2009年6月20日土曜日

~自啓ノート(4) 新しいぶどう酒は 新しい皮袋に~

6月20日

国花の桜、いつ見ても桜の美しさは、目を見張るものがある。桜は、散り際の潔さが大和民族(=日本人)の魂をゆすぶるのだとも思う。
桜の名所は国内至る所にあるが、サッキーが見た桜でとりわけ素晴らしいと思ったのは2ヶ所。一つは、福島県三春町にある滝桜。あと一つは、岡山県真庭市にある醍醐桜。何れも樹齢千年を超すと言われる桜だ。その姿の美しさと周りを圧倒する孤高の姿は、正に自然美の極致で、剣豪・宮本武蔵を彷彿とさせる見飽きることのない見事さである。
三春町は、福島県中通り郡山市の東に位置する小さな町だが、梅・桃・桜が一度に咲きそろうということから三春という名が付いたという。樹齢1200年とも言われる滝桜は、枝垂桜の王様といっても過言ではない。滝の流れ落ちるような枝振りから滝桜といわれ、毎年何千もの人が訪れ感嘆の声を上げる。見頃は4月下旬だが、毎年少しずつ開花時期が早まっているようだ。
醍醐桜は、数年前のNHK大河ドラマ「武蔵MUSASHI」で、武蔵の若い頃の姿と共に映像化されていた。正に剣豪のイメージそのままの桜だ。読者にも一度は訪ねて見てもらいたい日本(2本)の桜である。

さて、タイトルの「新しいぶどう酒は 新しい皮袋に」に話題を変える。
イエス・キリストの教えが書かれた聖書のマルコ福音書に、次のような一節がある。「だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはりさき、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。」
皮袋というのは、この地方で水や油や酒を入れるのに使う袋で、山羊や羊などの皮で作られている。皮袋は、まず頭と四肢の膝以下を切断し、次に注意深く皮はぎをして作る。出来上がった袋に紐をつけ、水を運び、ぶどう酒を入れて吊り下げておくのに使っていた。
イエスは、古くなった皮袋が新しいぶどう酒の発酵力に負けて、ときに破けては大騒ぎした経験を持ったのだ。イエスは、溌剌と生命力に満ちた自分の教えを発酵力の強い新しいぶどう酒に譬え、形式に囚われて力を失ったパリサイの教えを古い皮袋に譬えたのだ。形式的な古い因習や古い考えに拘って、溌剌とした生命を殺したのでは、いいことは何も生まれないということをイエスは教えたのだ。

古い組織(古い皮袋)の中に、新しい思想(新しいぶどう酒)を取り入れようとするとき、そこには軋轢が生じたり、既得権益を守りたいという意識が働き、組織が壊れてしまうことがある。新しい理念、新しい規則、新卒の新入社員、これらは新しいぶどう酒である。ぬるま湯体質の古い皮袋がそのまま残っていては、新しいぶどう酒も底抜けで台無しになってしまう。新しい理念、新しいシステム(新しいぶどう酒)は、古い殻では育たない。新しい枠組み、新しい組織(新しい皮袋)が必要である。新入社員が新たな組織の中で、芳醇な香りのぶどう酒に育つには、大切に育てるという熟成の期間も又必要だ。

上に書いた二つの老桜には、根に新鮮な空気を送ることができるよう、周囲に踏み台が設けてある。これによって、見物人が根元を直接踏み固めるのを防ぐことが出来る。又、大きく伸びた枝には、支えの木が立てられ新芽の重さを受けてくれている。見事な花(新しいぶどう酒)を守るために、根や枝が常に新鮮さを保つように養生(新しい袋)されているのだ。

2 件のコメント:

仲村肇 さんのコメント...

サッキーさん、初めまして。
アメリカ在住の仲村と言います。もう人生に半分近くアメリカにいるので、国籍不明の無籍者になりつつあります。新しいぶどう酒は…は有名な聖句ですけど、新しい思想には新しい世代が必要、同時に自分も新しく生まれ変わって適合できるような精神の柔軟性が必要ですね。その為に、自分のプライド、見栄など何処まで否定できるかが大きな鍵になるのでしょうね。

Sakky さんのコメント...

仲村さん
このブログにコメントが投稿されることは滅多にないものですから気付きませんでした。2ヶ月も過ぎてしまって大変失礼しました。
新しい思想には新しい世代が必要ですか。ウーン!世代って時代のことですよね。新しい世代に新しい思想が必要なのかもしれません。
世代(時代)の移り変わりとともに、自分自身も成長してゆくし、思想もそれなりに変わってゆくものではないでしょうか。プライドとか見栄とかいうのは、過去の世代(自分自身のこれまで蓄積してきた人生)に囚われた生き方のような気がします。
新しいことをやろうとすると、そこにはその道のプロが居ますし、そういう人たちを師と仰ぐこともあります。たとえ数十歳年下の人であっても。そこにはプライドも見栄もありません。
新しく生まれ変わろうとする時、本当に環境を自ら変えようとする意志があるかどうかではないでしょうか?
これまで自分自身が培ってきた知識や知恵というものは、ほんの取るに足らないわずかな量です。プライドや見栄は、新たな自分探しには邪魔なだけだと思います。