2011年1月22日土曜日

航跡-その2 ~黒髪小学校時代~

1月22日

(黒髪小学校時代)
新しい住まいは、米倉を改装した暗い8畳と3畳の二間と土間の台所があるだけの、狭い粗末な部屋だった。サッキーは、引っ越して間もない その年の4月、熊本では文教地区と言われている、その地域の黒髪小学校に入学した。校舎は戦災で失われた後の急ごしらえだったのか戦前からの建物のままだったのか、木造平屋の粗末なものだったが、桜は満開で非常にきれいに咲いていた。今もその季節になると、桜の下を姉に連れられ、見知らぬ多くの人と共に入学手続きの順番を待っていたのを思い出す。
担任の伊津井(漢字は当て字)先生は、若く凛とした綺麗な女の先生で、なぜかよく面倒を見てくれていた。硬筆や毛筆習字などの稽古を残ってしてくれていた。定かではないが、ひょっとするとお袋が面倒見てもらうようお願いしていたのかも知れない。
お袋は、親(サッキーからは祖父)が相場師で小豆などの先物取引により、子供の頃非常に裕福な時代と相場の失敗による非常に貧しい生活の両極端を経験したという。祖父の失敗は、母親が14才の時で、尋常高等小学校卒業を間近に控え、望んでいた高等女学校に行けなかったことをよく悔やんでいた。そんな自分の夢を、何とか子供に託したかったのかも知れない。当時サッキーはそんなことを全く知らず、サッキー自身は、宿題以外そう大して勉強したわけではなく、出来も上の下か中の上程度で特別いい方ではなかった。後日談だが、我が家の家訓でお袋から、「先物取引なんかせんごつせにゃいかんばい」と言われていたのに、金の先物取引でちょっとだけ損したことがある。やはり家訓は守らねばならないと思ったものだ。
上3人の兄がいなくなって 長男となった喜八郎は、当時まだ中学3年生だったが、絵を描くことが好きで 将来は美術の専門学校へ行きたいという希望を持っていたようだ。ところが、事業の失敗直後という事情は、その希望を叶えることを許さず、中学卒業後、高校にも行けず 親の跡を継ぐこととなった。当時としては、中卒といっても特段珍しいことではなかったのだが、自分の希望が叶えられなかった兄は、おし黙ったまま朝起きもせず、家の中に閉じ籠もるばかりだった。お袋はじっと黙って耐えていた。しかし、兄は、サッキーのためにメリーゴーラウンドのような木馬を作ってくれたり、みんなのために表の家主のお店を通らず、裏から直接出入りできる出入り口を作ったり、持ち前の器用さを発揮して、サッキーや家族の者を喜ばせてくれていた。
この家から200メートルくらい離れた所に、大きな池と田畑を縫うように走る幾筋もの小川があり、休みにはよく笊(ザル)と小さな網を抱えて小魚取りに行っていた。獲物はメダカ、ハエ(ハヤ)、小鮒、ドジョウ、ドンコ、シビンタ、川エビなどだった。たまに「ナマズを獲ったぞ」と言って、ひげ面のナマズを見せてもらったこともあった。一度大きなドンコを獲ったことがあり、1週間ほど泥抜きをした後、お袋に煮てもらって食べたことがある。味は抜群だった。
川からあがると、膝から下をよく蛭(ヒル)に吸い付かれていた。痒いような痛いような変な感じだったし、吸い付かれた所から出血もしていた。この腹立たしい蛭は殺そうとしてもなかなか死なない、生命力が強いというか しわい生き物だった。蛭は小枝の先に頭を付けて裏返しにひっくり返すと、内蔵が乾燥してすぐに死んでしまうことを覚えた。今思うとかなり残酷なことをしていたものだが、当時はそれを何とも思うことはなかった。というより、「このにっくき蛭め、ざまあみろ」という思いだった。
へぼ将棋を覚えたのもこの頃だったが、サッキーは将棋より山崩しの方が得意だった。何となく山が崩れたときのカシャッと言う音が、ハラハラどきどきするだけでなく、将棋で負けても山崩しで逆襲するのが楽しみだった。
数年前両親の墓参りをした折り、この近くを通ったのだが、殆ど住宅地に変わってしまっており、昔の面影は全くなかった。グーグルマップでこの辺りの地図を見ても、今は多くの建物が建ち、賑やかな街に変わってしまっている。
家の近くに済々黌という普通科の県立高校があった。勿論今もあるが、正門を入ると左手に小さな林があり、そこでよくクワガタやカブトムシなどを見つけることが出来た。高校生たちは黄色い帽章を巻いた学生帽をかぶり、随分大きな大人に見えたものだった。後年、黄色い帽章の済々黌と白い袖口章の熊本高校が、熊本県での2大進学校というのを知った。腕白盛りのサッキーは、仲間たちと済々黌の校庭で石投げ合戦を行い、木陰から様子を見ようと顔を出した瞬間、大きな石がサッキーの鼻を直撃した。あの時のガーンと言う、目の前が真っ暗になる感覚というのは今なお経験のないものだ。顔が大きく扁平になったのは、そのときの影響なのだろうか。
その後、サッキーが中学3年(昭和33年)に上がるときの選抜高校野球で、4番打者王投手を擁する優勝候補筆頭の早稲田実業を準決勝で破り、熊本で初の優勝をもたらしたのはこの済々黌高校で、後にも先にも熊本県から高校野球の優勝は出ていない。中学卒業を前に、高校受験の第1志望として選んだ高校が済々黌だったのは、そのような小さな頃の思い出が重なっていたからかも知れない。
済々黌の東隣に熊本大学教育学部があるが、ここで遊んだという記憶はない。その北方に立田山という小高い山があり、紅葉狩りやドングリ拾いによく登ったものだ。家の近くに中学生のお兄さんがおり、サッキーらチビどもを引き連れてよく遊んでくれていた。何度か空気銃を片手に、立田山へ雀捕りに連れて行ってくれたことを憶えている。随分悪ガキだったと思うが、それぞれの場面で、見つける者、撃つ者(当然お兄さんの役)、撃ち落とした雀を捜す者など、役割分担と一致協力というようなことを自然と学んだような気がする。今では中学生が空気銃を撃つなど思いもよらないが、当時は許されていたのだろうか?
親父は酒が好きで、毎晩焼酎で晩酌をしていた。お袋は毎日近くの酒屋で2合ずつくらいの焼酎を買ってきていたようだが、時々私も買いに行かされた。夜暗くなってから酒屋に焼酎やたまには醤油などを買いに行くのは、何となく気恥ずかしくいやなものだった。

写真は、小学1年の入学記念で写したもの。サッキーは前から2列目の左から4人目の真ん丸い顔をした子だ。尚、3列目の左から4人目の男の子は、T君といって後日サッキーが春日小学校に転校した後同じ春日小学校に転校し、卒業の年には同じクラスになるという奇遇な付き合いをすることになった。
下の写真は、小学2年の時で中庭で写したもの。サッキーは、前から2列目の一番左側、当日は快晴で非常に眩しかったのを覚えている。

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