船舶需要の旺盛さに、時の船舶部長/川村貞次郎が提唱して建設されたものだ。
玉地区での工場建設が待ちきれず、同年12月には、第1船/海正丸が宇野の仮工場で進水した。その後、幾多の変遷を遂げ、日本有数の造船所としての地位を固め、企業城下町・玉野市の城主となって久しい。
その間、石油危機などによる構造的な大不況に見舞われ、大リストラを数度にわたり敢行、今56BCの記録的ヒットにより3年分の受注を抱え、デフレ経済の状況にも拘らず高操業の只中にある。しかし、今年の受注は、防衛庁の護衛艦1隻のみ、商船受注は皆無ということらしい。造船の好不況は、世間とずれて来るのは、受注~引渡しの期間が長いことによる。いつものことである。
瀬戸大橋線開通後、玉野市ではスペイン村構想などを行なってきたが、その資本の多くの部分も三井造船が担ってきた。やってなくてよかったというのは、正直な気持ちであろう。
彼は言う。「造船のまち・玉野」ではなく、「○○と造船のまち・玉野」となって欲しいのだと。○○に何が入るか?私は、「文化」「アート」というような言葉が入ることを望んでいる。

サッキータイム ~アートの今・岡山2009~

11月6日(金)

この日、別件で岡山に行った序に、芸フェスと同時期に天神山文化プラザで開催されていた“The Present of Art,Okayama2009”を観に行った。この展覧会に我が清水直人氏が出展していたからだ。岡山で活躍中の7人の現代アーティストが展示していた。
清水氏の作品は、虚像空間であるコンピュータの中のリアリティの構築が、実像空間である現実におけるリアリティを真に超えることが可能なのか。或いは取って代わることが出来るのか。ということを問うた作品なのか。肉体という器があって初めて、精神という人間の本性を表出することが出来るのではないかということを問うたモノなのであろう。
人間世界のコミュニティを大事にするには、サイバースペースやアスキーコードだけでは表現しきれない、現実の人とのコミュニケーションが必要不可欠な要素なのだろう。アートは今、人間の本質とは何かを問うている。

2009年11月25日水曜日

サッキータイム 「たまの東街道2009」~反省会~

11月3日 反省懇親会

3日間の「たまの東街道2009」が、多くの方たちの協力と努力によって成功裏に終了したことで、この日の反省会は、参加した19人皆の顔が喜びに満ちていた。
山田の力は、この方々の総力によるものだ。玉野の文化の発祥地は、玉野市最大の塩田を経営した野﨑武左衛門が力を入れた山田の地である。その誇りをアートの力で継続してもらいたい。新たな山田の文化「狂言」の継続も。

サッキータイム 「タマノクルーズ2009」

11月3日(火)

宇野港から芸術フェスタ開催中の山田港を結ぶタマノクルーズは今年3回目。総勢48名を乗せた遊覧船「からこと丸」は、予定より5分早く9時15分に出港。海から見る玉野の風景に、乗船客は改めて新しい発見があったようだ。山田の散策ルートでは、地区の名所旧跡紹介にボランティアガイドをかってくれる方が居て、水守神社の素晴らしい彫刻の説明に見入っておられた。
約1時間半の散策でお腹を空かした皆さん、心を込めて作った昼食弁当に大満足。
午後は、白石地区の獅子舞演舞。鍛え抜かれた獅子舞の技に驚嘆の拍手が鳴り止まない。獅子の正面に対した子は、我が孫の佑磨(3歳10ヶ月)。離れているときは元気な様子だったが、頭をかぶりつかれたときは半べそだった。今年は風邪もなく、元気に育つことだろう。
その後、ナイカイ塩業の工場見学。当日は、勤労感謝の日で工場は休業だったが、丁寧な説明に塩の作り方が良く分かったようだ。見学が終わった後、お土産の塩を頂いて帰路に向かった。最後に上陸した宇野港第7桟橋で記念写真をパチリ!皆さん全員が大満足の1日だった。

2009年11月18日水曜日

サッキータイム 「たまの東街道2009」~散策ルート~

11月2日(月) 散策ルート作品展

山田地区文化ルートのコースは、三宅邸(大元屋)⇒水守神社⇒デウス地蔵⇒上山田公会堂⇒明田倉庫の順路で、夫々にスタンプラリーのスタンプが6個置かれている。全てのスタンプを押すと、獅子舞の絵が現れてくる、版画式のスタンプである。
各拠点に、芸フェス参加のアーティストが作品展示をしてくれた。

山田まちづくり講座生は、三宅邸の納屋に「まちづくり歴史展」を展示された。七年間に集められた写真や古い書物、自分達でまとめられた山田の歴史写真と年表、又今年は、狂言で使われた古い衣装も展示されていた。


◆三宅邸の玄関や座敷には、ガラス作家/森美樹さんの「大元屋、三宅邸によせて」と題するガラス作品が展示された。
作品説明;ガラスの色(発色)は、自然物に近い。ガラスの粒の大きさにより、透明から不透明までの表情を持つガラスは、まるでガラスを介して世界を見ているようだ。自然の溢れる山田、趣ある大元屋・三宅邸とガラス。そういった様々な景色をゆっくりお楽しみください。

◆水守神社の境内に、染色作家/北野静樹氏の「時の欠片」が展示された。
作品説明;水守神社に向かう参道に椿の花を模した染色・繊維造形作品を散らしています。一つ一つの欠片が織り成す空間で悠久の時の流れを感じていただければと思います。

◆明田倉庫には二人の作家が展示された。一つが、造形作家/続木一男氏の「四季の情景」。鉄工所の社長である続木氏は、昨年から鉄材を使った盆栽作品を創られている。
作品説明;四季折々の情景を様々な貴や植物の美しさを金属を用いて表現します。金属という硬い素材に熱を加え曲げ、叩き、溶接をしていく中で、自然物特有の有機的なフォルムを生み出しています。

◆あと一つが、美術家/佐藤史仁の「境界線」である。彼は、立体も平面も上手にこなす現代美術家であり、芸フェスへの参加は今年3年目である。
作品説明;地球上に共存している全ての生命体の一種に過ぎない人間、その我々の中にあるなわばり意識に対しての問題意識を作品として顕在化しました。

サッキータイム 「たまの東街道2009」~うたごえサロン~

11月2日(月) うたごえサロン

フェスタ2日目の夜、しおさい広間で桧山武雄氏のアコーディオンに乗せて、懐かしのうたごえ喫茶ならぬうたごえサロンを開いた。参加者約40人が、「赤とんぼ」、「里の秋」などの童謡から、「りんごの歌」、「千の風になって」等の歌謡曲まで全21曲を熱唱した。
休憩時間には、コーヒーとケーキが振舞われ、2時間はアッと言う間に過ぎた。参加された皆さんも大満足して帰られた。

桧山武雄氏は、昭和43年に岡山アコーディオンクラブを立ち上げた方で、岡山県内では最高のアコーディオン奏者であり、シンフォニーホールでの「2000人と歌おうと」かNHK「ひだまりカフェ・うたごえ広場」などにも出演されている。
この日は、天気が良ければしおさいの中庭でやる予定だったが、生憎の強風で寒い夜となったため、急遽広間の中でのサロンとなった。屋外には、山田の方たちが作った竹灯篭を灯し、レストラン「じゃかっせ」から借りてきた白いテーブルと白い椅子を搬入、喫茶店の雰囲気を出した。

2009年11月14日土曜日

サッキータイム 「たまの東街道2009」~狂言を楽しむ夕べ~

11月1日(日) 最後のリハーサル

開会式が終わった後、白石地区にある新築の三宅邸を開放しているというので訪問した。見事な邸宅であり、調度品も素晴らしい。茶室にはにじり口から入るようになっている。
おいしい抹茶を馳走になり、外へ出ると雨がポツポツ降り出してきた。


午前中、これは夜までもつかなと思った天気が、いざこれから狂言会場の準備にかかろうかという段に、何とも皮肉な形で予報どおりとなってきた。
さてどうする?午後2時、決断の時だ。会場の土間は、既に雨でぬかるみ状態になりつつあった。
「よし、山田小学校の体育館でやることにする」との号令で、30人ほど居た連合と地元消防団のボランティアグループに、パイプ椅子(約200脚)、体育館で行う火入式用の道具、座布団などを小学校に移送することを指示した。小学校では、例の音楽会用に配置されていた楽器の片付け、観客席の配置、着替え室の設置、受付机の配置、PCと音響の配線に、約50名のメンバーが一斉に作業を開始した。

準備が出来た体育館の舞台で、最後のリハーサル。しおさいの特設舞台より狭く、やや戸惑いながらのリハーサルだったが、既に充分な練習を積んだ出演者には大きな影響はなかった。

写真は、浜子三人衆が、末社神に野﨑武左衛門の功績を、奉書を読んで報告する場面である。

本番直前

正装した浜子三人衆の緊張した姿。左から今井さん、丸田さん、佐藤さん。
下の写真は、会場に集まった観衆。裃を着た人は、本番前の儀式として行う火入式の火入れ奉行に選ばれた16人。

本番

いよいよ本番スタート。
上の写真は、派手な衣装の浜子たちが、塩田作業をしている場面。左から谷岡さん、藤田さん、塩崎さん。黒紋付の方は、囃子方(笛)の八木原さん。
中の写真は、作業後の夜、酒盛りの席で浜子唄を舞う浜子4(成山さん)と謡う浜子たち。
下の写真は、最後全員が目出度く大笑いする場面。前列中央の裃姿が、浜子頭を演じたサッキー。
部分的なミスはあったが、全体としては、満足すべき舞台だったと思う。
半年間の戦いも無事終了した。観客の評価も、ありがたいお言葉が殆んどだった。