2012年6月17日日曜日

宇野情話 洲巻長兵衛(6)

第6話 縁談

加代が家に帰ると待構えていたように、母が飛び出してきた。
「加代、よく帰ったナア。サア、こちらへ上れ。お前の帰るのばかりを待っていた。」
そう言って母は上機嫌で迎えた。
「母さん、私路にくたびれましたワ。」
日の暮れない中にと急いだので、路は悪いし、彼女はそこにぐったりと、足も体も一緒に投げ出してしまった。
「お前、ゆっくり休すんでおいで。お母さんがとてもお前の悦ぶ相談があるんだから。」
奥の座敷の方から炬燵を引摺ってきながら母は言った。
「お母さん、どんないいお話なの?私、急いで帰った価値があるわ。」
加代は着物を脱いで平生着に替えながら、着て帰った方をそこらへ押やりながら、善良で嬉しそうな母の顔を見つめた。
「実はお前に早く帰って来いと傳言したのも、お母さんやお父さんの方でも突然だったのだが、この向うの庄屋の息子さんの與吉さんを知っているだろう。あの若旦那様だ。とても上男の気前の良い若様だ。あの人がお前を貰いたいと仰るので、あの庄屋の新屋を知っている平左エ門旦那が仲介人になって、もう見合もなんにもしなくていいから、成るべく早く支度して貰い受けたいとのお言葉なんだ。」
母はぞくぞくとする程喜ばしそうな瞳を、加代の顔一面に浴びせかけながら早口に言ってしまった。

彼女は炬燵に手を伸ばして、掛蒲團の襟に頬を埋めたまま、
「おかあさん、そんなことだったの?」
と云って、禄々顔をもたげようともしなかった。
これ程、掘っても捜してもない程いい玉の輿に乗る訳をしているのに、娘はうなだれてしまったりなどして、そんな気分が勝れないのかしらん、と思った母は、
「加代、お母さんが一寸話の口を言ったまでのものだが、まだまだいいことがあるだんよ。お前大そうくたびれているらしい。そのまま、ぐっすり休すんでおおきよ。夕方でもお父さんがお帰りになってから、又三人で色々お話して見ようからナア。」
彼女の心を知らない母は、気も軽々として彼女が物心ついて以来の浮々とした話具合であった。
「おかあさん、私そんなお話が聞けない程疲れてはいません。けど、そんなお話なら私直ぐこのまま宇野へ帰りますわ。」
「え? お前どんな気をして言っているのかい。これ程願い奉っても無いような縁談を聞きたくないことは、お前どうかしているのではないか。あの宇野から帰る途中の後閑あたりの海岸で狐にでもつかれたのじゃないか?」
この話を聞いて娘は悦びと幸福の未来に瞳を輝かして嬉しがるだろうと想っていたのに、しおれ切ったような姿をして、又直ぐ宇野へ帰ろうと言い出したのを見て、母はほんとに驚いてしまった。
「お母さん私あの若様のお嫁にはなりません。幼い時から私虐めつけられたり、あの若様の乱暴には・・・・・。私が宇野へ行く以前などでも恐い程私に付きまとうの。何かお道楽もひどいんだかで、お金の使いにも荒いんだって、私どんないいお家でもすっかり嫌よ。」
予期に反して驚いて眼を見張っている母の顔へ、刻みつけるような反感をもって言ってしまった。
「まあ、お前何時の間にそんな娘になってしまったのかい。勿体ない庄屋様が所望されるのを断るお前の心も知れぬわい。」
単純で少しの思慮もない人が良いといったらそのまま信じ込んでしまうような、善良な母は、娘の心が解せかねて目をしばたたきながら、娘の姿を焼けつくように見つめていた。
加代はふてぶてしげに布団の綴じ糸を前歯で噛みながら、
// 私のお嫁に行くのは長兵衛さん一人なんだ。あの人以外は死んでも行きやしないから//
そう思って面をあげようともしない。
母はやや娘の態度に失望したけれど、平凡で素直にいいと信じ込んでいることは、何の批判もなしに娘のためにも、いいことに違いないと信じ込んでいた。
「加代、お前はあまり好ましくないと思っているかもしれないが、家の様な貧乏人さえ相手にして下さるのだ。それにお庄屋様から婚礼の調度を全部調えて下さるんだよ。こんな有りがたいことがあるものか。向うのお家では、どんなにでもして、お前の体さえ貰えばそれで充分だと仰っているのだよ。」
母は本気になって彼女を口説き始めた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
加代は黙ったままそれを聞いていたが、母の心はいじらしいほど同情出来るけれど、嫌な結婚をどんな条件であろうともして、自分の誓い合った恋を諦めることは出来なかった。
それは出来ないことだ。長さんに対して出来ないのだ。
「お前が嫁に行くといっても、家は現今のような有り様では一枚の晴着さえもむずかしいのだからナア・・それにあのお庄屋へ行けば、家の借金も大目に見て幾割も引いてやろうと仰るのだよ。お前も余りに乗り気にならないところを見れば、何か考えがあるのだろうが、母さんの為か父さんの為をも思って見てごらん。」
母は叱るようにすかすように、色々と彼女の同意を得ようと一心である。
「おかあさん。私、家のことならどんな身替りにでもなりますけど、こればかりは出来ませんわ。」
母の切迫した面持ちを盗見るようにして言った。
「お前はお母さんの言うことに気に入らないようだが、どうしてかい。どんなことでもお前の考えを聞かせておくれ・・・。」
「おかあさんあるワ。」
「どんなことがあるのかえ。」
優しく彼女の心を探ろうと思って、母の言葉は静かであった。吾が子のことは無鉄砲なことでも聞き入れてやりたいような、そんな思い遣りのこもった言葉であった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「加代、言っておみよ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
彼女は自分の心を打明けて母を失望の渓に落し込むには、あまり単純で慈しみ深い母であるだけ恐ろしかった。
「お前は、幼い時からお母さんにだけは嘘を言わない子だったのだよ。お前の考えを言っておくれ。お母さんは、怒りはしないから。」
母は哀願するように彼女を促した。
「お母さん。私、この月はあるものがなかったの。」
彼女は、耳の付け根あたりから、顔へ首筋へ背中へ手の先までも、真赤な熱いものが突走ったように思はれた。
「ええ? 加代ッ? ほんとかッ?」
差し向いに当たっていた炬燵から飛出して来て、娘の肩に手をかけて真偽を正そうとした。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「黙っていては分からないよ。ほんとのことを言っておしまいよ。」
矢張り優しい母である。娘の言葉を聞いても少しも憎しみを浮かべようとはしなかった。
「お母さんにすみません。私、約束した人があるのよ。」
彼女は母にこれ以上気を揉ますことは、良心がゆるさなかった。
「あ、そうだったか。お前も大きくなったナア・・。」
薄暗い天井を見上げて母は、前後に迷ったように両手を?の上に揃えて溜息をついた。
外はもう暮れかけているのか障子の影が煤黒くなってきた。百舌鳥がひっきりになしに鳴いている。さっと木枯しが吹いてきたと思うと二三枚の木の葉が、障子をさらさらとかすめて、ごっそりと落葉の群れの中に混じっていった。
「加代、併し今の中ならお庄屋様の方へも、お前の体の有様を隠しても、どうにかうまく誤魔化せるよ。この月になってもまだ十五日しか経っていないんだからナ。
早いことにしよう。お前の約束もいいだろうが、それはこんないい話のない場合のことで、兎に角お母さんに委しておおき。お母さんがいいと思ったらほんとにいいんだからなあ。」
と暫くして母は言ったが、名聞と財産と地位の前には他のこと一切お構いなしの、単純で質朴な一方向の母には、どう言っていいか判らなかった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
黙ったままで否定の意を悟らせようとしたが、
// それ程、お母さんの好ましいお庄屋様の、向う見ずの道楽息子に嫁入りが気に入りなら、お母さん、自分でなさったらいいでしょう。私には私のいいと思った人に嫁ぐのが本当だわ。私にはそんなにお母さんが仰らなくっとも、もう長さんと言う人があるんですもの。あの人とは固く固く誓い合っているの。今ではその人の子供まで出来かかっているんですもの。
そんなことを押隠してまでも、他の人の所に縁を結うとは思いません。そんなことはいいことでやありませんもの。私はお庄屋でなくっても乞食でも構いませんわ //
そう言ってしまおうかと思ったが、それではあれほど望んで弾み切っている母に、あまりにも大きな失望を与えることだろう。
彼女はそう思って顔も上げずに、俯向いていた。
そのとき、庭先の方に下駄の音がして父が帰ってきた。
その足音を聞くと母は当惑顔でいたのがさっと立上って、小走りに歩いて行って、暫く何か言っていたが間もなく、
「よし、そう決めよう。」
と父は元気のいい躍り上がるやうな口調で言ったと思うと、又下駄の音を前よりも高く響かせて出て行った。
もう外は暮れて暗いのだろう。遠くの塩田から夕潮を汲み出す水車の音がギイギイと聞えてきた。
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