2009年2月24日火曜日

サッキータイム ~私のプロジェクトⅩ-2~

第2回 JR東日本初代会長/山下勇氏の教え~東京にて

恒常的な赤字体質とサービス精神の欠如によって、国民から見放されつつあった旧国鉄が分割民営化されたのは、昭和62年(ホテルバージが竣工した年)であった。初代の会長として招聘されたのが、鈴木内閣~中曽根内閣時代の第2臨調(土光敏夫会長)の第2部会(行政組織及び基本的行政制度の在り方)の部会長を務められ、当時三井造船の相談役をされていた故山下勇最高顧問である。彼は単身、官僚的体質と旧式の設備の中で、マイペースで仕事をしていた旧国鉄マンに、新生JRの生きる術を「技術サービス産業」と言うキーワードに込め、教育と改革を進めた。
即ち、「JRのサービスは、単に物を運ぶだけとか、乗客を輸送するだけと言うものではなく、技術に裏打ちされた安全で快適な輸送サービスでなければならない」と言うのが、彼の持論であった。ラッシュアワーの混雑対策にしろ、車両の合理的な検査方法にしろ、あらゆる場面で技術力を高めることが、サービスの質の向上に繋がるんだと言う理論であった。そして、その「技術力を高める最も早道は、モノ作りである」と。「JRには、技術を高めるのに格好の設備『車両』を持っている。これを社内で作ったらどうか。」と言うのが発端であった。
山下会長は、このプロジェクト推進に非常に熱心で、忘年会などの懇親会にも良くお出でになり、貴重な話を聞かせてくれた。その一つとして記憶にあるのが、「神が人間に与え賜うた二つの能力、『物を作る能力』と『人にサービスすることの出来る能力』に対して、人がなすべき最低限のことは、そのことに自ら責任を持つことだ」と言う言葉である。

ここで、三井造船がこのプロジェクトに参画した経緯を紹介することとしたい。
長い議論の末、JR社内に製造工場建設是か非かの実現性評価(フィージビリティ・スタディ:FS)組織を作ったのが、平成2年秋。このとき、車両製造技術のアシストとして東急車輛製造㈱、工場建設のアシストとして三井造船㈱が選ばれた。当時、三井造船社内には、全くの未経験分野で海のものとも山のものとも分からない事業に消極派も少なからずあったが、大恩ある山下さんの要請に答える形で、その貧乏くじ(今から言うとお宝くじ)を引いた張本人が、今日の幹事役を引き受けているO部長と、立派な加工工場を設計したEさんであった。
FSの結果、フィージブルである、つまり事業採算性が認められ、本プロジェクトは進めてしかるべきとの結論が出された。これを受けて、三井造船は、平成3年8月、造船部門、機械部門、システム部門等の中からY部長以下精鋭メンバー12名を選出し、本社に集結したのだった。(続く)

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