2012年6月12日火曜日

宇野情話 洲巻長兵衛(1)

今日から、小説「洲巻長兵衛」のスタートである。
原文には、各段のタイトルはついてないが、紹介者であるサッキーが勝手に各段のタイトルをつけ、小説の展開が少しでも盛り上がるようにできればと思う。



第1話 逢引


「長さん、もう七日したらお祭だワ。」
お加代は長兵衛の方へじっとにじり寄っていった。
八幡様の森の上に黄色い月がぽっかりと浮かんでいる。海の方から吹いてくるそよそよとした風が、塩田のあたりから、ずーっと小浦の蘆の泥沼の上を吹いてきた。そよそよと蘆のなびくのが人のいない夜のささやきのように聞こえる。静かな秋の夜であった。
「そうさ、祭りがきた。それで俺の店の方も中々忙しいのさ。」
色男で鳴っている長兵衛の男らしい顔が、にっこりとほほえんだ。そうしてお加代の肩をじっと抱いた。
「それだったら約束があるわ・・・忘れたの?」
「何だったかナア、とんと近頃忙しいので忘れてしまっているよ。」
「まあ、いけないわよ、あれあのことよ。」
「一向に存ぜず。忘れてござる。」
彼は腕の中にある処女の耐えられないような甘美な体臭と髪のこころよい匂いにうっとりとしなから、わざと空呆けて言った。
「長さん意地が悪いー、あんな約束を忘れているなんて・・・・。」
児島小町と言われるお加代の美しい顔が、ちらっと彼の瞳をにらんで蕾のような口唇がニコッと開いた。
「何だったかナア、そんな大きな忘れ物なんかした覚えはないが、そんな忘れ物していたら俺の首を差上げよう。その代わり生命だけはお助けだ。」
彼はからかおうとして口から出まかせのことを言ったが、おかしくなってプっと吹き出した。
「まあ、おかしいわ」
彼女も一緒になっておかしそうに笑った。
「ね、長さんあのこと、私のあアレ。」
「何?お前のあアレ、・・・そんなこと忘れている。」
「もう知らないっ‼」
彼女は如何にも腹立たしげにすねた格好をして、長兵衛の胸に伏した。
美しい抜け出るような襟足が、蒼白い月の光におどろく程魅惑的であった。
「あ、アレか。この前の約束のあの着物のことか。なあんだ、女はそんなことに至極鋭敏だなあ。」
彼はお加代の白い首筋を軽く撫でた。
「そうよ。きまっているわ。お祭りで私、それが一番楽しいんですもの。」
「それだったら、着物もかんざしも同じように注文してあるさ。」
「長さん、ほんと‼」
彼女の白い両の腕がすーっと着物の袖より抜け出して、長兵衛の首に艶めかしくまつわりついた。蒼白い月の光の中にその徳利型の腕の白さ美しさ。お互いの吐く息と吸う息が、ほんのりと温かく感じられる。
「嘘を言ってどうするか。お加代さんのことじゃないか。忘れたりなんてしてたまるかい。」
「うれしいワ。」
「明日朝行くことになっているから、もう貰ってこよう。早いのは間に合うからなあ。」
「私、待っているわ。明日の夕方には帰れるの。うれしいわ。」
「そうだなあ、黄昏頃には帰れるだろうよ。」
月が大分登ってきた。雲のない空に冴えかえるような黄色い月が。遠い高辺の山あたりはぼんやりと霞んで麓の海には蛸をとる舟の漁り火がちらちらと見える。近くの天狗山のふもとの方では狐の鳴き声がする。二人の腰を下ろしている草叢では友を呼ぶ虫の声が哀れっぽい。夜はだんだんと二人の世界を包んで更けていった。
「あれ、月があんなに登った。加代さん、家に帰らなきゃならないんじゃないかい。」
彼女の背中に手を回して、力強く抱きしめた。
彼女の柔らかな乳房のあたりから伝ってくる、魂をとろかすような血潮のときめきに、彼は放そうとはしなかった。
「私ちっとも構わない。さっき来る時裏の戸口からすーっと抜けて来たのよ。誰にも気づかれてはいないわ。」
力強い男の腕の中に、彼女のすべてを委ねていた。
きびきびとした男の筋肉の動きが、彼女の脇の下あたりにじりじりと喰い込んでくる。男の頼もしい腕が・・・・。

「そんなら俺もこうしていて安心出来る。・・・・が、併し加代さん、近頃、村の若い連中が俺とお前に対して甚だひどい仕打ちをするなあ・・・・・。」
「ええ、ほんとにねぇ。私にかってどんな悪戯や乱暴するかしれやしないわ。ついこの間のことよ。旦那様が讃岐へお出でになったので、もうお帰りの時分と思って池の浦の浜へお迎えに行きかけたらねぇ、あの浜の突先を回るところで、向うの塩田の八藏さんが追いつけて来て、散々悪口やら変なことばかり言うの。そうして着物の袂や髪を引っ張って歩かさないの。夕暮れ頃ではあるしどうしようかしらんと思って困ってしまっていると、又、山の畑から戻って来る吾一さんに出くわして、私生きた心地はなかったわ。」
彼女の声と瞳が涙にうるんで、長兵衛を見上げた。
「何故、そんなことがあったのに俺に知らさなかったのだ?」
「だって、口を揃えて長さんの悪口ばかり・・・。」
彼女の声が次第に鼻にかかって来る。
「そうだったのか。しかし、俺達がどんな悪口を言われたって二人の世界なんだ。愛し合っている者を離そうとしたて離れるものか。そうだろう、加代さん。」
柔らかいお加代の体を又、じっと抱きすくめた。
「ホントよ。私殺されたって離れやしないわ。長さん永久に変わらないでねぇ。お加代のためによ。」
お加代は、長兵衛の腕で泣いた。我慢していた迫害の悲しみが一時に堰を切り、愛しい男の胸に流れ込むときの、甘えたいような悲しいような、愛しい男の胸の中に融け込んでしまいたいような、泣けるだけ泣いて涙をしぼりたい。そんなすすり泣きであった。
「加代さん、そんな悪戯や悪辣な手段は俺にも毎日のように加えられている。昨日もやって来たよ。あの八藏が、吾一と二人連れだって俺の主人の傍にやって来て、俺のあることないこと色々並べたてて揚句がこの酒屋から追出してしまえ、といって主人に頼み込んでいた。俺は酒藏の出口のところでその話を聞いていたが、癪に障ってならない。飛び出して行って一つ談判してやろうと思ってかっとなったが、主人も賢い人なんだからいい加減にあしらっていたので、俺も出るところじゃないと思ってこらえていたよ。」
彼の瞳に涙がうるんできた。月の光がその白い露にちらちらとゆれた。
「長さん、私、これからどんなことがあっても耐えるわ。あなたの女房に晴れてなれるまでは・。」
「加代さんありがとう。俺が来年のこの頃は一人前になれる。そうしたら一人前の杜氏となってでも酒屋になってでも、結構独立出来るんだから、楽しんでいて呉れよ。」
彼女の顔をぐいと引寄せようした。
「長さん、あなたの独立を待っているわ。」
彼女は長兵衛のなすがままに快く体を委せていた。
「加代さん、赤ん坊は欲しくないかい。」
「ええ、赤ちゃん、可愛いワ。」
加代さんがお母さんになるんだよ。」
「マア、長さんがお父さんに、ホホホ・・・・。」
草叢で哀れっぽい虫の声が、澄み切った月への伴奏のように鳴き続けている。
露のおりた草の葉に月の光が宿って、風の吹くたびにきらきらと光って揺れた。
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